ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

背理・逆説・パラドックスコミュの思考する電脳

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
逆説というには至らないので、テーマに相応しくなければ、お手数ですが、管理人様、ご削除ください。

「言葉にならないもの」を考えているうちに、考え込んでしまったテーマです。
派生というには少し違いすぎるので、もし、このコミュニティで許容されるならうれしいです。

本当は、タイトルは。
「アトムは、トビオになれるか」にしたかったのですが、、。

ご存じだと思いますが、アトムは、天馬博士(お茶の水博士ではなくて)が、自分の息子のトビオの死をきっかけに、トビオを科学省の力を総結集して再現しようとしたものでした。

結局、姿かたちはそっくりでしたが、人間を遙かに、超える能力を与えられたのにトビオにはなれずに、天馬博士に捨てられたというのが始まりです。

今、個人的に思うと、人は形ではなくて、その連続的存在があることの方が重要だと思うようになりました(手塚治はそこまで考えて、そういうストーリーとしたわけではないと思いますが)。

計算速度とメモリーは飛躍的に進化して、ロジックも、ニューロや並列型を使った連想思考に近い(まだ、並列コンピューターのレベルかもしれませんが)こともできるようになってきています。

OSに相当するものは、ないでしょうが、バイオコンピューターも生まれるかもしれません。もうあるのかもしれません。

その1:コンピューターは考えるということができるようになるのでしょうか
→「中国人の箱」のように、あらゆる質疑をシミュレートしておけば、あたかもトビオと同じように反応することはできる。
外からは、考えて答えているように見えます。そういえば人工無能というソフトがありましたね(笑)

その2:考えることができるようになったとして、個として存在するのでしょうか
その3:それは、「実存」といえるのでしょうか。


AI:アーティフィシャルインテリジェンスは、一般語化しましたが、
AE:アーティフィシャル・エグジスタンスは、まだ、一般化はしていないように思います。

人は、モータル(死ぬべき運命にある)が故に、インモータル(不死)である、コンピューターは、考えることができても、個を持ちえないという説もあります。

こじつけですが、人間は、人間というエグジスタンスが、人間を超える可能性をもつ「エグジスタンス」を作りえるかという矛盾ととらえていただければよいでしょうか。

中途半端ですみません。

コメント(98)

そうりさん

私の考えている「思考」のイメージは・・・

・反射は思考ではない。
  -ヒザを叩いて足がピョンと出る
  -食べ物を消化するため、腸が動く
  -歩くときに、左右の足にかかるバランスを絶妙に調整して、倒れないようにする
 などなど、人間が「意識的」にやっていない動作に関わる神経の活動は、「思考」と呼べないのではないか。

・となると、概ね、「大脳」対「小脳+脊髄+その他神経系」に分けられる?
  上記の例は、概ね小脳以下の部分が担当している
  となると、乱暴な言い方をすると、思考をつかさどっているのは大脳?

・大脳が発達していない生物は反射(的な動作)で動いているのでは?
  爬虫類以下の大脳が発達していない生物は、基本的に「反射」で活動しているのではないか。爬虫類、両生類あたりは微妙としても、無脊椎動物は「思考」していないのではないか?

・逆に大脳の機能をシミュレートするコンピュータが出てきたら?
  それは、「思考するコンピュータ」と言えるのではないか


・・・といったところです。
では、何をもって大脳の機能と呼ぶか、というあたりで、いくつか考えているものはあるのですが、それはもう少し整理してから書いてみます。
>そうりさん

>人間の祖が猿となされている以上,人間は猿の一種

ですが、猿は人間ではありませんね。
思考が「ある題に関してある結論が得られるまでの過程」 の一種だとしても、それを根拠に全ての過程が思考であると結論するのは論理の飛躍を感じます。

どれほどの複雑さを持てば適切かは、正直なところ自分にも分かりません。
ですが、そもそも「思考」という言葉は、入出力に関する特殊なプロセスを指すために作られたものです。
「ある特殊ななにか」を意味する言葉を、「すべてのそれ」に定義しなおして議論するのもどんなものかと。
ホモサピエンスは類人猿の一種だが、全ての類人猿がホモサピエンスではない。
その曖昧な境界を探すことが「ホモサピエンスとはなにか」を定義することであり、類人猿なんだから皆一緒と言ってしまったら、ホモサピエンスという概念自体が不要になってしまいます。

「思考とは過程である」と定義したら、もう思考について議論はできない。
それは「過程とは何か」を議論しているだけです。

>「コンピュータ」を我々が改めて定義し,その要件をソロバンが満たしているのであれば,ソロバンはコンピュータの一種です.

