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ドクターK☆Dwight Gooden

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詳細 2018年10月3日 03:02更新

皆さん、いつも有難うございます♪
元祖ドクターK、ドワイト・グッデンのコミュニティです☆

グッデンに興味のある方は、気軽に参加して下さいね^^
よろしくお願いします!

☆ドワイト・グッデン Dwight Gooden☆

192cm、95kg
投球・打席 右投右打

ポジション 投手(先発投手)
初出場 1984年4月7日

最終出場 2000年9月29日

★経歴(括弧内は在籍年)

ニューヨーク・メッツ
(1984年 - 1994年)
ニューヨーク・ヤンキース
(1996年 - 1997年、2000年)
クリーブランド・インディアンズ
(1998年 - 1999年)
タンパベイ・デビルレイズ
(2000年)

ドワイト・グッデン(Dwight Eugene Gooden, 1964年11月16日 - )は、元メジャーリーグの投手。右投右打。
アメリカ合衆国フロリダ州タンパ出身。

ニックネームは“Dr.K”または“Doc Gooden”。
1980年代半ばから末に渡ってナショナルリーグを代表する投手だったものの、その後ドラッグに溺れて成績は下降してしまった。

★早期
フロリダ州タンパで生まれたグッデンは1982年のMLBドラフトで総合5位でニューヨーク・メッツにより指名される。

マイナーリーグで投げ、1983年にはA級カロライナリーグで最多勝、最多奪三振、最優秀防御率を達成☆

通常ではA級から直接メジャー昇格を果たすケースは少ないものの、当時のメッツの監督デーブ・ジョンソンはグッデンがわずか191投球回で300奪三振を挙げた事に注目し、異例となる昇格を果たした。

1984年4月7日に19歳の若さでメジャーデビューし、98マイルの速球とカーブを武器に活躍。

彼のカーブには“チャールズ侯”という愛称がつけられた(“チャーリーおじさん”という通常のカーブの愛称に因む)。

また、彼自身は“ドクターK”という愛称で親しまれ(NBAの名選手ジュリアス・アービングの愛称“ドクターJ”と、三振の略称である“K”に因む)、後に“ドック”と省略された。

また、よくスタジアムで三振を取った数の分だけ“K”というプラカードをあげるシーンが見られるが、それが初めて行われたのはグッデンがホームのシェイ・スタジアムで登板した試合である。

その年、グッデンは17勝を挙げ、この数字は19歳としては1964年にウォーリー・バンカーが19勝を挙げて以来最多であった。

オールスターに史上最年少の19歳で出場し、5回表に3者連続奪三振を記録。
結局17勝9敗、防御率2.60、奪三振276という成績を残した。

奪三振276という数字は、それまでの記録245を29年ぶりに塗り替える新人最多記録だった☆

投票でナショナルリーグ新人王に輝き、メッツ球団としては2年連続からの同チームの選出であった(前年にダリル・ストロベリーが受賞)。

翌1985年は24勝4敗、防御率1.53、奪三振268で投手三冠に輝き、史上最年少でサイ・ヤング賞を受賞☆

彼の防御率1.53は近代野球に入ってからはボブ・ギブソンが1968年に挙げた1.12に次ぐ歴代2位の記録である。

グッデンは20勝を挙げた黒人投手としては12人目であり、またマスコミはまだ20歳の彼に対し将来の殿堂入りまでも噂するようになっていった。

グッデンはその後数年間に渡り好投手として活躍を続けるものの、20歳当時の輝きを取り戻すことは無く、20勝を挙げたのも1985年のみであった。

彼の衰退の理由として登板過多、コカイン中毒、相手から研究されるようになった事(他チームは彼のストライクゾーンから浮き上がるようなストレートには手を出さなくなっていた)が挙げられている。

また、他にも当時のメッツ投手コーチメル・ストットルマイヤーが、現役生活を伸ばすためにグッデンに投球モーションを変更するように説得したことも影響したとも言われている。

1986年にグッデンは17勝6敗を挙げ、200奪三振はナ・リーグ5位であったものの1位のマイク・スコットには100個以上も離されていた。

プレーオフではメッツのエースとして登板し、ナ・リーグ優勝決定シリーズでは好投した。

チームもワールドシリーズに進出するものの、グッデンは2試合に登板し両方とも5回まですら投げ切る事ができなかった。

皮肉な事にメッツはグッデンが登板しなかった5試合のうちの4試合に勝ちワールドシリーズ制覇を果たした。

しかし優勝パレードに彼は姿を見せず、チームは「寝坊したため」と発表していたが、後年コカインでどんちゃん騒ぎをこの時していたことが明らかになった。

★早期のドラッグ問題と怪我
それまでにもドラッグ使用の噂はあったが、確定したのは1987年の春季トレーニング中にコカインの陽性反応が出た時であった。

彼は4月1日から6月5日まで出場停止を防ぐためにリハビリセンターに入り、結局最初の登板でシーズンも3分の1が過ぎていた。
しかし、結局グッデンは15勝を挙げる。

1988年も18勝9敗の成績でメッツはプレーオフに進出。ナ・リーグ優勝決定シリーズの初戦はロサンゼルス・ドジャースであり、相手投手は同年59イニング連続無失点のメジャー記録を達成したオーレル・ハーシハイザーであった。

