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田中希代子

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詳細 2014年3月17日 17:43更新

田中希代子〜

彼女との出会いは
とあるラジオ番組。。。
子供ココロに名前は聞いたことあったけど
妙に古臭い扱いで
あんまし興味を持てなかったのが
正直な話(^_^;)
でも
そのラジオ番組で
生前の彼女が対談方式で話していて
「すごいーひねくれまくり」なんだけど
なんて、面白い話の出来る人なんだー
と思った
その時に流れてたピアノ曲は
バックミュージック的で
それ程インパクトは感じなかった。。。
演奏が古過ぎて
音が割れてたのもあるけど
でも、すごい意欲的と言うか
爽快で躍動感は感じたけど。。。
でなきゃ、記憶に残らないし。。。

年月が少し経って、彼女の訃報を聞いた
膠原病から始まって
演奏活動を若くして断念して
闘病で晩年を過ごした
不自由な体から
やっと開放されたんだとまず思った
ピアノがプレイ出来なくて
生きてても、音楽だけが頭で耳で
鳴ってて辛かっただろうし
大学で客員教授的な仕事をしてたらしいが
いくら特待生レベルの学生の
いい「音」を聞いても、
「楽」しくなかっただろう。。。
自分で
「自己表現が出来なければ。。。」

演奏家なんてそんなものである。。。

自己表現と言う言葉が
彼女の晩年のキーワードだろう。。。
(夜明けのショパンで検索してみてください!)

その後に追悼の音楽のラジオ番組で
彼女の演奏を改めて聞いて、
衝撃を受けた。。。↑

なんて
躍動感溢れまくってて、
スピーディーで
面白くて、個性的で、品があって
テクニックもバリバリと言うよりも
ソツが無くて物凄い。。。↑
無駄な贅肉が無い合理的な演奏♪
(今の時代にウケそうな言葉で言うとね(笑)

俺の正直な感想は

食料難の時代によくこんな人が(^。^;)

その後
昔、発売された復刻版のCDが6枚出て
まず1枚買った。。。
家に帰って、聞いて
またすぐにその日、銀座の山野楽器に
また彼女の他のCD買うために舞い戻った。。。(山野楽器限定のCDで、
それも銀座店でじゃなきゃ
その時は売ってなかったんだよね(^_^;)
それ程、感銘を受けたピアニストは
彼女以外居ません!(^。^;)
これから先、そんなピアニストが
居なくても、出て来なくてもい程
彼女の演奏はいい!。。。
なんて簡単な言葉で表すのは適さない
スバラスィ☆の一言ヽ(´▽`)/
彼女の隠れた名演が聞きたい
どんな曲でもいいから。。。

あと、難しいけど
彼女の真似をして
ピアノに取り組むと
演奏能力があがる。。。↑

無駄なモノが付かない
スマートで躍動感溢れる
感触が味わえます・・・(^♪^)

下のプロフに書いてある
コンクール歴もかなりのものだが
それ以上に彼女のピアノは
素晴らしい世界最高レベルだと思う。。。

敗戦したばかりの日本から
受けに行った若いピアニストが
どう評価されるか、考慮くださいm(_ _)m



鬼才ー希代子女史のプロフ↓



東京都出身。
4歳で幼稚園の先生からピアノの手ほどきを受ける。
6歳で小山郁之助に、その後井口基成に師事。運動神経は抜群で、当時のあだ名は「タアチン」。
1945年よりレオニード・クロイツァーに、その後長期にわたって安川加壽子に師事。
1949年、第18回日本音楽コンクールで2位特賞。
1950年、戦後初のフランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に入学。10月よりラザール・レヴィに師事。直後結核を発症。
1951年、レヴィのすすめで同音楽院の卒業試験を受けてみたところ、試験前日まで療養(療養中レッスンは1日1時間と制限されていた)していたにもかかわらず一等賞「プルミエ・プリ」で合格、卒業。
1952年、ジュネーヴ国際音楽コンクールに1位無しの2位(日本人初の入賞)。
1953年、ロン・ティボー国際音楽コンクール1位無しの4位(日本人初の入賞)。
1955年、第5回ショパン国際ピアノコンクール10位(日本人初の入賞)。この年初めて採用された点数計算機によれば、1次予選では5位、2次は19位、3次で6位だった。上位10人はほぼ横並びに等しく、1位のアダム・ハラシェヴィチ(ポーランド)と2位のウラディーミル・アシュケナージ(ソ連)の差はわずか0.1ポイントで、1位と10位の差も7.6ポイントしか開いていなかった。そのため、審査員だったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが、アシュケナージが2位で希代子が10位という結果に憤慨し、どちらの認定書にもサインを拒否して退席してしまっていたことが、1989年9月、ワルシャワの新聞「エクスプレス」によって、全段写真付きで明らかにされた。
その後もパリ(1959年まで)やウィーン(1960年から)を拠点にヨーロッパから南米まで幅広い演奏活動を続ける。
1967年12月、帰国。その後体調を崩し、年末年始のコンサートをキャンセル。手の指が開かなくなり、関節が痛み、高熱が続く。病院では過労と診断。
1968年から東京に演奏活動の拠点を置くが、難病の膠原病と診断され、演奏活動が激減する。
1969年、京都市交響楽団との協演で、ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏、これがオーケストラと協演した最後のステージとなった。このとき残念ながら第1楽章のコーダに入るところで希代子がミスをして止まってしまい、あっと小さな声をあげて弾き直しをするというハプニングがあった。病気のため引退寸前の時期に当たるので、当然厳しい状態であったのであろう。そしてそのままひっそりと演奏活動を引退した。
その後は国立音楽大学(1973年より)、桐朋学園大学(1977年より)等で教鞭をとる。
1980年、膠原病治療のための薬の副作用のため脳梗塞で倒れ、右半身不随になる。
1987年、記念レコード発売。
1989年2月に放送された、TBSラジオ制作『「夜明けのショパン」〜よみがえる天才ピアニスト田中希代子〜』が第15回放送文化基金賞・奨励賞を受賞。
1993年、新日鉄音楽賞・特別賞を受賞。
1996年2月26日、東京で脳内出血のため死去。享年64。
海外での演奏活動が長かった為、海外のほうが知名度は高く、現在でも『東洋の奇跡』と呼ばれ、支持を得ている。尊敬していたピアニストはクララ・ハスキル。希代子にとって不運であったのは、丁度引退を余儀なくされた頃と前後して才色兼備の中村紘子がはなやかに登場し、多くの聴衆の支持を獲得したことである。奇しくも中村は、一時期希代子が師事した井口の妹である、井口愛子に学んだ経歴を持つ。さらに1970年代以後、日本の経済成長と共に外国の著名な演奏家の来日ラッシュが起こり、日本の聴衆の関心は外国の一流の音楽家に集中していった。

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