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東海道より中山道コミュの平岩弓枝著「はやぶさ新八御用旅」

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なんじゃ、このタイトルは?と思われるかもしれません。

このコミュのどこかで触れてる人がいるかな〜と思ったのですが、どうもまだどなたもおられないようなので、書かせていただきます。

平岩弓枝さんは私の好きな作家のひとりで、代表作は「御宿かわせみ」という幕末〜明治にかけての江戸情緒たっぷりのお話です。シリーズになっていて、文庫本で33冊ですが、その弟分(?)として登場したのが「隼新八郎捕物帳」シリーズです。
このシリーズは「御宿かわせみ」から遡ること80年くらい、舞台は江戸中期で、主人公の隼新八郎は南町奉行の内与力という設定です。
この「はやぶさ新八シリーズ」は最初の10冊は江戸を舞台にした捕物帳だったのですが、その後お奉行の密命を受けて京に行くことになり、その道中の事件を描いたのが「はやぶさ新八御用旅」シリーズで、今文庫本3冊出ています。

前説が長くなりましたが、第一巻は往路、舞台は東海道53次で、第二巻の復路が中山道69次です。ストーリーとしても面白いのですが、69次を忠実にたどるので、中山道ウォーカーとしては舞台の臨場感が増すというものです。もっとも私が読んだのは街道歩きにはまる前でしたが。

読んだ方もおられるかもしれません。読書が好きな方であればぜひ。
ちなみに第三巻は日光例幣使街道が舞台で、あの中山道倉賀野宿の例幣使街道追分から始まります。

コメント(24)

この本、持ってますよ!

実は半年以上前に、たまたま本屋で目に付いて買っておいたのですが、
島崎藤村の「夜明け前」を読み始めたのがきっかけで、
幕末〜明治時代ものにはまってしまって、まだ読んでいませんあせあせ(飛び散る汗)
中山道歩きも今月で終了になるので、そろそろ読み始めたいと思ってます。
読むのにそれほど「力技」はいらないので、中山道の現場への往復の間にでも読みきってしまうかもしれません。

平岩ファンの私としては、中山道の旅の巻だけでなく、その前の江戸での捕物帳10巻も読んでからの方が登場人物像がはっきりして面白さが増すのでお薦めしたいと思います。
まあでも、さすがにヒマでないとそこまではなかなか、でしょうか。
平岩弓枝さんの本、知りませんでした。
ご紹介ありがとうございます。>KIRKさま

読んだ後はもっともっと思い入れができて楽しく歩けそうですね。

中山道を歩き始める前までは江戸時代ってあまり興味なかったんですよね。でも歩き始めてから江戸から幕末の話がもっとわかっていたらもっといろいろ面白いんだろうなと思うことが多くて。

木曾のあたりはどこに行っても「夜明け前」、これすらも読んでいない私はずいぶん後悔しました。

とりあえず一回歩き終わったら、読んでから歩きなおそうかな。。。現場への往復の間に読み終わる、というのもいい手かも。もっとも私の場合、体力使い果たしてぐっすりのことも多いんですが冷や汗


KIRKさん
さすがに全巻はちょっと無理?ですが、来週、往復の車内で読んでみたいと思います。
案外、中山道編読んだら他のも読みたくなるかも知れませんわーい(嬉しい顔)

ちえみさん
本当にそうですね。私の場合、甲州街道を約9年前に歩いていたのですが、その後、江戸・幕末期のことにとても興味を持つようになりました。
初めは「本陣ってなんだろ?」「明治維新ってそういえば習ったな?」ぐらいの感覚でしたから(笑)今の自分が居るのが信じられませんうれしい顔
同じようなタイプの本としては、笹沢左保の「木枯し紋次郎中山道を往く」があります。中公文庫で3分冊(旧版は2分冊)で出ています。倉賀野から今須までですが。
ちえみさん、

今ふと思ったのですが、これは歩き終わってから読んだ方がいいかもしれません。街道自体が主役ではなく、街道を舞台にした「江戸時代アドベンチャー&人間模様」なので、思い起こしてみると私も街道歩きにはまる前に何度か読み返しましたが、歩いている途中では読み返すことはなかったです。
歩き終わってから「あ、また読んでみよう」と思いましたね。

ビアヘーロさん、

確かにいろいろ歩いていると、新たな興味が出てきますね。
私の場合は、明治に入ってから何がどのように変化したのだろう、そしてそれはなぜ?ということです。きっかけは一里塚がほとんど姿を消し、また旧街道の道筋すら定かでないところがあることを知ったことでした。
例えばローマ帝国の街道は2000年経った今でもイタリアの現街道として残っているのに、日本ではほぼ瞬時に崩れ去っていく、その違いですね。夜明け前にもつながるかもしれませんが。
でも明治時代は中期後期が舞台の本はかなりありますが、明治初期の変革期が舞台のものは案外少ないと思いませんか?

