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ヒマラヤ聖者の生活探究コミュの大師 イエスキリストの言葉

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大師イエスキリストが国難(Japan a national crisis)について語った言葉。

信じる信じない等はどうでも良い。

しかし、少しでも多くの人達の観念に光が射し、何かを感じて頂ければと、願います。

我々ヨギは意識的に、自らの波動振動数を高める事が容易である。
この宇宙は可視だけの狭い低い世界ではない。

どちらかと言えば、不可視の高い世界の方が、より広大無辺領域なのである。
瞑想によって
意識的に生の自分の体を高める事によって
人間が作り出した否定消極及び殺戮の不調和の波動領域から
信頼と愛の無限領域に値する創造主の発する調和の波動に全思念を集中する。

つまり、より高い振動数に変換するのである。

此の度の、
我々の国の国難災害(Japan a national crisis)は
人類の歴史上存在したあらゆる霊的な指導者(大師、大霊)も関わっておられる事を忘れてはならない。

大師イエスは死んだと思っている盲目の人間は、この天変地異に依って目を覚まさなければならない。人間は悲しみ、苦しみを学び、神性・仏性の悟りを得るとともに、日々の営みの中に知らず知らずのうちに自我が頭をもたげて、神性・仏性、内在のキリストを曇らせることのないようにしなければならない。

大師イエスは、放射能に関しても、語っておられる。
福島原発事故の放射能よりも、宇宙空間から地球を通過する大放射能の方が遥かに強力である事を言っておられるのである。

人間の低い自我、政府をなじる様な破壊的衝動や分裂意識を超越し、
「一人じゃない、世界が一つにつながろう」と言うのが、大師イエスや、神のメッセージである。

人間の言葉ではない、より高い言葉によって
頂いた貴重なメッセージである事は間違いない。

参考:M・マクドナルドベインは、20世紀に、大師イエス、キリスト表している。
http://www.junkudo.co.jp/view.jsp?VIEW=author&ARGS=%82l%81D%83%7D%83N%83h%83i%83%8B%83h%81E%83x%83C%83%93





見よ。人の子達よ。決して悲しんではならぬ。嘗て高度な進化を遂げたアトランティスはこうして地震運動に依って海に沈んだ。
あなた方はその祖先の血統を引き継ぐ民族ではないか。

あなた方の細胞の奥の奥まで普く浸透している魂の記憶を思うがよい。
今から数十万年前、私と同じ血統を引き継ぐ、遥か高度な霊性を表した神に使えたアトランティスの民は、大ヒマラヤ山脈の奥まで生き延びたチベットの祖先も同じ波動振動数の同胞ではないか。

東方の日出づうる国は、地球が誕生する以前から、既に決定し定められていた、人間の魂の領域の進化の過程に於いての出来事が此の度の天変地異である。

彼らは地球上の人間の血統のなかでも、最も高度な進化を担った民族であると、神(父)が決定された。
故に、厳しい試練を与えたのである。だから決して悲しんだりしてはならないのである。

あなた方の国に、今神から進化をまかされた偉大な聖者が化身しているではないか。
しかと見よ。そのヨギを。

私は十字架で不死を表したが、そのヨギも不死を表すものである。
そのヨギは日本人であり、女性性である。

そしてまことに私はあなた達に言うが、、、。
あなたはわたしと共にある。あなたとわたしとは共に神である。今や神のキリスト・神我が現れたのである。では、あなたたちはすべての制約を打ち消して、霊においてわたしと一緒になるがよい。今わたしがあなたたちに与える以上の大いなる思想が嘗てあなたたちに与えられたことはない。

そんなことができる筈がないと人々が言おうと、それは問題ではない。丁度、わたしがすべてを征服したのをあなたたちが見たように、あなたたちの一人々々が今やすべてを征服し、完全に支配する聖なる主となったのである。時は今、此処に満ちている。あなたたちが聖なる主に放送した純粋な思念が満たされて、あなたたちの体に実ったのである。

かくて魂は完全なる支配権を得たのである。あなたたちはわたしと共に、天の高みに駆け昇るのである。わたしたちは自分の体を高揚し、遂にその輝く光を純粋白光の光炎と化す。その時のわたしたちは共に父なる神に回帰したのである。わたしたちの父なる神は純粋の光であり、この振動する光からありとしあらゆるものは出てきたのである、この波動の中において、すべては神とともに在る。

