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橋本 忍コミュの八甲田山

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八甲田山 (1977) http://www.google.co.jp/search?svnum=10&hl=ja&lr=&c2coff=1&q=%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E5%B1%B1%E3%80%81%E6%98%A0%E7%94%BB&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&sa=N&tab=iw

解説
新田次郎の原作『八甲田山死の彷徨』をもとに、大部隊で自然を克服しようとする部隊と小数精鋭部隊で自然にさからわず、折り合いをつけようとする部隊の様子を冬の八甲田山を舞台に描く。脚本は「続人間革命」の橋本忍、監督は「日本沈没」の森谷司郎、撮影は「阿寒に果つ」の木村大作がそれぞれ担当。

あらすじ
「冬の八甲田山を歩いてみたいと思わないか」と友田旅団長から声をかけられた二人の大尉、青森第五連隊の神田と弘前第三十一連隊の徳島は全身を硬直させた。日露戦争開戦を目前にした明治三十四年末。第四旅団指令部での会議で、露軍と戦うためには、雪、寒さについて寒地訓練が必要であると決り、冬の八甲田山がその場所に選ばれた。二人の大尉は責任の重さに慄然とした。雪中行軍は、双方が青森と弘前から出発、八甲田山ですれ違うという大筋で決った。年が明けて一月二十日。徳島隊は、わずか二十七名の編成部隊で弘前を出発。行軍計画は、徳島の意見が全面的に採用され隊員はみな雪になれている者が選ばれた。出発の日、徳島は神田に手紙を書いた。それは、我が隊が危険な状態な場合はぜひ援助を……というものであった。一方、神田大尉も小数精鋭部隊の編成をもうし出たが、大隊長山田少佐に拒否され二百十名という大部隊で青森を出発。神田の用意した案内人を山田がことわり、いつのまにか随行のはずの山田に隊の実権は移っていた。神田の部隊は、低気圧に襲われ、磁石が用をなさなくなり、白い闇の中に方向を失い、次第に隊列は乱れ、狂死するものさえではじめた。一方徳島の部隊は、女案内人を先頭に風のリズムに合わせ、八甲田山に向って快調に進んでいた。体力があるうちに八甲田山へと先をいそいだ神田隊。耐寒訓練をしつつ八甲田山へ向った徳島隊。狂暴な自然を征服しようとする二百十名、自然と折り合いをつけながら進む二十七名。しかし八甲田山はそのどちらも拒否するかのように思われた。神田隊は次第にその人数が減りだし、辛うじて命を保った者は五十名でしかなかった。しかし、この残った者に対しても雪はとどめなく襲った。神田は、薄れゆく意識の中で徳島に逢いたいと思った。二十七日、徳島隊はついに八甲田に入った。天と地が咆え狂う凄まじさの中で、神田大尉の従卒の遺体を発見。神田隊の遭難は疑う余地はなかった。徳島は、吹雪きの中で永遠の眠りにつく神田と再会。その唇から一筋の血。それは、気力をふりしぼって舌を噛んで果てたものと思われた。全身凍りつくような徳島隊の者もやっとのことで神田隊の救助隊に救われた。第五連隊の生存者は山田少佐以下十二名。のちに山田少佐は拳銃自殺。徳島隊は全員生還。しかし、二年後の日露戦争で、全員が戦死。

上映時間 169 分
製作国 日本
公開情報 東宝
初公開年月 1977/06/04
監督: 森谷司郎
製作: 橋本忍
野村芳太郎
田中友幸
企画: 吉成孝昌
佐藤正之
馬場和夫
川鍋兼男
原作: 新田次郎
脚本: 橋本忍
撮影: 木村大作
美術: 阿久根巌
衣裳: 長島重夫
編集: 池田美千子
竹村重吾
音楽: 芥川也寸志
助監督: 神山征二郎
 
出演: 島田正吾 友田少将
大滝秀治 中林大佐
高倉健 徳島大尉
丹波哲郎 Tanba Tetsuro 児島大佐
藤岡琢也 門間少佐
浜田晃 田辺中尉
加藤健一 高畑少尉
江幡連 船山見習士官
高山浩平 長尾見習士官
安永憲司 倉持見習士官
久保田欣也 加賀二等卒
樋浦勉 佐藤一等卒
広瀬昌助 小山二等卒
早田文次 松尾伍長
吉村道夫 川瀬伍長
渡会洋幸 徳島の従卒
前田吟 斉藤伍長
北大路欣也 神田大尉
三國連太郎 山田少佐
加山雄三 倉田大尉
小林桂樹 津村中佐
神山繁 本宮少佐
森田健作 三上少尉
東野英心 伊東中尉
金尾鉄夫 中橋中尉
古川義範 小野中尉
荒木貞一 鈴森少尉
芦沢洋三 中村中尉
山西道広 野口見習士官
蔵一彦 藤村曹長
新克利 江藤伍長
海原俊介 高橋伍長
堀礼文 波辺伍長
下絛アトム 平山一等卒
森川利一 谷川曹長
浜田宏昭 小野中尉の従卒
玉川伊佐男 沖津大尉
竜崎勝 永野軍医
江角英明 進藤特務曹長
井上博一 今西特務曹長
佐久間宏則 長谷部一等卒
伊藤敏孝 花田伍長
緒形拳 村山伍長
栗原小巻 神田はつ子
加賀まりこ 徳島妙子
石井明人 徳島の少年時代
秋吉久美子 滝口さわ
船橋三郎 西海勇次郎
加藤嘉 作右衛門
花澤徳衛 滝口伝蔵
山谷初男 沢中吉平
丹古母鬼馬二 福沢鉄太郎
青木卓 沢田留吉
永妻旭 大原寅助
菅井きん 斉藤の伯母
田崎潤 鈴木貞雄
浜村純 中里村の老人

予告です。

コメント(7)

八甲田山
1977年【日】
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ネタバレは禁止していませんので
未見の方は注意です!
【コメント】
《ネタバレ》雪国育ちの私には信じられません。あんな軽装備で雪山に行くなんて。裸になった役者さん、家族に「死ぬかもしれない」と告げて、撮影に臨んだとか。そのシーンが特に印象に残っています。【MORI】6点(03/08/08 11:48)

