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台湾独立と日台両国安全保障問題コミュの【台湾紀行】八通関古道

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著者:西 豊穣

八通関古道は台湾古道中の巨人です。事実、現存する台湾古道の中では最も距離が長く、更にこの古道のみが唯一国家一級古蹟に指定されています。但し、登山の好きな台湾人、台湾の歴史に興味のある台湾人なら誰でもこの古道の名を知っていますが、一般の台湾人、例えば私の会社の同僚など聴いたこともないと答えるのが普通です。私にとっては憬れの古道なのですが、残念ながら登山道として現在整備されている96キロ全工程歩き通す機会に恵まれていません。全部を歩き通すのに七日を要しますし、前回紹介した二本の古道と異なり、純粋に高山登山の対象となります。私自身が踏み入れた古道は西側二十余キロと東側数キロに過ぎません。しかしながら、登山の経験がなくとも、又、全部を歩き通さずともこの台湾第一級の古道を体験することは十分可能です。

八通関古道といっても実際は清時代に開鑿されたものと、その後日本時代に開鑿・整備されたものとがあり、現在「八通関古道」の名で整備され登山道として歩かれているのは後者です。清時代に開鑿された古道は今や専ら学術調査団の研究対象としてしか成り得ないぐらいにその遺構が草叢に葬らているのですが、日本時代の古道は当時のブヌン族を監視する警備道であり、加えて、戦後金鉱採掘の商業道としても使われた経緯があり、歩道としては整備が行き届いており、今は玉山国立公園の一部として管理されています。尚、「国家一級古蹟」に指定されているのは残存する清代古道遺構、後で紹介する清代古道沿線に残る石碑群、石柱、出土物のみが対象、日本時代古道は対象になっていません。

八通関は古くは八同関とも表記されていたそうですが、ツォウ族が玉山、或いは玉山一帯をpantounkuaと呼び慣わしていた為その音訳とされています。現在では玉山とは別に八通関山(台湾百岳37号:標高3,335メートル)が、八通関を挟むような格好で玉山と対峙しており、八通関そのものは玉山東側に展がる広大な鞍部、大草原です。

八通関古道の歴史は、清国、台湾、日本の近代史と密接に関わっています。1871年(明治4年)、現在の屏東県満州郷八瑤湾(恒春半島の東海岸で一部は墾丁国立公園内)に漂着した沖縄宮古島の漁民が牡丹社のパイワン族による殺害されるという牡丹社事件(その後、近代日本初めての海外出兵を挙行、日本側では「征台の役」)を契機に、日本側の台湾侵略の意図を敏感に察知した欽差大臣沈葆z驍ヘ、1874年(明治7年)、朝廷に対しそれまで「化外之地」とされていた台湾経営の大転換を建議、「開山撫番」(山を開き蕃人を慰撫する)の名のもとに南部、中部、北部の各々に西海岸から東海岸に達する道路を開鑿しました。これはそれまで殆ど開発されていなかった東台湾の経営に先に手を付けることで日本側を牽制しながら台湾全土を押えるという意図があったそうです。南部側道路は崑崙拗古道、高雄県鳳山市から台東に抜ける古道で今でも一部が残っています(後日紹介予定)。中部に開鑿されたのが八通関古道、北部の道路は蘇花古道で、宜蘭県蘇澳と花蓮を結び途中有名な清水断崖を含む、日本時代に自動車道として開通した蘇花公路の前身と考えられていましたが、現在では両者の関連性に疑義が唱えられています。

現在の南投県竹山鎮から開鑿を開始し、日本時代に開発され今でも賑わう東埔温泉付近から陳有蘭渓を辿り、台湾最高峰の玉山の東側に広がる丈の低い笹の大草原である八通関(標高2,800メートル)へ達し、古道の最高点であり且つ古道の東西分岐点である大水屈山(台湾百岳9号:3,636メートル)を巻きながら、ラクラク渓(現代表記は拉庫拉庫渓、或いは楽楽渓)を辿り、現在の花蓮県玉里鎮に至る全長153キロの道路を、その過酷な自然条件と原住民族の抵抗に遭いながらも、僅か11ヶ月を経て1875年(明治8年)に完成させます。しかしながら、当初の目論見であった漢人の開拓移民、原住民族の慰撫もままならず、加えて、清朝政府も結局台湾経営の縮小に転じたこともあり、1895年(明治28年)、日清戦争、下関条約を経て日本の台湾領有が決定した頃にはすっかり荒廃していたそうです。翌1896年(明治29年)、長野義虎陸軍歩兵中尉は、玉里から出発し、日本人として玉山に初登頂、阿里山を経て嘉義に17日をかけて降りたのですが、恐らくその荒廃した古道を辿ったものと考えられます。