これらの振動する光の放射の中にあっては、すべての物質意識は拭い去られ、あらゆる被造物が形なき者より放映されて形あるものとなり、すべてのものが各瞬間毎に新しきものとなるのが見える。太初の宇宙、即ち水様原質、即ち神なる質料(aqueous of God Substance)の中には、一切が存在している。

その故に振動はきわめて高く、何人にもそれは見えない。われわれ大師といわれる者のように実相・神我の中にあるのでない限り、人は自分の体のヴァイブレイションを実相のヴァイブレイションまで揚げる努力が必要である。さて、あらゆるものの創造が四六時中行われている。それは創造が、大宇宙の中で発生した宇宙光のヴァイブレイションの放散によって起こるからである。

この放(レディエイション)射するものが大普遍生命、またはエネルギーであって一切を支えており、放(レイディエーション)散、又は振(ヴァイブレーション)動の父といわれるのである。逆にそれは、他の一切の放散又は振動を粉砕するが故に、レイディエーション(放射)又はヴァイブレイション(波動)の父といわれる。実際には粉砕するのではなく、或る形態を実現するために、他の放射または振動を除けておくだけである。

われわれの体が、大霊のヴァイブレイションに同調して振動するならば、われわれは一切のヴァイブレイションの中でも最大の光のヴァイブレイション、一切のヴァイブレイションの父、即ち神となる。これらの宇宙線が、いわゆる物質を破壊するほどの恐るべき砲撃力となることが、遠からず証明されよう。これらの宇宙線はあらゆるエネルギーの根源、あらゆる元素の父、あらゆる元素の根源から来る。

これは実は破壊ではなく、いわゆる物質から霊形態への変(トラススミューテイション)性なのである。これらの宇宙線が極めて巨大なる透過力を有し、あらゆる物塊(マス)を透過して、いわゆる原子のハート、核そのものをいわば破壊し、それを他の質料(サブスタンス)の原子に変性して、かくしてより高い秩序に属する他の元素を創造することが、遠からず分かるようになるであろう。

かくのごとくにして創造は進行してゆき、純光即ち純生命をより高き次元に放射してゆく。このような巨大なる透過力のあるこれらの放射は、地球や太陽銀河からくる放射とは容易に識別されるし、後者の放射を完全に支配する力がある。これらの放射は或る不可視の普遍的根源から来るもので、その放射線は極めて強力で一個の元素を変化させ、或いは変性させて、他の元素の無限の微粒子と化してしまう。

地球がこれらの放射線の恐るべき砲撃を不断に受けていることなどが、間もなく知られるようになろう。この宇宙線が原子の核を撃つと、核は破壊されることも発見されよう。宇宙線はこの原子を分割して他の質料の微粒子と化し、かくて低次より高次の元素へと変性する。かくして、これらの放射は物質を破壊するのではなくて、低次より高次の元素へ、即ち物質的なものより霊的なるものへと変性するのである。

この高次の元素は、人間の命ずるがままになる。それは、人間が高次の目的のために使用するから、名づけて高次というのである。人間が霊的ヴァイブレイションを起こしているときは、この放射線とその動き方を完全に決め、且つ制御することができる。かくて霊的振動を起こしている人間にあっては、四六時中彼の周囲全体で変性が起こっている。

変性とは高度の意味における創造なのである。従って一切は、その現に存在するところで創造されるのである。創造は決して止むことなく、続き続いて決して終わることはない。大宇宙から発する放射線は光より成り、この大宇宙より爆出する、いわゆる光弾丸によって構成されている。

この大宇宙はすべての宇宙群を囲繞し包含しており、この大宇宙の中で各小宇宙群よりふんだんに放出されるエネルギーをそれぞれの太陽が吸収し、その中心太陽核に送り込み、保存し且つ集中して、形成する。この中心太陽は、振動し脈動するエネルギーで充満するようになり、一方エネルギー自体はきわめて濃厚に凝縮し、ついにいわゆる光弾丸が猛烈な力で発射され、他の原子核と衝突したときにその原子は粉砕されるが、破壊はされない。