グッデンは好投し、4被安打10奪三振に抑えたものの、2−0で負けていた7回に降板した。

第4戦も8回終了時まで4−2で勝っていたものの、マイク・スコーシアに同点2ランを打たれ、延長12回まで試合がもつれた結果負けてしまう。
また、結局シリーズも敗退。

この敗戦はメッツの球団史上の中でも最も悔やまれる敗戦のうちの一つであった。
1980年代のメッツは一時代を築きつつあったが、今一つ勝ちきれず、これが時代を築けなかった理由にもなっていた。
グッデン自身も勝ち星をポストシーズンに挙げる事はなかった。

1989年にはグッデンは肩の故障に悩み、17試合に先発登板して9勝4敗の成績に留まった。
その代わり1990年には遅れを取り戻すかのような好成績を挙げる。

19勝7敗で223奪三振はチームメイトデービッド・コーンの233に続くリーグ2位であった。しかし、1991年の再度の故障がグッデンのキャリアに決定的な打撃を与える結果となってしまった。

グッデンの低迷の理由としてほとんどの人は彼のコカイン中毒を挙げるが、一部の解説者は18歳から20歳の時期に10800球以上も投げ込んだ事が理由であるとするケースもある。

1985年に276イニングを投げ込むが、この数字に到達した投手はそれから20年経って二人しかいない。
21歳の誕生日に達するまでに、グッデンは928奪三振をメジャーリーグで挙げている。

グッデンは1991年に2人のチームメイトとレイプの疑いで起訴されるが、報道はされなかった。
1992年は10勝13敗で入団以来初めて負け越し、敗戦数が二桁に達したのも初めてであった。

翌年も進歩せず、12勝15敗で負け越し。
1993年シーズン中、スポーツ・イラストレイテッド誌はグッデンの特集記事を執筆し、題は「From Phenom to Phantom(怪物から幻へ)」であった。

29歳で迎えた1994年に3勝4敗、防御率6.31を挙げていた段階で、コカインの陽性反応が出て60日間の出場禁止処分を受ける。
その期間中再び陽性反応が出たため、翌1995年の全試合もすべて出場禁止となった。

2度目の処分を受けた翌日、妻モニカはグッデンが寝室で弾のこもった銃を頭に向けている姿を発見している。


★ニューヨーク・ヤンキース移籍とその後
1996年にフリーエージェントとしてニューヨーク・ヤンキースに移籍。
元チームメイトでグッデンと同じく才能に恵まれながらドラッグ問題で成績を下降させたストロベリーと再びチームメイトになった。

4月は不調で解雇されかけるが、5月14日のシアトル・マリナーズ戦でノーヒットノーランを達成☆

11勝7敗で1991年以来の勝ち越しシーズンを送るが、昔のキレは取り戻せなかった。
また、このシーズンが9勝以上を挙げた最後の年となった。

同年のプレーオフロースターには登録されず、翌年のプレーオフ進出の際にはアメリカンリーグ優勝決定シリーズでクリーブランド・インディアンス相手に登板し、この時の相手投手は再びハーシハイザーであった。
2-1でリードを守ったまま6回を投げきるが、中継ぎの崩壊により勝敗はつかなかった。

チームもインディアンスに敗れ、ワールドシリーズ進出はならず、翌年にはその相手インディアンズに移籍した。

1998年から2000年に渡っては3チームで投げ、いずれのチームで解雇された結果再びヤンキースとマイナー契約を結んだ。
2000年のメジャー再昇格の際には、5試合しか先発登板をしなかった。

グッデンのキャリア最終年は優勝チームの敗戦処理という役割であった。

プレーオフで2回の登板機会があったが、両方とも敗戦処理であり、また2000年のメッツとのワールドシリーズでも投げる事はなかった。
期待され続けていた投手の終焉としては余りにも寂しい結末であった。

1999年にグッデンは「Heat」と題した自伝を出版。中ではアルコールとコカイン中毒との苦闘がつづられている。

引退後はヤンキースにフロント入りし、2004年には甥であるゲイリー・シェフィールドとチームとの交渉の仲介人を務めた。

★打撃成績
741打数 145安打 二塁打15 三塁打5 本塁打8 打点67 四球14 三振135 打率.196

★受賞歴・記録
オールスター4回出場(1984年 - 1986年、1988年)
新人王(1984年)
サイ・ヤング賞(1985年)
シルバースラッガー賞(1992年)
ノーヒットノーラン(1996年5月14日)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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