加護さん、

これは知らなかったですね。私の読書もかなり偏向性があって、同じ時代物といっても木枯し紋次郎シリーズ自体を本でもテレビでも見たことがありませんでした。ご紹介ありがとうございます。
こうしてみると他にもいろいろあるかもしれませんね。
思わぬ「本」についての話題で盛り上がりましたね!

加護さんは、いつも様々なジャンルの本を読まれていますよね。
また、お勧め本などあれば、ぜひご紹介ください。
話は変りますが、さきほど大津〜京都の日記、再読させていただきました。
いよいよ次週、ゴールの予定です。

KIRKさん、イタリアの道といえば、アッピア街道ですね。
先日、BSで特集をみて、いつか歩いてみたいと思いました。
日本の場合、明治維新の際、それ以前の文化をことごとく否定したために、
江戸期の象徴であったお城が壊され、廃仏毀釈など『破壊』が文明開化の象徴とされたのでしょう。
突き詰めるととても深いテーマになりそうです。

ビアヘーロさん、

街道を実際に歩いて初めてわかるのは、あの道は「街道」という言葉から想像するものとはまったく違うということですよね。特に峠道になるとトレッキングコースと言った方がよいくらい。
そうすると、この街道は人の往来にはそれなりに重要な役割を果たしたものの、歩くのに楽な道ではないし(正直、石畳は風情はあっても歩きにくい)、ましてや物資輸送となるとこれが当時の日本の大動脈とはとても言えず、やはり樽廻船・檜垣廻船などの海上輸送が主体だったのか?
明治に入って、旧街道は部分的に再利用されることはあっても全体をそのまま新しい陸上輸送の主体として利用することはなかった、ということは、陸上輸送と海上輸送の急激な役割シフトがあったのか・・・などといろいろと想像してしまいますが、突き詰めて調べてみるとおもしろいでしょうね(笑。

ところでイタリアでは昔のローマ帝国の街道がローマから放射状に8本伸び、それがほぼそのままの形で国道1号線から8号線までになっているそうです。南伊に向かって延びるアッピア街道は国道7号線で、表記もSS.7 Via Appiaとなっているとのこと。塩野七生さんによれば、「古代ローマ人がつくった道が、二千年の歳月にさえも耐えうるほどに良くできていた」から現代のイタリア人が利用しているのだそうです。これはこれで、すごい話ですね。
みなさん 読書家でなかなか
口を出せなかったのですが
一言

江戸時代の物資の輸送は海上だと思いますよ
上方から瀬戸内を経て
西廻り航路
江戸から北へ
東廻り航路

なつかしいでしょ
ゆたかさん
恥ずかしながら、読書をするようになったのはつい最近なんです。
街道歩きをしてますと、やはり幕末から明治維新あたりの文学に興味が湧いてきます。先日、テレビで北海道・松前にあった近江商人の商家が紹介されてましたが、北前船で運んだ様々な物資を売っていたそうです。江戸時代、海上輸送は重要だったのでしょうね。

KIRKさん
大津〜京都間の逢坂峠は牛車の往来が激しく、未舗装の道ではすぐに轍でぼこぼこになってしまうために、「車石」というアッピア街道に似た石畳に車軸の幅で溝を掘った道があったみたいですね。結果的には現代の交通に適応できずに壊されてしまったみたいですが…それに比べるとローマの道はすごいですね。
ゆたかさん、

そうそう、江戸時代はどう見ても全国規模の物資輸送の主役は樽廻船であり北前船だったのですよね。
明治になって旧街道が一気にすたれ、失われたのは、人の往来以上に物資輸送に占める陸上の重要性が一気に増したということではないかと思います。単純化して言ってしまえば、「海上輸送から陸上輸送へ」です。だとすればそれが徐々にではなく、一気に進行したのはなぜ?とか、明治になってからあの海運業はどうなったのだろう?とか。調べてみたいことが次々と浮かんできます。