逆に言えば、「思考とはある題に関してある結論が得られるまでの過程のうち、人間が行うもの」と定義してしまえば、定義により人間以外は思考することはできないでしょう。

定義を無制限に拡大・縮小してしまえば、結論はいくらでもゆがめることができます。「ボールがミットにおさまるのも思考」というのは、「ソロバンもコンピュータである」とか「思考とは人間が行うもの」と定義しなおすのと同レベルにあるように思えるのですが。
>> 60:有木さん

誤解なさっているようですね.あくまでも,「私が持つ」「現状の」定義です.「ボールが投げられてからミットに収まるまでの過程」を「思考と捉えることが可能かもしれない」という話は,その「私の定義」の上ではどうであるのかを述べたまでです.私の定義の問題点を自ら指摘している部分でもあります.

定義を終えたら議論はできないかもしれませんが,そもそも現段階では個々人による定義であって,皆が納得できる定義ではありません.議論の余地は十分にあります.私としては,私の持つ定義を変える準備は,定義を考える前も今もできています.私の中でも未だ議論の段階でもありますし,不十分だと感じていますし.どうも私には,有木さんが「皆が納得できる定義を皆で議論する」ことから逃げているように見えます.「定義」という概念そのものを誤解,または扱いかねているのですか?

思考の定義要件に「人間が行うもの」を付加すれば,人間以外に思考は不可能ということになります.ただ,それが妥当であるのかどうかが問題です.妥当でない要件をポンポン付け足した定義を云々と考えることに生産性は低いです.
>> 59:SPLさん

なるほど,「大脳の機能」が「思考」ですか.面白そうです.追記を期待します.


>> トピ主:英さん

そういえば,トピを乗っ取ってしまった上に主題とずれてしまっていますが,この最近の議論は別トピで行った方がよい,主題に戻したい,との事であれば,遠慮なく申し付けて下さい.
>そうりさん

定義とは境界線を定めるものであるというのは全く同感ですね。

境界線である以上、「何がそれに含まれるか」と同時に「何がそれに含まれないのか」の答えがなければならない。

そうりさんの論では対象を無限に拡張することが可能であり、つまりそれは論理的に破綻していないように見えながら、そもそも定義になっていないというのが私の見解です。
まあ、その点が少々気になったわけですが。

この場でやる話題としてはふさわしくないというのも同意します。
主題から外れる度合いが大きいので。
 とても興味深い対話が続いていますので、中断させると申し訳ないとも思ったのですが、ここまでの対話の中で感心の続いている”思考”について、私見を述べさせて下さい。
 まず、自分は”思考”はある、と定義付けてみます。
 そして、どうやら”思考”を定義付けているものは、それが動物でアレ植物であれ、無生物であれ、人間の側の主観で判断される、とこじつけてみます。(笑)

 コンピューターのバイナリーデータは、単純な1/0の繰り返しを組み合わせたもののようですが、連続した情報や緻密な分析結果は、やはり”思考”と表現しても差し支えないと考えてみます。

 (ちょっと、あやふやな表現で申し訳ないのですが 人工知能の専門家ではないので割愛して下さいw)

 コンピューターは、人間と違って、眠らない(思考の中断)し 死なない(思考の遮断)ようです。
 故障することはありますが、データを復元できれば、ほぼ半永久的に連続した”思考”が可能です。

 これは、やはり”思考”と呼べるのでしょうか。
 ”記憶”ではなく”記録”としては、コンピューターの能力は、人間のそれをはるかに凌駕してると思いますが、記憶の堆積を短い情報の中に集約して再構成する作業を”思考”と呼ぶのだとすると、やはり電脳には、思考に似た機能は備えていても、まだそこまでは難しそうだという気がしてきました。

 つまり、”記憶”の再生過程で 人間の場合、正確な記憶の混同や、無意識の改竄も起こりうるわけですが、そこからあたかも化学反応のように、まったく予測もしなかったような”新たな思考”が生まれたりもするわけです。

 ひょうたんから、駒のような。

 こうした論理の飛躍や 逆転の発想は コンピューターには難しい離れ業のような気もします。
 なにしろ時系列の情報や、既存コマンドを無視して新しいコマンドを自分で作り出すことは、人間の手が加わらなければ難しそうですから。

 ランダム変換やカオス抽出も、ある意味、プログラムで補完された範囲内での”きまりごと”の中でだけ起こりうる「予測できるプログラム」のようです。

 こうなると、人間の”思考”の本質や性質が分かってくることで”思考する電脳”の概要が明らかになってきそうですね。
 なんだか独り言みたいな事を書いてしまいましたが、お邪魔しました。
 連続投稿で、すみません。
 英さんが、上トピで仰る、アーティフィシャル・イグジスタンスとは、そういう事を指してるのだとすれば、問いかけに対する内容重複で、答えにはなってなかったと思います、失礼しました。^^;
再三言うように、プログラムの限定性が人間に該当しないこと、人間の選択・思考の非限定性を主張出来る根拠が見えない。
62 そうりさん

>なるほど,「大脳の機能」が「思考」ですか.面白そうです.追記を期待します.


