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ショーペンハウアーコミュのショーペンハウアーの比喩について

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卒論で書いたもののまえがきだけ載せてみます。

興味のある方がいらっしゃったら、ご感想をお聴かせください。



まえがき

本論文は、ショーペンハウアー が比喩をどのように捉えていたのか、またどのような比喩を創作したのかということについて思索したものである。

私は主にショーペンハウアーが1851年に刊行した著作、„Parerga und Paralipomena>?<”を読解する。

この作品の中には、いたるところに比喩がちりばめられている。

また、比喩の創作のみならず、比喩や言語についての見方も言語哲学的な内容を含んでいる。

ショーペンハウアーは、後に登場するニーチェ やヴィトゲンシュタイン といった現代の言語哲学的な考察における先駆者にも多くの影響を与えている。

私が持った視点は、彼ら二人、あるいは私たちの時代の言語的な問題の芽が既にショーペンハウアーのこの著作において表れているのではないか、というものである。

言い換えてみれば、私が本論文で目指すことは、signifiant(記号内容部)はsinifié(記号表現部)から離れて抽象的に存在しているのではなく、表現は内容を形づくる本質的な側面であるという事実への再認識からショーペンハウアーの比喩に対する態度を考えるということである。

伝統的に哲学は比喩を「ただの比喩にすぎない」と考える傾向が根強くある。
率直に私はこのような考え方に不満がある。

なぜなら、「言葉は言葉にすぎない」あるいは「比喩は比喩にすぎない」という認識は、特にデカルト以来定説となった「言語衣裳観」の権化であるからだ。

本来、ことばの形式はことばの内容と同時に生成するはずであって、ことばの内容がことばの形式を後から衣裳のように着るのではない。

佐藤信夫が言うように、もともと言語の意味というものは、かなり弾性的 で、遊動的 であるはずである。

この漂い、戯れる意味をコンテクストの中でなんとか明確につかまえようとするとき、著作家は比喩という技術を用いるのではないだろうか。

著作に命を燃やし続けたショーペンハウアーは、比喩はただの比喩にすぎないと考えながら著作を書いたことはおそらくないであろう。

実は、比喩こそ真理を指し示すための唯一の表現なのではないか。

ショーペンハウアーもこのように考えたからこそ、後期著作において比喩を多用し、直観にうったえたのではないか。

こういった考えが、私が本論文を書く動機になった。



この部分の注

ニーチェとショーペンハウアーとの関係については

「『真正の哲学者』を求めて鬱々と過ごしていた当時のニーチェにとって、ショーペンハウアーとの出会いは電撃的な作用を及ぼした。」(大石・『ニーチェ事典』・S.285)

「ショーペンハウアーの哲学を『概念詩』として、つまり芸術として、力として肯定的に評価しようとする。」(大石・『ニーチェ事典』・S.286)

を参考にして述べた。

ウィトゲンシュタインとショーペンハウアーの関係については

「ハッカーはよく問題となる『論考』にみられる独我論が、ショーペンハウアーの超越論的観念論から理解できるとしている。ウィトゲンシュタインの独我論とは、『私は私の世界(小宇宙)である。』(『論考』,5.63)のように、私と私の世界とを同一視するものである。

これは『私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する』(『論考』5.6)からくるもので、世界は私の言語によって語られるものであり、したがって世界は私の世界となる。しかしここにおける私、つまり主体は、世界に属するものではなく、世界の限界なのである。」(山本・『ウィトゲンシュタイン小事典』・S.249)

を参考にして述べた。


 意味分節の弾性について説明をする。佐藤信夫(ロラン・バルトの研究者でもある。)は、意味は弾性的状態にあると自ら呼んだ後、次のように言う。

「意味の弾性という呼びかたは、所詮隠喩である。弾性という言葉はなるほどしなやかさと変化と復原力を思わせるけれど、やはりバネやゴムまりのような、確かな表面―そのものと外部との境界面―をそなえた物体を表象させがちである。

しかし、意味にはもちろん、明確な表面はない。分節はおぼろげである。(にもかかわらず、シニフィアンの強制によって、おぼろげながら境界をもち、分節されている)。空間的に表象してみるほかはないとすれば、それはたぶん、なぜか分節性の感じられるような状態にある雲、または縁日の綿菓子―バルバ・パパ―のような・・・・・・しかし雲や綿菓子には風船のような弾力性がない。
ことによると意味は≪パースナリティー≫のような概念かもしれない。

