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妄想中ですけど、それが何か?コミュのピヨひこに捧ぐ妄想小説

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ピヨひこに、やっとこさ捧げます!VS年上男性もの

近日公開予定♫

コメント(10)

今の毎日はまるで惰性だ。
ボールが転がるのと同じく、その流れに身を任せて動いているだけで、そこに何らかの進歩だったり、個性だったりは存在しない。
いつかボールと同じ様に、緩やかにその進みを遅め、いつかは止まってしまう。

「・・・なら、別れないか」
そう切り出した和志の顔を引っ叩く事も、ドラマみたいにコップの冷水をかけてやる事も、何も出来ずに、ピヨ美はただ唇をふるわせた。
こんな時何らかのリアクション出来るなら、それはその程度の付き合いなのではないだろうか。
ピヨ美にとって、5年の歳月は長すぎた。
和志と過ごした5年。その中で和志が言った様に、というより和志が一方的に感じていた惰性の年月はどれくらいの割合を占めていたのだろうか。
屈辱なのは、共に笑ったり穏やかに過ごしていた『筈』の年月を、<惰性>の一言で済まされてしまった事だ。
そしてその事を反論しようとしても、唇は震えるだけ喉からは細い息が洩れるだけで言葉にならない、その事だ。

---それからの数時間をピヨ美は覚えていない。
よく家に帰れたものだと思う。
蛇口から勢い良く流れる水音が、ようやくピヨ美を正気に戻らせた。
手のひらにクレンジングリキッドを出し、顔の表面にすべらせる。
メイクは武装だ。
せめて完璧なメイクで、一方的とは言え直面した戦いに挑めて良かったと思う。一ヶ月ぶりの和志とのデートの為に、ピヨ美は定時後念入りに化粧直しをしていたのだ。
その武装が今落ちていく。
和志に「化粧落としたら、いきなり幼くなる」と言われた素顔が露になっていく。
念入りに入れていたアイライナーとマスカラが落ちた形跡は無かったので、きっとピヨ美はあの時泣かなかったのだろう。
(今なら・・・泣いてもいいよね)
そう思うが涙は出なかった。明日はまだ木曜日、涙で目を腫らした状態での出勤は免れたい。そういう理性的な部分があくまでピヨ美を締め付けるのだった。

和志は高校卒業と同時に付き合い始めた彼氏だ。ピヨ美にとっては実質初めての彼氏と言える。(その前に数人のBFは居たけれど、BFの域から出たのは和志だけなのだ)
同じバイト先の同い年。
和志の大学とピヨ美の短大は比較的近かったので、バイト以外でも週に2回は会っていた。バイトも入れればほぼ毎日顔を合わしていた。
しかし趣味等が似ていたので、話題に欠く事は無かった。
それから2年後、ピヨ美が先に就職した際も二人の間に隙間風が吹く事は無かった。よく「社会人と学生は難しい」と言うが、そういう事は全く無かったのである。
そして更に2年後、和志も目出度く社会人になり、ピヨ美としては何時のまにか<結婚>というレールを二人の延長線上に見出していた。勿論、お互い若いのでスグにどうこう、という物ではない。朧気な、けれど、だからこそ美しい未来予想図だったのだ。
---しかし付き合って5年目の今日、その未来予想図は完全に白紙になった。和志の「惰性は無意味だ」という一言で。
せめて他に好きな女が出来た、というなら救い様がある。その女や心移りした和志を憎む事で空虚な気持ちを埋められるのだから。
しかし原因が<惰性>では、どうしようもないではないか。
「惰性なんかじゃない!」といくら、ピヨ美が声を荒げたとしても和志にとっては惰性なのだ。惰性と感じていたのだ。この数年間を。
ピヨ美は体や心を覆う強い倦怠感に苛まれながらも、その夜布団に包まった。


