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背理・逆説・パラドックスコミュの微分とは何か

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わたしたちが高校数学で習った、微分の概念は、ニュートンが、木から落ちるリンゴの地球に引っ張られる万有引力の作用によって時々刻々に加速してゆく落下速度の或る瞬間における値として、瞬間速度を、考えることから、生まれました。

落体の法則として、1秒間に9.8m/秒だけ加速することが、知られています。

つまり木から落ち始めてから1秒後のリンゴの瞬間速度は9.8m/秒です。

2秒後のリンゴの瞬間速度は19.6m/秒です。

3秒後のリンゴの瞬間速度は29.4m/秒です。

ここで、時間の微小な変化分をhと置いて、木から落ち始めてから1秒後のリンゴの瞬間速度について考えれば、1秒後から1+h秒後までのh秒間の平均速度は、hの正負にかかわらず、hが0でない値をとりながら、0に限りなく近づくにつれて、9.8m/秒に限りなく近づきます。

h≠0を正から0に近づけても負から0に近づけても平均速度が近づく先は9.8m/秒であるという前後関係と、落下速度は時間と共に連続的に変化するという落体の法則とから、速度をなす分数の分母にh=0を代入したときの不定形0/0が一定値9.8m/秒に一致することが明らかになるのですけど、このときの0/0=9.8を木から落ち始めてから1秒後のリンゴの瞬間速度と言います。

ここで、分数0/0の分子をなす0に分母をなす0の9.8倍の大きさがあるということは、大きさがない0に大きさがあるという矛盾を、意味しています。

このような矛盾のことを無限小と言い、分母分子が無限小であるような分数のことを微分と言うわけです。

dという微分記号がその次に書く量の無限小の変化分を表すとすれば、時間tのt→t+dt→t+dt+dt→t+dt+dt+dt→…という飛び飛びでない連続的な経過に伴う物の空間的位置sのs→s+ds→s+ds+ds→s+ds+ds+ds→…という飛び飛びでない連続的な変化を、運動と言います。

このときに、もしもds≠0ならば、それを2で割った半分であるds/2を飛び越えて物が運動していることになるから、運動は連続的でない飛び飛びのものになってしまいます。

だから、現実通りに、運動が飛び飛びでない連続的なものであるためには、ds=0でなければなりません。

ここで、もしも0に大きさがあるのでなければ、0をいくら足し合わせてもsからの移動距離の大きさを合成できないために、現実に反して世界は不変不動の静止空間にとどまってしまうことになります。

大きさがない0に無限小の大きさがあるという矛盾を仮定して初めて、sからの移動距離の大きさが有限になるような、無限小dsの無限大個の集積として、現実の飛び飛びでない連続的な運動を、説明できる、という意味で、哲学者ヘーゲルは「運動は矛盾である」と言いました。

数学は白か黒かどちらか一つしかないというふうに定義を一義に定めることから出発する議論であるのに対して、現実は白が同時に黒であるというグレーゾーンである、ということを、大きさのない0が同時に大きさのある非0であるという矛盾は、意味しています。

0というモノや非0というモノがあるのでなく、あるのは0が非0になるコトだけです。

つまり、まず物があってついでそれが動くのでなく、まず動きがあってついでそれを物象化して捉えれば数学になるのです。

コメント(14)

>>[3]
論理の扱う直線性を逃れることを本質とする現実の曲線を捉えるには直線の細分という近似の努力によるほかないのも、動的な現実を静的な論理で捉えるにはこれしかないということでε‐δ論法が考え出されたのも、分かりますけど、僕は頭が悪いのでいまいちしっくり来ないε‐δ論法について愚図愚図考えて自分なりに咀嚼してアウトプットしたらこういう結論になった、ということです。
>>[5]
バークリーの批判は、ニュートンの微分は一方では無限小はゼロでないと言いながら他方では舌の根も乾かぬうちに前言を翻してゼロだと言っちゃう矛盾だ、というものでしたね。
矛盾が矛盾のままで正しいというところまでは考えが及ばなかったようで、矛盾しているからニュートンは間違っているとバークリーは考えたわけですけど、数学は白か黒かで答えろと迫るものであるのに対して現実は白でも黒でもあるグレーゾーンという矛盾だから現実を正しく認識するための論理は矛盾を内包していなければならない、というところまで、思考を推し進めたのは、後世のヘーゲルでした。
さらに後世になってゲーデルによって証明された不完全性定理というのは、ごく大雑把に言ってしまえば、もしも矛盾を内包しない理論体系が完成したら、その時点でその体系は、同じ一つの主張が真であるような理論と偽であるような理論に、自己分裂するので、統一理論の夢は実現しない、ということを、言い立てているもので、同じ一つの主張が依存する文脈次第で白にも黒にもなるような理論負荷性のグレーゾーンが現実である、ということを、含意している、と、僕は了解しています。
複雑で多様な現実を単純な一法則で説明するところに理論の存在意義がある以上は、例外のない規則はないと言われるように、この法則で説明できない例外はその法則で、その法則で説明できない例外はあの法則で、説明されなければならない、というふうに、理論は群雄割拠するもので、もしも天下統一の野望が実現して、複雑な現実を単純化せずに複雑なままで捉える理論が完成したら、その理論は、すべての個物に一対一で対応する名前を付けただけのものになってしまい、そのような、現実とデータサイズが同サイズのものは、何も説明したことにならない、という意味で、理論とは呼べないものになってしまいます。
個物の個性を無視して画一化して捉えることによって理解をもたらすところに理論の存在意義がある以上は、一つの理論で語り落されたものを拾い上げて語るもう一つの理論が必要になる、というふうに、事実についての解釈の仕方は、いくらでも別様でありうる、ということです。
僕は高校で数学をちゃんと勉強しなかったので、微分っていったい何なんだか、ずっとわからず、何冊か数学の本を読んでも全く雲をつかむような感じだったのですが、松ぼっくりさんの文章が何冊かの数学の本よりよっぽどイメージがつかめました。
どうもありがとうございます。
「白バイがスピード違反の自動車を止めて運転手の女性に言いました。
「奥さん、あなたは時速60マイルで走っていたからスピード違反ですよ」
奥さん「あら、まだ走り始めてから7分くらいですよ、時速60マイルだなんて分かる訳ありませんよ」
巡査「いや、貴女が今のスピードで走り続けると1時間後には60マイル移動するということです」
奥さん「でも私はアクセルを緩めていたところだったし、このまま1時間走っても60マイルなんて行きませんよ」」
ファインマン「物理学(力学)」より
速度とは何か?義務教育段階で此の問をトコトン問い質す、そんな、ディベート授業が、実験的な試みの、現場の関係者の人達の冒険的な試みを期待したい。
>>[9]
分数の意味を考えることから速度の概念は生まれたのだと思います。
割り算と掛け算は逆演算でn等分したものをn個集めれば元に戻ることによって、分母分子を等倍しても分数値は変わらない、というふうに、約分の計算が成り立つので、分母分子を等倍していって分母が1になったときの分数全体の値が60/1=60である、ということを、時速60マイルとは1時間の移動距離が60マイルのことである、ということは、意味しているのである、と、すなわち60とは60/1の略である、と、ファインマンは、言っていますね。
在る時刻における速度とは何か、加速度とは、即ち速度の速度とは何か、瞬間における速度とは何か、時間が進んでない(微小)のに「速度」が在ると言うことはどういう事か?古代ギリシャのツェノンの発したパラドックスを現代の義務教育の現場でトコトン追求すること、これが私の夢想する事です。
>>[11]
高校や大学の数学を学んでから振り返ると、義務教育の段階で学んだ内容が高い視点から捉え直されて、そういう根源的な問いへの答えが与えられそうですね。
エジソンが小学校一年生のときに、リンゴ1個とリンゴ1個を足し合わせたら合計リンゴ2個だから1+1=2だと言った担任の先生に、粘土1塊と粘土1塊をくっつけたら粘土1個になるから1+1=1だと反論して、授業を妨害されたと感じて怒った担任の先生に退学させられた、というエピソードがありますけど、すべての個物はオンリーワンの存在で同じリンゴは一つとしてないのだから違う物を同じと見なす思考を前提にする数学が正しければ粘土の大きさが2倍違っても同じと見なせるために1+1=1であるとする数学も成り立ち得るはずだ、というふうに、数学に忠実に則って数学を否定して見せた、エジソンの思考も、ツェノンのパラドックスと同様に、理論と現実の矛盾についての指摘になっていた、と思います。
真実が抽象されたということは具体的な現実が捨象されたということだから、1+1=2とする数学によって語り落されたものを拾い上げて語る1+1=1という数学も、如何様にでも語り得る現実についての一つの語り方として、ありだから、数学は一枚岩たりえない、と僕は考える者です。
物理学にのめり込んでいるうちにだんだん神は世界創造の設計図を数式で書いたのではないかと考えたくなってくる人の気持ちも分かりますけど、そういう一神教的な思考が帝国主義的に世界を侵略していった時代が西洋近代であるのに対して、そういう大きな物語が信じられなくなって小さな物語たちが棲み分け得るのみであることが明らかになった現代において、数式は世界内容についての他にもあり得るうちの一表現形式にすぎない、ということを、踏まえる心得こそ、他者たちとの対話の可能性を開く共通の地平として、必要なのだ、と思っています。
>>[12]

そうしてみると、数学というのは多分に抽象化を基礎段階から内包している世界の見方なのですね。それを、抽象化がすでに内包されていることを意識していない教師が「わかって当たり前のこと」としてただ生徒に受け入れさせようとするから、鋭い子供はそこを見抜き、ただ受容的な子供は後々自分の不全感がどこから来るのか途方に暮れたりする。

初期段階にすでに内包されている抽象化をきちんと暴き出して、しっかりと言語で教えることも大切ですね。
>>[13]
そうなんですよね。
考えても分からない形而上学的なことについて考えて分かったふうに言うなということで「語り得ないものについては沈黙しなければならない」と言ったウィトゲンシュタインに対するアンチテーゼとして、ウィトゲンシュタインが想定しているような一意に語り得るものなんてそもそもないんだよということで「決して嘘を付くまいと固執するならば沈黙しなければならない」とハイゼンベルクが言ったように、分かっていない形而上学的なことと分かっている形而下学的なことの線引きは不可能で、分かっていないことと截然と区別できる分かっていることなんてないんだよ、という原理的なことを、踏まえなければ、エジソン少年の素朴な疑問への納得行く答えというのは与えることができないですよね。

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