意味は、ときどき、まさかあの人が・・・、あの人に限って・・・というようなふるまいをみせるから。意味とは、あいまいな自己同一性への期待のことである、と言ってみたい。」(佐藤・『意味の弾性』・S.284)

 統語上の意味の遊動性について説明をする。(佐藤信夫『意味の弾性』・S.299~S.354)の内容を私なりにまとめて一言で言うと以下のようになる。

われわれが話すとき、普通、文法によって統語的選抜をする。がしかし、この選抜は転換、すなわち統語的変異化によって品詞の変化をかなり許容してしまう。

したがって、意味は統語論から離れ、そこからかなり自由な場所にある。

これが佐藤信夫が述べる意味の遊動性(意味の奪い合い)である。

 解釈と言った時点で既に錯綜とした問題に踏み込んでしまうが、私は以下のような記号を現在の私自身に引きつけて解釈するという立場をとる。

「ディルタイにとり,歴史の文献や史料は〈生の表現〉であり,歴史学は記号を通して他者の生を了解するものである。彼は自然科学の科学性に匹敵するものを〈精神科学〉にも与えようとした。

そして自然科学的認識の特質が〈説明〉であるなら,歴史的認識を範型とする精神科学の認識論的特質は〈了解〉であるとし,〈了解〉の技術学として解釈学を構想した。つまり解釈学は精神科学の基礎づけの役割を担うものである。こうして,哲学することが解釈学となる解釈学的哲学への道を踏みだしたが,同時に前述の難問も深刻化した。すなわち記号の解釈を通して,いかにして他者の生を了解するか,である。」(『ネットで百科』久米博著「解釈学」の項)

ロラン・バルトについては、日本でのロラン・バルトの研究者であり、自らも思索者であった佐藤信夫氏のバルト像に頼り切っている。

それが、「バルト風」の意味である。この理由のひとつには私自身がフランス語が分からないということ、もうひとつにはバルトなる人物は定まりきらないため、佐藤の視点で定点観測しなければ、この序論に収まり切らなくなるという事態になるためである。

この点に関してはニーチェにおけるパースペクティヴィズムの問題について、多岐にわたる議論がある。私はここで、永井均『これがニーチェだ』S.123の

「『パースペクティブ』は従来『遠近法』と訳されることが多かったが、私はたんに『観点』とか『視点』の意味だと思う。」

という考え方に同意する。




長々と失礼いたしました。

コメント(3)

読ませていただきました〜。
とても面白い着眼点だと思います。
比喩は比喩に過ぎない、ということに不満を覚えていたのは私も同様です。
というのも、私が今一番研究しているヘルダーという人は、非常に比喩を好む詩的な人でして、その比喩や詩的なことを不当に非難されているのです。
ショーペンハウエルもヘルダーに対しては多分に誤解していて低い評価しか与えなかったのですが、彼はヘルダーと違って美しく綺麗な文体を書く人なので、まぁしょうがないかとも思えるところがあります……、それはともかくとして、ショーペンハウエルの比喩観というのは、非常に興味深いところです。
反応いただいてありがとうございます。
スルーされると思ってました。(笑)

>ピュシスさん 
ヘルダーもいいですね。興味あります。
ショーペンハウアーの場合は、
ゲーテを持ち上げたいがためにヘルダーを・・・という気がします。
ただ、彼が悪口をいう相手は彼自身が「論客に足る」と思っている人についてだけなので、
笑いながら面白く悪口をきいておけばいいと思います。

「今」、文読む我々にとって些細な対立は不要ですね。
過去が対立しているなら、
私たちがつなぎ合わせればいいんじゃないでしょうか。
それができたら、
世にも美しい思想が紡ぎ出されると信じています。
過去の壁は厚いですが一緒に思索しましょう。

>大絶画さん 
「彼の哲学の方法論に『比喩』は適切な方法だったのです。」その通りだと思います。
少なくとも私は同意します。
ショーペンハウアーは、
パッと見てわかる力=「悟性」と定義して
直観的理解が真理をつかむと繰り返し繰り返し言いますよね。

それって、
比喩による世界の記述を彼が試みている証拠なんだと思います。

これをうけて、ニーチェがゲーテの『ファウスト』を踏襲しつつ、「世の中全部比喩!」
と考え始めるのではないかと現時点では思っています。

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