翌朝。
ピヨ美は買ったまま仕舞っていたワンピースに袖を通した。
メイクもいつもより時間をかけてした。
振られた女が外見上もみっともなくなるなんて・・・そんな二十苦はゴメンだ。
だからその日の昼休み、仲の良い同僚のユカに昨晩の話をした時驚かれた。
口にくわえていた煙草を灰皿に押し付けると、ユカは意外そうな表情で言った。
「本当に!?午前中全然そんな素振り見せなかったじゃない!何なら新しい服着てるから良い事あったのかと思ってたくらいよ!」
「本当よ。ま、私もイマイチ実感湧かないんだけどね。」
そう言って食後のカフェオレを啜るピヨ美を、今度は呆れた様な、しかし感嘆した様な表情でユカは見つめる。
「そっかぁ・・・で、原因は女?」
ピヨ美は友人のこの確信的な所が好ましいと思った。
下手に気を使ったフリをされるより、何倍もマシだ。
「違ーう・・・<惰性>だってさ」
そう言って、ピヨ美は昨晩和志に言われた言葉を何の誇張も無く有りのまま伝えた。すると
「はぁ!?何それ?詩人?馬鹿じゃないの、あんたの元彼!!」
代わりに烈火の如く怒ってくれたのであった。
(そう言えば、泣くのだけじゃなく怒るのも忘れてたなぁ)
だけど今日はまだ木曜日。明日は金曜日だ。
感情の放出を許せば、自分がどんな状態になるかピヨ美は分からなかった。せめて今日入れて後二日、乗り切らなければ。
だから逆に、代わりに感情や罵詈雑言を吐露してくれる友人を見て溜飲の下がる思いであった。
午後一杯は会議で詰まっていた。
その為、プレゼンの操作や議事録作成等に追われピヨ美は余計な事を考えずにその日の仕事を終える事が出来た。
今、一番怖いのは空白の時間だ。
和志の事、和志との事に心を奪われてしまう時間だ。
別れを告げられた瞬間はまるで映画を見ている様だった、とピヨ美は思う。和志主演、撮影はピヨ美だ。何故なら主演はずっとカメラを見つめていたから・・・

(・・・ってだめだ、だめだ!)
帰りの電車に揺られている間に、いつの間にか心を奪われていた。
ピヨ美は首を横に振り、両こめかみを強く揉んだ。
こうならない為に雑誌も買ったというのに、膝の上で未だページをめくられていない状態のままである。
ピヨ美は無理矢理雑誌のページを開き、いまいち興味の持てない今秋流行のファッションに目を通し始めた。

朝から今晩はご馳走を作ろう、と決めていた。
普段は帰宅後すぐに食べられる物しか作らないのだが、今晩は1,2時間掛かる料理をじっくり、ワインを飲みながら作ろうと決めていた。そしてお腹いっぱい食べよう、と。
そして温かいお風呂にゆっくり浸かろう。
ピヨ美が失った物は大きい。きっと、これからもっとその大きさに気付く事だろう。
せめて生活の中にある温かなもので、その隙間を埋めなければ。
ピヨ美は意識して毎日を実のある物にしようとしていた。

そして金曜日。
ピヨ美は始業前に給湯室で胃薬を飲んでいた。
手の込んだ料理を残すが惜しくて無理をして食べ切ってしまったツケが来たのだ。
重い胃を右手でさすっていると、それに気付いたユカが近づき声をかける。
「おはよー。何、どうしたの?腹痛?」
「・・・うん、食べ過ぎでね」
そう言うと、目を見開いた後ユカは笑い出した。
「あっは!何それ!!馬鹿じゃないの!!
ま、・・・でも元気そうで良かった。」
「・・・え?」
「・・・ん、あんた元彼と長かったじゃない?だから昨日話聞いた時、“すごいショックだろうなー”って実は思ってて。
でも、昨日も今日もいつも通りのピヨ美だね。---かっこいいじゃん」
ニヤリ、と笑ってユカはそのまま去っていった。
残されたピヨ美は呆然とする。

