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原始仏典コミュの小部経典1 「小誦経」

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小部経典は「ウダーナ」と「イティヴッタカ」を除いて非仏説の長老作品ばかりですが、参考のために紹介します。この経は現在の上座仏教界においても非常に重要視されている経典です。原始仏教では非仏説の長老作品とします。




小部経典>小誦経  全引用



「     小誦経(クッダカ・パータ)


   かの先生・阿羅漢・正しく覚った人に帰依します





   一 三帰文
 私はブッダに帰依します。
 私はダンマに帰依します。
 私はサンガに帰依します。
 再び、私はブッダに帰依します。
 再び、私はダンマに帰依します。
 再び、私はサンガに帰依します。
 三たび、私はブッダに帰依します。
 三たび、私はダンマに帰依します。
 三たび、私はサンガに帰依します。


   二 十戒文
 一、生物を殺すことから離れる学足を私は受持します。 
 二、与えられないものを取ることから離れる学足を私は受持します。
 三、非梵行から離れる学足を私は受持します。
 四、偽りを語ることから離れる学足を私は受持します。
 五、穀酒・果実酒・飲酒の放逸処から離れる学足を私は受持します。
 六、時でない食事から離れる学足を私は受持します。
 七、舞踏・歌・音楽・観劇から離れる学足を私は受持します。
 八、花環・香・化粧・持ち物・装飾・荘厳から離れる学足を私は受持します。
 九、高い寝具・大きい寝具から離れる学足を私は受持します。
 十、金銀を受け取ることから離れる学足を私は受持します。


   三 三十二身分
 この身にある。
 毛髪・体毛・爪・歯・皮膚、
 肉・筋・骨・骨髄・腎臓、
 心臓・肝臓・肋膜・膵臓・肺、
 腸・腸間膜・胃・大便・脳髄、
 胆汁・痰・膿・血・汗・脂肪、
 涙・膏・唾液・鼻水・関節滑液・尿。


   四 問沙彌文
 一、何を一と名付けるか。一切の有情は食に依って住する。 
 二、何を二と名付けるか。名と色。
 三、何を三と名付けるか。三つの感受。
 四、何を四と名付けるか。四つの聖なる真実。
 五、何を五と名付けるか。五つの取った集まり。
 六、何を六と名付けるか。六つの内の入るところ。
 七、何を七と名付けるか。七つの覚支。
 八、何を八と名付けるか。聖なる八支の道。
 九、何を九と名付けるか。九つの有情の住処。
 十、何を十と名付けるか。十支を具足することを「阿羅漢」と言う。
   (漢訳では「一切入」であり、十遍処を指す。地水火風青黄赤白空識)
 

   五 吉祥経
 このように私は聞いた。あるとき先生はサーヴァッティのジェータ林、アナータピンディカの園に住んでいた。そのとき一人の優れて美麗な神が夜にジェータ林の全体を輝かしながら先生を訪ねた。訪ねて先生に挨拶して一方に立った。一方に立ったその神は先生に偈(ガーター)を唱えた。
一 「多くの神々や人々は、最上の福を求め、吉祥について考える。どうか、無上の吉祥を説いてください」。
二 「愚者を避けて、賢者と交わり、尊敬すべきものを尊敬する。これこそ無上の吉祥である。
三 適当なところに住み、先に福を作し、自ら正しい願いを持つ。これこそ無上の吉祥である。
四 多く学んで技術に優れ、律を善く学び、善く語られるその言葉。これこそ無上の吉祥である。
五 父母に仕え、妻子を護り、仕事に安住する。これこそ無上の吉祥である。
六 寄付をして法を行ない、親族を慈しみ、非難のない仕事に従う。これこそ無上の吉祥である。
七 悪を離して遠ざけて、飲酒を慎み、法において不放逸。これこそ無上の吉祥である。
八 敬虔で謙遜し、恩を知って、時に応じて法を聞く。これこそ無上の吉祥である。
九 忍耐あって丁寧であり、沙門と交わり、時に応じて法談する。これこそ無上の吉祥である。
一〇 苦行と梵行あり、聖なる真実を見て、涅槃を実証する。これこそ無上の吉祥である。
一一 世間の法に心が揺るぐことなく、憂いなく貪りなき安穏。これこそ無上の吉祥である。
一二このように為す人は、一切処において打ち勝たれず、一切処に行くも幸いがある。これこそ無上の吉祥である」と。


