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東京音楽祭コミュの第19回東京音楽祭世界大会(1990/5/30,6/1)

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グランプリはウィルソン・フィリップス。

ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの娘、カーニーとウェンディに、ママス&パパスのジョン・フィリップスの娘、チャイナの3人組。
グラミー最優秀新人賞。曲は「ホールドオン」。


■アジア大会
●りんけんバンド(日本)
●ディック・リー(シンガポール)
●ユー・ヨンソン&ザ・コネクション(韓国)
●ヨリンダ・ヤン(甄楚倩 Yolinda Yan)(香港)
●スースー(タイ)
●エラ(マレーシア)
●洪榮宏(ハン・ジュンハン)(台湾)
●張強(チョウ・キョー)(中国)
●ディヤ・クトゥット(インドネシア)
ゲスト:竜童組

第19回東京音楽祭世界大会(1990)エントリーシンガー

●シニータ「夜明けのヒッチハイク」sinitta(イギリス)
http://www.sinitta.com/
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=AGm0rDIg050
Cross My Broken Heart
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=Lt_lUcLnnvs&feature=related
Toy Boy

●14カラットソウル「ゲットインバックアゲイン」14 Karat Soul(アメリカ)
http://www.14ksoul.com/japan/jpindex.htm
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=cL2IlENCXk4
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=0mfUGgro_DI&feature=related
サントリーCM

●松岡英明「vision」(日本)
http://www.hideaki-matsuoka.com/
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=_RmWNylj8oU&feature=related
VISIONS OF BOYS

●カブキロックス「お夏狂乱」(日本)
http://www.kabukirocks.tv/
http://www.ujigamiichiban.tv/
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=rtlf_3pFndI&feature=related
OEDO(お江戸)

●The FUSE「D-Kiss」(日本)

●ボビー・マクファーリンwithボイセストラ「garden」bobby mcferrin(アメリカ)
http://www.bobbymcferrin.com/
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=82rNjQpYDbg
Round Midnight (1987)
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=yjnvSQuv-H4
Don't Worry, Be Happy


●イスマエル・ロー ismael lo 「Xalat」(セネガル)
http://www.ismael-lo.com/
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=zL7V_SgP_oA&feature=related
Jammu Africa

●マリー・クレア「time」Marie Claire (フランス)
※現在はMarie Claire D'Ubaldo名に変更。
http://it.wikipedia.org/wiki/Marie_Claire_D'Ubaldo
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=1P7kld9rto8
The Rhythm Is Magic

●ビル・チャンプリン「No Wasted Moments」bill champlin(アメリカ)
http://www.billchamplin.net/
東京音楽祭中継シーンカチンコhttp://jp.youtube.com/watch?v=lBchN3WxHQ0

●アナ「思い出にgoodbye」ANA(アメリカ)

●シドニー・ヤングブラッド Sydney Youngblood「Sit And Wait 」(西ドイツ)
http://sydney-youngblood.com/
参加曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=W434iQM7Lzw
Sit and wait

●ウィルソン・フィリップス Wilson Phillips「hold on」(アメリカ)
http://www.wilsonphillipsonline.com/
参加曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=naXCGpABh9I
Hold On

●ゴーリキー・パーク GORKY PARK(ソビエト)
関連曲ムードhttp://jp.youtube.com/watch?v=0fmVkWdiVfM
Bang
ソビエトから参加のゴーリキー・パークがビザ関連で来日できませんでした。

ゲストはビーチボーイズのマイク・ラブ&エンドレス・サマー・バンド。

記述:
チャイナはThe Papas & Mamasのジョン・フィリップス(John Phillips, 1935-2001)とミッシェル・フィリップス(Michelle Phillips, 1946-)を両親に、カーニーとウェンディはザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソン(Brian Wilson, 1942-)を父に持つ2世アーティストである。

また、チャイナは米映画俳優、ウィリアム・ボールドウィン(William Baldwin, 1963-)と結婚、3子いる。ウィルソン姉妹も既婚。

コメント(8)