もう少し書いてみます。


原始的な生物だと、「走性」といった形で行動が決定されています。
・明るい方向に向かって進む、正の走光性
・炭酸ガスに引かれて進む、CO2への正の走性
などです。

#入力に対して、1対1で単純な出力が出るだけですよね。

ただ、この組み合わせがたくさん用意されると、行動の決定が難しくなってきます。


・明るい方向に行きたい
・炭酸ガスが多い方向に行きたい

の2つがあった場合、暗い方向に炭酸ガスがあった場合、どちらが優先されるかを比較して決定しなければいけなくなります。

で、
明るさやCO2以外に、水素イオン濃度や気圧や温度や・・・・などなど、たくさんの要素にそれぞれ走性が設定されているような状況になると、個々の走性の比較で行動を決定することがタイヘンになってきます。

で、どうするかというと・・・

・入力を全部ひっくるめてまとめて「評価」して、「快−不快」の度合いを決めていく。
・行動は、「快−不快」の値がとにかく「快」に振れる方向に行くように決定していく

とすると、単純になってきます。

#入力をすべてTTLのランダムロジックで組んで出力を決定していくやり方が走性だとするなら、このやり方は複数の引数を持つ評価関数を作って、プログラム処理を行い、評価関数の値が高くなるように行動を決定する、という方法になります。

##ある程度単純なマシンなら、TTLのランダムロジックで組んだほうが早いが、有る程度以上複雑になってくると、CPU入れてプログラム組んだほうが早くなる、といった問題に近いかと思います。


で、「思考」の前段階として、この「評価」という過程が入ってくるのではないか、というのが私の考えです。

#この「評価」というのは、「快−不快」以外にも「楽しさ」だとか「たいくつさ」だとか、「充実感」だとか、さまざまな指標が設定できるので、これは、いってみれば「感情」「本能」といったものに結びついてくる概念になるかと思います。

では、どうすればこの「評価値」を上げることができるのか、に関わってくるのが「思考」ではないか、ということですね。

#続きはまた後日
みなさんすみません

NYに行っていたせいで、かろうじて、推移はみていたものの、コメントできずにいました。

もともとの主題は、かなり幅広いものを期待していたので、いろんな展開ありでお願いします。

そうりさん、SPLさん、らぎさん、有木さん、matterさん、そのほかのみなさん、週末にはなんとか、いろいろ、自分なりに書いてみたいと思います。

よろしくお願いします。

食いつかざるを得ない大変興味深いトピックです。

>45 SPL さん

私もB派です。
凡庸な意見ですが【脳もコンピュータも似たような物】と考えます。

"石ころ"は一般的に「思考する」と呼べる程の「物」ではないので、とりあえず石ころは思考しないと考えます。一方、ある種の生き物(SPLさんの提示したリストで言うと1〜5位まで?)は脳を持ち、いくらかは思考すると考えます。

それらの生き物が進化の過程で脳を形成したのは、彼らが生きるために何かを思考することが子孫を残す上で有利に働いたからでしょう。つまり、
【思考するための器官こそが脳】である。同様に、
【思考をさせる用の機械こそがコンピュータ】です。


思考とは何か? を知らなくとも、思考するためには脳あるいはコンピュータという「物」が必要であるということはわかります。「思考」よりも「思考する(可能性のある)主体」の方がわかりやすい。

思考する物のうち、今の所は脳の方がコンピュータより複雑にできています。人間が脳でコンピュータを作れるのですから、そう言っても差し支えないでしょう。とにかく私は、「脳はもちろん思考するし、コンピュータもごく単純ながらだが思考している」と考えています。
ある働きを思考と呼ぶために要求される"一定以上の複雑さ"が上で問題になっていましたが、私ならそれを示す線を石ころと電卓の間に引きます。


また、自律的であることが「思考する」という意味の要のようにもされているかもしれませんが、私はあまりそうは思いません。

石ころも電卓もパソコンも、本来人間にとってはただの「道具としての機械」に過ぎないはずです。しかしながら、おそらく全自動を、つまり自力で埃のある所を探して部屋をくまなく掃除する能力を持った掃除機を、果たしてAI(人工知能)と見なすか、それとも「道具としての機械」と見なすかが重要であるかのように思われているだけに過ぎないのです。本来、どっちでもいいことです。

前者は思考する物、後者は思考しない物、とするならば、人間はこれと同じ意味で思考しているとされているに過ぎなくなります。

人間が誰かに操られて思うように動かされていたとしても、「人間は思考している」と言っていいのではないでしょうか?
私はそう言いたいので、「電卓は思考している。石ころはちょっと複雑さが足りない」と考えます。