元気?
いつも通り?
かっこいい?
そう見えるとすれば、努力の成果だ。成功だ。
ここにいる私はこんなにも空っぽで。こんなにも外面ばかり良くて。
かっこ悪い事が嫌いでだから和志の一方的な宣言にも抗えなくて怒れなくて泣けなくてだけど悲しくてだけど誰にもそんな所気付いて欲しくなくて
「・・・かっこ悪いよ」
そう呟いた瞬間、抑えていた激情が心の中で暴れ始めるのをピヨ美は感じた。
胃だけじゃない、心がきしむ様に痛かった。
思わず流し台に手をかけたまま、その場に座り込んだ。

「・・・気分が悪いのか?」
低いバリトンがピヨ美の頭上から降ってきたのは、座り込んでから数分後の事だった。
聞き覚えの無い声に、ぼうっとした表情で顔を上げると四十代前半の壮年男性がピヨ美を見守っている。
(・・・誰?)
見覚えも無かった。
始業開始まで残り数分なので、他部署の者がピヨ美の部署専用の給湯室に来る事は、まずない。
外部の人間が打ち合わせに来る予定は入っていただろうか?
---いや、無い。そういう処理は必ずピヨ美を通っていく。金曜午前にそんな予定など入っていない筈だ。
男の身元について考える内、自然とピヨ美の眉間に皺が寄っていたのだろう。
そんなピヨ美の様子に男は笑って自己紹介をした。
「---今日から営業3課に配属された伊崎だ。宜しく。」
部署と名前を聞いた瞬間、呆けていたピヨ美の脳裏で記憶と男性が符号した。
(そう言えば先々週の全体朝礼で部長が言ってた!)
とすれば、同じフロアで今後働く人間という事だ。こんな醜態をいつまでも晒す訳にはいかない。
慌ててピヨ美は立ち上がろうとするが、長い事しゃがんでいた為体がぐらついた。
(・・・あ、こける!)
慌てて流しに手をかけようとするが、間に合わない。
ゆっくりとピヨ美は後ろに倒れ・・・かけた。
ぐっと左手首が強い力で掴まれ、全体が急激に前に引っ張られる。
気付けば、伊崎という男の腕の中にピヨ美はいた。
赤面の思い、とは正しくこの事だ。
ピヨ美は自分の顔が真っ赤になっていくのを感じた。
頭に、顔に血液がさぁっと音を立てて上がっていく。
小柄なピヨ美の体は、割合背の高い伊崎の胸の中にすっぽりと収まってしまっていた。
「わっ!あっ、ご・・・ごめんなさい!!!」
「慌てたら又こけるよ」
目を白黒させてすぐに腕の中から飛び出そうとするピヨ美の肩を押さえ、伊崎は目尻を下げて笑いかける。そして、ゆっくりとピヨ美を立たせた。
「本当にごめんなさい!ずっとしゃがんでいたから貧血になったみたいで・・・でも、もう大丈夫ですから」
「本当に大丈夫?」
そう言うと、ピヨ美の顔を伊崎は軽く腰を曲げて覗き込んだ。自分の顔が先ほどの騒動で未だ赤いのを自覚していたピヨ美は、思わず両頬に手を当てる。
その動作に再び伊崎は笑った。
声をあまり出さない、大人の笑い方だった(和志は声を出していつも笑っていた)
でも、笑い顔は思ったよりくしゃっとして少年みたいだ。普通の顔より幾分か幼い。
思わずぼうっと伊崎の顔を見つめていたピヨ美だったが、そんな彼女を心配げに見守る逆からの視線に気付き、再び赤面して謝った。
「あっ、ごめんなさい!はい、もう大丈夫です」
「謝ってばっかりだな。君は・・・営業の人、だよね?」
「あ、はい。営業2課の西田です」
慌ててペコリとお辞儀をする。
そうすると伊崎の革靴が見えた。少し土埃で汚れている。
「もうそろそろ朝礼始まるんじゃないか?フロアに行けるかい?」
その言葉に腕時計を見やると針は始業時刻1分前を指していた。
二人は慌ててフロアへと向かった。
フロア入り口手前で目礼して分かれると、伊崎は真っ直ぐに部長・営業3課課長の元へ歩いて行き、挨拶をし始めた。
ピヨ美はというと、慌てて全体朝礼の状態に並んでいる自分の課の列中に入り込んだ。隣りの列のユカが、何やってたの?という風に眉を上げる。
そして朝礼は間もなく始まった。