マリー・クレア。アルゼンチン出身です。
このアルバムは日本でのみリリース。
セリーヌ・ディオンは「Falling into You」のヒットでマリ・クレールの作詞作曲才能を見いだす。
現在、マリー・クレアはロンドンにクラブを持っています。
参加曲「time」は壮大なバラードで高い評価でした。
私は友人の結婚式でこれを入場の時に流して好評でしたw。
シニータ(イギリス)

お母さんにミケル・ブラウン、叔母さんに東京音楽祭出場者のエイミー・スチュワートといったように、代々ソウル/ディスコの血筋を引くキュートなシンガー。

彼女のヒット曲を見ると、ユーロビート調のナンバーが多いが、アルバムでは母親譲りのなかなかブラコンチックな曲も披露している。
デビュー前はロンドンでミュージカルダンサーとして活動していたが、83年に伝説のUKディスコグループ/ホット・ゴシップに参加。「ブレイク・ミー」のヒットもあり、ロンドンのクラブシーンで注目を集めた。グループ解散後はマイナーレーベルから4枚のシングルをリリースするもヒットには恵まれなかった。
そして、その後のクラブシーンを席巻することとなるPWLとの運命的な出会いにより86年に本格デビュー。その後はご存知のようにS/A/W(ストック/エイトキン/ウォーターマン)のプロデュースの元に、ポップなユーロビートチューンのヒット曲を連発していった。
93年以降は人気も下降線をたどり始めたためか、ロンドンのミュージカル・シーンにカムバック。「ヘアー」(93)や「ホワット・ア・フィーリング」(97)などのヒットミュージカルに出演している。
シドニー・ヤングブラッド(西ドイツ)

当時VIRGIN MEGA BLACK CONTEMPORARYとしてプッシュされてました。AFTER 7の1stの頃ですね。
ジャケ顔が当時日本でレゲエの草分け的なアーチストのPJに似てました。

アメリカ生まれ→ドイツ→イギリスでデビュー
(Terence Trent D'arbyと似てます。)
コテコテSOUL,R&B好きには軽視されてると思いますが、私は大好きでした。ジャンルとしてはElectronic, Pop,House寄りです。

特に音楽祭参加曲のSit And Waitはガゼボの「アイ・ライク・ショパン(I like Chopin)」風のピアノがヨーロピアンな感じでGOOD!!
14カラットソウル(アメリカ)

山下達郎の「GET BACK IN LOVE」をアカペラで熱唱。
音楽祭のトリを務めました。

何年にも渡り、メンバーは幾度となく入れ替わりましたが、現在のメンバーは、グ レニーT.、トニー・ジーク、ナディア、ハヴォン・マクニール、そしてマーク・ アーロンの5人です。

彼らの評判は様々なところまで広がっています。アメリカやヨーロッパでのツアー (5ヶ月に渡るストレー・キャッツとのアメリカ・ツアー、ホイットニー・ヒュー ストンとのヨーロッパ・ツアー)、ジョセフ・パップによるプロデュース、リー・ ブルアーによる脚本及び監督、そしてボブ・“オーティス”・テルソンによる音 楽の二つのオフ・ブロードウェイ作品(シスター・スージー・シネマ、ゴスペル・ アット・コロノス)、アメリカ、ヨーロッパ、日本におけるラジオ、テレビパフォー マンス、様々な映画作品(HBOムービー「アルファベット・シティ」「トレイシー・ ウルマン・テイクス・オン・ニューヨーク」)、アメリカでのコマーシャル( 「ロイ・ロジャース」「マクドナルド」「スリー・マスケティアーズ」)、三度 に渡るNBC「サタデー・ナイト・フィーバー」の出演、そしてエミー賞を受賞した セサミ・ストリート・ムービー「エルモ・セイブス・クリスマス」がその代表と 言えるでしょう。

そしてさらに、NBC「ザ・コスビー・ショー」の観客へのパフォーマンスを最終録 画までやり遂げ、1990年の東京音楽祭にて「ベスト・アレンジャーズ賞」「TBSテ レビ賞」を受賞、1994年モナコ王国で行われた世界音楽祭に参加、ESPN「ビッグ・ イースト・カレッジ・バスケットボール・ファイナル」のビデオ・コマーシャル の共同プロデュース及びパフォーマンス、そして、幾度となく世界中に放送、再 放送され続けているCTW「セサミ・ストリート」にも何度も出演しました。
イスマエル・ロー(セネガル)