   六 宝経
一 ここに集う鬼神たち、地上のものも空中のものも、一切の鬼神たちは歓喜しなさい。そしてまた、熱心に私が説くことを聞きなさい。
二 それゆえに一切の鬼神よ、みな傾聴しなさい。夜に昼に供物を捧げる人々に慈悲を垂れなさい。それゆえに注意して彼らを護りなさい。
三 人間の世界における、あるいは他の世界におけるいかなる財産も、また天上における優れた宝さえも、如来に比すべきものはない。これこそブッダにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
四 寂静のサキャムニが到達した、尽であり、離貪、不死なる勝れた法、この法に比べる何ものもない。これこそまた、ダンマにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
五 最勝のブッダが称賛したのは清浄な不断の三摩地であると言う。この三摩地に等しいものはない。これこそまた、ダンマにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
六 諸々の善人のなかにおいて称賛される八種の人がいる。これらは四双である。彼らは善逝の弟子であり、供養を受けるに値する人である。これらの人に対する布施は大果がある。これこそまた、サンガにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
七 堅固な心をもって専念してゴータマの教えを信じる人は、最高を得て、不死に入り、無償に得て、寂静の快楽を享受する。これこそまた、サンガにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
八 たとえば市門の標柱が大地に打ち込まれているときは、四方からの風に揺るがないように、聖なる真実を深く見る善人はそのようであると私は言う。これこそまた、サンガにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
九 善く説かれた聖なる真実を、甚深の智慧によって善く理解する人は、たとえ大いに不放逸の人であっても、決して第八の生を受けることはない。これこそまた、サンガにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
一〇 彼は正見を成就するとともに三つの事を捨てる。すなわち、有身見・疑・戒禁取の見である。彼は四つの悪趣を離れ、六つの逆罪を犯すことはない。これこそまた、サンガにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
一一 彼は身と語、あるいは意の悪業をなすとしても、それを隠蔽することに耐えない。涅槃を見た人は隠すことができないと説かれている。これこそまた、サンガにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。
一二 あたかも夏の初めに林の木々の枝に咲く花のように、そのように最上の利益を施すために涅槃にいたる最勝の法を説いた。これこそまた、ブッダにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。   
一三 最勝にして、最勝を知り、最勝を与え、最勝を運ぶの無上の人は、最勝の法を説いた。これこそまた、ブッダにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。   
一四 以前の生は尽き、新しい生は生じず、未来の生を貪る心なく、種を断ち、生長することを望まず、賢人である彼らは燈火が滅するように涅槃する。これこそまた、サンガにおける優れた宝である。これは真実であるがゆえに、すべてに幸いあれ。   
一五 ここに集まる鬼神たち、地上のものも、空中のものも一切の鬼神たちは、このように神と人に尊敬されたブッダに帰依しよう。幸いあれ。
一六 ここに集まる鬼神たち、地上のものも、空中のものも一切の鬼神たちは、このように神と人に尊敬されたダンマに帰依しよう。幸いあれ。
一七 ここに集まる鬼神たち、地上のものも、空中のものも一切の鬼神たちは、このように神と人に尊敬されたサンガに帰依しよう。幸いあれ。