いっつも見たいと思う映画ではないけれど、時々、思い出したように見たくなる映画なんだな。高倉健さんの格好良さは、まあ、役柄ということもあるけど、やっぱりこの人は、こういう格好良さが内側から滲み出てくる人だよね。でも、印象的なのは、遭難してしまう側の兵隊達の置かれた極限状態で、凍傷とか血尿とか発狂とか、そういうシーンが脳裏に焼き付いてるなぁ。ただ、そんな悲惨さの一方で、規律と礼節を重んじる高潔さとが絶妙なバランスを持っていて、とにかく妙に心に残る映画のひとつですね。【由布】9点(03/09/25 22:51)

子供の頃に雪が積もると集団登校時に雪中行軍とか言ってタンボの中を歩いてみんなで遅刻して怒られた。でも彼らは命がけであんな事やらされて大変です。【木戸満】5点(03/09/12 16:43)

たしかTVか何かで中学か高校の頃に見た。1回みただけで引き込まれてしまった。吹雪の描写に難ありとの意見もありますが、私はこの映画の自然描写に魅せられて、俳優の迫真の演技もよかったので、隊員達の苦労ぶりや、ずるずると深みに嵌って、遭難していく様がとても印象に残りました。あと、高倉健以下のの演じる明治の日本軍の描写なんですが、案内人の女の人に敬礼をするシーンがあったのですが、映画上の演出とわかっていても、この頃の兵隊は本当の意味でかっこよかったんじゃないかと感じました。礼儀も節度もあったのだと思いましたね。(この映画にはそうじゃない人も多く出てますけどね^^;)【はむじん】8点(03/09/09 04:23)

アホな上司を持つと命取りですね。実際にこんな事があったのかと思うと恐ろしい限りです。【カズレー】7点(03/08/08 00:12)

史実を忠実にやっていると言う事で、この評価なのだけど、ちょっと出演者が格好良すぎな気がする。当時の記録等を見るともっと泥臭い面が露骨なまでに出てるのだけどね。あ、それじゃ映画に出来ないか。(笑)【じふぶき】さんが言うように映像で極寒のリアリティを表現するのはするのは本当に難しいと思います。でも当時としては結構良く出来ていたとは思いますけどね。【奥州亭三景】7点(03/08/05 18:27)

《ネタバレ》夏に映画館に観に行って、寒い思いをした記憶があります。新田次郎の原作をわりと忠実に再現した映画だと思います。極限状態での人間の葛藤がよく描かれているとは思いますが、それぞれの部隊の位置関係を把握していないと、ストーリーが混乱するかもしれませんね。実話として、せっかく生き残った隊員も日露戦争の激戦地に送り込まれて、無理矢理戦死させられたという悲劇もありますね。実際に人工雪崩を起こして遭難場面を撮影して、その時には学者の見学もあったという逸話があります。それだけ雪の描写には特殊効果やCGには無い迫力があると思います。映画を観た人には、原作を読むことをおすすめします。【オオカミ】8点(03/08/05 09:05)

この映画の何が面白いのか、まったく分かりません。だもので、もう一度見直そうか…とは、やはり決して思いません(笑)。確かに撮影は大変だったろうし、作り手の苦労が画面からヒシヒシと伝わってくる。けどさあ、それが作品を救うどころか、ただうっとうしいだけに終わっているってのが、最大の”悲劇”でしょう。唯一記憶に値いするのは、秋吉久美子に高倉健たちが「礼っ!」と敬礼する時の、彼女のはにかんだ笑顔だけ。やっぱり映画を「救う」のは、女たちなんだな。【やましん】4点(03/08/04 11:24)

当時、大量にオンエアされていたCM「天は我を見放した」のセリフにつられて見ました。見た後で見たって思ったのを憶えてます。今はほとんどこのシーンしか思い出せません。【やまプー】5点(03/08/03 02:06)

三國さん演ずる大隊長みたいな人って結構いると思いません?功を焦って余計な口出しをして現場をかき回し、事態を確実に悪化させて抜き差しならぬどん底に周りを巻き込んで突進する馬鹿って。そしてそれに追従するお馬鹿な取り巻きたち。北大路さん演ずる中間管理職は己のベストを尽くそうとするも上官には逆らえず中隊は全滅…。今も昔も繰り返される官僚組織(会社組織)の悪弊ですね。組織に属する人間は必見の映画。上司に持つなら高倉健さん演ずる大尉さん。少なくとも緒形拳さん演ずる伍長でありたい…(人に頼らず自分だけ助かる算段を忘れない、自分の安全は自分で確保)。【ぶくぶく】8点(03/05/05 15:10)

新田次郎はすごいですよ。山岳愛好者で気象観測員で富士山レーダーつけた人だけあって、描写のすごさは感動ものです。この映画もなかなかうまくかけていると感じました。【みんみん】7点(03/04/28 22:44)

雪の映画は大抵そうなのだが、この作品も雪のリアリティはない。雪質は湿っているので極寒にはみえないし、風の音だけの吹雪も壮絶さがない。確かに描写は難しいと思うが、もっと追求してほしい。また映画はノンフィクションを元にしたフィクションなので、真実には遠く及ばない。真実はもっと悲惨である。この事件は無謀な計画、無知、組織の失敗が原因の、完全なる人災であって、決して美談ではないのだから。ともあれ良く製作したなとは思う。大変な撮影であったろう。映画が八甲田山の遭難を改めて世に知らしめた功績は大きい。【じふぶき】6点(03/04/15 13:51)

50回見たら傑作とわかる。【KADOKAWA?】7点(03/02/05 22:55)

見ててホントに寒くなった。こんな軽装備で極寒の雪山訓練なんてのがだいたい人命軽視もはなはだしい。寒さと疲労で次々死んでいく兵隊たちが可哀想で恐ろしい描写だった。寒さで精神状態がおかしくなるとホントに服を脱ぎ出すらしい。上官の誤った判断が多くの犠牲者を出した史実を目の当たりに見せてくれた。新田次郎の原作も読むとなおいい。【キリコ】7点(03/04/08 23:52)