* 実存と云う話からは遠ざかってしまいましたが、とりあえず、上記が自分の"「思考」のイメージ"です。とどのつまり、「思考」という働きは一定以上の複雑さを持った情報処理であると私は考えています。
久々に、洗濯する時間ができたので、少しゆっくりコメントさせていただきます。

最新の話題ではなくて、とりあえず、少し引っかかっていたところにふれられていた#52walmartさん#70hijk さんのお話ですが、

思考をすること、自意識を持つこと、実存と呼べることというのは、深くかかわっていますが、その間の関係は、かんたんではないと思っています。

何人かの方がすでに、書かれていることですが、(多少言い方は違いますが)、

あるinput(物理的なものも含むのか、データのみかの議論もありますが)があって、それを何らかのアルゴリズム・ロジックで処理し、あるアウトプットを出すということ(IPOと略します)が、必要条件だと考えています。
では、十分条件は何かというのが、皆さんの議論しているところではないかと思います。

機械にしろ生物にしろ、単純なものは、おそらく「思考」していない、「反射」もしくは、一定のプログラムに従ってアウトプットを出しているだけというのも概ね一致しているようです。

そうりさんの言われていた例で、ボールを投げるグラブに納まるとうIPOも同様のことかと思います。

結局定義しているのはヒトであるので、ヒトがどう判断するのか、という主観的なものを排除するのはどういう方法があるかという議論もあるとは思います。

まず、人は思考しているという前提から始めるのが、おそらく、これまでの、いろいろな体系では、「自明」として扱わざるを得なかったというところはあると思いますが、共通認識としての思考の定義がおそらくなされることは可能だと思います。それに照らし合わせて、結局、ヒトが思考していたと錯覚していたことは、反射の高度化したものにすぎないという結論もでるかもしれません。
また、逆説的ですが、反射に加えてなんらかの反射以外の要素、たとえば、適者生存などのために、「快・不快」から学習して、ロジックを自律的に変えていくレベルから上を思考と定義するというのもあながち悪くはないのかもしれません。あくまでも例です。

石ころが考えているかというと、IPOが外見からはわかりませんから、今の僕のなかでは、まだ、なんとも言えませんし、おそらく、蟻単体が考えていなくても群体としての蟻社会のIPOを観察すると、蟻社会として「考えていない」とは言い切れないかもしれません。

この複雑な地球という惑星の反応をみていると、ものすごく長期的なスパンで考えていないとも言い切れないかもしれません。

乱暴にいうと、未消化ですが、IPOの過程で、Pの部分が試行錯誤などを通じて、異なったロジックを学習していくということは、十分条件の大きな一つだと思っています。自律的にロジックを変えていくこと。

それが、自然発生した生物か、人工的な生物か、もしくは、コンピューター上のシミュレーションかで発生した人工的なものかにはディペンドしないのではないかなと考えています。

結論がないまま先に進んでしまって申し訳ありませんが、思考しているものに意識があるかないかというポイントはいかがでしょうか。

人口知性という意味で、意識があるのか、というのは、大きな問題だと考えています。

すみません、時間切れです。また後ほど
すいません。
頭が悪いながら聞いてもいいですか?

思考は条件反射の複合体って思ってるんですが間違ってます?

で、意識の有無のラインを引く事は議論する事でなく誰かが定義する事じゃないのかなって…


ちゃちゃ入れてすいませんあせあせ(飛び散る汗)
>#74まくたぶ♪さん
いきなり、核心をついてきましたね。

たぶん、いろいろな分野で、先端の議論の一つになっていることだと思います。

色々な、ご意見を待ちたいと思います。

ただ、意識、自体はむしろ、思考よりも「定義」の問題ではなく、客観的に議論すべき対象ではないかと思っています。あくまでも、現時点での感覚ですが、。

意識の芽生えは、どこかにあるのではないかと思います。

意識と、一段上のレベルの自意識の問題の相違の話になってしまいますが。

こう考えている私と、独立に存在しているあなたは何?
私の見ている青は、あなたの見ている青と本当に同じでしょうか?

なんて考えてみると楽しくありませんか?