   七 戸外経
一 彼らは家の外に、または街の四辻に立って、あるいはそれぞれの家に行って戸口に立つ。
二 過去の業によって多くの飲食物や、堅い食べ物、柔らかい食べ物が供えられたとき、誰もこれらの生ける者を記憶するものはない。
三 このように、慈悲のある人は、因縁がある者のために、清浄ですぐれた時に応じた飲食物を与える。
四 「これはあなたたち因縁のある者のためになるように。因縁ある者は満足してあるように」と。彼らはここに集まり、集まった因縁がある餓鬼たちは、
五 多くの飲食物を非常に喜び「これらのものを受けたその人々によって、私たち因縁のある者は長く生きるだろう。
六 われらのために供養はされる。また施した者に果がないということはない」と。実にこの[死の]世界には耕作もなく、牧畜もなく、
七 商業のようなものもなく、金銭で売買することもない。この世から受けることによって、死の世界の餓鬼は生きていく。
八 高いところの水が低いところに流れるように、そのようにこの世からの施物は餓鬼に利益がある。
九 溢れる川の流れが海を満たすように、そのようにこの世からの施物は餓鬼に利益がある。
一〇 「私に施した。私に善業をなした。彼らは私の因縁ある者である。友である。仲間である」と。過去の業を思い出して、餓鬼のために布施を与えよう。
一一 泣くことも、悲しむことも、その他嘆くことも、餓鬼たちのためには、何の利益にもならない。このように因縁がある者は立っているのである。
一二 しかし、この施物がサンガに与えられ、使用されるならば、長く死人の利益となり、よく彼の利益となる。
一三 ここに記されたものは、因縁ある者に対する義務であり、餓鬼には大きな供養がなされ、比丘には力を与える。またあなたたちには少なくない福が得られるのである。


   八 伏蔵経
一 人は深い穴に財宝を埋めて「何か事が起きた場合は、私のためになることがあるだろう。
二 あるいは王によって責められたとき、あるいは盗賊に略奪されたとき、あるいは借金から逃れるために、あるいは飢饉のとき、不幸のときに」と。これらの目的のために、世間にあっていわゆる財宝は蓄積される。
三 深い穴の中にどれだけ多く埋められていても、一切がいつも彼のために役立つというわけではない。
四 財宝はその場所から消えたり、所有者の意識が迷ったり、龍が持ち去ったり、ヤッカがそれを取り去ったり、
五 敵や相続者が彼の見ないときに掘り取ったりする。福が尽きたとき、これら一切は消失するだろう。
六、七 女性でも男性でも、祀堂(チェーティヤ)や、サンガや、個人や、新参者や、母や父や、兄に対して布施により、戒行により、自制により、従順により財宝がよく積まれるならば、
八 このよく積まれた財宝は、力によて奪われることがなく、死後にも伴い従うものである。この世の富を捨てて行っても、これは他世に持たれて行く。
九 他のものに分けることができない宝であって、泥棒にも盗まれない財宝である。賢者は福業を行ないなさい。それは彼の死後にも伴って行く財宝である。
一〇 これこそ神にも人にも一切の快楽を与える財宝である。彼らが切望するものはすべてこれによって得られるのである。
一一 美しさ、美しい声、美しい容姿、権力、眷属、すべてはこれによって得られるのである。
一二 ある地方の王権、主権、転輪王の快楽、あるいは神々に対する天王の主権、すべてはこれによって得られるのである。
一三 また人間界の幸福、あるいは神の世界のあらゆる快楽、涅槃のあらゆる楽しみも、すべてはこれによって得られるのである。
一四 道行を修める友のために正しく専念する人には、明と解脱と、明と解脱を具える境地、すべてはこれによって得られるのである。
一五 無礙解、解脱、声聞として最高なるもの、単独のブッダ、ブッダの地、すべてはこれによって得られるのである。
一六 この福業を成すことは、このように大果がある。それゆえに、賢人賢者は福業を称賛する。