「・・・ね、結構渋くない?」

窓を背にした部長が長々と伊崎の今までの営業成績、今後の期待について話している最中、ユカがピヨ美に向かって囁く。

「・・・渋すぎるでしょ。40は越えてるわよ、絶対」

ピヨ美も小声でユカに言葉を返した。
この友人の奔放な気質は好ましく、羨ましくもあるが時にハラハラさせられる。良い男に既婚者も独身も無い!・・・らしいのだ。
彼女による社内不倫騒動は今までに二度ほどあった。ユカから話を聞いて全てを知っているピヨ美以外の人間にはバレていない、というのは流石だが(「当たり前じゃない!」と、その度ユカは誇らしげに胸を張るのだった)危なげないのに変わりはない。しかし、

「馬鹿、今度はあんたの心配する様な事ないわよ。薬指見てよ!」

そう言うとユカは前に組まれた伊崎の手に向かって視線を流した。
その視線を追ってピヨ美が彼の手を見ると、確かに薬指には何もついていない。
(だからって・・・)
最近既婚者であっても指輪をしない男は多いのに、とピヨ美は嘆息する。
---それならそうで、向こうも女に飢えてるって事じゃない?そこをイイ男に飢えてるあたしが通りがかって、ちょっと味見をする位何の問題があるの?・・・とユカは絶対言うだろう。
もう一度隣を見るとユカがここ一番に見せる微笑みで伊崎に熱い眼差しを送っていた。再び、嘆息。
すると背後から
「ピヨ美さん、風邪っすか?」
と後輩の市助が声をかけてくる。古風な名前の割に今風のファッションに身を包む彼は、ピヨ美の三年後輩、一歳下にあたる。何かと言えばちょっかいを出してきたり、頼ってきたりするピヨ美・ユカの弟分的存在だ。
「ただの溜息よ・・・」
「そっかー。ちょうどいい喉飴俺持ってるんですけどね。いりません?」
「だからいらないって!風邪じゃないし」
「・・・美味いのに」
そう残念そうに呟きながらも何故かピヨ美の手のひらにその飴を差し込もうとする市助の手を邪険に払っていると、先ほどのバリトンが静かに響いた。

「おはようございます。本日より営業3課に配属となりました、伊崎です。久々の本社勤務で馴れない点も多々あると思います。その際はご指導・ご鞭撻の程宜しくお願い致します。」

個性も何も無い挨拶だった。
ただ、その声を除いては。
しっくりと皆の耳に入ってくる、と言うのだろうか?温かなチェロの音色の様な声だ、とピヨ美は感じた。
背後で市助が
「何か伊崎さんってカッコイイっすね!」と呟き、
横ではユカが
「あー・・・あの声をベットで聞きたいわ」と朝から下ネタを言っていた。
---頭が、痛い。

その晩、急遽伊崎の歓迎会が開かれる事になったのは言うまでもない。
ユカが昼にグルメ情報誌を繰り、即行で電話予約したのだ。
「同じ課だからね。・・・じっくり落とすわ。」
「ユカさんって、おっさん好きですか?」
「あんたの数倍テクはあるわよ。あの人。あんたなんてどうせオナニープレイでしょ!」
「オナニーとHは別物ですよ!」
何故かランチについてきた市助とユカが馬鹿な会話を繰り広げている間、ピヨ美は黙ってパスタを口に運んでいた。
頭の中では今朝の出来事がパラパラ漫画の様につぎはぎな動きで再現されている。そうしないと、頭を抱えたくなるのだ。
(でも、まぁ。ただの貧血女って事で向こうも気にしてないかも、しれないし!・・・っていうかそう!私はただの貧血女・・・!!)
貧血女、貧血女・・・と気付いたら口に出して呟いていたのだろう。
市助とユカがそっとピヨ美のパスタ皿にメインの肉を一切れずつ載せてくれたのだった。
金曜の午後、何となく伊崎を目で追っている自身に気付き、ピヨ美は舌打ちをする。
しかし、この舌打ちは何に対して?
その疑問にすら答えが出せない自分に、ピヨ美は居心地の悪さを感じるのであった。