犬のレベルでは、こういう「意識」をもつには、脳の能力が不足していると何かの雑誌にありました。出典を探してみます。
68の続きを書きます

>では、どうすればこの「評価値」を上げることができるのか、に関わってくるのが「思考」ではないか、ということですね。


68では、外部からの入力から直接出力につなげるのではなく、いったん「評価値」を介して状況把握を行い、評価値が上がる方向に動くことが思考の前段階、という話をしました。


#周囲を観察して、気持ちよさそうな方向に移動する
#目の前にあるものが美味しそうだったら食いつく

などですね。温度・嗅覚・視覚情報・音など、さまざまな外部からの刺激を評価して、良さそうな行動をとる、と。


これが、まあ、感情・本能、といった動きだとすると・・・


思考の基本は

・実際には入力されていないデータを評価することができる

というのが、最低条件だと考えています。


つまり、
「目に見えているあれが気持ちよさそうだから、そちらに移動する」
ではなく
「この山を越えた場所には気持ちよさそうなものがあると思えるので、まずは山を越える」
といった形でしょうか。

要は「シミュレーション」ができるかどうか、が思考の必要条件ではないかと思うのです。

1)入力を評価することができる ⇒ 感情
2)シミュレーションを行い、その結果を評価できる ⇒ 思考

となると、いわゆるAIを搭載したゲームはある意味「思考」していると言ってよいのではないか、というのが私の考えです。

将棋にせよ、オセロにせよ、思考ルーチンを持ったゲームは
・現状の盤面を評価して、自分が有利かどうかの判断
・まだ着手していない手を検討して、将来の状況のシミュレーション
といった機能をもっています。

で、いわゆる人工知能がどうして生物っぽく見えないか、というと、生物が基本的に持っている「自己保存」が評価値に入っていないのが原因ではないかと思うんですね。
#将棋のソフトは、「相手の王を詰めること」を最優先に行動するけれども「自分自身の電源が切られること」に関して無頓着です。

人工知能搭載のコンピュータに対して「自分自身のスイッチが切られないことを最優先に行動する」「自分自身の電源が切られないための行動が取れるような制御機器を付ける」といった機能を持たせると、かなり生物に近い振る舞いをするのではないかと思います。
#さらに、自己保存だけではなく、自分自身の複製を作る機能を持たせると、このAI搭載のコンピュータは結構厄介な存在になりそうです。

で、トピ主さんの疑問は、どちらかというと、思考よりはその前段階の「感情」とは一体何なのか、といったあたりに結びついていそうだ、というのが私の感想です。

#シミュレーションについては、コンピュータの持っている機能と、人間の脳が持っている機能に、大きな違いは無いのではないかと思うのですが、「ある値の大小」を「快・不快の感情」として考えることが、ちょっと想像がつかないです。

##このあたりは、脳内麻薬がどうのこうの、といった話につながるのかな?
いずれにせよ、その分野は詳しくないので、他の人の意見も聞いてみたいです。

>74 まくたぶ♪ さん
>思考は条件反射の複合体

単純な条件反射ならば、大脳という物は必要ないような気がしますが、それが「複合する」となると、いかにも複雑な回路が必要であるような気がします。

条件反射とは、主体が刺激を得ることによって思考を開始し、その思考から導き出された反応として主体が影響を返す(反射)という過程である、といったイメージであっているでしょうか?

私の考えはこれに近いです。

獲得された情報に従って「適切な(条件反射的な)」処理が行われることを思考と呼ぶならば、人間も電卓やロボットと大差の無い存在と見なすことができるでしょう。
そこで、興味深いのは、SPL さんのコメント76です。

>・実際には入力されていないデータを評価することができる

「入力されていないデータ」は、「条件反射である」という思考の解釈においては何の意味もなさない、
と率直に思いました。


SPLさんのコメント68の
>「思考」の前段階として、この「評価」という過程が入ってくる

という評価の働きについてまとめてみたいです。

コメント76より、感情・本能における「評価」は次のような段階的過程における「評価」であると私は解釈しました。

(A)入力された複数の要素を評価する -> 良さそうな行動を取る

これに対してコメント68の『思考』における「評価」は次のようになると思われます。

(B)入力された複数の要素を評価する -> 状況把握 -> シミュレーションによって評価値が高まるような行動を決定
>SPLさん
ちょっとわかりにくかった部分を質問したいです。

>さまざまな外部からの刺激を評価して、良さそうな行動をとる

「評価」と「良さそうな行動」はどのように結びついているのでしょうか?


>「この山を越えた場所には気持ちよさそうなものがあると思えるので、まずは山を越える」

あらゆるシミュレーションが、というわけではありませんが、「もしこの山を越えたら・・・」というような想定は学習能力または慣れによる働きではないでしょうか。

例えば、ボタンを押すとバナナが落ちてくるような装置を使って、サルにボタンを押してバナナを取ることを覚えさせると、サルは「このボタンを押したらバナナが取れると思えるので、まずはボタンを押す」というように。

この現象について、「サルは見えていなくてもバナナを"見る"(想像する?)ことができる」とすれば、ただの学習能力が「思考」の条件になってしまうのではないでしょうか?
>> 68,76:SPLさん

> ・入力を全部ひっくるめてまとめて「評価」して、「快−不快」の度合いを決めていく。
> ・行動は、「快−不快」の値がとにかく「快」に振れる方向に行くように決定していく
> では、どうすればこの「評価値」を上げることができるのか、に関わってくるのが「思考」ではないか、ということですね。
私の見解もほとんど全くと言っていいほど同じです.あらゆる「意識体」の行動選択原理だと思っています.