その粒子たちは変性して他の元素たちの粒子となり、しまいには同化してこの新しき元素となって落ちつく、かくてその元素が蘇生するわけである。生命とは、光弾丸のいわゆる砲撃によって放出されたエネルギーである。そのうち、放出された粒子によって吸収された部分はその粒子の生命といわれ、放出はされたが生命として吸収されなかったエネルギー部分は大宇宙に、いわば返還、引き戻される。

そしてそれは再び集中、濃縮された上でまた発射され、他の原子たちと衝突してそれを粉砕し、かくて他の元素の原子創造の要因となる粒子たちを創造する。かくて拡大、集中、ヴァイブレイションの低下、濃縮を経て、ついに形態化し、創造は永遠に続く。この智慧を有する放射エネルギーが、吾人の周囲の宇宙群を統制し、本来霊的であって物質的ではない、われわれの体という宇宙を統制する神なのである。

この変性は崩壊ではない。これらの光弾丸のごく一部分のみが、一定の時間比で且つまた法則に完全に従って、他の原子たちの核を撃つように英智が指揮しているので、バランスの崩れた現象化はしないようになっている。

人間は、この究極の英知と一つになれば、秩序整然たるやり方でこの打撃を高めて、彼の必要とするものを瞬間的に満たすことができるのである。こういう方法で、人間は遅い自然の過程を促進することができる。しかし自然に干渉するのではなく、自然が低い秩序で働く低いヴァイブレイションの率よりも、もっと高いヴァイブレイションの率で自然と共に働くのである。

汝らの目を挙げて野を見よ、野はすでに白く苅り入れの用意整いたればなりである。すべてはヴァイブレイションであり、すべてはヴァイブレイションの働くところの面、乃至、分野に対応する。この面又は分野とは、地球を取り巻いている同心円帯(バンド(複数)、又は殻(かく(複数)のことではない。

これらの同心円の殻、又は層(複数)は、イオン化した帯であって、地球を取り巻いており、地球上から発するヴァイブレイションを反射するが、宇宙光線の射入は妨げず、閉め出しはしない。四六時中、変性即ち創造が続くのは、これらを通じてである。わたしたちの体でさえ、低次より高次の状態に変性している。

わたしたちは自分の想念を、従って又、自分の体を、より高きヴァイブレイションに意識的に同調し続けることによって、この変化を意識的に指揮することができる。こうして、わたしたちの体を、より高き振動率に意識的に同調させることによって、わたしたちはその高きヴァイブレイションそのものとなる。この状態の中で主(マスター)はあなたたちを待っている。

あなたたちは本来今あるままで主である。一切の状態の支配者なのである。或る一つのものを自らが神として創造する自覚と栄光とは、いかなる物質的な世俗の思いをも遙かに超えることが今、あなたたちに分かったのである。第一段階は常に、まず『完全』の習慣、『神』の習慣、『キリストなる神』という習慣を養う積もりで、自分の想念、心、体の一切の外に出る働きを完全に統制することである。

何処にいようと、仕事中であろうと、休憩中であろうと、思い出すごとに、このことを実行せよ。この完全なるものが自分の中に存在するのを観ぜよ。この完全なる存在を自分の真我、神なるキリストの臨在と観ずる習慣を養え。更に百尺竿頭一歩を進めて、汝の存在のまさに中心より聖なる白光が、目も眩むばかりの純粋さと輝きとを以て発光すると観ぜよ。

その大いなる輝きと栄光とが、全肉体のあらゆる細胞、繊維、組織、筋肉及び器官から発すると観ぜよ。かくて、真の神のキリストが勝利に満ち、純粋、完全、永遠なる相をもって顕現せりと観ぜよ。小我のキリストにあらず、汝自身の真の神のキリスト、汝の父なる神の一人子、常に勝利に満ち、一切を征服する神の真の一人子のことである。

『神』という度毎に、自分が神を出していることを十分に分かって貰いたい。そうすれば、あなた達はわたしを神のキリストとして世に出すよりも大いなる奉仕を世にすることになろう。自分自身を神のキリストと見ること、自分自身を神として世に現すこと、神を自分自身と見ることが、遙かに偉大且つ尊いことなのである。あなたたちは後ろの方に坐って、わたしに取りなしを祈る。