世界的なヒーローであるユッスー・ンドゥールの母国であるセネガル。同国にはユッスーだけでなく様々な才能あるアーティストが存在する。98年グラミー賞にノミネイトされたバーバ・マールや<アフリカン・ボブ・ディラン>イスマエル・ロー、フランスでゴールド・ディスクを獲得した女性グリーオ歌手クンバ・ガウロ、セネガルの3大スターに入るオマール・ペン、ニューヨークのサルサ・ミュージシャンとアフリカのシンガーとのプロジェクトであるアフリカンドなどアフリカ音楽ファンなら一度は耳にしておきたい音源をここでは収録している。リリースはセネガル出身の名プロデューサーのイブラヒム・シラーの<シラール・プロダクション>だ。
ビル・チャンプリン(アメリカ)

982年に発表されたシカゴの通算16枚目に当るアルバム「Chicago 16」。この作品に収録されていた「素直になれなくて」という曲が大ヒット曲となったお陰で昔からシカゴを知る人は勿論、この作品で初めてシカゴを知った人がシカゴというバンドの実力を知った。「Chicago 16」とはそんなアルバムだった。勿論初期シカゴのブラス・ロックに愛着を持つ昔からのファンはシカゴのアルバムが世界中で大ヒットを記録した事に複雑な心境を抱いたかもしれないが。

ところで、この「Chicago 16」から新たにシカゴのメンバーとして参加した人がいる。ビル・チャンプリン(Bill Champlin)だ。元サンズ・オブ・チャンプリンのメンバーでもあった彼はバンド解散後ソロ活動を経てシカゴに参加、その後もシカゴの作品に参加し続けた。2006年に発表されたシカゴの最新作「Chicago XXX」にもビル・チャンプリンの名前がある。さて、今回はそのビル・チャンプリンがかつて在籍していたサンズ・オブ・チャンプリンを取り上げたい。

サンズ・オブ・チャンプリン(The Sons of Champlin)は1966年から1977年まで活動を続けたサンフランシスコ出身のバンド。《サマー・オブ・ラヴ》、あの時あの時代、サンフランシスコが世界のポピュラー音楽の中心だった時代においてジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、クィックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、モビー・グレイプ、ビック・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、スティーヴ・ミラー・ブルース・バンドといったバンドと共に当時のベイ・エリアを盛り上げていたバンドだった。残念ながら私も含めて当時の西海岸の状況を体感していない世代の洋楽ファンは当時のサンフランシスコ出身のサイデリック・ロック・バンドというとジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ビック・ブラザー(というよりジャニス・ジョプリン)といったバンドを真っ先に連想するのが普通で当時から洋楽を聴いていた世代の人以降の音楽ファンが通常サンズ・オブ・チャンプリンの名前を真っ先に出す事は少ないだろう。

サンズ・オブ・チャンプリンの母体はビル・チャンプリン(1947年カリフォルニア州出身)とテリー・ハガティ、ティム・ケインらで結成されたオポジット・シックスというハイ・スクール・バンド。このオポジット・シックスの3人を中心に1966年頃からサンズ・オブ・チャンプリンと名乗って音楽活動を開始している。彼等の最初の作品「Loosen Up Naturally」が発表されたのが1969年。シングル「Sing Me a Rainbow / Fat City」でもその前年の1968年。名乗り始めて結構時間が経過しているが、当時のコミューンの精神を土台としていたバンドだっただけに、なにもかもが自由な精神を元に運営されていたらしく、それがたたってメジャーからのアルバム・デビューが遅れてしまったようである。ホーンを盛り込んだロック・バンドというと即座にシカゴの名前を連想するが、彼等もまた早い時期からホーンを自身のサウンドに果敢に導入していたバンドだった。その後の2作「The Sons」「Follow Your Heart」はサンズと短く改名された新バンド名で発表されている。