ビアヘーロさん、
確か三条大橋に向かう蹴上の手前に車石の実物だかモニュメントだかが展示されていたように記憶しています。
このように局地的には旧街道が物資輸送の重要な役割を果たしているケースはたぶん多いと思うのですね。ただ、東海道とか中山道とかが全体としてその役割を担ってはいなかった。実際に歩いてみるまでは、こんなに物資輸送に適さない道だとは思いませんでした(笑。
ちえみです。こんばんは。

KIRKさん

私の場合往復はぐっすり寝てることだし、本は歩き終わってからの楽しみにしときますわーい(嬉しい顔)なんか歩き終わったら放心しちゃいそうで、、。いい楽しみになります。


道の話おもしろいですね。

>こんなに物資輸送に適さない道だとは思いませんでした(笑。

ほんとにあせあせ十三峠も釜戸経由だったのを防衛上の理由で不便な道に付け替えた、とありました。わざと曲げた枡形とか、橋を作らない荒川とか、不便な工夫がいっぱいい、、、。

ローマ人の道は攻める手段、江戸幕府の道は攻められる手段、、、。私たち夫婦も十三峠を歩きながらローマと比べて「なんでこんなにちがうんだろう?」って話をしてました。

日本は馬車を使わなかったことが原因ではと考察してる方もいます。
(http://www.telecom-tribune.com/kitakuraHP/tansaku/01.html
 故北倉さんのページ)

たしかに馬車って山や湿地の多い日本ではとっても不便そう、、。それが、明治に鉄道がくるまで水運主流の原因かなぁと。海運業は早くて、海難の心配もない鉄道の整備で駆逐されたんじゃないでしょうか。


日本でも中山道の前身、東山道は広くてまっすぐな道だったとききます。ローマが属州増やしていたのと同じように大和朝廷も熊襲とか蝦夷「討伐」してたころの道ですね。

いけいけどんどん領土拡大モード でできた道なのか←ローマ、東山道
もう領土は広がらない、あとは守るだけモードでできた道なのか←江戸中山道
というあたりも関係するのかも。

ちえみさん、こんばんは。

ローマの道との違いに関心を持つ方が他にもおられてうれしく思います。
私自身はこの違いを考えるときに、故・阿部謹也氏の次の言葉を思い浮かべます。以前、この文章を目にしたときには目からうろこが落ちる感じでした。

(前略) 文化とはあるもの(品物、道具、土地など)を媒介とした人と人とのつながりのありかた。つまり極めて限定された局面での人間関係のこと。基本的にはよそものを受け入れない。
文明とはそのつながりの媒介が目に見えないもの、例えば精神的な絆で結ばれた人間関係。この関係は基本的に普遍的なものである。
だからドイツ文化、フランス文化はあるけれどもドイツ文明、フランス文明はなく、あるのはヨーロッパ文明になる。そしてもっとも特徴的なのは、文化が文明になるためには、他民族を支配するということがあって、その支配を永続させようと思えば、支配するものは支配されるものから取り込まなければならず、支配するものが変質することによって支配は存続する。(後略)

あえてものすごく単純化してしまえば、日本の旧街道が結んでいたものは「日本文化」だったと思うのです。あるいはもっと局地的な文化であってもよいかもしれない。
一方、ローマ街道は明らかに「ローマ文明」を結ぶものだった。この違いは大きいと思います。どっちが正しいとか、進んでいるとかいう問題ではありません。ただ、世界の道を見渡した時には明らかに日本の街道的な方が多数派だと思います。例えば中国。あの世界四大文明の一つ中国でさえ、「中国文明を結ぶ道」というのは考えていなかったのでは?シルクロードはたぶん国家事業としてできた道ではない。中国で国家事業としてやったのは万里の長城ですが、これの目指したものは明らかに「文明の伝播」ではなく「文化の防御」ですよね。
世界どこでも「文化」はある。中国のように「文化」も「文明」もあるところもある。ところがローマはもちろん「文化」はありましたが、後世「ローマ文化」の記憶は限定的で、逆に「ローマ文明」は現代にいたるまでその影響はすごいものがあります。

こういう話が好きなもので、つい長くなってしまいました。
みなさん、こんばんは!