わたしを偶像にしたり、肖像(にすがた)を造ってそれに祈ったりしない限り、わたしを神のキリストとして世に示し、わたしを通じて現れた相(すがた)を神の特質として認めてくれるのは、非常によろしい。しかしわたしの姿を刻んだり、その肖像に祈ったりした瞬間には、もうあなたたちはわたしを貶(おと)し、あなたたち自身を貶しているのである。

わたし、または誰でもよい、他の者の示す理想を見て、次にはそれを自分自身の理想とするがよい。そうすれば、わたしたちは神から離れることがないし、世界を征服する。われわれと共に神において一つとなることによって、偉大なることが成しとげられるのがお分かりであろう。愛と尊敬、献身と崇拝の心でこういうことを涵養すれば、それは習慣となり、やがてあなたたちのすべてとなり、日常生活となり、存在となり、かくて短期間に、神を顕すようになる。

かくて又、あなたたちは再び聖なるキリスト、神の嫡出子となる。この大いなる光を実際に感じ、見、掴むがよい。それを自分のものであると受け取り、そう宣言し、また自分のものであると積極的に知るがよい。そうすれば短期間の中に、あなたたちの体から真実この光が出るであろう。あらゆる時代、あらゆる状態において、無辺の宇宙を通じてこの最高の光は実存してきている、それは至るところにある。この光こそが生命である。

何かの事が明らかにされると、われわれはそれについて啓蒙された(enlightened)即ち、光を注がれたことになる。この光はわたしたちの意識的な観念の中に入ってゆく。すべての偉大な方々の場合にもそうであったように、程なく生命の光があなたたちの注視しつつある目にも届くであろう。これらの偉大な方々の多くが、大いなる光の中に現れている姿が描かれている。

あなたたちには見えないかも知れないが、この光は実際にあるのであり、それはまた生命でもあって、あなたたちの体からも放射しているのである。

そして最後に私は言う。私はあなたの血液よりも、ハート(心臓)の鼓動よりも近くにいる事を決して忘れてはならぬ。
此の度の地球規模の破壊はあなた方が言うシヴァ力によるものである。決して恐れてはならぬ。

常に私を思い愛を中心に定めなさい。そうすれば神の王国を見る事が出来るであろう。私の話はこれで終わる。

コメント(9)

本 源 は 一 つ
『見よ、わたしたちの神は一つである』と聖書には云われています。
人間が自分自身の本性〔実相〕に調和して生きられるのは此の基本的な真理が保たれているからです。
人間はその起源も分らぬテンデバラバラの存在なのではなく、実に神の相(すがた)として神に似せて創造(つく)られた存在なのであります。

宇宙の秩序からしても本来ならば人間は、ありとあらゆるものを生かす根源的創造因〔神〕の力に浴し、それをわがものとすべきであるのにそうしないのは、只、神より孤立している感じを持っているからであり、それが一切の不善の根元であります。

この孤立感のために人間は、幸福とは正反対の結果をもたらすようなあらゆる種類の行為を考え出して、揚げ句の果は、自分の不幸の原因を宇宙全体の仕組みのせいにして非難する傾向になるのであります。

併し実際は、その責任は全部自分自身の行為にあるのです。
何故なら宇宙は何ら彼を孤立させていないのであって、本人が勝手に孤立した為に窮情に陥ったのであって、その責任は宇宙自体にはないのです。
『わたしに帰りなさい、そうすればわたしもあなたに帰ろう、と主は云われる』
創造された全体系の神聖秩序の中において定められた自分の正当な位置即ち神の世嗣たるの地位を受け容れる人に対し、
唯一者〔神〕は、この聖言を提供しているのであります。

イエスのいろいろなお話しのうち、一番すぐれているのは『平安なれ、静かなれ』というみ言葉でした。
このみ言葉は決して我(が)の意志で以て大声で云われたのではなく、神との一体感から来る穏やかな、しかしすべてを知り尽くした力となって出て来たのであります。

そこに最大の安心があり最大の力があるのであります。この単純なみ言葉によって最大の嵐が幾つも克服されたのをわれわれは見ています。人が唯一心の支配力を感じうる様になれば、人間心の、いわゆる、『頭脳の嵐』〔もろもろの惑乱・顛倒妄想〕も同様にして、静まるのであります。