あまり期待していなかったけど面白かった!人間の極限状況を描いた映画だけど、高倉健の中隊と北大路欣也の中隊が対照的で、後者がいかに無茶な雪中行軍をしたかがよくわかった。雪山の怖さをいやというほど教えられた。典型的な暗い日本映画だけど、この作品は本当に考えさせられるものも多く感動できました!【たなぼた】9点(03/01/15 20:50)


【点数情報】
Review人数 15人
平均点数 6.9点
今日は「八甲田山の日」です。
1902年に冬の八甲田山へ雪中行軍に出かけた兵士210名が遭難し、199名が死亡する事故が起こりました。

まさにその雪中行軍を描いたのがこの映画です。
時は日露戦争直前、来たるロシア戦に備え、雪中訓練の目的で、八甲田山行軍の命が軍上層部から下ります。

そもそもこの命令からしてが、無謀だったんですね。
冬の八甲田山は、魔の山だそうです。
しかし、命令が下った以上、逆らうわけにはいきません。
徳島大尉(高倉健)は、雪山登山の経験も豊富だったので、少数精鋭の部隊編成をし、
携行品は最低限の軽装、ルートも綿密に計画して最短距離で行軍を行い、無事予定通り帰還します。

ところが、神田大尉(北大路欣也)率いる青森第五連隊は、雪山の知識もまったくないまま、
大部隊を率いての行軍を強行します。その結果道を見失い、200数名が厳寒の雪山を彷徨するという最悪の事態を招いてしまったのでした。

原作は新田次郎の『八甲田山死の彷徨』です。
これがまた、めっぽう面白い。読まずに死ねるか!って感じです。
小説で印象に残ったのは、ゴム長靴のエピソードです。
当時、ゴム長靴はあったけれど、高価で庶民にはとても買えなかったそうです。
なので、ほとんどの兵士はわら靴で雪山を歩くわけですが、徳島大尉の弘前第31連隊は、
雪がしみないように、足に巻く油紙の中にとうがらしをいれて、その上からわら靴をはいたのです。
それで足の凍傷が防げたのです。すごい知恵ですな。

で、そんな知恵も備えもなかった青森第五連隊のほうは、道に迷った兵士たちは、まず足が凍傷にかかって歩けなくなり、バタバタ倒れていくのですね。
で、この事故のいわば責任者でもある高級将校は、高価なゴム長を履いていたため、命が助かるのですよ。なんたる皮肉。映画版では三國連太郎が演じていたかな。

小説を読んでいると、雪山の過酷さが生々しく心に迫ってきますが、映画版でもそれは十分に再現されています。あまりの寒さに発狂して死んでいく兵士のシーンなんて、怖かったもんなあ。
映画の撮影もそれはそれは大変だったようで、もちろん実際に冬の八甲田に行って撮影していますし、あまりの寒さに脱走した俳優も何人もいたそうです。
森谷司郎監督も、撮影のあまりの過酷さに身も心もテンパッてしまった俳優たちに寝込みを教われ、「ふざけんな!俺たちは牛や馬じゃねえ!!」と言われてボコボコに殴られたりしたそうです。

俳優もスタッフも、心身の限界を通り越しても、一本の映画を撮りあげようとしたのですね。
CGなどもなかった当時の、日本映画人たちの心意気を見るような心持ちがします。今はもうこんな気迫のこもった映画はつくられないのではないでしょうか?

昨年6月に、「特別愛蔵版」のDVDが出ました。
日本映画史に残る一本です。
ひとりよがりの映画評論1(邦画)

氷壁
聖職の碑
八甲田山

 ビデオを見ない私にとって、映画はあくまで映画館の大画面で見るものであり、逆にめったに見る機会がないからこそ印象深く脳裏に残ると言える。時間がたてばその記憶は次第に風化するが、部分的に残ったシーンの断片にいつの間にか自分勝手な脚色をしてしまっていたりするのも、また、映画のもう一つの楽しみ方とも考える。数年たって改めて観てみるとさらに新たなイメージが記憶に蓄積され、何度観ても違う感動を覚えるのが楽しい。


 印象に残っている最も古い映画といえば、やはり「氷壁」(1958年大映)であろうか。私にとっては生まれる前の作品だし、子供の頃どこかの小さな映画館で母親と見た記憶がある。内容をなんとか覚えているのは大学時代に再度見る機会があったからである。
 不思議なことに登場する山岳風景がすばらしかったというよりも、なぜか記憶ではモノクロである。主人公と友人が釜トンネルを経て上高地にいたるあたり、スキーで歩いてのアプローチなのだが、その歩行スピードの異常な速さに驚いてしまった。まるで戦前のフィルムの速回しのようである。とてもついてゆけないと正直舌を巻いてしまった。数年たった今でも、新田次郎の小説「孤高の人」加藤文太郎もおそらくこのような速さで歩いたに違いないと勝手に納得してしまっている。
 遭難シーンは意外と短いカットであっと言う間のできごとである。山中のシーンなども全体的に地味であるが、主人公の最後の手記がナレーションで入るところでこの映画全体が例えようもない迫力で締めくくられたような気がする。それは人妻と主人公の恋人が演じる静かな人間関係がこのドラマに流れる人間の心の深い淵を物語っているからかも知れない。
 菅原謙二、山本富士子らの俳優に特別な思い入れがなかっただけに、すなおに目の前に繰り広げられるドラマに没頭できたことも幸いしたと思う。コントラストが強く、余計な細部が写らない古い映画だけに、画面全体が美しく感じた。日本映画らしい映画といえるだろう。