隣りの3課では転任したてだと言うのに、次々と仕事をこなす伊崎の姿があった。
精力的、というより鬼気迫る物がある。やり手という触れ込みは間違っていない様だ。
(普通の時と、仕事の時で顔が全然違うんだ・・・)
笑った時に見せた少年の様な表情。
あれを見たのは今の所ピヨ美だけ、という事か。
そう思った瞬間、ピヨ美は心の中でむず痒いけど誇らしい感情が疼くのを感じた。
---優越感?
誰に対して、だというのか。しかもこんな小さな事で。
「子供じゃ、あるまいし・・・」
小声で呟いたつもりだったのに、向かいの席に座る市助には届いてしまった。
眉間に珍しく皺を寄せた市助が、その表情のまま自分の引き出しを開け、中に入っていたチョコレートをピヨ美に差し出してくる。
「・・・あんた、私に食べ物与えるの好きね」
チョコレートは好物だったので、今度は素直に受け取る。
市助は
「糖が十分に足りないと、脳の老化が激しいらしいですよ」
と真面目な顔で言った。
ピヨ美はチョコレートの包み紙を丸めて、その顔に向けて投げつけた。

その晩、営業1〜3課参加の伊崎の歓迎会が催された。
ピヨ美は左に部長、右にユカ、そのまた右に伊崎という席に座った。前方は同じ課の面子が陣取っている。
ユカの前の席に座った市助が、ユカの男落とし(騙し)テクに興味津々と言った面持ちで二人を眺めている。
大卒のユカは短大卒であるピヨ美の2歳上で、現在は25歳。
巻き髪とナチュラルの様だけれど実はきちんと武装したメイクで、ユカは伊崎のコップにビールを注いでいる。
かくいうピヨ美は、部長のコップにビールを注ぐ係に甘んじていた。
少しぼうっとしていたせいで、部長のコップからビールに雫がたれてしまっていた。
部長の「おっとっと」と言う声でようやく気付き、謝りながら慌ててお絞りで机の上を拭く。
そんなピヨ美を見て部長は苦笑いをしながら言った。
「西田くんも、いつかお嫁さんになるんだから、ビールくらいちゃんと注げる様にならないと将来の舅さんや姑さんに怒られるよ?」
指先がピクン、と動いた。
そして、自分の顔から表情が消えるのがわかった。
お絞りで既にきれいになった卓上をごしごしとこすりながら、ピヨ美は小声ですいません、と呟く。
「そういえば学生の頃から付き合っている人がいるって聞いたけど、そろそろ結婚の話とか出てるんじゃないの?」
アルコールのせいで饒舌且つ大声になった部長が話すせいで、周囲の好奇な視線がピヨ美に集まった。
横で唯一事情を知っているユカが、伊崎との会話を止めてピヨ美の様子を気にしているのが感じられる。
素早く何か冗談めかして切り返せたらいいのだろうけれど、ピヨ美の心はそれが出来る程大人になっても、癒えてもいなかった。
「そんな話、出て・・・ませんから」
そう呟き、口角を何とか数ミリ上げて、微笑みに似た表情を作るのが精一杯だった。

---数日前なら「まだ出てません」と笑って切り返せただろう。
ビールを零した時も、部長のセクハラまがいの発言にも、笑って切り返し対応出来た筈だ。
しかしこの数日、数時間で事情は全く変わっている。
和志とはもう結婚する事はない。
和志と結婚するというカードは、既に和志の手により破かれ、燃やされたのだ。