人間の心が神や神我より分離している限り、力と規正感を失うものである事を、各人に明確に指摘し敷衍(ふえん)できる様に十分にユトリを取ってある。
或るはっきりした前提があって始めて物事は築かれるのであって、この前提に達するまでは何事も進められるものではない。

イエスが『汝、汝の神たる主を拝すべし、汝の主たる神のみに仕えるべし』と云われたのはこの意味であったに違いないと思われる。
もしある意味で余りにも用心がすぎて、自分自身の実相にまだ十分には目覚めていない人には、この様な神我の真理を聞くと、人間の神性を盲信してそれにしがみついている様にも思えようが、そんな事をする心配はないのです。
しかし仮に盲目(めくら)信仰でそれを丸呑みしてみてもやはりそれは神から分離した事になり、終極の目標(ゴール)には到達しないものです。

従って一応『わたしは……が出来る』と云っておいてから、『わたしはその……である』という受け取り方をする方が盲目信仰よりは遙かによろしい。
『わたしは出来る』は可能であるという事実であり、『わたしはそうである』はすでに心の中でそれを完成したことになります。
故にイエスは『吾は道なり、真理なり、生命なり』とおっしゃったのです。

人はそうでないものに成ることはできないし、現にそうであるもの以外に成ることも出来ません。もし、いわゆる何かに成れるのなら、実はあなたは本来その何かなのです。だから本当は、『成る』(becoming)のではなく、『既にそうである』(being)のです。

何かの事で『わたしには出来ない』との態度を取る以上は、あなたは既に神=実相よりの背離(そむきはなれる)を受け容れてしまっているのです。人は罪と妥協することは出来ぬ、事実より乖離(かいり)していながら事実を表現することは出来ぬ、とイエスはおっしゃいました。

石をパンに変えて見よ、とサタン(悪魔)に云われてイエスが考えてみると、石はその前から既に地上に現れ存在しており、一方パンの方は、イエスが手を差し伸ばせば、手の中に出現するのである以上、何も殊さら石をパンに変える必要はない、とお悟りになったのであります。

『在るべきもの、成るべきものは、本来既に在る』のが大師方の教えです。イエスにパンが必要であるのなら、イエスは何もパンにかかずり合う必要はなかったのです。パンが必要である以上、パンは既に在るのであって、なすべきことはただそのことに対して感謝するだけである事がイエスにはお分りだったのです。

もし何かが既に存在しているのでなければ、それを必要とする事は不可能の筈です。もし空気が存在しなければ空気を必要とする事ができますか。必要だと云うのは、その対象が存在する事実を示すものです。その際人の為すべき事は、ただ欠乏感を放下して、必要とする事の中には、すでに必要とするものが存在している事実が暗示されている事を受け容れるだけです。

在るべきものは、本来すでに在る、のです。この事は、肉体の存在に伴うもろもろの制限にもあてはまります。肉体の制限の如きは全く心の催眠によるものです。それは実際には何らの根拠もないのです。肉体とその制限が存在するのは、実は人間が物質感を起こしたからであって殊更に肉体を現したからではありません。

この『死すべき』肉体は催眠術にかかった体であって、一旦この催眠状態から目覚めてしまえば、それらはすべて一夜の悪夢でしかありません。そして二度と夢見ることはありません。もし彼が、何らの限定もない、長い間の夢であった栄光輝く光体としての霊的体が必要だという感じがするとすれば、それは彼の本来の完全に目覚めた状態が彼の心の中に影を差しているからであります。

想念と云い、必要と云い、欲望と云い、その状態、その対象がすでに存在している事実を証明するものであって、彼のやる事は、ただその存在を認容するだけです。この理念の状態が人間の本領なのです。
イエスは困難など本来実存しない事を見抜かれたのです。と云ってもそれを否定したと云うのではありません。イエスがどんな場合でも困難なるものをワザワザ否定されたのではない事は極めて明らかです。
否定するという事は一旦はその存在をみとめることになるから、それに本来はなかった力を与えることになるからである。

肉体人間即ち自分と神云い換えれば唯一心とは別々の存在であり、一つの空間から他の空間へ移動する様な、物質的存在を自分だとしか考えない人間は、迷妄の中に自力で動き廻っているのみであり、従って又不幸の結果を招いているのであります。
併し、人間は実際には唯一心(神)の中にあり、それに所属し、その中に生き、動き、それを本質としているのであります。
実は否定するのは正しい行き方ではないのです。否定する事はわれわれを『大元霊〔神〕』から離してしまうことです。何故なら、否定すると、「非霊的なるもの」〔大元霊即ち神に属しないもの〕を、僅かながらでも考えてしまうからです。神霊の中には分離はないのです。

人間の方が勝手に神霊より分離するのであって、その為に人間は心霊現象や異常現象にも巻き込まれる様になるのです。色々な心霊現象に出てくるものはすべて神霊から離れたものであると、モーゼは明らかにしました。伝統派の教会は神より何時の間にか分離するからこそ葛藤をひきおこすのです。この事はもうハッキリしています。
彼らは自分達の天空に在る大きな人形(ひとかた)を造り上げ、それを神と称している始末です。実は彼らにそれが見えるのは或る心霊現象的なものであって、その影響の下に、実は自分の声が自分に語っているのにそれを天にある神のお告げと信じ込んでいるのです。神の声は、イエスが教えられた通りに、人の中に於いて語るのであり、それが内なる父であります。

二千年前人々がイエスに反対したのは実はこの否定消極的一事でした。イエスが自分自身を神と考えるとは、まさしく神への冒涜(ぼうどく、汚すこと)であると彼らは断じたのです。人間を神以外のものと信じ込んでいる彼らの催眠状態ではイエスの立場(その立場こそすべての人々の真正の立場なのですが)の神秘は測れなかったからです。

こうして結局彼らはこの一事に反対したのです。われわれにしても、悟っていない人々の前でイエスと同じ事を云えば、一切の被造物の実相に関する全くの無智に汚染している人々は、二千年前キリストに対してした様に、今日のわれわれを糾弾(きゅうだん)するでしょう。しかしもうそのような事を気にする必要はありません。

人の考え方を一々気にするならば、その限りに於いて、われわれは卑俗なる地上の催眠術の虜(とりこ)になってしまうのです。併し又一方、目覚めた人は世の不信の人々に対してはその様な悟りを公然と云い触らしはしないものです
個人であれ団体であれ、今日この共通の善なる目的に反抗しようがしまいが、この人類浄化運動にはどっちつかずの中間地帯などはもはやありえない時(time)がきたのです。
神の碾臼(ひきうす)は時として速く、又、細かにも廻る。
この過程をへてはじめて従来の利己主義的、侵略的、強奪的な行き方を脱皮して、新しい人生の築造に参加することができるのです。

われわれは自分自身を普遍的な善に貢献するこの純創造的動因と結びつける方がその反対の行為よりはるかに良いのです。
何故なら、
そうすることによって善きことが自分自身の上にも必ず来るからです。

そして

仏陀生誕に慈悲の祈りを、、。
子供たちは生命を豊かに生きるから幸福なのです。
彼らは生命に何らの制限もしません。われわれは生命を限定した途端に生命の豊かな生き方を止めてしまいます。

生命には限定条件など一つもありはしないのです。生命自身は自己限定をしようとしてもすることはできないのです。
生命に対するこちらの考え方による以外には、生命を疎外することも出来ません。

生命に対して同じヴィジョンを持っている人は二人とはいません。
この間の事情はよくこういう風に云い現されています、
『子供と賢者とのみが幸福である。その理由は子供には物質的な価値感〔値打ちを物質的立場から決めること〕が発達していないし、賢者は物質的なものには価値のないことを知っているからである』。

彼らにとっては外形は考慮の対象ではなく、生命そのものを生きることが大切なのです。


大生命地球よ。
どうか怒りを鎮め、地震運動を鎮静して下さい。
亡くなられた魂達。
地球上に生きている魂達に慈悲の祈りを捧げます。
人間が住む物質次元よ、どうか浄化され栄光と幸福に包まれます様に、、、。
アストラル次元よ、どうか清まり浄化されます様に、、、。

仏陀よ。
大いなるあなたの生誕に祝福いたします。

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