   九 慈経
一 寂静である境を完全に了解して、善き利に巧みな人がなすべきことは、堪能で、率直で、正直で、好い感じに語り、優しく、高慢でないことである。
二 満足を知り、養いやすく、生活が質素で、諸根を慎み、賢明であって温厚で、在家において貪ることがない。
三 他の智者の非難を受けるようないかなる下賎な行ないを為してはならない。一切の生けるものは幸福に、安穏であれ、安楽であれ。
四 およそ行きとし生けるものたちは、動くものでも動かないものでも、長いものも、大きいものも、中庸なのも、短いものも、細かいものも、粗いものも、
五 見えるものも、見えないものも、遠くに住するものも、近くのものも、すでに生じたものも、生まれつつあるものも、残らず一切の生けるものは安楽であれ。
六 相互に謗り合ってはならない。どこの誰であっても軽蔑してはならない。怒って腹を立たせて、互いに苦しみを望んではならない。
七 あたかも、母が己が一人子を自らの命を賭けて守るように、一切の生けるものに対して限りない心を修習しなさい。
八 無限の慈悲心を一切の世界に対して修習しなさい。上に、下に、横に、恨みなく、敵意なく、妨げられるものなしに。
九 立ち、歩き、座り、横たわるときでも、目覚めているかぎりは、この念を確立しなさい。この教えにおいてこれを梵住[ブラフマ・ヴィハーラ]と言う。
一〇 見に陥らず、戒徳を守り、正見を具えて、欲を貪ることを制御しなさい。決して再び母胎に宿ることはないだろう」  

     『南伝大蔵経23 小部経典1』大蔵出版 P1–15



   1. Saraṇattayaṃ
 Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi;   
 Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi;
 Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
 Dutiyampi buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi;
 Dutiyampi dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi;
 Dutiyampi saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.
 Tatiyampi buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi;
 Tatiyampi dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi;
 Tatiyampi saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.

   2. Dasasikkhāpadaṃ
 1. Pāṇātipātā veramaṇī-sikkhāpadaṃ [veramaṇīsikkhāpadaṃ (sī. syā.)] samādiyāmi.
 2. Adinnādānā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
 3. Abrahmacariyā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
 4. Musāvādā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
 5. Surāmerayamajjapamādaṭṭhānā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi .
 6. Vikālabhojanā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
 7. Nacca-gīta-vādita-visūkadassanā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
 8. Mālā-gandha-vilepana-dhāraṇa-maṇḍana-vibhūsanaṭṭhānā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
 9. Uccāsayana-mahāsayanā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.
 10. Jātarūpa-rajatapaṭiggahaṇā veramaṇī-sikkhāpadaṃ samādiyāmi.

   3. Dvattiṃsākāro
 Atthi imasmiṃ kāye –
 Kesā lomā nakhā dantā taco,
 Maṃsaṃ nhāru aṭṭhi aṭṭhimiñjaṃ vakkaṃ,
 Hadayaṃ yakanaṃ kilomakaṃ pihakaṃ papphāsaṃ,
 Antaṃ antaguṇaṃ udariyaṃ karīsaṃ matthaluṅgaṃ,
 Pittaṃ semhaṃ pubbo lohitaṃ sedo medo,
 Assu vasā kheḷo siṅghāṇikā lasikā muttanti.

   4. Kumārapañhā
 1. ‘‘Ekaṃ nāma kiṃ’’? ‘‘Sabbe sattā āhāraṭṭhitikā’’.
 2. ‘‘Dve nāma kiṃ’’? ‘‘Nāmañca rūpañca’’.
 3. ‘‘Tīṇi nāma kiṃ’’? ‘‘Tisso vedanā’’.
 4. ‘‘Cattāri nāma kiṃ’’? ‘‘Cattāri ariyasaccāni’’.
 5. ‘‘Pañca nāma kiṃ’’? ‘‘Pañcupādānakkhandhā’’.
 6. ‘‘Cha nāma kiṃ’’? ‘‘Cha ajjhattikāni āyatanāni’’.
 7. ‘‘Satta nāma kiṃ’’? ‘‘Satta bojjhaṅgā’’.
 8. ‘‘Aṭṭha nāma kiṃ’’? ‘‘Ariyo aṭṭhaṅgiko maggo’’.
 9. ‘‘Nava nāma kiṃ’’? ‘‘Nava sattāvāsā’’.
 10. ‘‘Dasa nāma kiṃ’’? ‘‘Dasahaṅgehi samannāgato ‘arahā’ti vuccatī’’ti.