その時の火傷が、今熱いお湯に浸けた時の様に痛い。
とろんとアルコールで濁った部長と、周囲の悪意無き好奇の視線から身を離す為、
「お絞りの替え、貰ってきますね」と言い、ピヨ美はその場から席を外した。
廊下に出て個室の扉を閉めただけで、そこは別の空間だった。
ほうっと息を一つつき、ピヨ美はビールで濡れたお絞りを持って厨房に向けて歩き出す。
手のひらがビールの湿気で不快に濡れていた。早く、手を洗いたくてピヨ美は足早にその場を立ち去った。
---だからピヨ美は知らない。
ユカが思い切り部長のジョッキにビール注ぎ、わざと溢れさせた事を。
何かを察した市助がピヨ美の後を追おうとした事を。
しかし、結局追えなかった事を。

「・・・西田さん」
替えのついでに、全員分の新しいお絞りを持って来てもらう様店員に頼んだ後、ピヨ美は手洗いに入って気持ちを整えていた。
冷たい流水に手を浸し、水を少し切っただけで頬に当てる。
ひやり、とした感触がピヨ美の心を冷まし、覚ましてくれた。
だから手洗いの扉を開けた瞬間、目前の廊下に伊崎が立っていたのには相当驚かされた。
折角整えた気持ちが一瞬で泡立つ。
「大丈夫か?」
「え?」
「朝も具合悪そうだったし。それなのに、この飲み会に無理矢理連れて来られたんじゃないかと思ってね。
さっきも顔色が悪かったから。しんどいなら、部長には俺から言っておくから先に帰ってもいいよ」
何故こうも、自分はこの人の前で失態を犯してしまうのだろうか。
冷ました筈の頬が再び熱を帯びてくる。
・・・しかし廊下の照明は室内より更に暗い。
気付かれはしない筈、とタカをくくってピヨ美は平静を装った。

「大丈夫です。朝のはただの貧血ですし、さっきのは少し酔ってしまって手元が狂っちゃって・・・ですから、気になさらないで下さい。
私は、大丈夫ですから」
今度は微笑む事に成功した。尚且つ恥ずかしげに。
酔っ払った上での失敗だったと、伊崎にどうか納得して欲しかった。
しかし、ピヨ美を見つめる伊崎の視線は揺るぎなく真っ直ぐで、ピヨ美は自分の演技を見抜かれてしまったかの様な錯覚を覚え、思わず動揺する。
既に40を超えている筈なのに、この人は何て真っ直ぐに人を見つめるのだろう。

「大丈夫って・・・」
「え?」
ピヨ美を見つめたまま、伊崎は呟いた。
気のせいか、一瞬前より焦点がピヨ美に合っていないような・・・困惑しながら、ピヨ美はそのまま黙ってしまいそうな伊崎に言葉を促す。
「何ですか?」
「・・・大丈夫?って言う言葉はよくないな。すまない。
聞かれた方は“大丈夫”としか答えようが無いもんな。
・・・例え、大丈夫じゃなくても“大丈夫”としか」
---見抜かれた!
とは思わなかった。伊崎の言葉や視線は先ほど迄と違い、ピヨ美とは明らかに違う相手に向けられていたからだ。
独白とは違う。
(誰に・・・言ってるんだろ)
しかしその困惑は長く続かなかった。
伊崎が苦い物を噛んだ様な表情を一瞬浮かべた後、それまでの事が無かった様に笑うと
「じゃ、部屋に戻ろうか。でももう飲みすぎない様に!」
と言ったからだ。
だが、その笑顔は今朝ピヨ美が見かけた少年みたいなくしゃくしゃした笑顔ではなかった。
何かを諦めてしまった時の大人の悲しい笑顔だった。
そしてその二つの笑顔が、ピヨ美の心に何故か深く刻み込まれたのであった。