 「聖職の碑」(1978年東宝)は、高校時代に封切当日に見にいった。当時女子のあいだでまだ人気の高かった三浦友和が出演することもあって、大変な鳴り物入りでロードショーが展開された記憶がある。友人と映画館に並び先着100名用の劇場シナリオを手に入れたほどである。「ああー、信濃はいい国だなあー」という台詞は鶴田浩二だったか。
 前作「八甲田山」に次ぐ作品で、原作が新田次郎だからといって山岳映画として観るべきではない。この映画は「聖職の碑」という題名そのものがテーマであり、教師=聖職者のドラマとしてうまく脚本されている。遭難をとりまく人間の心理に焦点を当ててみると、遭難とそれにまつわる様々な問題が人災であることを暗に示唆している。また、遭難事故に対し必ず特定の個人に責任を求めなければ済まないという、日本人特有の浅ましくも哀しい心理を深く描いている。死んだ校長先生の評価が時代によって変わるあたり、歴史的教訓として、いつの時代にも共通してみられる社会の無責任な評価というものに悲しみを覚えた。むしろ遭難者の遺族や教育者に観て欲しい内容であり、そう考えれば文部省推薦であったのも納得が行く。
 「聖職の碑」は後述する「八甲田山」の後の上映であるが、両方の映画の企画に関わったシナノ企画が本来作りたかったのはこちらではなかったかと漠然と考えたりしている。


 一方、前後するが「八甲田山」(1977年東宝)は雪中ロケを敢行しただけあって真に迫った感じを受けた。目の前で繰り広げられた極寒の八甲田は観ているこちらまで凍えてしまう様である。たとえ集団といえども暗闇と白い世界に取り残された者の恐怖は、体験した者にしか解らない。冬山でホワイトアウトを体験した人間なら、疲労凍死や発狂に至る過程を容易に想像することができるだろう。
 まさにこれこそが山岳遭難映画である。集団登山とそれを率いるリーダーに対し、様々な教訓がちりばめられているといえる。組織と指示系統に関わるすべての人間に、このドラマは縮図としてあてはまるといえる。
 秋吉久実子が道案内をし終えた時の高倉健の敬礼シーンは、当時の社会情勢と原作にはないものだが、ドラマとしては最高である。現代風映画としての脚本(脚色)はみごとで、資料にもとづく克明な記録小説(原作)を損なわない迫力で構成されている。小説と映画の2作品として楽しめると思う。映画しか御覧になっていない方は、是非とも原作「八甲田山死の彷徨」を一読されたい。猛吹雪中の断末魔の描写は秀逸で、遭難前、遭難後の記録も当時の社会情勢とあわせて充実している。近年増えている中高年登山者、集団登山者にはお勧めである。
 (一部削除)


 是非とも一度は観たいと思う映画に、山岳映画とはいえないが石原裕次郎主演の「黒部の太陽」がある。毎日新聞(木本正次著、信濃毎日新聞社刊の文庫版がある)連載の記録小説を石原プロが映画化したものであるが、残念ながらどこの映画館でもTVでもめったに放映されない。裕次郎も故人となり、名画座や文芸座が廃館に追い込まれた昨今となってはなおさら難しくなった。一度、後立山縦走中に大町市内の山岳博物館で上映されていた事を、下山してから知って非常に残念な思いをしたことがある。雨にうたれたその映画会のはり紙には関西電力や毎日新聞社が協賛となっていたが、版権や上映権など、やすやすTV放映できない理由でもあるのだろうか。(そういえば「富士山頂」1970年石原プロ/新田次郎原作もみかけない)


 もうひとつ、つねづね是非とも映画化してほしいと思うのは、ずばり、吉村昭原作「高熱隧道」(新潮文庫刊)である。これも黒部峡谷黒部第三発電所に至るトンネル工事の記録小説といえるが、内容的には高倉健の「海峡」を超える作品になりうると思うのだ。黒部峡谷の雪崩をはじめとする大自然の脅威と極限状態における人間のドラマは自然と人間の闘いをテーマにしている。キャスティングや時代背景とロケを考えると、バブルのはじけた今となっては映画一つ作るのにも大変な困難が予想されるが、名監督や名優がいなくなる前に作って欲しい。日本映画史に残る作品ができることを願ってやまない。
紹介
この本は「映人社」がS52年5月25日発行しました。
私が所有しているのは同年6月17日第二刷発行のものです。¥1000.
古本屋で¥500で、かなり後、購入しました。
絶版になっていると思いますが「映人社」はまだ存在していると思います。
東京都豊島区東池袋5-32-10 TEL 03.585.-0965 現在は変更されているでしょう。
目次 
現地地図、撮影スナップ、名場面集、製作ノートより、橋本忍、製作意図、
スタッフキャスト一覧、
    シナリオ「八甲田山」
  座談会「雪と寒さの地獄から」 橋本 忍(製作、脚本)
                野村 芳太郎 (製作)
               森谷 司郎   (監督)
                木村 大作   (撮影)
               神山 征二郎 (助監督)


雪上車上から クレーン上から 森谷監督と木村カメラマン ロケ隊スタッフ

座談会の要点

初め2ページ程を本から紹介して、後は要点をダイジェストにして、ご紹介します。
本編は、ビデオ、又は最近発売されたDVD版などをご覧下さい。

企画と原作

橋本 四十六年に原作が出た直後、野村さんから「八甲田山死の彷徨」という小説を読まれましたか、と聞かれたんだが、僕はまだ読んでなかった。
野村さんは映画にしたら面白いんじやないかと言われたが、昔、青森から国鉄バスに乗って八甲田を通って十和田湖へ行った ことがあって、そこでバスのガイドさんが歌ったりして雪中行軍で兵隊が二百人近く死んだということは聞いていたんで、兵隊さんが二百人死ぬ話というのは映画にならんじやないですかすかって言ったら、いやそうじやない。
同し時期に弘前からも三十七人が逆に 行って、彼らは一人も死なずに生還している。それが「八甲田山死の彷徨」だといわれるんで、それは面自いかもしれないと原作を読み、映画になるんじやないかと思ったわけです。
で、森谷君に話したら森谷君は既に原作を読んでいて、やろうじやないかということになった。