   5. Maṅgalasuttaṃ
1. Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Atha kho aññatarā devatā abhikkantāya rattiyā abhikkantavaṇṇā kevalakappaṃ jetavanaṃ obhāsetvā yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ aṭṭhāsi. Ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā bhagavantaṃ gāthāya ajjhabhāsi –
2.‘‘Bahū devā manussā ca, maṅgalāni acintayuṃ;Ākaṅkhamānā sotthānaṃ, brūhi maṅgalamuttamaṃ’’.
3.‘‘Asevanā ca bālānaṃ, paṇḍitānañca sevanā;Pūjā ca pūjaneyyānaṃ [pūjanīyānaṃ (sī. syā. kaṃ. pī.)], etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
4.‘‘Patirūpadesavāso ca, pubbe ca katapuññatā;Attasammāpaṇidhi [atthasammāpaṇīdhī (katthaci)] ca, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
5.‘‘Bāhusaccañca sippañca, vinayo ca susikkhito;Subhāsitā ca yā vācā, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
6.‘‘Mātāpitu upaṭṭhānaṃ, puttadārassa saṅgaho;Anākulā ca kammantā, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
7.‘‘Dānañca dhammacariyā ca, ñātakānañca saṅgaho;Anavajjāni kammāni, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
8.‘‘Āratī viratī pāpā, majjapānā ca saṃyamo;Appamādo ca dhammesu, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
9.‘‘Gāravo ca nivāto ca, santuṭṭhi ca kataññutā;Kālena dhammassavanaṃ [dhammassāvaṇaṃ (ka. sī.), dhammasavanaṃ (ka. sī.)], etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
10.‘‘Khantī ca sovacassatā, samaṇānañca dassanaṃ;Kālena dhammasākacchā, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
11.‘‘Tapo ca brahmacariyañca, ariyasaccāna dassanaṃ;Nibbānasacchikiriyā ca, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
12.‘‘Phuṭṭhassa lokadhammehi, cittaṃ yassa na kampati;Asokaṃ virajaṃ khemaṃ, etaṃ maṅgalamuttamaṃ.
13.‘‘Etādisāni katvāna, sabbatthamaparājitā;Sabbattha sotthiṃ gacchanti, taṃ tesaṃ maṅgalamuttama’’nti.

   7. Tirokuṭṭasuttaṃ
1.Tirokuṭṭesu tiṭṭhanti, sandhisiṅghāṭakesu ca;Dvārabāhāsu tiṭṭhanti, āgantvāna sakaṃ gharaṃ.
2.Pahūte annapānamhi, khajjabhojje upaṭṭhite;Na tesaṃ koci sarati, sattānaṃ kammapaccayā.
3.Evaṃ dadanti ñātīnaṃ, ye honti anukampakā;Suciṃ paṇītaṃ kālena, kappiyaṃ pānabhojanaṃ;Idaṃ vo ñātīnaṃ hotu, sukhitā hontu ñātayo.
4.Te ca tattha samāgantvā, ñātipetā samāgatā;Pahūte annapānamhi, sakkaccaṃ anumodare.
5.Ciraṃ jīvantu no ñātī, yesaṃ hetu labhāmase;Amhākañca katā pūjā, dāyakā ca anipphalā.
6.Na hi tattha kasi [kasī (sī.)] atthi, gorakkhettha na vijjati;Vaṇijjā tādisī natthi, hiraññena kayokayaṃ [kayākkayaṃ (sī.), kayā kayaṃ (syā.)];Ito dinnena yāpenti, petā kālaṅkatā [kālakatā (sī. syā. kaṃ.)] tahiṃ.
7.Unname udakaṃ vuṭṭhaṃ, yathā ninnaṃ pavattati;Evameva ito dinnaṃ, petānaṃ upakappati.
8.Yathā vārivahā pūrā, paripūrenti sāgaraṃ;Evameva ito dinnaṃ, petānaṃ upakappati.
9.Adāsi me akāsi me, ñātimittā [ñāti mitto (?)] sakhā ca me;Petānaṃ dakkhiṇaṃ dajjā, pubbe katamanussaraṃ.
10.Na hi ruṇṇaṃ vā soko vā, yā caññā paridevanā;Na taṃ petānamatthāya, evaṃ tiṭṭhanti ñātayo.
11.Ayañca kho dakkhiṇā dinnā, saṅghamhi suppatiṭṭhitā;Dīgharattaṃ hitāyassa, ṭhānaso upakappati.
12.So ñātidhammo ca ayaṃ nidassito, petāna pūjā ca katā uḷārā;Balañca bhikkhūnamanuppadinnaṃ [… manuppadinnavā (ka.)], tumhehi puññaṃ pasutaṃ anappakanti.