部屋に戻ると相変わらずの喧騒の渦。
しかし泥酔に近い部長の横、ピヨ美が先ほど迄座っていた席には市助の姿があった。
要領の良い市助は追従を合間合間に入れながら、順調に部長のジョッキのビールを注いでいく。つぶす気であるのは明白だった。
ユカが市助の座っていた空席を無言で指差し、目配せをしてくる。
上座の席に行く為端を迂回している伊崎が来る前に、ピヨ美はユカに顔を寄せる。
「ありがと。ユカでしょ?市助手配してくれたの」
「苦労は若い内にしろってねー。でもまぁあたしの采配よ。
だから、この後伊崎さん二次会に誘い出すの、あんたも協力しなさいよー!」
「えぇ?あたしはダメだってば」
「どうせこの週末は涙の海に溺れる予定なんでしょうが!今夜は代わりにアルコールの海に溺れときなさい!」
図星だった。

ユカが強引に言い切るのと、伊崎がユカの横の席に着くのはほぼ同時だった。
その時のユカの表情の変化はすさまじい、いや素晴らしいの一言に尽きる。
ピヨ美に詰め寄った時の顔から、一転女の表情になったのだ。
(これは・・・市助も目奪われるわよねぇ)
そう思い、自分の代わりに犠牲になった市助に視線をやると、彼の方もこちらを見つめていた。
唇を子供の様に尖らせて、口パクで何かを言っている。
(え・・・何?)
ピヨ美もつられて口パクで返すが、次の瞬間相手の市助が部長の首を抱え込まれていた。
触らぬ神に祟りなし。
ピヨ美は慌ててそちらから顔をそむけると、手元にあったグラス(席替えの際、ユカか市助によってちゃんと移動されていたピヨ美のカシスグレープ)を口に運んだ。
その後、一次会が終わるまでの数十分はあっと言う間に過ぎていった。
しかしその間、周囲の人と話したり笑ったりしながらも、ピヨ美の脳裏をかすめ続けたのは、あの時の伊崎の表情だった。
何故か引っ掛かる。あの時の、そこにいない誰かに呟いた様な言葉。そして全てを諦めてしまった様な、あの悲しい笑顔。
(何でこんなに・・・気になるんだろ)
しかし一次会が終わる間近になって、ふいにピヨ美はその理由に気付いた。
見覚えがあったせいだ。あれは・・・
(・・・あたしの笑顔だ)

和志と別れた日以来、ピヨ美は鏡に向かって笑顔の確認をしていた。
その為に鏡に向かう訳では勿論ないのだが、洗顔中にお風呂場の鏡に向かって。歯磨き中に洗面所の鏡の中で。化粧の最中に、その手を止めて自分の笑顔の確認をするのが、気付けばここ数日の習慣になりつつあった。
最初は何の気なく、鏡に笑顔を作ってみせただけだった。

『私は、大丈夫』

その確認の為、笑顔を浮かべたつもりだったが、実際のところ笑えてはいなかった。どこか不自然で、不完全で、泣き笑いの様な笑顔になってしまうのである。
・・・そう、それはまさに、先ほどの伊崎が見せた表情だった。

ピヨ美の場合、誰かにして見せる前に、自らのその表情に気付いたおかげで意識的に目を細め口角を上げ、笑顔と同じ表情を『作る』様意識する事が出来た。そして以後、一人で鏡を覗く機会があれば、その表情の確認を行っているのである。
---しかし、もしかして伊崎は自分がそんな顔で笑っている事に気付いていないのではなかろうか?

どちらが不幸なのだろう。
(笑えていない事に気付いて、意識的に笑顔を作る私と。笑えない伊崎さんと・・・)
それは誰にも答えられない問いなのかもしれない。
しかし自分を不幸だと定義してしまう情けなさを瞬時に嫌い、ピヨ美は小さく頭を横に振った。
夜の街へと気の置けない数人同士が固まり、散らばっていく。
週末の街は原色でけばけばしく、解放的であくまで明るい。
澄んでいるとは言い難いが、冷たく締まった外気を胸いっぱいに吸い込み、ピヨ美は小さく伸びをした。
背後では市助が酔いつぶれた部長をタクシーに押し込んでいる。
その横では、すっといなくなってしまった伊崎に
「逃げられたー!!」と悔しがるユカが地団太を踏んでいた。

あの素早さは誰にも止められなかった。

「それじゃ」

会計後皆が何となく通りに溜まる寸前に、そう言うと伊崎は颯爽と人ごみの中へ紛れていったのだ。
付き合いの悪い奴、という印象すらその場の誰にも与えられない様な、軽快な拒絶だった。

「・・・で、どうすんの?」
気持ちが治まったのか、いつの間にかぶつぶつ言うのをやめてマルメンに火を灯すユカにピヨ美は声をかける。誘われた当初は面倒だったけれど、出来ればまだ家に帰りたくなかった。
家で一人になれば、余計な事を考えてしまうに違いないからだ。
自分の事でさえ手一杯だと言うのに、伊崎の表情や言動に囚われている場合ではない。なのに・・・頭から離れない。
このどうしようもない悪循環を止める良策は、アルコールと友人の組み合わせに間違いなかった。
(今夜は飲もう!!)
先ほどは職場の人間や、ましてや部長がいたのでセーブした飲み方しかしていない。
一回自分の手で開栓した方がいいかもしれないな、と思う。
このままだったら建前という名の浴槽から、溜まった感情が溢れ出してしまいそうだ。しかも、そこに溜まった『水』は、底に近い程汚れの濃度がきついのだ。上ずみばかり流れていって、根底が滞留しているのではどうにもならない。
何となく気乗りしなさそうなユカと、何とか部長を押し込んだタクシーを見送ったばかりの市助との腕を取り、ピヨ美は歩き出した。


---そして、その結果がこれである。
延髄から来ているのでは無いかという位の鈍い頭痛にピヨ美は起こされた。誰かがずっと首筋に延髄チョップを小刻みに加えている様な痛みだ。(実際味わった事はないし、その予定も無いけれど)
目覚めたのは、見知らぬホテルの一室・・・では、さすがになかった。
見慣れた自室に、乱れたユカと市助が昨晩の服のまま寝ている。
ピヨ美自身も、冷たい台所の床の上にコートを被って今まで寝たいたのだ。
ずっと下側にしていた右半身が冷たく、痛い。
ゆっくりと起き上がり、壁掛け時計を見ると長い針は10時を指していた。
昨日の晩。
自分が何を話し、何をしたかは一切記憶が無かった。
しかし完全に酒臭い寝息を立てている二人を見る所、問題は無い筈だ。通りすがりの人間に見られる醜態なんて、たかが知れている。
ほっと息を吐き、しかしそのわずかな衝撃にさえ痛む頭を抱えてピヨ美は流しに立った。
洗ったまま伏せてあるグラスを取り、水を注いで一口飲む。
予想外に大きな音を喉が立てた。

(あ・・・)

冷ややかな感触が喉を滑って胃に流れて落ちていく。
その時、思いがけない事を感じた。
---とても美味しく感じたのだ。水が。
酔い明けの一杯の水は確かに、いつも美味しい。
しかし最近のピヨ美の舌は、薄い半紙を一枚通した様な感覚しか与えてくれず、それは久々に新鮮な生の味覚であった。

自分は昨夜どの様な醜態を晒したのだろうか?
太ももに走る大きなストッキングの伝線を見て、ピヨ美は想像する。
(・・・暫くはこの服を着て、あの通りを歩けないな)
しかし溜まった澱を少しでも吐き出せたのなら、それくらいの代償は軽いものだ。せめて水くらい素直に美味しい、と感じられる自分でありたい、そうなれて良かったと。
ピヨ美は昨夜の自分自身に対して微笑んだ。

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