野村 四十八年の夏頃からですね、「砂の器」と「八甲田」をやろうと言いだしたのは。
だから両方殆ど同時スタートで、順番は「砂の器」を先に、ホンも出来ているし、やると。
で、「八甲田」はその次にやる。準備としては同時スタートです。ただ、他のプロがやりたがって いたり、いろいろなことがあって、実際に具体的に詰めるのには四十九年になりましてね、僕の記録によりますと、二月の十五日に新田さんの所ヘ、ま、その前に下交渉があったんですけども、行きまして原作をかためた。
ですから二月十五目というと、まだ「砂の器」のスタートの−
橋本 三、四日前だ。
野村 ですから、本当に同時にスタートしているわけです。
橋本 この原作については、いろんな独立プロや映画会社から研究をさせて下さいということで、やれるかどうかわからんからツパを つけてる状況が続いていた。決定的にこの原作を下さいと言ったのは僕らが一番初めだったんだな。
野村 ええ、あとは研究さして下さいということで、よそから話があったらちょっと待ってもらって、うちも研究をといったような話ですね。
なかなか、やっばり、どうやって作るのかちょっと見当がつかないというのが、この原作のもっている性格じやないですかね。
橋本 たとえば原作を買うでしょう、ところがむこう(青森)行って調べたら出来ないという結論が出たとしますね、我々はそれであきらめますよ。
だけど映画会社の場合には買っていないものを研究してみても仕方がないし、第一できもしない原作を買ったりするだけで、誰かの責任間題にもなる。
その点、我々は違う。皆んなで、これをやると決めたんだから、まず買うことが先決で、どういうふうにやるかは、それからあと のこと。いろいろやってみても出来なきや、しようがないわね、そういう割り切り方ですよ。
野村 それともう一つは、僕らは映画何本かやってきて、取り上げる前に、どこかいけるという勘がありますよね。
やりようがある、作りようがあるという、その勘にふれないものだったらやっばり手がつけられないけれどもこれは何か方法がある筈だと、そういうものがありましたね。
橋本 一人も反対者はなかったもんな。ということは、これだげ映画やテレピの世界でメシ喰ってる奴がいて、これはいけるんじやないかということ・・…中には一人や二入反対する者が当然出てくるのを、全員一致で、やり方は難しいけれども、やればいげるんしやないかつてことだった。
森谷 だから、映画的に非常に魅力のある素材であると皆んなの意見が一致したということでしょうね。
だから研究してみようってことは即、 買うってことになるわけで、皆さんは研究してたらしいんだけど映画的魅力を感じることが少なかったから〃研究〃が長びいたんじやないのかなあ。
結果論かも知れないけど。出来るか出来ないかは、正直言って我々だって、それから紆余曲折があるわけなんだけども、それに魅力 を持つという、映画的素材なんだという・…・ここれに太きな魅力を感ずるってことが大事なんだと思いますね。

ロケハン始まる

橋本 「砂の器」の撮影が青森県の竜飛岬で二月の十九日から始まって、その時に森谷君がロケーションを一日だけつき合い、青森へ引返し、 八甲田へ入った……だからあれは四十九年の二月二十日ですね。
野村 「砂の器」は十九日にクランクはじめて、森谷君は二十日にロケハンをはじめたわけです。
橋本 「砂の器」の冬の分と春の分が終った五月の下句ですね、ハンティングは。
野村 十八日にハンティングの打合せをしましてね、二十七日です。僕が秋田のロケハンをやって、青森の駅へ行き、皆んなと合流しましてね。
橋本 それから五連隊の歩いたコースと、三十一連隊の歩いたコースを案内して貰って、その通り歩いた。
で、当初は東京から近い所、どこかの温泉場でスキーでもやる所へ行ったら、裏側は冬山はどこでも同しだから、手近かなところでもやれるという考え方で青森へ行ったが、 五連隊と三十一連隊の歩いたコースを全部歩き終った時には、何年かかっても此処でやるよりしようがないという結論が出た。
僕は第一露営地の跡に立った時、此処でやるよりしようがない、本当は第二露営地の方がドラマチックで、歩いたコースを全部歩き終った時には、何年かかっても此処でやるよりしようがないという、本当は第二露営地の方がドラマチックなんだけど、第一露営地の、あの、平沢の森に立った時に、他で作ってはこの映画は嘘になるんじやないかっていう気がしたんだけど。
野村 僕は印象に残っているのは、弘前を出た田んぽ道で、橋本さんが〃この映画当るぜ〃って言ったのを、一番記憶に……。
雪の中で、此処を弘前隊が歩き出したら、この映画はそれで決まるんじやないかな、というのが一番強く残ってますがね。
それが、ロケーションではピーカンの日に、歌うたつて歩いているあそこなんですがねえ。
森谷 僕は慎重だから、全コース歩いて、やっぱり「田茂(落(草カンムリに泡が正(ヤツと読む、以後同じ)の上にあがった時だね。田茂落(注)のロープウェイで、八甲田、千六百八十メートルぐらいの所、前岳が見えて、行軍コースがず−っと見える所があるんだげど、小峠から大峠……そこで、やっばり此処でやればこのシャシンいけるという気がしたね。
         
以降はダイジェスト


主役を決める
6月下旬頃、俳優を決めなければという事になり、主役の徳島大尉は誰かという事になり、橋本さんがカードに、色々な俳優さんの名前を書いて、森谷、野村さんが選びました。
裏返して行き、のこったのが高倉健一枚になりました。ただ、高倉健は東映以外の出演は今まで無かったから。
撮影現場が決まり、必然的に主役が決まりました。

キャメラテストとシナリオ創作
50年一月から二月、キャメラテスト。キャメラテスト中に冬のシーンのシナリオハンテイング。
地吹雪の中での撮影の限界などをテスト。
次に、撮影スタッフの防寒装備の調査。常識の装備では駄目という事がわかり改良を加える。
現地の人は長靴で平気なのだけれども冷たくて全く駄目だった。
キャメラ助手の耳が凍傷で落ちかけて、まず耳が怖いと知る。
続いて、青森県などに連絡を付け、協力態勢を確立。山岳遭難対策防止協議会がロケーションに協力の態勢。
脚本は二月中旬から始まり、五月二十四日に第一稿完成。
その前に、構成台本は一月十四日完成。それでキャメラテストは行われた。