ビル・チャンプリンを始めとするサンズ・オブ・チャンプリンにプロとしての自覚がなかったのかは定かではないが、彼等はデビュー当初から風の吹くまま気のむくままだったようで、ツアーやアルバムのプロモーションなどにも非積極的・非協力的だったらしい。活動当初から米英の同業他者の間では彼等の音楽は極めて評価が高かったようだが、彼等が実力の割りには一般受けしなかったのもこの辺の諸問題が影響してきたのかもしれない。この後自主制作盤「Minus Seeds and Stems」、フィルモアでのライヴを収録したコンピ「Fillmore:The Last Days」を経て1973年に新作「Welcome To The Dance」を発表するが、ここでは再びサンズ・オブ・チャンプリンと名乗っている。この後の「Sons Of Champlin」(1975年)は自主レーベルからの発表だった。となればレコード会社とこれまでギクシャクしてきたのも、アーティストにありがちな遠慮会釈ない主張と利益を上げる事を最大の目標とする会社側との確執の結果だったのかもしれない。

しかし、このサンズ・オブ・チャンプリンによる自主レーベル運営はうまくいかなかったようだ。彼等はこの後アリオラ(Ariola)と契約を結び「A Circle Filled with Love」という新作を同レーベルから1976年に発表している。レコード会社によるプロモーション活動も巧くいったのか、同アルバムから発表されたシングル「Hold On」は全米47位を記録、アルバムも最高117位を記録した。この記録、華々しい活躍を見せるスター・バンドに比較すると特段どうってこともない成績だが、これでも彼等の長い音楽活動歴の中では最高の成績だった。翌1977年にもサンズ・オブ・チャンプリンは同レーベルからの通算2作目となる「Loving Is Why」を発表するが、リーダー格のビル・チャンプリンは最早これ以上バンドを継続される事になんの未練もなかったようである。1960年代の半ばから続いていたサンズ・オブ・チャンプリンの歴史は幕を閉じ、ビル・チャンプリンはソロとして活動を開始する。そしてシカゴに参加だ。

上でも書いたようにシカゴ参加後はバンドの中心人物として1980年代以降の同バンドにとって欠かす事の出来ない重要人物の1人として活躍する。ソロとしては「Singles」「Runaway」といった作品をシカゴ参加以前に発表していたが、シカゴ参加以降は暫くはソロ活動を控えていた。が、1990年代に入るとソロ活動を再開、「No Wasted Moments」「Burn Down The Night」「Through It All」「He Started Sing」といったソロ作品を発表している。そして1997年、シカゴの一員として音楽の歴史の中に名前を残す事になったビル・チャンプリンはなんとあのサンズ・オブ・チャンプリンを再結成させた。「Live」(1998年)は再結成されて行われたライブの模様を収めたもの。これ以降も「Secret」「HipLi'l Dreams」といった復帰作をこれまで発表している模様である。ちなみに「Fat City」という作品もあるが、これはメジャー・デビューする以前に吹き込まれた未発表音源を中心にした編集盤。
ボビー・マクファーリンwithボイセストラ(アメリカ)

東京音楽祭参加時には、ボイス+オーケストラ、の造語ボイセストラという11人編成のアカペラコラボレーションとともに、ボビー・マクファーリンの真骨頂となった。

88年のヒット「ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー」は誰でも知るところ。ひとりで同時に何役もこなした、とてつもない才能のシンガーだ。彼のコードはゴムかと思うほどしなやかによく伸び、スタジオの魔術師など雇わずとも聴く人を思わずうっとりさせる。その声で成功を追求するかわりに始めたのが大合唱団。しかも自分ひとりの声のオーケストラで、ポップでもジャズでもない世界に没頭している。有名人がこれほどアカデミックに何かを追求しているのは見ていて気持ちがいいけれども、ちょっともったいない気が…。ソロで歌ってその才能をあますところなく表現してはもらえないだろうか?97年の驚嘆すべきアルバム『サークルソングス』は、意味のある言葉は一切使われていないというユニークさ。それでも世界は、ボビー・マクファーリンがいつかソロで戻ってきてくれることを待っているのだ。
アナ「思い出にgoodbye」ANA(アメリカ)

あのデビー・ギブソンが「思い出にGOODBYE」をANAに提供。

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