8、9は入りきらなかったので省略しました。



    小誦経        完

コメント(4)

この小部経典の最初にあたる小誦経は、北伝文献・大乗仏教には存在しないもので上座部にしかないものです。Kazukiさんが引用している「慈経」は、岩波文庫の『ブッダのことば』(スッタニパータの全訳)にもある経典ですが、この慈経も上座部にしか存在せず、北伝文献にはない経典です。ですから、僕は「慈経は長老作品」だと思っています。ただ上座部では非常に重要視されていて、そこかしこで唱えられ参照にされるものですから、慈経を愛好しているか否か、ダンマパダを愛好しているか否かが、上座部を最優先で信じているか、原始仏教を最優先で信じているかのリトマス試験紙になると思います。「上座部は原始仏教だ」とか「慈経は原始仏典だ」と本気で信じ込んでしまっていて確かめたことのない人は別ですが。

僕も生けるものたちが何かはまだわからないです。細菌も微妙ですが、さらに極微のウィルスはよりわからないです。現代科学でも生物と無生物の境目がはっきりとは定義されていないようですので、これは本当に難しい問題です。阿羅漢は「故意に」生き物を殺さないだけで、多分、気づかずに殺してることはあると思うので、そこまで神経質になる必要はないかも知れません。阿羅漢にも過失はあります。ビンズル尊者のピンドーラ阿羅漢も、神通を街の目立つところで使ってゴータマに叱られています。

後は生ける者の心がいつから生じて、どこまで進化していくかという問題もKazukiさんの疑問の中にあると思います。無我の事実を確保しつつ、心の因果連鎖が虫から動物から人間に到るまで具体的にどうなっていくのか、妖精や精霊や生霊や念とは何なのか、最終的にどのように変化していくのかなど。天眼で自分の眼で見るしかないですね。色んな書籍に色々書いてありますが、確かめないことには。

この生ける者について考え続けると最終的には「身体から心が生まれるから身体が心そのものだ」とか「心は身体から生じず、心は心からのみ生まれるから身体と心は別々のものだ」という見解に行きがちです。宇宙は有限、宇宙は無限と同じような感じです。これらについてゴータマは沈黙を守っています。無記です。

この問題は保留のままに先に苦滅を求めようと思います。でも保留なのでいつか天眼で実証したいとも思っています。でもだいぶ後になりそうです。ゴータマは「生ける者」について考えるなと言っています。生ける者がどこから来てどこへ行くのかということを考えるなと言っています。邪見が本当に生じるからと。そうではなくて、四諦を考えろ、四諦について徹底的に考えろ、そうすれば、正見が生じて流れに入ると言っています。僕も最近は「何が苦か」と念じながら部屋の中をぶらぶら歩いてます。
読み過ぎは危険ではありませんよ。多聞のもとですので、素晴らしいことです。実践は戒を学ぶことと心を学ぶことと智慧を学ぶことですから、四諦について考え過ぎることは素晴らしいことだと思います。そういう人は滅多に見当たりませんが。考えるだけでは駄目という人がいますが、そういう人は四諦について考えたことがないのだと思います。四諦について考えることを原因として何が結果されるのかわからないので、またわからないからこそ「考えるだけでは駄目」と言えるのだと思います。

僕は瞑想に打ち込むだけの人も、智慧を求めるだけの人も、両方やる人も、三者とも立派だと思います。向いてることからやればいいと思います。原始仏典を読むのは慧学になりますから、立派な修行です。世の中、修行に限らず学校でも社会でもやる気をそぐ発言の方が圧倒的に多いですから、ご用心です。

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