クランクイン
六月十八日、クランク態勢。十九日現地集合。十九日八甲田温泉泊りロケ。
緒方拳、下条アトムの雪中回想の田代平のつつじの花の満開のシーン。天候が悪く5日かかる。
続いて、新緑の十和田湖、徳島大尉の子供時代の岩木山撮影。衣装小道具調べは五月から六月にかけて。
第二稿は六月二十五日完成。七月十五日から夏のロケ。
ラストシーンの緒方拳の幸畑の墓地や、祭り(弘前、青森のねぶたなど)。十和田湖を繰り返し撮影。
ヘリの空撮(子供時代の岩木川の川遊び、川倉の地蔵祭りなど)十三回。
このシーンで三年にまたがっているが完成では四分、前が一分半、後半二分半。紅葉は翌年。

製作の方法と映画会社
七月八月のロケーションが終わってから、映画会社を決める事になる。
絶対受けると強気で話し合い、十月に製作が橋本プロ、東宝映画、シナノ企画、配給は東宝と決定。
製作発表、帝国ホテル、十月二十日。
加山雄三、加賀まりこ以外はキャストは決まっていた。

高倉隊のロケ
十一月衣装調べなど準備を始め、十二月正式スタッフでロケハン、この時は雪が有ったのだが。
翌年スタート、雪が少ない。ダンプで15台ほど運んで道路や屋根に乗せる。
高倉隊が、弘前平野、岩木山をバックに進軍するシーン。雪が降らず2回のロケが駄目。3回目は6時に起き、朝飯食わずで11時半までかかる。健さん達は、田んぼの中で4時間立っていたから腹が減ったろう。
寒さの経験。大木平の八甲田がバックに見えるシーン。
山の上の広い高原で、午前中3時間撮影。廃校で婦人会の味噌汁を頂いた。
十和田湖畔を歩くシーン。ロケハンの時は、銀山から宇樽部まで吹雪でリアルだったが、本番は、そうならなくて、そうなった時、一週間かかる予定を二日で撮影した。まさに臨機応変だった。土地の人の言う事もよく外れるとか。
それでも七時半には出かけて、ひたすら天候待ち。雪の中だから大型扇風機など持ち込めない。
それで、この年は一月末までかかった。
森谷監督と木村カメラマンは残って二月半ばまで実景を撮影。
四月末、桜を撮影に弘前へ。五月りんごの花、菜の花、田植え、十和田湖も撮る。九月は紅葉。六月特報を作る。
ねぶたの録音など。
十月十七日から、秋の本格的な大ロケーション。
全員に近い俳優さんで新潟県の新発田から弘前、青森へ行く。
思いでの秋のシ−ン。十三湖、稲刈り、脱穀、野焼き、りんごの実り、など。
絶好の好天続きであった。十月末に終わり、セット撮影を、十一月から十二月四日まで行い、打ち上げる。

越冬ロケに入る

十二月十六日,
先発隊が下準備に出発した。
準備は夏、いや一年前から準備をしていた。
丸二ヶ月のロケーションには俳優が約60人、現地ではエキストラが、毎日数百人、延べ6,7千人が出る事になる。
撮影開始は21日に本隊が入りクランクイン。23日。田茂落(参照、タモヤツ)岳は標高1600M、積雪量2M位。
頂上の条件は厳しく、健さんが週刊誌に「凍死寸前」と書いた。一桁違う低温。
ケーブルからドアを開けて出ると目は開けられない。
口は勿論、もう何も出来ない状態。五分を超えて立ってたら死ぬと思う。進めない。
マイナス二十度以下、風が1M吹くと体感温度は 一度落ちるから、マイナス三,四十度と思う。
精神力だけでは克服できない。しかし、それを狙って行ったのだからやらなければと・・。
人は目を開いていられないが、キャメラは瞬きもせず写している。メカニックの限界。しかし、キャメラも止まった。
キャメラはヒーターを付けて完全装備をしている。
ただ、コードは厚くゴムを巻いてやったんだけれども耐えられず、スイッチが凍結。
電気が通らない。そこでキャメラ助手が木下藤吉郎みたいに、懐に10本位コードを入れて暖めている。
ここでと思う時カメラが止まって しまうので監督は腹が立つ。「コード換えて・・」絶叫しながらの撮影であった。
次は田代平で。徳島隊が大中台に立って初めて八甲田の全容を見る所。
雪上車しか行けないので45才以上は危ないので居残り。
天候が狂うと一寸先も見えない。10台の雪上車で、どこでも野営ができる装備をして一晩分の食料を詰め込んで救援隊を待つ態勢。
高倉隊は十二月三十日までギリギリやり、一応帰ってもらう。
次の青森大部隊は一月から始める。
徳島隊と神田隊を入れ換えた。スタッフはそのまま。
休めなくはなかったがお正月前後が一番冬型の撮影の好条件になるので2日だけ 休んで次の準備にかかる。

神田隊ロケからクランクアップまで
一月四日からクランクイン。青森五連隊(神田隊)はシナリオ通り進む。
大人数なので酸ヶ湯温泉を本拠地にする。スタッフを含めて常時180人くらい。5連隊の撮影はここで70%をこなす。
二十日間位。
青森方面へ下ったり、八甲田の笠松峠へ上がったり。もっぱら雪の中を歩く。
朝起きると新雪で腰まで1Mほど沈む。泳ぐように進む。
最大4.8Mとか。撮影は旨く行った。
朝、6時起き、7時半出発。夕4時半まで。夜間ロケが11,12時まである。俳優さん達は頭がおかしくなった。
神山さんは、ヘルペスという変な病気になり、三回くらい”もう、お金返して帰りたい”と思った。
一人の俳優が東京へ逃げ帰った。又、帰っては来たが誰もがそう思った象徴的な出来事であった。
きつかったのは田代平、笠松峠の手前の迷平、長平、鰺ヶ沢根拠地。
長平には、前年十月二十二日廃車になるバスを五台置き待避所にした。
出演待ちの人を置き、雪が溶けた五月に下ろした。
二月は徳島隊、青森隊がここで同時撮影。神田隊が倒れて遭難するシーン。
綿密なスケジュールを立ててやり、尚も天候の状態に応じて臨機応変に対処する冒険者の精神が必要であった。
冒険者は無計算な事をするように思われるが実際は緻密な計算が有るという事がわかった。
二月十五日、全員が引き揚げる。
木村カメラマンはその後、実景撮影の為、青森に帰り馬立場に立つ。
まだ日にちも経っていないのだが雪上車から出て五分と居られない。
こんなところで撮影していたのかと思いゾッとした。
撮影を終えて