>ローマ人の道は攻める手段、江戸幕府の道は攻められる手段、、、。
>いけいけどんどん領土拡大モード でできた道なのか←ローマ、東山道
>もう領土は広がらない、あとは守るだけモードでできた道なのか←江戸中山道

ちえみさん、なるほどそうですね。
十三峠などはまさに攻められにくいための道。天下を取った徳川幕府にとって、攻められないための道が必要になったのでしょう。
対照的な道として武田信玄の開いた「棒道」がありますが、上杉侵略のための「攻める道」だったため、今でも小淵沢の山中に真っ直ぐな広い道が残っていますね。

KIRKさん
ローマ街道のお話がきっかけで、いろいろと勉強になりました。思わず話し込んじゃいますね^^

>あえてものすごく単純化してしまえば、日本の旧街道が結んでいたものは「日本文化」だったと思うのです。あるいはもっと局地的な文化であってもよいかもしれない。
>一方、ローマ街道は明らかに「ローマ文明」を結ぶものだった。この違いは大きいと思います。

なるほど、そうなのかも知れませんね。実際に街道を通して歩いてみているからこそ、実感することってたくさんありますよね。
さて、トピの本題に戻りますが「はやぶさ新八御用旅」今日から読み始めたところです。といっても朝、職場での10分間読書だけですが…なかなか面白そうですね。

ども、ちえみです。こんばんは。

KIRKさん

文明の道、文化の道、、、そんな見方ができるんですね、、。驚きです。文明は伝播し、文化は引き継がれていくがゆえに外からの流入を防御する、という感じでしょうか。

>こういう話が好きなもので、つい長くなってしまいました。

とっても楽しく読みました!
歩いてるといろんなことに気づくし、いろんなことを考えます。
これも街道歩きの醍醐味、そんな話をご一緒できるのはほんとに楽しいです。

ビアヘーロ さん

読み始めたんですね。
>朝、職場での10分間読書だけですが…なかなか面白そうですね。
楽しそうですね。今は我慢して、来年の楽しみにします。
なんか買ったら一気にによんじゃいそうです。。。

ちえみさん

それが面白いんですよ^^
京都で事件が起きて、その後、主人公が中山道を辿るんですが、
もう番場宿まで来ちゃいました。

KIRKさん
このシリーズ、この分ですと他のも読みそうです^^
みなさん、こんばんは。

ビアヘーロさん、楽しんでもらえているようでなによりです(って自分が書いた本のような口ぶりですが)。
やはり自分で歩いた後だと、場面場面での思い入れもありますよね。

ちえみさん、ぜひ期待していてください。これが逆方向(江戸から京へ)の旅の話だったら、即読んでもらってもいいかと思いますが、京、近江路から始まりますので、後の楽しみにしてもらう方が。
KIRKさん、みなさん、こんばんは!

先ほど、読み終えました。
私としては異例の速さで読破してしまいました。
読み始めると面白くて・・・
なんといっても、自分が歩いた道を遡るので、文面から風景を想像しやすく、
まるでその場に居るかのような臨場感が味わえました。

登場人物たちにも個性があって、いいですね。
特に主人公の「はやぶさ新八郎」には惚れ込みました^^
とてもいい奴ですよね。男として自分なら最後の誘惑には勝てないかも?

とにかく楽しく読ませていただきました。
次は東海道編かな?でも、歩いてからの方が面白そうかも。
ビア・ヘーロさん

ご感想ありがとうございます。
そうですね、私も街道歩きをする前とした後では、その臨場感が全然違いましたね。当然でしょうが。

隼新八郎に惚れこんでいただいたのなら、東海道・中山道の「御用旅」の前の「御用帳」シリーズであれば、江戸での様々な人間模様があって楽しめますよ。江戸でもほんとうにもてまくっている奴です(笑。

ところで、私はこの年末に東海道を再度、今度は京から東に向かって歩き出そうと考えています。中山道逆歩きは夏に。関ヶ原付近が名だたる豪雪地帯なので。
こんばんは。ちえみです。

いまさらですが、はやぶさ新八読みました〜。
東海道の往路、中山道の復路の2巻をいっきに読んじゃいました。
楽しかったです〜!