ただ,感情と思考の区分けについては,同意しかねます.
感情と思考はそう単純に切り離すことができないと考えます.
あくまでも,シミュレーションつまり「予測・予想」は「高次/複雑な思考」という表現に留めるべきというのが私の見解です.
それから,
「シミュレーションはいかにしてなされるか?」
「シミュレーションとそうでないものを分別するラインはどこか?」
などといった考察・議論が必要だと思います.

> 「ある値の大小」を「快・不快の感情」として考えることが、ちょっと想像がつかないです。
とありますが,「ある値の大小」「快・不快」を「単純なそれ」と認識するのではなく,「その範疇かどうか」を意識して自らの行動選択を深く考察し,それから想像してみるといいと思います.


>> 74:まくたぶ♪さん

> 思考は条件反射の複合体って思ってるんですが間違ってます?
私の見解も同じです.電子演算回路も同じですね.

> で、意識の有無のラインを引く事は議論する事でなく誰かが定義する事じゃないのかなって…
個々の定義で論じていたらいつまでも平行線ですから,定義を統一する必要があると思います.


>> KiLiさん

私もKiLiさんと同じようなツッコミなり返しなりをしようと思っていました.
色々とありがとうございます.


>> 英さん

私のわがまま的な議題転換(展開?)を了承していただき,ありがとうございます.
>79
KiLiさん

>>さまざまな外部からの刺激を評価して、良さそうな行動をとる
>
>「評価」と「良さそうな行動」はどのように結びついているのでしょうか?

これは単純に
「評価が高いものに飛びつく」→「良さそうな行動」
「評価が高い方向に行く」→「良さそうな行動」
「評価が高いものにかぶりつく」→「良さそうな行動」

といったイメージです。

目の前に「暗くて湿気が感じられて水溜りが見える場所」と「明るくて一面緑色で暖かさが感じられる場所」と「明るくて水がたまっていて温度が低い場所」と「明るくて温度が低くて一面が真っ白な場所」が見えたとき、それぞれに評価値を出して、最も高い方向に進む、といったことです。この評価値は、生物の種類によって異なるものになるはずです。


さて、問題は次です

>>「この山を越えた場所には気持ちよさそうなものがあると思えるので、まずは山を越える」
>
>あらゆるシミュレーションが、というわけではありませんが、「もしこの山を越えた?ら・・・」というような想定は学習能力または慣れによる働きではないでしょうか。


この「学習能力」と「慣れ」をどう捉えるかです。

学習と思考のプロセスが入ってくると、実は「評価値が高い」に2つの種類が出てくるんですね。


一つが、条件反射タイプ。

「赤いものを見せて、美味しいものを食べさせる」
これを繰り返していると、いつのまにか赤いものを見るだけで、なんとなく幸せな気分になってくる。
 →赤いものを見ることそのものの評価値が上がってくる。

これは、単なる条件反射、というだけではなくて、
・最初は、ゴルゴンゾーラチーズの匂いがなんとも嫌な臭さだったのが、何度か食べているうちに慣れてきて、いつのまにか匂いが心地よいものに感じられるようになった。
といったものも含まれるかと思います。


で、山を越える話はちょっと違うと思うんです。

山を越えると、そこに美味しいものがあった。
・・・というのを繰り返したとしても、決して「山を越えることそのものが楽しくなる」ということはないはずです。

あくまでも「美味しいものが得られるメリット」から「山を越えることで消耗する体力のデメリット」を引き算して、残った結果がプラスになっていないと山を越える意味が無いわけですよね。

#これに対して、ゴルゴンゾーラの香りに慣れて、心地よく感じるようになったというケースでは、例えチーズが無くても香りだけで楽しかったりするわけです。決して、食べた満足感からチーズの香りを引き算して、プラスマイナスを考えたりはしません。


で、最初に出した「評価」の話に戻すと

明るい→評価値が高い
湿度が高い→評価値が低い

であれば、目の前に見えている光景を見て、明るさと湿度を目視・体感して

明るくて湿度が高い場所があった場合

「明るさの評価値」から「湿度が高いマイナス評価」を引き算して、プラスになるかどうかをその場で判断すればよい。ということで「本能的な判断」で行動が決定できそうです。

しかし「山の向こうに美味しいものがありそうだ」の場合は

「実際には見えていない山向こうの美味しそうなもの」から「山を超えることによって体力を消耗するマイナスポイント」を引き算して評価を行う必要がある。

ということで、「実際には見えていないものの評価」が必要になってきます。

このあたりが「思考」に密接に関係しているのではないか、と思うのです。


>81 SPL さん

なるほど、「評価」の観点で学習と慣れを意味づけると、シミュレーションとの相違が明確になりますね。

{私は「入力されないデータ」というものを考えるために、脳(回路)の可塑性(脳が単にデータの入力を受け付けるのではなく、脳自体が変化すること)によって説明がつきそうな「学習」と「慣れ」を例に挙げました。しかし、SPLさんの提示した「シミュレーション」という考えは、それが何によって説明されるかということを差し置いてでも述べるべき「思考」の必要条件であったような気がします。}


私のサルの例で言うと、「バナナの評価に結び付けられてボタンの評価が高くなる」ことを「学習」と呼ぶことができる。
ゴルゴンゾーラチーズの例で言うと、「もともと評価が低いものとされていた香りが、評価の高いものとされるようになる」ことを「慣れ」と呼ぶことができる。

これらにおいては、対象の評価値が上がったにせよ、思考する者の評価基準が変わったにせよ、結局、思考者は見えているもの・目先のものを評価しているに過ぎない。すなわち、コメント78の(A)に分類されるような処理でしかない。

たとえ、"明るくて湿度が高い場所"のように評価が分裂して、評価を足し引きしなくてはならないとしても、それらが目先のものを評価しているのならば「本能的な判断」であり、やはり(A)に分類される。
SPLさんの「評価」と「シミュレーション」の考えを(私が理解できる限りで、)崖を見た主体についてイメージしてみました。

(1) はいはいを覚えた程度の赤ん坊は崖を見ても躊躇無く突き進む。(評価を行わない)
(2) ロボットは「崖だから進む」か「崖だから進まない」と判断して行動する。(評価を行う)
(3) 思考する者は崖を見て判断し、状況を把握して行動する。(評価とシミュレーション行う)
>まっちゃんさん

私も「夢は思考か」という話をどのタイミングで振るか考えていました。


というのも、「入力があって、何らかの出力を行うプロセスが思考である」という定義では、「夢」以外に「漠然と何かを考えていて、結局何もしない」といった状況を「思考」と呼べなくなってしまうのではないか、という疑問があったからです。


#もっとも、入力・出力が無いという状況をどう定義するかにもよりますが。


いずれにせよ、私は「夢」「白日夢」などは、思考に入れてよいのではないかと思いますが、どうでしょうか?

入力と出力を外界からのみに限定しなければいいと思います.
そもそも,外界からの入力というのは「センサが捉えた情報」です.脳で処理できる情報のごく一部,それも取っ掛かりに過ぎませんから.
外界への出力,つまり行動を伴わなければ思考ではないとするなら,話題にも出てきたマトリックスを例に挙げると,コンピュータにつながれた人間はほぼ思考していないということになります.我々の知覚している世界がマトリックスでないという保証が無い以上,我々は思考していない可能性があります.

夢の登場人物が思考しているかどうかであれば,本当に自己完結的な夢であれば「登場人物自身は思考していない」ということになると思います.思考しているのは,夢を見ているその人自身です.自身の無意識が黒子をしている台本の無い人形劇を舞台に立ちながら観賞しているようなものです.黒子が必死に思考し演出していることでしょう.そして,黒子の本質は自分自身です.
人は寝ている間に記憶を整理している、なんて話を聞いたことがあるんですが、もしそうであるとすると、
夢は結果として記憶の改変に結びつくわけですよね。

すなわち、脳が脳に何かを出力するということがおきていることになる。
同様に考えれば、脳が脳から何かを入力されるということもおきている。

人は外界とのインターフェースをもたなくとも、自分の頭の中の回路で信号の流れを作れば、思考していることになるのでしょうか。

この"流れ"がどう変わったら、トピ主さんの言う"連続"という性質がなくなるのか興味深いところです。
面白い問いですよね。
アトムがトビオに成り得るか、という問題の肯定は、終局的に人という有機物を、機械という無機物と同定することができる、という結論になりますね。
もし自己保存をしたいと思う人であれば、肯定、否定、いずれの論理を展開しようとも、持論の否定、肯定を通じて、アトムはトビオには成れなかった、という結論を求めることでしょうね。

上では思考というものが随分と議論されていて面白かったです。
私も、思考というものは
74さんの
>条件反射の複合体
ということだと思います。
ただ、もう少し限定させて、普遍性の無いもので、という条件をつけたいと思います。
つまり、同じ刺激に対して同じ反応を返すものを思考と看做さないことにしています。
これの便利なところは、今は思考と捕らえられていることでも、その心理に普遍性が認められれば、もはや思考とば呼ばれない、という柔軟性があることでしょう。
つまり、たとえプログラムされているものであっても、プログラムされていると確定されない段階までに於いては思考で有り得るけれども、確定された場合には思考とは呼ばれない、ということです。