台湾領有後、総督府は清代古道の東側を整備(1909年、明治42年)、理番事業として駐在所を設置していきます。1915年(大正4年)、理番事業の一環としての全面武器・弾薬没収の政策に不満を募らせたと言われるブヌン族のラホアレとその同志はカシハナ駐在所(現代表記:喀西[巾白]南)を襲い(カシハナ事件)、五日後、更にダーフン駐在所(現代表記:大分)を襲撃(ダーフン事件)、合計二十名強の警察官が殺害されます。ラホアレ(現在の台湾側資料のローマ字表記はDahu-Ali、漢字表記は拉荷阿雷)は現在、日本時代の抗日闘争の雄として霧社事件の主謀者と目されたタイヤル族のモーナ・ルーダオと並び称されているようですが、その後山間部を転戦、最終的に日本側に投降するまで実に二十年に渡り抗日闘争を繰り広げています。Dahu-Aliを当時どうカタカナ表記していたのかなかなか判らなかったのですが、別にRa’hoareという表記を見つけたので試しにそのままカタカナ表記したもので検索した所、台湾山岳人士に今でも読み継がれている台湾山岳のバイブル、鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」の次のような一節に行き当たりました: 「密林を伐り開いた斑点は耕作地であろう。山肌の赭く剥げた斜面に認められる条痕は、狩猟路であろう。そして青い煙の立ち昇る谷間の一角は蕃社であろう。これらはいずれもラホアレ一味と、郡大社の脱出蕃の、この広大な天地に生を営む象徴である。我が官憲の処置を潔しとせずして、この奥山に立て籠った彼らは、見方によっては、痛快なる風雲児である。」

ダーフン事件後、総督府は直ちに清代古道東段を封鎖、新たに東西から警備道を開鑿し直します。これが現在「八通関古道」或いは「八通関越嶺古道」と言われているもので、1919年(大正8年)完成、当時の全長は125キロ、西側起点は東埔温泉、東側起点は清代古道と同じ玉里。清代、日本時代とも少なくとも東西の起点はほぼ同じと言えます。実際、現在の台湾の観光案内等を見るとこの両者を明確に区別して地図上で紹介しているものは非常に少なく、林務局の「国家歩道」のホーム・ページ(www.trail.forest.gov.com)では清代の古道と日本時代の古道をわざわざ分けて紹介しているにも拘わらず、同じ地図を掲載しています。このように一般の人も清代古道と日本時代古道はほぼ同じコースを辿っていたと考えがちなのですが、実際両者が交錯していた部分は八通関から大水屈に掛けての僅かな部分のみだそうです。現在登山道として整備されている古道の西側基点東埔と東側基点山風の間だけでも凡そ50 箇所の駐在所が配備されたのですが、当時の地図を見ると東西分岐点の大水屈西側には八通関(八通関警備道上最大規模、40人もの警官を配備)を含む8箇所の駐在所しか置かれていません。残りのおびただしい数の駐在所はすべて東側に配置されました。この為、東側古道上には今でも日本時代の遺構が非常に多いと言われています。

体力に自信のある方は、西側古道を辿るのであれば、東埔温泉から入り八通関までの往復、片道約18キロ、観高(東埔温泉から約14キロ)泊りの一泊二日、最もポピュラーなコースです。これまで紹介した古道と異なり、かなりきつい登りを強いられます。私が実際歩いた西側のコースはこれで、更に八通関から八通関山までを往復しました。観高は以前は林務局の管理所だったものが現在は玉山国立公園が管理する宿泊センターになっています。因みに「観高」とは「新高山(玉山)を観る(見る)」の意ですが、現在、台湾で新高山に因んだ地名が残っているのは私の知る限り、ここ以外、阿里山山域の対高山(「新高山に対する」の意で標高2,405メートル、お正月は初日の出を見ようとする人々で大混雑を来たす観日楼から容易に辿れます)ぐらいだと思います。東側古道を辿るのであれば、今は花蓮県の第二の都市である玉里から中央山脈側に約10キロ入ったところに位置する南安遊客中心(玉山国立公園の東海岸側の唯一のビジター・センター)を過ぎ、しばらく車道を辿った後の登山口から入ります。歩き始めるとすぐに山風駐在所跡に行き当たり、ここから蕨(わらび)駐在所跡(現在表記は「瓦拉米」)までの往復、片道約16キロ、蕨泊りの同じく一泊二日のコースになります。蕨にも山小屋が設置されています。体力に余り自信はないが少しだけでも古道の雰囲気を味わってみたという方は、西側であれば東埔温泉から有名な父不知子断崖を経て雲龍瀑布までの片道4キロのコースを往復するだけでも古道を十分満喫出来ますし、東側を辿るならば、登山道入り口から約2キロ、日本時代に掛けられた吊橋の橋桁が当時のまま残る山風橋辺りまでを往復するだけで十分です。

山登りには全く自信がない方の場合、西側であれば、竹山から東埔温泉にかけてのオリジナルの古道、即ち清時代に開鑿された古道沿線に残された磨崖石碑とその周りに残された僅かな古道を辿るという方法があります。これだと現存している四箇所すべての石碑まで車でアクセス出来ます。ここで言う磨崖石碑とは大きな自然石に四字の漢字が彫られているものです。921集集地震以降の再開発で今ではすっかりポピュラーな観光地となった集集駅を中心として西側約二キロの地点、集集大橋の袂に「開闢鴻荒」、東側約二キロの地点に「化及蠻貊」、鹿谷郷鳳凰山鳥園管理所裏の「萬年亨衢」、信義と東埔温泉の中間地点、陳有蘭渓橋の袂にある「山通大海」(オリジナルのものは以前流され、そのレプリカが安置されていたそうですが、それも昨年の数度に渡る大水の為流されたらしく私自身は見つけることができませんでした)があり、すべてが南投県一級古蹟(「国家一級古蹟」のはずですが、何故かそのような表記は現場には見当たりません)に指定されているにも拘わらず、保存に力が入れられているのは「開闢鴻荒」碑のみ、後はかなりいい加減な管理状態です。この中で短いながらも古道が残されているのは、「化及蠻貊」と「萬年亨衢」の周辺、特に後者の竹林の中の石積みの階段は当時の雰囲気を非常によく伝えています。他方、東側起点である花蓮県玉里から現在の登山道として整備されている古道入口にかけて存在している石碑は私が知る限り二つしかありません。即ち、南安ビジター・センターの駐車場脇に厚いプラスチックで覆い保存されている日本時代の「八通関越道路開鑿記念碑」(但し、この碑に関する説明は一切なし:オリジナルの場所から移動されている)と、南安ビジター・センターから少し玉里よりに走り、ラクラク渓を渡り切り卓麓部落の小学校の裏側の道を辿った所にあるこれも日本時代の警備道開鑿に伴う殉職者慰霊碑(「八通関越道路開鑿殉職者之碑」)です。後者は日本時代からこの地にあったもので、ビジター・センターの職員の方に行き方を教えて貰いました。ビジター・センターで用意されている地図上には記載されているのですが残念ながら道路上には一切道標はありません。

余談ですが、日本時代の写真を見ると、当時玉里市街地内にあった八通関古道の入り口には立派な石柱(「八通関越道路起点」)が設けられていたことが判ります。それが現在の玉里市内のどこにあったのか、この古い写真を頼りに訪ねてみました。頼りは写真のバックに写る低い山と石柱隣の立派な生垣を持つ家です。この写真を先の南安ビジター・センターの職員に見せたら、玉里栄民病院の近くで年配の方に聞けばすぐ判る、と言われたので実際そうしてみましたが要領を得ません。そこで、まずこの病院の構内に入ってみることにしました。すると、その写真とそっくりな風景が広がってきたので、病院の構内を歩き廻り、写真とぴったりと一致する所を探し出そうと試みたのですがうまく行きません。試しに、病院を出て病院横を通る道路に入ってみると、写真と全く同じイメージで低い山が重なるではありませんか! 加えて、その路地横の空き地が台湾電力所有になっていましたので、嘗ては写真中の立派な生垣を持つ家の跡地であることは容易に推察できました。この後、近くの食堂で食事した際そこの主人に同じ写真を見せたところ、探し当てた所が正に当時の古道入口であったことを確認することができました。なにも重い荷物を背負い長い距離を苦労して歩かずとも、台湾古道探訪は十分可能です。

メルマガ【台湾の声】より転載

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