橋本 こないだの打上げ、全部の俳優さんやスタッフが集まった時に、俳優さんたちは、口々に何か自分の心に残る仕事であったと、永遠に。
しかし、二度とやろうとは思わない。(笑い)これが正しいよ。それは全員の気持。
森谷 それから、これは健さんの名言ですよ〃この仕事やったら、何でも出来る〃と思ったと。
自分自身がある極限状況へ、一回は、少なくとも
一回ぐらいは追い込まれていると思うなあ、この仕事に参加した人は。
神山 僕は一回じやないですね。(笑い)
森谷 それから、毎晩寝る前に〃明日もお願いします〃って、蒲団の上に座って、こう、手を合わせたみたいなことも初めてだね。
橋本 どんな祠の前、どんな神社の前、どんな石地蔵の前、通るたびに祈ったよ、本当に。
木村 僕はね、つくづく感じたのは、撮らなきや撮らなきやって気持があるでしょう。
で次の日に天気がどうしようもなくて撮れないと、仕様 がねえよなあ−って、スバヅと割り切れるわけ。そういうのも初めての経検だね。
野村 だから、中途半端なものが何もないってことよ。
森谷 何となく、騙し騙しやる、中途半端なものを受けつけなかったっていう仕事じやないかな。
橋本 これは僕の考えだがね、やっばり雪の中ではね、物凄く荒々しい気持になるか、物凄く感傷的になるかのどちらかで、中間思想っていうのが、 わりとなくなる、ある意味でね。実はこれは手前味噌なんだけど、これからまた僕がホンを書く時にはね、今まではやや中間思想で作った物が 多かったけど、もっと荒々しい、もっともっと悲しい映画が、ひょっとしたら書けるんじやないかなって気がするね。
「八甲田」で一番僕に残っているのは中間思想っていうのはわりと役に立たんということだな。
神山 森谷監督、木村さん、これはもう鬼か気違いかって言われてたんですよね。それで、僕は、なだめ役ですから、ある面では仏様みたいな役割 でね。でも実はそうではなくて、鬼か気違いにならないと出来ない仕事だったと思います。
僕はね、この仕事やる前に演出の仕事をしてますし、そういう意味では大変よくわかった。
つまり、首脳部が仏様じやあ。(笑い)本当に鬼か気違いかって感じですね。
野村 恐らく、よそから見れば気違いが作った映画でしょううね。こんな事ってね、外部から見れば、絶対ブランは立たないし、やりようがない。
森谷 吉田さん(録昔)がね、途中で現場へ来て、雪上車から降りて皆んなの姿を見た時にね、ジーンと、気温と両方できたんだって。
胸が熱くなってね、涙が出たんだって。〃こんな所でやるのか、ここまで来てやるのか〃と思ったら涙が出てきたっていうんだけど、わかるような 気がしますね。
神山 私、潜越かもわからないけど、結局、知恵と技術を提供する人間がやっばり映画作りでは中心にならなくてはいけないという、それを教えて 貰ったという気がします。独立ブロっていうのは配給の力もないし、いつも何か貧乏籤引きながらやってきたと思う。まあ、いろいろなケースがあります けど。
橋本 でもうちは、なんだか、貧乏籤はあまり引かないようなことになっでるんじやないかな。(笑い)

森谷 これからはもっとそうなっててゆくべきだと。つまり、映画の思想ってのは何か、といったら作ることでしかないわけだから、そこにもう一遍立ち戻って考える。
そうしない限りは結局商売するほうだって作る側だってやっぱり、本当に果して作ることと、技術の思想みたいな事に対してどれだけ自分が自己確認しているかって ことが・…。それも間題があるわけよね。
橋本 それからもうひとつ。誰かに作らしてもらっているという気持ちが全くない。
自分達で作ってるんだという意識が百パーセントで・…・。
野村 ということでしょうねえ。
森谷 それでなかったら二十万フィートも回せないね。(笑い)僕は、十万フィート位がいいとこかなあと思ってたら”こののシャシンは ニ十万回さないと駄目になるぞ〃って言ったのは橋本さんでね。
僕も初めての体験。フィルムは企業内でも良く便う方だったけどこんなに回したってのは。
やっぱり、今橋本さんが言ったような事が根底にあるわけなんですよね。
橋本 作らして貰ってるって気持ちになったらもうアカンのじゃないのかなあ。
この集団全部で作っているという爆発力、そういうことじゃないのかなあ。
(昭和五十二年四月)
映画「八甲田山」 私の感想