東海道でも十分楽しかったですが、
中山道になるとでてくる地名や名所の名前が懐かしくて、、。
あ〜るんるんいった、いった〜exclamationとか思ってたらすぐ終わっちゃいました。
なんで木曽福島のすぐそばの贄川に関所があるのか、
とかあらためて勉強することがあったり
こんどは私もお多賀さん詣したい〜、とか思いながら
一度読み終わったあともぱらぱら読み返してしまいました。

それにしても昔の人は皆歩くの早いですね。。。
あの速度で足弱と呼ばれちゃうと、私は、、、あせあせ
歩き始めた当初は1日10Kmでしたので、
20Kmを普通に歩けるようになったのは進歩なのではありますが、、。
今年末までに30kmくらいはいけるようになりたいと思いました。


ちえみさん、

楽しんでもらえてよかったです。
街道ウォーカーにとっては本当に話に入り込める舞台設定になっている上に、平岩さんならではのストーリー設定が秀逸だと思います。
あと、日光例幣使街道編もありますから、そちらの方も。

昔の人の歩くのが早いのは感心します。成人男子で1日10里平均だそうですが、すごいと思うのはそれを毎日続けるところです。

私も年末に三条大橋から東海道の逆歩きを始めて、その後週末歩きで今、三島まで帰ってきています。一日だいたい40〜45Kmなのですが、たぶん連日これを続けるのはちょっと・・・。

それでもずいぶん体力がつきました。足が痛くなったり、翌日に疲れが残ったりもほとんどなくなりました。
40Km歩いた最後の方でも、信号が変わりかける横断歩道をダッシュで駆け抜けることもできるようになりました(笑。
KIRKさん こんばんは。

>日光例幣使街道編もありますから、そちらの方も。

テンポよく読めて知った地名がたくさんでてきて、
登場人物も小気味よくて面白いですね。
日光例幣使街道編も今とりよせ中です。

>昔の人の歩くのが早いのは感心します。成人男子で1日10里平均だそうですが、すごいと思うのはそれを毎日続けるところです。

アップダウンの激しい昔の道を連日10里歩くってすごいですね。
それが特に体力がある人ではなくて普通の人というのがなんとも。。
昔の人は歩き方がちがったらしい、という話をきいたことがありますが、
そういうのも関係あるのでしょうか。。

もう三島まで戻ってこられたんですね。

>40Km歩いた最後の方でも、信号が変わりかける横断歩道をダッシュで駆け抜けることもできるようになりました(笑。

ちょっとわかります。(といっても半分しか歩いてないですが)
最初は後半は走れませんでした。

KIRK さん

ただいま3冊を楽しく読み終わりました。
ご紹介いただいて本当にありがとうございました。

物語の展開もさることながら、街道を歩いた者にとっては江戸時代の街道の描写が大変興味深く、またよく調べたものだと関心しながら読み進みました。

第一巻 東海道編 大井川
「大雨の後は幾筋もの川が一つになって流木はおろか大石まで流れ転ばすという有様で、なにしろ通常の川幅でも一里はある。加えて川底が砂地でなく石であるため、余程、馴れた者でもないと歩行が難しい。」

すいません、大井川なめてました。
橋を歩きながら「濡れることさえ覚悟すれば歩いて渡れる。江戸時代でも楽勝だろう。」と思ってました。
ですが、通常の川幅でも4kmというのはちょっとオーバーなような気が・・。

第二巻 中山道編 木曽福島
「それにしても、凄いところにお関所をつくったものですね」
「関所そのものがかなりな急坂の上にあり、その敷地の西側は断崖絶壁で、下は木曽川が音をたてて流れているし、関所の背後は嶮しい山が切り立っている」

現代でも福島関の崖は急坂だが昔は下を走る自動車道が無い分相当の断崖だったのでしょう。

第三巻 日光例幣使編 
「今日の中に深谷まで行ってしまえば」「新八郎としては安心だが、今日一日で十八里二十五丁を歩かせるのは、村井彦四郎には苛酷かも知れなかった。」

っていくらなんでも一日で74kmは異常でしょ(W)。物語では大宮から馬だったのでリーズナブル?でしたが。
それにしても日光例幣使は220年もの間、毎年4/1に京を発ち、雨が降ろうが必ず例年の決まった宿に宿泊し、必ず4/15に日光に着いていたというのは結構な驚きです。
yochsさん、

ご感想ありがとうございました。

大井川は幾筋もの川がありますから、大雨が降ったら相当な川幅になるでしょうね。でも、一里とは。私は気付きませんでしたが、たしかにそう書かれていますね(笑。
大井川橋は渡るのに12,3分かかったと思いますから、1キロくらいはあるでしょうか。

次は甲州道中でしょうか?甲州道中だと、なかなかストーリーづくりが難しいかもしれませんが、御用旅となるとお茶壷道中が絡むかな(ちょっとベタか?)

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