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原始仏典コミュの縁起6 「苦楽の原因」 (南伝13 P31-34)

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相応部経典>因縁篇>第一 因縁相応>第二 食品


「  [一八] 第八 ティンパルカ

 [一時世尊]舍衛城にいた。
 その時、遊行者ティンパルカは世尊のもとに行き、行き終わって世尊と挨拶をし、印象深い言葉を交わして一方に座った。一方に座り終わって遊行者ティンパルカは世尊にこれを言った。

 ゴータマ、苦楽は自分が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は他者が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は自分が作り、かつ他者が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は自分が作るのでもなく、他者が作るのでもなく、原因なく生じるのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽はないのか。
 ティンパルカ、苦楽はないのではない。
 ティンパルカ、苦楽はある。

 それならば尊いゴータマは苦楽を知らず、見ないのか。
 ティンパルカ、私は苦楽を知らないのではない。見ないのではない。
 ティンパルカ、私は苦楽を知る。
 ティンパルカ、私は苦楽を見る。

 「ゴータマ、苦楽は自分が作るのか」と問えば、沙門は「ティンパルカ、そうではない」と言う。
 「ゴータマ、苦楽は他者が作るのか」と問えば、沙門は「ティンパルカ、そうではない」と言う。
 「ゴータマ、苦楽は自分が作り、かつ他者が作るのか」と問えば、沙門は「ティンパルカ、そうではない」と言う。
 「ゴータマ、苦楽は自分が作るのでもなく、他者が作るのでもなく、原因なく生じるのか」と問えば、沙門は「ティンパルカ、そうではない」と言う。
 「ゴータマ、苦楽はないのか」と問えば、沙門は「ティンパルカ、苦楽はないのではない。ティンパルカ、苦楽はある」と言う。
 「それならば尊いゴータマは苦楽を知らず、見ないのか」と問えば、沙門は「ティンパルカ、私は苦楽を知らないのではない。見ないのではない。ティンパルカ、私は苦楽を知る。ティンパルカ、私は苦楽を見る」と言う。
 尊いゴータマは私のために苦楽を示してください。尊いゴータマは私のために苦楽を説いてください。

 ティンパルカ、「感受と感受する者とは同じである」というような、あなたが先に言った「苦楽は自分が作る」とは、私は言わない。
 ティンパルカ、「感受と感受する者とは異なる」というような、感受に重圧された者が言う「苦楽は他者が作る」とは、私は言わない。
 
 ティンパルカ、これら二つの極端を離れて如来は中によって法を説く。
 無明によって行がある。行によって識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生によって老死愁悲苦憂悩がある。これが全苦蘊の集である。
 無明があまりなくないこと・離貪・滅によって行の滅がある。行の滅によって識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生の滅によって老死愁悲苦憂悩の滅がある。これが全苦蘊の滅である。

 このように言った時、遊行者ティンパルカは世尊にこう言った。「ゴータマ、素晴らしい。ゴータマ、実に素晴らしい。・・・私を優婆塞として・・・帰依します」

    南伝大蔵経13 相応部経典2 P31-34






1 苦楽は自作
2 苦楽は他作
3 苦楽は自作他作
4 苦楽は非自作非他作無因生
5 苦楽はある
6 苦楽をゴータマは知り見る

1 「苦楽は自作」→「受と受者は同一」と主張するのと文は異なるも意味は同じ
2 「苦楽は他作」→「受と受者は異なる」は、受に圧倒されたものが主張する
3 「自作他作は両極端」→「中は十二縁起、苦集・苦滅」








以下は仏説とは関係なく僕の考えです。

一部の人は、現実に快楽と幸福と利益を獲得して「この快楽と幸福と利益はすべて自分を原因とする」と考えて、慢に陥ります。楽の因である利、利の因である力、力の因である根、根の因である勤、勤の因である信、それらをさらに内的にも外的にも遡る縁起を知らないためです。慢は掉挙(心が浮つき調子に乗ること)です。その人には、慢と掉挙、これらから生じる悪不善法が断たれていません。またそれらが悪不善法であり、悪不善法の原因であるという知が生じていません。このように汚れを汚れを知らないために汚れを捨て去る努力が生じません。汚れを捨て去る努力が生じないので、汚れを汚れと知るまでこの汚れが増大し続けることが予期されます。これは未来に不利益と苦をもたらします。

一部の人は、現実に苦痛と不幸と不利益を被って「この苦痛と不幸と不利益はすべて自分を原因とする」と考えて、悪作(自己嫌悪や後悔、鬱)に陥ります。苦の因である不利、不利の因である無力、無力の因である無根、無根の因である懈怠、懈怠の因である不信、それらをさらに内的にも外的にも遡る縁起を知らないためです。その人には悪作と悪作から生じる悪不善法が断たれていません。またそれが悪不善法であり、悪不善法の原因であるという知が生じていません。このように汚れを汚れを知らないために汚れを捨て去る努力が生じません。汚れを捨て去る努力が生じないので、汚れを汚れと知るまでこの汚れが増大し続けることが予期されます。これは未来に不利益と苦をもたらします。

一部の人は、現実に快楽と幸福と利益を獲得して「この快楽と幸福と利益はすべて他者を原因とする」と考えて、放逸と懈怠に陥ります。同様に楽の縁起を知らず放逸と懈怠に住するために、楽の因である利益・善法・力・根・努力・信が失われて、原因の消滅よりして楽も失われます。またこれら縁起に関する無知から、放逸と懈怠の危険性をも知らず汚れは増大していきます。正見や他の善法を得る因縁が生じるまでそれは続きます。

一部の人は、現実に苦痛と不幸と不利益を被って「この苦痛と不幸と不利益はすべて他者を原因とする」と考えて、瞋恚(怒り)に陥ります。同様に苦の縁起を知らず瞋恚に住するために、苦の因である不利益・悪法・無力・無根・懈怠・不信が捨てられないままになり、苦は増大していきます。またこれら縁起に関する無知から、瞋恚の危険性をも知らず汚れは増大していきます。正見や他の善法を得る因縁が生じるまでそれは続きます。

一部の人は、「苦楽や幸不幸は、自分が原因でもあるし、他人が原因でもある」と考えます。もし、そこにおいて原因であると考えられた事柄のさらなる原因、縁起を遡行することができないならば、そのある一点において「結局のところ自分が原因である」あるいは「結局のところ他人が原因である」という考えに陥り上と同じになります。

一部の人は、自ら苦楽を現実に感受し、楽に執着し、苦に悩まされながら、しかも、「苦楽はない」「空である」「修行の必要はない」と主張しています。このような見解を持つ人は、阿羅漢でもなく阿羅漢道にも入っていず、時満ちて、苦を滅する道理はありません。正しく見が向いていないからです。彼らはその見解が生み出す業を行ない、またその業の報いを受け、執着する見解によって行くべきところへ行きます。

従って、「苦楽や幸不幸は、自分が原因であると主張するのは適切ではなく、他人が原因であると主張するのも適切ではない。苦楽や幸不幸は、因があり、縁があって生じる。また接触によって生じる。触は六処により、名色・識・行・無明によって生じる。しかし、この無明の消滅により行・識・名色・六処は滅し、六処の滅によるこの接触の消滅よりして、内に感じる苦楽や幸不幸は滅する。そしていまだかつて到達されたことのない接触なくして経験するその境地に到達する」というのが法に相応する見解だと思います。

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