人に成り得る、ということについて考えるには、どういうことが人らしいか、ということを考えることでもあると思います。
私の場合は、想像力や連想力、それと飽き、でしょうか。
想像力や連想力は、学習や、慣れの延長線上にあるでしょうが、飽きはその飽和状態なのでしょうかね。
ただ、それらが発情期を不必要なものとしました。
生物としては非常に面白いことです。
学習や慣れも、外的な要因からの条件反射という受動的な印象を受けます。
私は自動人形と同定されなくないので、自由意志という能動的な印象を持たせた言葉を用意したいと思います。
これが人の到達できるものであるかは別として。
これは外的な要因に起因することなく内側から発露するもの、ということでしょうか。例えば、五感の無い状態から生じるもの、でしょうか。
何かと比較して認識をする私たちには、深い断絶が隔たるものでありそうですね。
けれども、それくらいのものを用意しておかなければ、そしてそれが先天的に人が持ち合わせていると想定しなければ、自動人形と同定され得ますからねえ。
突き詰めれば人間は機械なんじゃないでしょうか
詳しくは知りませんが感情や心も脳の中の電気信号らしいし
結局は程度の違いですよね
あと素材がシリコンか有機物かの違い

違いがあるとすればなんなんでしょうか
>> 91:ちるねさん

学習型プログラムやプログラムエージェントの集合などは挙動が動的で,これらを普遍的とするには少々強引かと思います.となると,学習型プログラムやプログラムエージェントの集合は思考している可能性が出てきます.

また,
>>同じ刺激に対して同じ反応を返すものを思考と看做さない
のであるならば,もっと単純な話,乱数を用いたプログラムは思考している可能性が出てきます.

さらに言えば,どこまでを入力とするかにもよりますよね.となると極端な話,世界の状態そのものを入力とすれば,すべては思考でなくなります.決定論というやつです.
>93:そうりさん

上の議論を読んで、私なりに思考というものを考えていったものの、正直、書いていく内に困ってしまいました。
劇場論、運命論、決定論を支持していても、ピュグマリオニズム的な代替物としてそれらの論を用いるのは避けたいという気持ちが明確になっていきました。
例え自動人形であるとしても、代替物として同定可能な同一性は遠慮願いたいなと思いまして、かといって劇場論などを支持すると問題の提起のされ方から思考の否定がすなわち個性の否定にまで繋がってしまいそうに思えましたので、どうにかして思考というものを取り出そうとしたのです。
しかし、書き込んで読み返してみて、正直、考察が足りないなと思いましたね。そういうこともあり、ここに書き込んだことは有意義なことでした。
私は、初めから同じようになることではなく、異なるようになることが決定されていると思いたいのですね。それだけははっきりしました。
なので、同定され得る自動人形の可能性については否定したいですね。
皆さん
ご無沙汰しています。
公私とも色々あって、このスレを立てた張本人ながら、脱落していました。

本旨から、思わぬながら、新しい議論がでていたり、また、アトムはトビオになれるかの議論にも戻ったり、もう一度、きちんと読ませていただいて皆様にフィードバックできればと思います。

期せずして、いま(弱い)AIブームですが、いな言われるAIやロボティクスは、この場で議論した、AIとはまた別のものかと思います。

強いAIと弱いAIの弱いAIのみが一気に席巻している状況だと結構憂慮しています。

一方で、学会では研究は進んでいますし、SFやフィクションでは、色々な形で強いAIが真面目な進化系として出てきています。

今、ちょっと思い出しても、最近の森博嗣さんのWシリーズとそこからさかのぼってすべてがFになるのS&Mシリーズ、四季シリーズでも、知能、生命、、、自分とは何かなどがさらっと提起されています。

アメブロで、AIを含めて
電脳・AI/社会の血流たるお金・価値、電脳ネットに人間が入れるのか(攻殻機動隊やトロンとか、ブレードランナーとか、、、)、仮想空間に転生(笑)するとか、、。
など書き始めました。

ご興味のあるかたは是非

https://ameblo.jp/you-t90/entry-12544302113.html


>>[1]
むかーしのミクシーのトピックです

アメブロで、個人の考察で再開しました。

遊びに来てください。

英

https://ameblo.jp/you-t90
>>[3]

ご無沙汰です

むかーしのミクシーのトピックです

アメブロで、個人の考察で再開しました。

遊びに来てください。

英

https://ameblo.jp/you-t90
>>[4]

ご無沙汰です

むかーしのミクシーのトピックです

アメブロで、個人の考察で再開しました。

遊びに来てください。

英

https://ameblo.jp/you-t90

ログインすると、残り63件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

背理・逆説・パラドックス 更新情報

背理・逆説・パラドックスのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング