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原始仏典コミュの縁起4 「正見」 (南伝13 P23〜25)

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有見と無見と正見についての経を口語訳します。[]は原文の挿入。()は僕の挿入です。




「[一五]第五 カッチャーナ氏(KaccAnagotta、カッチャーナ氏(ゴッタ)、迦旋延氏)

 [一時世尊]サーヴァッティ市に住んでいた。
 その時、尊者カッチャーナ氏は世尊のところに行き、行き終わって世尊を敬礼し、一方に座った。
 一方に座った尊者カッチャーナ氏は、世尊に言った。「大徳、正見、正見という。大徳、正見とは何ですか」
 「カッチャーナよ、この世間は多く有と無との二[の極端]に依止している。
 カッチャーナよ、正しい智慧によって、如実に世間の集(生起)を観じる者には、世間に無であるものはない。カッチャーナよ、正しい智慧によって、如実に世間の滅を観じる者には、世間に有であるものはない。
 カッチャーナよ、この世間は多く方便(upAya)に執着し、計し、囚われている。[聖弟子は]この心の依処に執着し、計使されて、『私の本質である』と囚われず、執着せず、住せず、苦が生じれば生じると[見]、苦が滅すれば滅すと[見て]、惑わず、疑わず、他に縁ることなく、ここに彼に智が生じる。カッチャーナよ、このようなものが正見である。
 カッチャーナよ、『一切は有である』と、これは一つの極端である。『一切は無である』と、これは第二の極端である。
 カッチャーナよ、如来はこれらの両端を離れて、中[道]によって法を説く。
 無明によって行がある、行によって識がある、識によって名色がある、名色によって六処がある、六処によって触がある、触によって受がある、受によって愛がある、愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある、生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生じる。
 これが全苦蘊(全ての苦のまとまり)の集である。
 無明の無余(残りがないこと)・離貪・滅によって行の滅がある、行の滅によって識の滅がある、識の滅によって名色の滅がある、名色の滅によって六処の滅がある、 六処の滅によって触の滅がある、触の滅によって受の滅がある、受の滅によって愛の滅がある、愛の滅によって取の滅がある、取の滅によって有の滅がある、有の滅によって生の滅がある、生の滅によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。
 これが全苦蘊の滅である、と」

     南伝大蔵経13 相応部経典2 P23-25 の口語訳







「正見」の義、定義についてのゴータマ自身の説法です。

世間の集を観じて、無見が断たれて、
世間の滅を観じて、有見が断たれるという内容です。

重要なところの意味が少しわかりにくいです。「世間は方便に執着し、計し(そのように見なす?あるいはこき使われる?)、囚われている。聖弟子は心の執着の拠り所に執着し、こき使われる(計使)としても、わが我なりと囚われず、執着せず、暮らさない」漢語がいまいちよくわからないです。聖弟子が執着していなかったら、もう阿羅漢ですから、やはり、「わが我なり、と囚われず」の否定は文の最初まではかからないと思います。それに後で「苦が生じれば」と書いてあり、聖弟子に苦が生じているのがわかります。

ですから、多分「聖弟子も執着があって苦しむが、それを決して我とみなすことはなく、我とみなす見解がないから、そこにおいては執着が増さずに暮らせる」という意味と僕は受け取ります。

「苦が生じれば生じると見て、苦が滅すれば滅すると見る」というのは、四諦に包含される苦集と苦滅を自ら直に見るから、教えや真理に迷わず疑わず他人に依存しないで、まさにその時に彼にその智慧が生じるという意味だと思います。苦の生起と苦の滅を自ら見るから、教えを信じる必要がない。進むべき方向性に迷うこともない。彼は知っている。それが正見、というのが正見の解答だと思います。

次の段では、有見と無見を極端として中道としての十二縁起をまた説いています。これは先の「苦が生じれば生じると・・・」というのはまさしく、無明から苦が生じ、無明の滅から苦の滅があるということをも、見ている、あるいは見ることができるということだと思います。

前半で、「世間の集滅と有見無見」と「無我を見るゆえの苦集智と苦滅智」を説きます。後半で、「有無見は極端道」と「中道としての十二縁起、有見無見を断つための十二縁起」を説きます。

ただ、十二縁起を説いた後は、「是の如きが正見なり」とは書いていないので、「正見」とは、以下の部分が正しい定義だと思います。

「カッチャーナよ、この世間は多く方便に執着し、計し、囚われている。この心の依処に執着し、計使されて、『私の本質である』と囚われず、執着せず、住せず、苦が生じれば生じると[見]、苦が滅すれば滅すと[見て]、惑わず、疑わず、他に縁ることなく、ここに彼に智が生じる。カッチャーナよ、このようなものが正見である」

正見の基本定義は四諦ですから、大筋は大丈夫だと思います。

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