映画というのは、限られた時間に、いかに伝えたい事を表現できるかという事を、おおまかに把握してから始めないと、締りの無い駄作になる危険がありますね。
いくら安く上げるといっても、数千万円はかかるでしょう。
それでアダルト映画のような刺激だけをアッピールして一稼ぎしようなどという怪しからん輩がはびこります。
嵌る人がいるからというイタチごっこもありますが・・。
「さくら道」も原作を読んでから映画を見ると物足らないですね。
NHKの「桜紀行、もう一つの旅」の方が、遥かに感動を覚えます。
「親鸞、白い道」も原作は膨大な量と難解で、とても映画に出来るものではないと思いますが、画面は美術的で凄味がありました。
その点、「八甲田山」は原作にも殆ど忠実で、三時間を感じさせない目を離せないシーンの連続です。
手元に台本がありますが、この台本はコンパクトに凝縮された、書き込みも何も無いのですが、現場ではト書きなどでビッシリなのでしょうね。
この台本を如何に膨らませて素晴らしい作品に仕上げるかがスタッフの腕の見せ所なのでしょう。
それを纏めるのが監督ですから、世界の一流の監督と言われる人は凄い能力の持ち主ですね。
私は「アラビアのロレンス」を作ったデビットリーンが好きですね。ロマンがあります。
「ウエストサイドストーリー」「サウンドオブミュージック」なども心地よい感動が余韻として残ります。
コッポラや「ラストエンペラー」のような映画も凄いとは思いますが、再度、見直したいとは思いません。
「八甲田山」は、ただ悲惨な戦争悲劇としてだけではなく、芥川也寸志さんの情緒ある音楽と共に、美しい日本の情景も描かれ、抒情詩 となっています。
製作スタッフも森谷監督、芥川也寸志さんは早世、橋本忍さん、野村芳太郎さんも今は亡き人です。
素晴らしい作品を世に残された皆さんに敬意を表し、時々拝見して蘇る感動に浸りましょう。
八甲田山
(1977年製作 橋本プロ=東宝映像=シナノ企画)

 新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』はマネージャ研修などでよく取り上げられる題材
である。小説を原作とした映画『八甲田山』も「お父さんが泣く映画」として有名だ。

 1902年(明治35年)1月、日露戦争にそなえた厳冬期の雪中行軍調査のため、冬
の八甲田山系を縦走する演習が企画され、青森第五連隊と弘前第三十一連隊が、別々のル
ートから八甲田山系を行軍することになった。

 弘前を出発した弘前第三十一連隊は、肉体的に頑強な38人の志願者からなる精鋭部隊。
事前に雪中行軍についての研究調査もし、十分な事前調査と身軽かつ十分な装備で望んだ。
行程ごとに地元の案内人を立てることを前提に無理のない11日のコースを設定。行軍の
目的が研究であることを明確にして全員に徹底し、隊員一人一人に任務を与えた。途中、
風雪に苦しめられはしたものの隊長以下厳格な指揮命令系統を維持し、それぞれの任務を
遂行しながら一人の犠牲者も出すことなく予定通り行軍を完了した。

 一方、青森を出発した青森第五連隊は、上層部の横槍で行軍の部隊に司令部が随行し、
215名という大部隊になった。行軍の指揮官の立てた計画は司令部の上司の干渉で大幅
に変更される。準備不足のため兵たちは不十分な防寒装備で出発せざるを得ず、司令部の
意向に沿って多くの物資を運搬することになる。行軍すること事態が目的化してしまった
大部隊は、司令部の面子のため、指揮官が計画した案内人もつけることができず、不案内
な山中に踏み込むことになった。現場での指揮権もいつのまにか無能な司令部の将校に握
られてしまい、誤った判断と指揮権の混乱、大量の物資運搬の負荷により部隊は大暴風雪
の山中を彷徨い、199名という大量の犠牲者を出してしまう。

 そもそもこの悲劇は、陸軍の上層部の気まぐれに近い思い付きが、次第に避けられない
命令となって現場に下りてきたことから始まる。上層部は、上層部の意向を拒否すること
ができない現場の立場を考慮して慎重に物事を判断しなければならないのだ。

 上級管理者の態度の違い(現場の指揮官を支持し信頼して任せる、あるいは横槍を入れ
る)により、プロジェクトの運命は決まる。現場の指揮官の考え方は兵たちの士気に大き
く影響する。「天は我らを見放したかあ!」(映画は北大路欣也。当時このセリフが大流
行)と指揮官が叫んだ途端に、それまでなんとか持ちこたえてきた兵士たちが次々に倒れ
る。リーダが絶望してしまうと、リーダを頼りに頑張ってきたメンバーが倒れてしまう恐
ろしさがある。

 映画では、途中の戸来村まで弘前第三十一連隊を無事に案内してきた案内人さわ女(秋
吉久美子)に対して、徳島大尉(高倉健)が『案内人殿にかしら右!』と号令をかけて隊
員に最敬礼させるシーンが感動的だ。思わず目頭が熱くなる素晴らしいシーンだ。パート
ナーに対する尊敬の念も忘れてはならないのだ。(この部分は、小説では、徳島はさわ女
に50銭玉1つを渡して「案内人は最後尾につけ」と命令する。『もう用はねえってわけ
かね』と言うさわ女に「隊員たちは心の中で彼女にすまないと思った」という描写だ。か
なり映画的な脚色をしている)

 そのほかにも様々なプロジェクトマネジメントの成功と失敗の要因がこの物語では提示
されている。プロジェクトリーダを目指す方たちにとって得るところが非常に多い。にぜ
ひ読んで欲しい小説、見て欲しい映画である。

べんさん でした
CS 221 日本映画専門チャンネル

「八甲田山 <4Kデジタルリマスター版>」1977年/東宝・シナノ企画・橋本プロ/カラー
監督:森谷司郎 脚本:橋本忍
出演:高倉健、北大路欣也、三國連太郎、緒形拳、栗原小巻、秋吉久美子、小林桂樹
12/2(日)21:00
12/9(日)14:20
12/16(日)15:00
12/23(日)17:45
12/31(月)9:00

《「八甲田山」シネマ・コンサート》
映画史に残る超大作「八甲田山」がフルオーケストラでよみがえる
【出演】演奏/東京交響楽団
【上映作品】「八甲田山 <4Kデジタルリマスター版>」1977年/東宝・シナノ企画・橋本プロ/カラー
監督:森谷司郎 脚本:橋本忍
出演:高倉健、北大路欣也、三國連太郎、緒形拳、栗原小巻、秋吉久美子、小林桂樹

1/14(月・祝)開場 15:00 開演 16:00
NHKホール(東京)

全席指定 9800円
問い合わせ ディスクガレージ電話050-5533-0888

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