ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

背理・逆説・パラドックスコミュの[パラドックス]パルメニデスと存在の自同律のパラドックス

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
今回はまあ哲学的論考です。ちょっと重たい内容になるかもしれんが、さっきコミュのメンバー数チェックしたらちょうど200人(もうどうしよう、増えすぎ!)になっとったので、それを記念にというわけでもないが、焦った余りに投稿させてもらいます。

とりあえず、文章は三つに分かれていて、どれも結構長いかなと思うので、下のコメント欄に分載します。

こういう話が好きな人には面白いかもしれないが、読んでアタマ痛くなるようなら、『不思議の国のアリス』とか読んで、気分をさっぱりさせてくださいね☆

******************************************************
【パルメニデスとエレア派に関する一般的な説明の例】
http://wwwhs.cias.osakafu-u.ac.jp/~yosyam/logos.html
パルメニデスとエレア派
 しかし、そのような哲学の追求は、大きな試練の火をくぐらなければならない。南イタリアのエレアで活動したパルメニデス(前475頃)がその火付け役となる。彼は自分の考えを韻文のかたちで発表した。その詩の中で彼は、真実と人間のドクサ(思惑・臆断)とを厳格に区別する。この対比は、すでに放浪の詩人哲学者クセノパネス(前570・470頃)に、その先駆が見られるものであった。パルメニデスは、その区別に重要な内容をあたえ、後の哲学者たちに大きな影響力をおよぼすのである。

 彼は「ある」ものは「ある」という大前提から出発し、知ることも語ることもできない「あらぬ」ものについて考えることを禁止する。したがって「ある」ものが「あらぬ」とか、「あらぬ」ものが「ある」という言い方も禁じられることになる。そしてそこから、「ある」ものは生成も消滅もせず、唯一で、連続不可分、不変、不動、一様同質、完全、充実といった結論が導き出される。「ある」ものを、世界と受けとれば、ここに形容されたその姿は、我々が経験する世界の「あり」方とは全く違っている。

 しかしパルメニデスは、経験と矛盾するからといって、その結論を引っ込めることなどしない。むしろ感覚や経験の方を、真実を捉ええないものとして拒否し、ロゴス(道理)に従って判定すべきだと要求するのである。この場合のロゴスは、ヘラクレイトスの場合とは違って、「論理」と訳せる側面が表立ってきている。

 この論理性の要求を、切っ先鋭い議論で強化したのが、同じエレアのゼノン(前450頃)であった。彼はパルメニデスが肯定のかたちで主張したことを、否定のかたちで論じたと言われる。すなわち、パルメニデスの議論を簡単に斥けようとする一般の反応に対して、ものの多数性や動きがあるなら、かえって不合理な帰結が生じるということを示そうとした議論を展開するのである。たとえば多数のものが存在しないということは、「もしものが多数であるなら」という前提から、「ものは有限である」と「ものは無限である」という、相矛盾する結論を導く議論によって主張される。また運動は不可能だとする議論をゼノンは、空間・時間が無限分割可能である場合と、不可能である場合とに分けて論じており、有名な「アキレスと亀」の議論はその前者に属するものである。

エレア派の影響
 パルメニデスの詩とゼノンの議論は、彼以後の哲学者たちに大きな反響を呼び起こした。とりわけ、多様な自然現象を一つの単純な原理によって説明しようとする従来の自然説明は重大な危機にさらされることになった。パルメニデスの議論に従えば、一つのものはどこまでいっても一つでなければならないので、それによって多様な世界を説明することは不可能になってしまうのである。しかも、彼の議論は、たんに存在の不生不滅、不動、唯一を主張するだけのものではなく、異論の出しようがないように見える前提からそのような結論を導くものであった。そして彼自身、反論が加えられることは百も承知のうえで、その反論はロゴスにもとづくものでなければならないという条件を課したのである。彼以後の重要な哲学者は、この条件をけっして無視できなかった。その「ロゴス(論理)性の要求」があるからこそ、パルメニデスの導き出した結論は、深刻な問題を提起するものとして受けとめられたのである。

 彼以後の哲学者が直面した問題とは、エレア派の論理性の要求に従いつつ、パルメニデスが大胆に切り捨てた感覚への信頼を回復させることであった。一般的に言えば、感覚によって捉えられる事実を論理の制約の下で説明することということになる。これは自然科学が、その歴史を通じてつねに立ち向かってきた問題にほかならない。哲学の歴史のこの段階で、この問題意識がきわめて先鋭なかたちで現われているわけである。

 実際に当時の哲学者が意識した問題は、勿論、もっと具体的なかたちのものだったと考えられる。それは、「あるものがあらぬ」の禁止を侵さぬように、現象の多様性と生成変化を説明することであった。この禁止事項は、エレア派の議論にもとづいて、四つの項目に分けて理解することができる。すなわち、
1. ものは無から生成することはない(無へと消滅することもない)。
2. 空虚は「あらぬもの」であり存在しない。
3. 一から多は生じない。
4. 動きは単純に前提せず、説明しなければならない。この四つである。

******************************************************

。。なーんてなこと、通説ではそうなってるんですけどね。
哲学史の教科書なんかでもそうなってて、僕もそう習った。
そんなものだから、何かとこのパルメニデスさんとゼノンさん、評判悪いのです。
僕の大変尊敬しているレヴィナス先生なんかも、パルメニデスをとにかく悪者にしてしまってます。

だけど、ちょっと待ってよ。ホントは全然話が逆なんじゃないの?って思ったので、敢えて全世界及び全歴史的常識を敵に回し、全てをひっくり返す超非常識トンデモ逆説の革命的大ヘリクツをここに展開してしまっちゃろーと思います。

だって、ここ、背理・逆説・パラドックスコミュであるからして、当然のことですよね。

わはは。

コメント(13)

 存在が存在する。すると「存在」というものが存在してしまい、それが存在するようになってしまうと、それ以外の何も存在できなくなる。

 パルメニデスの存在の自同律〈存在は存在する〉は、実際には自同律の思想への最も辛辣な批判でなくて何だろうか。
 それは唯一の〈必然者〉を導く。
 それは〈存在自体〉である究極の存在者、存在極まって存在自体になり果てた存在者であり、冷厳な必然性の真空に呪縛されてそこで永遠に凍死した孤独な化石の星になるのである。
 当然、この必然性は現実性に違背する。これは論理それ自体のついに表現することのできない実在的なパラドクスである。
 〈必然者〉は存在〔ぞんざい〕な存在(ぞんざいに存在を宛字するのは夏目漱石の用法であり、私もこれを踏襲する)であり、もしそれが実在するとすればまことに横柄なことに
 ヘラクレイトスの〈全一者〉の如く全宇宙に遍在的にのさばり返って他を全く無に帰してしまう。
 しかしそれは事実に反する。

 忘れてはならないのは、パルメニデスがあの逆説論理学の巨人エレアのゼノンを育てたエレア派の頭目だったということである。
 
 自同律の思想家パルメニデスなど歴史的に実在しない。
 エレア派のパルメニデスは、弟子のゼノンが運動の不可能性を証明したように、〈存在〉の不可能性を証明して、観念的で論理的な〈存在〉と現実的で理性的な〈実在〉とを理性的に区別した最初の理性的動物である。
 パルメニデスは〈存在〉と〈実在〉を区別し、中性的な〈存在者=オン〉とリアルな〈実体=ウーシア〉を区別する逆説的な理性の切断を行った人物である。

 同じ〈ある=エイナイ〉という言葉で言われていても、存在と実在は意味が違う。

 実はこれはラテン系神学を経由した古典的な西欧形而上学のターミノロジーに出て来る本質(essentia)と実存(existentia)の存在論的差異と表面的には似ているようでいて意味の違った存在論的差異である。

 古典的西欧形而上学は「本質は実存に先行する」というドグマの上に成り立つ。
 この意味での実存は本質の実現したものでしかない。
 この発想は基本的にプラトニズムである。
 特にプロティノスの新プラトン主義から出て来る発想である。プロティノスはパルメニデスの〈必然者〉である存在の一者を基体化するためにギリシア語でヒュポスタシス、そして、現代哲学にこの概念を復活させたレヴィナスのフランス語の言い方でいうなら、イポスターズ(hypostase)という概念を発明した人物である。

 イポスターズとは下に(hypo)立つこと(stasis)――「下立」を意味し、すなわち根拠づけること、基盤となること、原理として下から支えること、定礎を意味する。
 つまりそれは根源として理解(under-stand)されたもののことだ。

 「基体」とはギリシア語ではヒュポケイメノンであり、これは「下に横たわっているもの」としての現象の背後のそれ自体としては不可視の実体や実在または本体を意味する。
 
 パルメニデスは存在の一者を必然性の真空宇宙に追放して抽象的な絶対孤独のうちに永遠に氷漬けにされた不毛で非現実的な観念の幽霊に留めた。

 つまりこの必然者である一者は別に創造神(プロティノスはそうしようとしたのだが)ではない。それは何かによって造られたものでもないし、また何かを生み出すものでもない。
 無から有は生じず、有から無は生じないというのが、古代ギリシア哲学の公準である。

 しかしここで無とか有とかいう言葉で意味されているのは、今日的通念において理解されているような無や有とは違う。

 パルメニデスにおいて、有(存在)と言われているのは、この観念的な必然者のことである。つまり我々の感覚からするとそれこそが全く無いもののことである。

 他方、無(非在)は逆に我々にとっての感性的な実在として現実に存在している物のことをいっている。

 物質は西欧形而上学の歴史でいうと、プロティノスの弟子のポルフィリオスによって初めて存在すると認められたものである。

 古代哲学で普通に非在といわれているのは、可視的で偶然的なこの現象世界のことである。

 自分の目に見える物は本当に在るもの(真実在)ではなく、実物の写像ないし模像としての影(仮象)であるという感覚への懐疑は背後世界の実在への信憑と裏腹である。

 この陳腐な〈現象/実在〉の認識論的図式は基本的にはプラトンの有名な洞窟の比喩を下敷きにしているが、起源はもう少し古い。
 しかしそれはパルメニデスが作ったものではない。

 私の考えでは、エレア派のパルメニデスとゼノンはむしろこの図式に反発し、これを批判するために逆説的な不可知論を展開したのである。

 不可知論は、安易でしかし常に陰険な認識論・観念論を弄ぶ連中に対する批判の刃としてこそ意味をもつ実践的な概念である。そして、パルメニデスが批判していたのは恐らくヘラクレイトスであると思われる。
 パルメニデスは存在の自同律の自明な真理性が避けがたくパラドクスに陥ることを示した。
そのパラドクスは、形式論理的な決定不能性を帰結するエピメニデスの自己言及性のパラドクス「全てのクレタ島人は嘘つきであると一人のクレタ島人が言った」とは性質の違うものである。
 パルメニデスの自己同一性のパラドクスは実在的なパラドクスであり、論理的な真理「存在は存在する」が実在的な虚偽「そのような存在は実在しない」を帰結するということを示している。
 これは全く異なるレベルで起こっている。
 それによってパルメニデスが明らかにしようとしたのは、論理それ自体が虚偽を含んでいるという恐ろしい事実である。

 パルメニデスが自同律の真理性の主張者であるという通説は単に間違っているというどころか愚劣でさえある。
 彼は自同律や存在の観念に実在的パラドクスによる致命傷を負わせたその最も痛烈で辛辣な批判者に他ならない。
 弟子のエレアのゼノンが運動の観念の不可能性を論証したように、パルメニデスは存在の観念の不可能性を論証したのである。
 それは裏を返せば、可能性の形而上学の批判の意図をもったものである。
 それは不可能性こそが価値ある実在的真理なのだという現実主義的な不可能性の形而上学がエレア派の根本思想にあったのだということを窺わせるものである。

 エレア派の強烈な反現実主義的観念論は、逆に強烈な現実主義的実在論に裏打ちされているものである。
 それはプラトニズムの祖先であるというよりそれとは全く相容れない異質なものであり、逆にプラトンのアカデメイア学派に対する痛烈な批判者だったアリストテレスの実直な現実主義にこそ通底するような感性に根付いている。
 パルメニデスはプラトンが出現する以前にプラトニズムを批判していた。
 アリストテレスとパルメニデスはちょうど挟み撃ちのような仕方でプラトンを追い詰めている。
 そしてまさに両者のプラトン批判の論点は、分有(関与)説に対する痛罵という点において一致する。

 それは「第三の人間」のパラドクスとして知られるものであり、プラトン自身もそこに自分の思想の致命的欠陥があることを対話編『パルメニデス』において素直に認めているのである。

 「第三の人間」というのは、例えば、イデア的実在である人間自体(一般性・類概念)と個別的実体である個々の人間(個別性・このもの)のどちらでもないがその両者を媒介する形相=種差(エイドス)としての人間(特殊性・種概念)のことであると考えてよい。これはいわば論理的虚構(イデア的真実在)のなかに現実的実在(個物。アリストテレスの言う意味での第一実体)を誘拐するための罠のようなものである。

 『パルメニデス』はちょうど十七歳の若きアリストテレスがアカデメイアに入学した紀元前三六七年前後に執筆された作品であるという。そして、非常に不思議な話だが、この作中にもやはり若きアリストテレスという同名異人が登場する。そして、この同名異人のアリストテレスが若きソクラテスと共にエレア派の二大哲学者、老パルメニデスとゼノンに会うという設定になっている。

 この対話編はしかし異様である。
 プラトンのヒーローとしてイデア説を振り回し、常にソフィストたちの揚げ足を取って一方的に論破しては弟子どもの賛美感嘆のまなざしを一身に浴びていたあの無敵のソクラテスが、まるで赤子の手をひねるように老パルメニデスにコテンパンにやっつけられてしまうのである。
 それも打ち破られるのはプラトンの自慢の所説であるイデア論そのものなのである。
 ちょうどこの紀元前三六七年はプラトンの第二回目のシシリア旅行の年にあたる。

 彼は生涯三回シシリアに旅行し、彼の理想である哲人王政治を実現しようとしたが、その度にロクな思いをしていない。この点においてプラトンという人は誰もが認めている通り、現実の政治にはまるで疎い哀れで愚かなただのお人よしのバカモノである。

 同じ堅苦しい理想主義者で、やはり生涯、聖人君子(哲人王)政治の実現を求めて、動乱の中国を放浪して回った孔子にもまた同じように悲しい程に愚かなところがある。
 実際プラトニズムにせよ儒学にせよロクでもない狂った理想主義であるという点で非常に似通ったところがある。どこか根本的にバカなところがあるのだ。それはヒューモアのなさである。

 けれども、これは私の好みの問題かも知れないが、孔子にはプラトンとは違う人間的な魅力がある。
 彼は自分の弱さも愚かさも素直に晒す正直で気取らないところがあるのだ。
 彼は恐らく自分が決して世に容れられないことを知っていた。
 儒学にはヒューモアというものがないが、孔子という人間にはそれがある。
 それはその人柄の芯から滲み出るような品のよい慎ましさである。
 プラトンの人柄には何かが確かに欠けている。
 孔子なら三回もシシリアに旅行して三回も惨めで愚かな救いがたい道化を演じるようなバカな目には遭わないで済んだだろう。

 この二度目のシシリア旅行の散々な結果にはさすがのプラトンも相当に落胆したようである。
 『パルメニデス』にはプラトンの凄まじいやり場のない自己嫌悪がぶちまけられているように私には思えてならない。
 当時六〇歳にして未だに青臭い己れを呪うように、彼は自分の師ソクラテスを若造の姿で登場させ、老パルメニデスの仮面を被って散々にいたぶっている。
 なんと根のクラい男だろう、と思うのである。
【エレア派の精神について】
 パルメニデスは哲学史上最初に〈存在〉という観念が、
蒼白く冷たく暗い陰気な〈一者〉という不毛な幽霊に帰着することを、そして〈私は私である〉或いはA=Aという自同律の真理性がどれほど愚劣で嘲るべき無価値なものに過ぎないかを洞察し、それを実に闊らかなヒューモアをもって表現した賢者だったと考えた方が良い。
 私はパルメニデスという〈人間〉と〈一者〉とを安易に同一視する愚かなプラトニスト達の見解には賛成したくない。彼は〈存在〉の賛美者ではなくて、逆にその観念に対する一番辛辣な批判者であったのだと考えた方がクレイジーではない。
 彼は自同律や存在という人間の思考が一番陥りやすい真理という名前の甘い罠がどれほど無意味で莫迦げた嘘に過ぎないかをヘラクレイトスよりも鋭い言葉で水破抜いた人間である。
 彼が運動の不可能性を主張した逆説家で有名なエレアのゼノンの師であったことはよく知られている。そのことが告げる意味を見失うべきではない。
 逆説家の師は必ずや逆説家である。ゼノンが〈運動〉の不可能性を表現したように、パルメニデスは〈存在〉の不可能性を表現したのである。エレア派の哲学が根本的に価値を置いていた概念は〈存在〉ではなくて、むしろ〈不可能性〉の方である。

 高邁な彼らにとって、不可能性というのは実は全く否定的なものでもなければ忌避すべきものでもなかった。私はエレア派のパルメニデスの実在を信じる。
 それはプラトニスト(特にプロティノスのような新プラトン主義)のパルメニデスではない。存在(それはある)の哲学者パルメニデスではなく、不可能性(それはありえない)の哲学者パルメニデスの方が尊いのである。

 彼は自同律(AはAである)等という人間であるならどんな莫迦でも子供でも知ってもいれば信じてもいる程度の常識的な論理のイロハをわざわざ殊更新しげに疑うべからざる明証的な思考の原理として人に教えようとしたのでは決してない。
 そんなことを主張する人間はパルメニデスは白痴であると主張しているのに等しい。
 彼は自同律や存在の思想を主張したのではなく、逆にそれがパラドクスに陥ることの不可避性を指摘して厳しくそれを批判したのである。

 パルメニデスは恐らく恐ろしく誤解されている。
 自同律や存在の観念の最初の批判者が何故かその正反対の白痴の悪霊の代名詞に変えられてしまったのは実にグロテスクな話である。

 存在が存在し、非存在が存在しない、あるものがあって、ないものはない、ということは、アキレウスは亀よりも足が速いという程度の常識的な見解であって誰もそれに異を唱えることのないものであるに過ぎない。
 或いはまた、私が私であるということは自明であって、それを疑うような人間はまず滅多にいるものではない。
 パルメニデスは逆にだからこそそれが間違いだということを告発しようとしたのである。

 ゼノンは運動概念を批判したが、それで歩くことをやめたのではない。
 同様にパルメニデスは、存在が真に存在するというならそれは〈一者〉のような球体で虚空に独在しているに違いないと主張したが、自分がその〈一者〉なのだと主張した訳ではない。
 本気でそんなことがあるなどと思っているとしたらただのバカである。
 それではまるでヘーゲルではないか。

 パルメニデスという男は、その弟子のゼノンと同じく、風流な男である。
 もしも〈一者〉みたいにヘンなもの(ここで爆笑)しか存在しないのだとすれば、パルメニデスは自分は存在しない(そんなことはありえない!)ということを主張していることになる。
 つまり彼は自分自身の非存在「私はいない」ということを論証しているのである。

 しかし、それは経験的事実と反する。
 経験的事実は逆に、存在ではなく全く非存在こそが実在しているということを告げている。
 それはパルメニデスが現実離れした男だからではない。論理というものが現実離れしているのである。

 パルメニデスが存在の自同律のパラドクスを語ることで示そうとしたのは、自分が幽霊であるということ(プラトニストの見解)ではなくて、〈存在〉こそが全く不毛な幽霊でしかありえないということである。

 エレア派の哲学の本質は徹底的なリアリズムにある。
 それはソクラテスの弁証法(産婆術)よりも怜悧な刃物で論理や観念のつくもっともらしい嘘を切断する思想である。

 例えば、ゼノンは現実の運動を批判したのではなく観念の運動を批判したのである。
 自分に向かって飛んでくる矢に止まれといって矢が止まることをゼノンは現実に要求しているのではない。
 彼が要求したのは、お話しの中にしかありえない観念の矢を現実の矢に置き換える巧妙な「説明」または「解説」という子供騙しな作り話を語って、まことしやかな観念の矢に怯えるような催眠術をかけて人心を操作しようとする嫌らしい自称リアリストと称する不純な動機の観念論者の政治的なその狡賢い口の運動が止まることである。
 ゼノンは飛んでいる矢は止まっていると言うことによって、実は観念の矢を観念論者の舌に向かって撃っているのだ。
 観念の矢が現実の矢と同じものだというのなら、観念論者はそれに当たって死ななければならない。
 もし死なないのだとすれば、観念論者は自分が何故死なないのかを説明してみせねばならない。
 答は一つしかありえない。観念の矢は結局虚妄の矢であって現実の矢ではないからだ。
 更にいうなら観念論者の言っている〈現実〉は、その権利もないのに勝手に〈現実〉の名を騙っている観念に過ぎないのだということである。

 経験的現実を楯にとってそれをもっともらしげに引証して〈現実〉を捏造することは易しい。
 しかしそのように捏造された〈現実〉は結局は〈可能性〉でしかない。
 そして結局〈可能性〉でしかない〈現実〉を真の現実に置き換えることはどんな人間にも不可能なのである。

 エレア派の精神が素晴らしいのは、何かがありえないからあってはならないということを現実に対してではなく、観念に対して、特に観念を用いる人間に対して要求するところにある。
 現実にはありえないことがあってもいいと彼らは非常に寛容に考えているのである。

 パルメニデスは〈存在〉の立場に立って〈非存在〉を退けた〈一者〉の哲学者なのではない。
 むしろ真の争点は別のところにある。
 彼は〈不可能性〉の立場に立って〈可能性〉の無意味さ、またはその無価値さを論証しようとしたのである。

 〈存在〉から〈非存在〉を生成することは出来ないということは、現実的な生成変化の背後に観念的な基体を想定することを拒絶するということである。
 それは生成変化を基体に帰属させないということであり、現実を観念に従属させないということである。それは現実的な生成変化の実在を否認するということではない。観念的な実在が現実的な生成変化を支配するという不健全な考えを排除するということなのである。
 エレア派は現実と観念の間を切断するために逆説を用いる。
 それは現実と観念の間を巧妙に媒介し、連続させてゆく生成変化という安易な論法を難破させるためである。

 他方で「万物は流転する」などといって恰も実在世界の生成流転を称揚しているかに見えるヘラクレイトスは、実際には「私にではなく、ロゴスに聞いて、万物が一者であることを認識するのが智というものだ」というような非常に安易な「ロゴス」及び「一者」の観念の信者であったという面の方が鼻につく。
 ライプニッツの非常に評判の悪い観念論的な予定調和説(吐気のするような弁神論)は、むしろヘラクレイトスのこうした不徹底さから出てくるのである。
 また「思慮は全ての人に共通だ」という、柄谷行人などに言わせればそれこそ独我論(私に妥当することは全ての人に妥当するかのように想定されている思考)の起源であるとしかいえない言葉を残している。
 ヘラクレイトスを実在論や経験論や唯物論の祖と考えること程に恐らく愚かしいことはありえるまい。そうではなくて逆に彼こそが一番たちの悪い観念論者(自称リアリスト)の典型なのである。
……という風に見る事もできるのである。
 もっとも、私自身はヘラクレイトスという人をパルメニデスとはまた違った意味で大好きなので、そういう風にいつも見ているわけではない。ただ通常、人が安易に賞賛してしまっているヘラクレイトスのイメージについていうなら、それは逆に大嫌いであるので、これくらいボロクソに言ってやっても構わない、と思っているだけである。

 さて、問題は、「存在」を語るか「生成変化」を語るかにあるのではない。
 「存在」に「生成変化」を帰属(植付け)させてそれを支配させるかさせないかにあるのである。
 ヘラクレイトスは全てがそこに含まれる全一者を想定して、全ての個物の個別性をそこに抽象的に還元してしまっている。
 そのこと自体は悪ではない。問題はその先にある。
 ヘラクレイトスはそうすることで人間を宇宙の奴隷に変えてしまう。
 それは非常に残酷な非人称的意識への融即を強いる世界だ。
 彼は実におぞましいことを言っている。
 「智はただ一つ、すなわち、全てのものが全てのものを通じて如何に操られるかについて、真の判断を心得ることだ」というのだ。
 それは(もちろん見方にもよるのだが)人が運命の糸に操られるがままになっている神の玩具に過ぎないことがいいのだという超高度管理社会の情報操作やマインドコントロールを肯定するような思想である、とも読めてしまうのだ。

 埴谷雄高は「自同律の不快」ということを言っているが、私にはまさにこのような生成変化=大規模操作の思想こそが不快である。埴谷雄高の「自同律の不快」は「事物の(生成)変化の原動力」と考えられたが、それは何より操られるがままになっていることへの不快に端を発している。
上とは全然関係ないが、さっきコミュ参加者人数みたら、さらにもう二人も増えて202人。。。
ヘリクツ好きさん、余りに多すぎ!
どうなってるんだ。。このままで、いいのか。この日本(笑)。

【チェシャ猫くん】違うね。それはきっとオイラのスター性の結果だよ。
【管理人】うっ、そっ、それには気がつかなんだああああ!
【エレアのゼノンとそのパラドクスに関する良いWEB資料】
☆てなさく読書欄−その6
http://www.tenasaku.com/tenasaku/books/book-06.html

****************************************************
ゼノン4つの逆理
〜アキレスはなぜ亀に追いつけないか〜
著者 山川偉也
出版元  講談社
出版時期 1996年2月

アキレスとカメ

逃げるカメをアキレスが追いかける。アキレスがカメのいた場所に来てみると、カメは少しだが前に進んでいる。その場所へアキレスが行けば、カメはまた少し進んでいる。どこまでいっても同じこと。こんなことでどうして、アキレスがカメに追いつけるのだろう。

これが「アキレスのパラドックス」だ。この本『ゼノン4つの逆理』は、この「アキレスのパラドックス」を含む、ゼノンの4つの逆理を紹介し、その思いもかけず深い思想的な意義を解きあかすことを目的としている。これら4つの逆理のいずれも、運動や時間や数という、誰もが慣れ親しんだ概念が、意外にも不条理な、謎に満ちたものであることを示すものだ。あとで、その4つの逆理を紹介するが、多少なりとも哲学癖のある人でなければ、そこに謎や不条理があること自体どうしても納得できないかも知れない。

俺としてはゼノンについては言いたいことが多すぎて、本の紹介より自分なりの考察のほうが多くなってますけど、よろしければ、おつきあい下さい。
エレアのゼノン

エレアのゼノンはパルメニデス派きっての論客であった。彼の書いたものはほとんどが散逸してしまって残っていないが、古代ギリシャにおいてはなかなかの有名人だったらしく、他の多くの哲学者や歴史家の本の中に引用されて、後世に名を残すことになった。その論理は冷徹だが、血はすこぶる熱かったらしく、祖国エレアの独裁政治に叛旗を翻して、僭主暗殺計画に加担するが捕らえられ、拷問を受けたのち、自白する振りをして僭主の耳に噛み付き、刺し殺されるまで離さなかった。なんとも壮絶な最期をとげたもんだ。

ゼノンは師のパルメニデスの「あるものはある。あらぬものはあらぬ。」という《有=絶対的な自己同一》のテーゼに対する他派(とくにピュタゴラス派)の批判に答えるために、ピュタゴラス派の《多》の哲学(実在の実相は数であり、不可分だが互いに明確に区別される単位の集まりとしての多である)の理論の矛盾を指摘する論陣を張った。その急所となるのが4つの逆理だ。これも、ゼノン自身の書いたものは残っておらず。アリストテレスによる批判的な紹介によって知られている。
背理法のはしり

ゼノンの議論を、本書『ゼノン4つの逆理』の第4章まででなされているように、詳細に検討すると、全体のつじつまが合っていない部分があるように感じられる。たとえば、第1逆理によれば、第2逆理でアキレスがカメの出発した地点にまでたどり着くこと自体が不可能である。第2逆理自身によってもこのことは示しうる。アキレスとカメの間に、もっと遅い、たとえばカタツムリでも置いてみればよいのだ。

また「アキレス」と「カメ」の「速さ」の規定も曖昧である。速いということが、同じ時間内により遠くまでいけるということを意味するとしたら、カメに追いつけないアキレスは「速い」とはいえない。古代ギリシャの運動論においては無理もないことだが、《速度》の概念を明確に定義しているわけではないのだ。アキレスとカメの速度が、たとえば指数オーダーで漸近するとしたら、たとえどの時間区間においてもアキレスがカメより大きい距離を移動するという意味で「速い」としても、アキレスがカメに追いつくまでには無限の彼方まで行かねばならず、要するにアキレスはカメに追いつけない。「速さ」の理解を曖昧にしていればこのように「実際に」追いつけない場合も考えられるのだから、この議論は逆理とは呼べなくなる。ゼノンの議論と、この逆理に取り組んだ後世の学者たちの議論(本書『ゼノン4つの逆理』を含めて)では、この場合を排除できていない。もっと強い制限を加えて「アキレスとカメの速度をそれぞれ一定とする」という、むしろ恣意的な仮定をおくことはあるが。

これは、ゼノンが荒唐無稽な詭弁を弄していることを意味するだろうか? そうではない。まあ、逆説的な議論であることはたしかなのだが、これは詭弁ではない。ゼノンのねらいは、逆理の前提部分に含まれる矛盾を明らかに示すことにあったのだ。

ゼノンの議論は、ピュタゴラス派の多と数の宇宙論の枠組みを借りて、その中にひそむ論理的困難を内側から指摘することで、ピュタゴラス派の理論を崩壊させるという戦略をとっている。これは、論理学で帰謬法あるいは背理法と呼ばれる方法だ。この方法の有利な点は、相手の理論の枠組みをそっくりそのまま利用できる点だ。第2逆理「アキレス」に含まれる「運動は可能である」という前提は、ピュタゴラス派の哲学から借りてくればいいわけで、ゼノン自身がこれを信じていたかいなかったかは問題にならない。第1逆理の結論と第2逆理の前提が矛盾することも、はじめから、積極的な理論構築を目的としていないのだから問題にはならない。ゼノンは運動の理論を構築しようとしているのではなく、すでに構築された運動の理論を検討し批判している。その場合、相手の理論の枠組みから、矛盾を引き出すために必要にして十分なだけの材料を調達して来さえすればよく、ゼノンには《運動とはなにか》《多とはなにか》ということを定義する責任さえない。その責任は、ゼノンに反論し運動の理論を擁護する側にあるわけだ。ゼノンの議論の強靱さ・いやらしさの源泉はここにある。

理論を構築するより批判する方が、見かけ上、理路整然と、エレガントにできるのだ。だが、その反面、批判するばかりで何も生み出さないムナシイ議論になってしまう危険もある。歴史はくり返すもののようで、無限小解析をつかって運動の理論を構築しようとしたニュートンやライプニッツを、バークリやニーウェンティイトが従来の論理学・形而上学の観点から批判した際も、実無限によって数学の形而上学に新しい局面を拓いたカントールをクローネッカーが独自の構成主義的な数理哲学にもとづいて批判したときも、ピュタゴラス派対ゼノンと同様、「基礎に不安を残すが生産的な理論」対「筋は通っているがそれ自体は何も生み出さない批判」という対立になった。足立恒雄『無限のパラドクス』の紹介でも書いたんだけど、こうした対立が解消されるのは、新しい理論が十分に確立されその基礎に何が必要かが正しく認識された後になるわけだ。

ゼノンは実際には、パルメニデス派の哲学者らしく、われわれが経験する運動や変化なんてものは虚妄にすぎんと思っていたのだろう。このパルメニデス派の見方は、感性的経験をイデア的実在の影・マボロシにすぎぬと断言するプラトンの哲学へ引き継がれている。ただし、ゼノンにしてもプラトンにしても、目の前の現実はマボロシであるけれどもその限りにおいてやはり現実としての意義を有すると考えていたはずで、それゆえにプラトンは理想の国家を語り、ゼノンは独裁者に対して謀反を企て憤死する。運動論を擁護したはずのピュタゴラス派の哲学のほうが、この世界に背を向ける神秘主義に容易に結びつきがちであった歴史というのは、ゼノンの最期を思うと、皮肉なものだと思う。
近代の思想とゼノン

だいたい以上のようなことが、本書『ゼノン4つの逆理』の前半で解明される。そして後半の議論は、パスカルやベルグソンの哲学の中にゼノンのテーマの変奏曲といえるような響きを見い出すことにあてられる。

「船が遠ざかるのを見てみよう。船はどんどん水平線に近付いているように見えるが、けっして水平線にまでは到達しない。」無限に伸びる航路を、足下の一点から水平線までの有限の視角に写像してしまうこの議論を「パスカルの眼」という。地平線の彼方まで伸びる2本のレールは、遠方で交わるように見える。だが実はどこまで行っても交わらない。近代人の視線は、2本のレールが交わるはずの無限遠点を見つめ、ゼノンの論理は、どこまで行っても2本のレールは2本のレールであり、決して交わらないことを示す。射影幾何学の大成者にして宗教的・実存的哲学者であったパスカルの面目躍如たる考察。

山川は「パスカルの眼」をアキレスとカメの議論の一変種とみなす。無限に伸びる対象を有限の長さの中に埋め込んでしまえるという点に「アキレスとカメ」や「二分割」の逆説性があるのだから、これもあながち的外れというわけでもないのだろう。だが、俺に言わせれば、山川がこうした議論に数学的な道具を振り回すところは、だいたいにおいてちょっと無理がある。同じことを、数学者なら、もっとうまく言えるはずなのだ。もちろん、数学者はゼノンの逆理をあまり真剣にとってはいない(これはこれで実践的には正しい態度である)のだが。

ベルグソンは近代におけるもっとも執拗なゼノン批判者であった。にもかかわらず、実は彼の議論はまるきりゼノンそっくりである。どうやら、ベルグソンはゼノンを批判しているつもりで援護していた、あるいは、ゼノンを批判しているつもりで、結果としてはゼノンが議論の枠組みを借りているピュタゴラス派の哲学を攻撃していたらしい。相手の議論を批判するに際して議論の前提となる条件を問題にするのはよくあることだが、ゼノン自身がそれを背理法という形でやっているのだから、ゼノンに対して同じことをやると、なかなかマヌケなことになる。

だが、ここに引用されているところから判断する限りでは、ベルグソンの哲学は、俺が考えていることと一部まるきり同じだったりするから、俺としてもこれから少し勉強しよう。

山川は『ゼノン4つの逆理』の最終部を、パルメニデス派の《有》の哲学に事寄せて、現代の科学文明への、批判とも呪詛ともつかぬ言葉でしめくくる。まるで、ギリシャ存在論を現代に蘇らせたハイデガーの哲学批判・文明批判を思わせるが、山川の論調にはハイデガー的な冷徹さはなく、むしろ心情的である。ここまでの論理重視の展開(余技として図形を用いた数学的議論を含む)から、最終章になってがらっと論調が変わるのだ。ゼノンは実は近代科学のような客観主義・操作主義の、先駆的告発者であったという話になってしまう。しまいにはヒロシマ・ナガサキまで登場するが、原子爆弾の悲劇をピュタゴラス派の哲学のせいにされたのではたまらない。唖然としつつ読み終わる。

ゼノンの逆理を、そしてそれだけを扱った、日本語の一般書としては類例のない本だ。無限論や時間論に興味のある、哲学癖な方々には一読をお勧めしたい。俺としては、ゼノンの提起した問題について、もっと数理哲学に引き寄せて、引き続き考えてみたい。

読書欄TOP|てなさく世界
オマケ:4つの逆理とは?

第1の逆理『二分割』の原文は、ふたとおりの読み方ができる。両方を紹介しよう。

『二分割』(バージョン1)A地点からB地点へ行くためには、その中間点に到達できるのでなければならない。たとえその中間点に到達できたとしても、残りの距離の中間点へ到達できるのでなければならない。このことは何度くり返しても同じことで、どこまでいっても残りの距離がある。なのにどうして運動が可能なのか。

『二分割』(バージョン2)A地点からB地点へ行くためには、その中間点に到達できるのでなければならない。しかしその前に、そこまでの距離の中間点へ到達できるのでなければならない。このことは何度くり返しても同じことだ。だとすると、そもそも出発することすらできない。

古来バージョン2をとる説が優勢だ (俺もこちらをとりたい) けど、『ゼノン4つの逆理』の著者山川偉也はバージョン1を採用する。いずれにせよ、二分割をくり返す終わりのないプロセスが終わったものとしなければ、運動が始まることも、あるいは運動が完了することもできない。運動ということの中に、なにか容易ならぬ謎あるいは不合理がひそんでいるということを、この逆理は暗示する。

第2の逆理『アキレス』はこの『二分割』バージョン1の変種と見れないこともない。

『アキレス』 逃げるカメをアキレスが追いかける。アキレスがカメのいた場所に来てみると、カメは少しだが前に進んでいる。その場所へアキレスが行けば、カメはまた少し進んでいる。どこまでいっても同じこと。こんなことでどうして、アキレスがカメに追いつけるのだろう。

「だって、実際追いついてるじゃないスか?」というのは、説明の放棄でしかないのだが、経験の教える所によると、たしかにアキレスがカメに追いつくはずだと思われる。だが、そのときには、カメのもといた場所へアキレスが行くということの、これまた終わりのない反復が、すべて完了していなければならない。終わりのないものが終わるとは、これはどうしたわけだろう。経験と論理の間には、どこか食い違いがあるのではないだろうか。この第2逆理には、運動の存在を認めた上でもなおかつ、われわれの自然記述(と、その基礎にある数学的対象の存在論)に鋭く切り込むような含みがある。俺は、この点に大変興味を持っている。(いずれ、ホームページ上で考えをまとめて発表しますからね。)

だが、運動論・時間論としては、第3の逆理『飛矢』が、いちばん根本的な所を突いていると、俺には思われる。あとの説明を見ればわかるように、これは『二分割』バージョン2と密接に関連する。

『飛矢』 矢が飛んでいるとしよう。矢は、いま現在、それがある場所にあり他の場所にはない。矢がある場所にあって他の場所にないというのは、止まっているのとどこが違うのか。同じである。したがって、飛ぶ矢は静止している。

「なにをムチャクチャな」と誰もが思うだろう。だが、こう考えたらどうか。飛ぶ矢はいま現在そこにある。動くからには、その場所にあることを否定しなければならない。だが、いま現在その場所にあるからには、いま現在、そのことは否定しえない。他の瞬間たとえば1秒後には、矢は他の場所にある。では、いまこの場所にあるという事態が否定されたのはいつか? 1秒後か? 0.1秒後か? 0.01秒後か? どれでもない。この場所にあることが否定されるとしたら、それもいま現在においてでしかありえない。こう考えれば、「矢がいまこの瞬間に動いている」というのが意味をなさないことがわかる。だが、動くのであれば「いまこの瞬間に動く」のでなければならない。ジレンマである。

第4の逆理『競技場(スタジアム)』は、現代の目にはこれら3つとくらべると根拠が弱いように思われる。

『競技場』 スタジアムの両端から隊列を組んでA・B2組の選手団が入場し、同じ早さで進んできて、競技場の中央Cですれ違うとする。AはCを通過し切るのに要する時間の半分でBの傍らを通過し終えることになるが、これは所要時間がそれ自身の半分に等しいということではないのだろうか?

AがBに対する速度はAがCに対する速度の倍であるということから、この逆理は問題にならないように思われる。しかし、実は逆理1から逆理3までをある方法(時間の原子論)で解決しようと試みると、この逆理4があるおかげでうまくいかない。それを理解するために、絵を描いてこの第4逆理の意味を説明しよう。スタジアムの中央に同じ間隔で4本の柱Cが立っていると仮定しよう。A組・B組それぞれ4人ずつの隊列で、反対側から入場する。

   A    ←○○○○   A  ←○○○○   A  ←○○○○
   B ●●●●→      B ●●●●→    B   ●●●●→
   C   ■■■■     C  ■■■■    C   ■■■■
   ある瞬間ν0       次の瞬間ν1     その次の瞬間ν2

というぐあいに、A組とB組が動いたとしたら、この間にAの先頭はCの柱2本の傍らを通過しただけなのに、すでにBの4人の選手の横を通過していることになる。だが、速度の相対性ということを考えれば、この議論にはまったく不合理なところがない。そこで、速度は相対的で、状況によって速さが増減するものと考えよう。

次に、ν0とその次の瞬間ν1との違いに注目しよう。AとBの先頭はν0においてはまだ出会っておらず、ν1においてはすでに通過し終わって離れている。では、AとBの出会った瞬間というものがあるとしたらそれはν0とν1の間のいつかだということになる。これはν1は決してν0の「次の」瞬間ではない、ということを意味する。速度を増すことに制限がないとしたら、時間の細分化にも制限はないはずである。したがって、時間の最小単位などはありえない。

「そんなのあたりまえだ。どこが逆理なんだ?」と怪訝に思うだろう。だが、この『競技場』を他の3つの逆理と組み合わせると、まず、時間は無制限に分割可能であり(第4逆理)、そして「時間が無制限に分割可能であるとしたら」、運動は開始できず(第1逆理)、すでに開始された運動も完了できず(第2逆理)、そもそも、場所の移動は不可能である(第3逆理)ということになる。

アキレスとカメの逆理がとりわけポピュラーではあるが、このように4つの逆理が組み合わさっているところに、ゼノンの逆理の難しさがあるといえる。
。。で、上に紹介している文章にもあるけど、エレアのゼノン、

>その論理は冷徹だが、血はすこぶる熱かったらしく、祖国エレアの独裁政治に叛旗を翻して、僭主暗殺計画に加担するが捕らえられ、拷問を受けたのち、自白する振りをして僭主の耳に噛み付き、刺し殺されるまで離さなかった。

なーんて、実に素晴らしい反骨精神の持ち主! シビレちゃうね。エレアのゼノン、まさに「漢〔オトコ〕」だぜって感じ。哲学者なら、こうありたいね。悪法に従って恨みがましい良い子丸出しに毒人参あおって死んでやるみたいなどこかのブサイクな奴みたいじゃなく、エレアのゼノンのようなのこそ、哲学者のなかの哲学者なのです。これくらい、かっこよくなければ、絶対にダメ。なのに、誰もそうなれないので、きっとネクラな嫉妬で延々と悪い評判立てられてきたのではないか、と思われ、なんつって。

まあ、そんなわけで、ゼノンに限らず、エレア派というのは、とってもラディカルな反権力思想をもってその神髄としていたと考えるべきなのだ、と僕は思ってしまったのです。
そういうところが、どうも、評価されてないのが、実にけしからん!

パルメニデスという人も、とにかく人格高潔で崇高なとてもステキな方だったと言われているのに、悪の頭目みたいに言われたり、逆に明らかに悪党な奴ら(三流のヘーゲル好きのいじめっ子さんにとっても多いんですよ)から自分らの神様だなんて誤解されてしまっているのは、心外です。

とにかく、僕は大声に言いたいのであった。

パルメニデスをバカにするな!
>1:NoVALIS666 さん

パルメニデスについては「通説」以下のことしか知りませんが,「通説」がエレア派の対抗者たちによって作られたものとすれば,あまり信じるには値しないと思っています。

>パルメニデスの存在の自同律〈存在は存在する〉は、実際には自同律の思想への最も辛辣な批判でなくて何だろうか。
> それは唯一の〈必然者〉を導く。
> それは〈存在自体〉である究極の存在者、存在極まって存在自体になり果てた存在者であり、冷厳な必然性の真空に呪縛されてそこで永遠に凍死した孤独な化石の星になるのである。

別トピックで「アキレスと亀」について検討するうち,同様なことに思いたりました。

>1:NoVALIS666 さん
> 当然、この必然性は現実性に違背する。これは論理それ自体のついに表現することのできない実在的なパラドクスである。

現実性という点についてはよくわかりませんでしたが,

>2:NoVALIS666 さん
> それによってパルメニデスが明らかにしようとしたのは、論理それ自体が虚偽を含んでいるという恐ろしい事実である。

には,なるほど!と感じました。そう考えると合点がいくことがあります。エレア派について書かれたものを読んだのは,ラッセルによるものが初めてでした。ラッセルがあまりにあっさりと扱っていたのにも理由があったような気がしました。


こんにちは。ゆーすきと申します。
NoVALIS666さんの大変興味深いトッピックを見つけたので、書き込ませていただきます。


>〈存在〉から〈非存在〉を生成することは出来ないということは、現実的な生成変化の背後に観念的な基体を想定することを拒絶するということである。
 それは生成変化を基体に帰属させないということであり、現実を観念に従属させないということである。それは現実的な生成変化の実在を否認するということではない。観念的な実在が現実的な生成変化を支配するという不健全な考えを排除するということなのである。


なるほど。「現実を観念に従属させないということ」を主張することによって、「観念的な実在が現実的な生成変化を支配するという不健全な考えを排除 」するというわけですね。
ゼノンがパラドックスを投げかける事によって、観念が現実にそぐわないことを示したとき、

・・・ここからは私の純粋な疑問なのですが、・・・それでは、つまるところ現実において見られる――運動、変化、あるいは生成と呼ばれているものは一体何なのでしょうか?

もちろん、運動、変化、生成と呼ばれているもの各々は、それぞれ異なるものですから、それらを一まとめにして扱うのは乱暴な扱い方であるかもしれません。しかし、わたしがそれらのものを一まとめにして考えたい理由は、私にはそれらは共通して、「あるとも、ないともすぐには判断し難いもの、判断に迷うもの」のように思われるからです。

「アキレスと亀」や、「矢」のパラドックスが示したものは、思考における運動の不可能性ではないでしょうか?しかし、そこですぐに、よって運動というものはありえない、ということになるのでしょうか?あるいは、運動とはただの見せかけのものにすぎないのでしょうか?

>8:ゆーすき さん

尋ねられているわけでもなく,よくわかっているわけでもないので,お答えする立場ではないのでしょうけれど…。

>・・・ここからは私の純粋な疑問なのですが、・・・それでは、つまるところ現実において見られる――運動、変化、あるいは生成と呼ばれているものは一体何なのでしょうか?

観念と独立してある現実について「一体何なのでしょうか?」という問いをされているのでしょうか?

>「アキレスと亀」や、「矢」のパラドックスが示したものは、思考における運動の不可能性ではないでしょうか?

にある「思考における運動」とは観念としての運動ということではないでしょうか?もしそうなら,

>そこですぐに、よって運動というものはありえない、ということに

はならないように感じます。
>だって、ここ、背理・逆説・パラドックスコミュであるからして、当然のことですよね。
>わはは。
全く其の通りですよー。それにいつも通り管理人権限で「私が正義!勘違いヤローを大目に見てのさばらせて上げているのですよw」論法でどうぞ(o>ω<o)

>パルメニデスをバカにするな!
これを言いたくて(書き込みたくて)コミュを立ち上げた其の心意気に惚れてしまいそうです(*´∆`*)

もうちょっと「簡潔な問いかけ」だと色んな方が様々な立場から十人十色の意見を出す
きっかけになり易い

と思いますが…。
すみません、正直に書くと折角のご自身のトピが独り言に終わってしまっている感が
実にもったいないです。確かに詭弁家や正論押し付けタイプを相手にし始めると
時間の浪費ですから色々な気苦労はお察しいたします。

マイノリティで居続けることの難しさ。いろんな人と意見交換をしてみたいものの
議論が変な方向に行って、不毛な喧嘩になるのは嫌だという悩みの難しさを感じます。

>【チェシャ猫くん】違うね。それはきっとオイラのスター性の結果だよ。
意外なところに真実がっ!(o>ω<o)冗談ですよ

的外れな横槍失礼いたしました。
パルメニデスの姿やその考えを今日の私たちの前に浮かび上がらせて深く考察してみることは、とても意義のあることですよね。
存在は存在者ではないということはカントによって指摘されています。

 カントが、「手元にある100円も想像上の100円も同じ100円である。」と言ったら、あなたは「大違いだ、無い100円では何も買えないではないか。」と言いたくなるのではないだろうか。確かにそうなのだが、カントは「100円は100円である。」という当たり前すぎることを言っているので、我々は混乱するのである。

 カントがこういうことを言うには理由がある。当時のヨーロッパでは「神の存在証明」のが流行っていて、「万能の神はあらゆる属性を備えている。したがって『存在する』という属性も備えているはずである。したがって、神は存在する。」という説が有力であった。早い話が「神は『ある』ものだから、『ある』はずである。」と言っているに過ぎない。こんな事をものすごく頭のいい人達が大真面目に言っていたのだが、大抵の日本人には屁理屈としか思えないのではないだろうか。

 存在者というのは日常語では「存在する人」という感じだが、哲学用語としては有るとかないとか言える対象のことである。人や物だけではなく抽象的な概念にも適用される。100円玉について言えば、重さや固さとか物との交換価値というような属性は100円玉そのものに備わっている(つまり「有る」)と言えるので存在者である。しかし「有る」ということは100円玉そのもの属性ではない(今ここになくても、100円玉は100円玉である)のである。だから、カントは「有っても無くても100円は100円である。」という当たり前のことを言ったのである。このことを小難しく表現すると、「存在は存在者ではない」ということになる。

※ 『存在者』の意味が難しいと思うので、もう少ししつこく解説しましょう。

ここに美しい赤のバラの花があるとします。そして、この花の「赤い」という属性について考えてみましょう。このバラの花の他の属性はそのままで、色だけを「白」に変えたものを想像してみましょう。想像できますね。この時、赤色は存在者であると言います。赤という属性だけを抽出して、それが存在するかどうかということを考えることができるからです。
では、この花の「美しい」という属性(?)はどうでしょうか。他の属性はそのままで、美しくない、その花を想像できるでしょうか? できませんね。『美』そのものを抽出することはできません。『美』は存在者ではないからです。
このことを小林秀雄は、「美しい花がある。『花』の美しさといふ様なものはない。」という適切な言葉で表現しています。厳密なことを言うと、小林は世阿弥の言う抽象的な「花」について述べているのですが、これを植物の花と解釈しても十分意義のある言葉であると思います。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

背理・逆説・パラドックス 更新情報

背理・逆説・パラドックスのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング