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メイキングオブ ハルカ天空編コミュの●第九章 前夜 1〜4

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 第九章 前夜
 ─1─

 月が百万個、一度に出たほどのまぶしい光が頭上を覆っていた。アマテラス号だ。
 ハルカが水色の腕輪で連絡したのではない。たぶん、このときのハルカの念は弱すぎて、遠くにいたアマテラス号までは届かなかったのだと思う。
 俺たちの場所を見つけてくれたのは、卑弥呼だった。奴国【ルビ:なこく】の異変は半日遅れでアマテラス号に知らされ、検分に急行する途中、俺たちの焚き火を“偶然”発見したのだという。
 もちろん偶然であるわけはない。卑弥呼はこの件について多くを語らなかったが、どうやら何者かが発した強い思念を感じとったようだ。
 俺は、あの場所を卑弥呼に教えたのが徐福だと直感した。確信があるわけではない。ただの思い過ごしかもしれない。だが、あのクソじじいには、俺とハルカをまだ生かしておきたい理由がある。そんな気がした。
 ハルカはアマテラス号を目にすると、安心したのか、また意識を失った。
 卑弥呼が言うには、俺のイメージを三富に伝えながら、足がかりになる岩の危険度を探るというハルカの行為は、体調が万全であっても心身に負担を与える相当な無茶らしい。
 ともあれ生命の危機は、すでに去っていた。熱はまだあるものの、ハルカは高熱でうなされていると言うよりは爆睡中だ。今は俺の後ろで寝息を立てている。
 ちなみに寝ている場所は、アマテラス号の卑弥呼の部屋。その隅に設【ルビ:しつら】えられた卑弥呼の瀟洒【ルビ:しょうしゃ】な寝台だ。
 なぜこうなったかと言えば、ハルカの代わりに事の顛末【ルビ:てんまつ】を報告せざるを得なくなった俺が「ハルカのそばから離れるのは絶対イヤだあああ」と、子供のように駄々をこね、大いに呆れながらも卑弥呼がその条件を飲んだからだ。
 卑弥呼の部屋には、フセマル、それに見知らぬ姉妹がいた。
 頬に鮮やかな朱の線を引いたふたりの少女は、ともに十代に見える。姉の辰穂は憂いのある瞳が印象的な美人。短い角をもつ妹の辰実も美人だが、まだあどけなさが残っている。
 だが、この美人姉妹、只者【ルビ:ただもの】ではない。卑弥呼の説得により新たに火の一族に加わった海ノ衆【ルビ:うみんしゅ】が派遣した正式な特使だったのだから、本当にビックリだ。
 俺は、卑弥呼とこの三人を前に、昨日の夜から今に至るまでの経過を説明した。
 溶岩の噴出で奴国が短時間で滅亡したこと。花連が俺たちを逃がすために犠牲になったこと。その同じ夜に笑助の操る石人と対決し倒したこと。その折に、キララという土ノ衆が火の一族に加わったが戦死したこと。
 翌日、三機の石人に分乗し地下の溶岩の川を上り、四人で阿蘇まで行ったこと。途中で鬼奴国【ルビ:きなこく】の都市の残骸をいくつも見たこと。土ノ衆もまた一大率の犠牲者であること。
 阿蘇に到着後、アマテラス号と同型の円盤に招かれ、そこで徐福に会ったこと。徐福が帰国のために時空をつなぐ鏡を制作していること。鏡を作るためにこれまで何万もの命を奪い、完成のために今後さらに一部族、数千人を殺すつもりでいること。
 円盤が浮上した際、お夏と正十郎が溶岩に落ちて死んだこと。土ノ衆三人を救出し阿蘇の火口から脱出したこと。
 ……俺が言わなかったことは、三つだけだ。
 ひとつは、お夏が最期に残した「みんなが憎い」というあの言葉。ハルカが言いたがらなかったことを、俺がわざわざここで公にする必要はないだろう。
 残りのふたつは、話すにしても卑弥呼だけだ。そう思った。
 俺の報告が済むと、徐福の潜伏先、次の襲撃場所、その方法が議論の的になった。
 だが、いつもと同じで、結論どころか推測をするにも情報が足りない。
 徐福の潜伏先は皆目わからない。襲撃場所に関しては、いまだ一大率に攻撃を受けていない主要部族が海ノ衆を含め六部族。その数をかぞえただけで、具体的な場所の特定には至らない。とうぜん攻撃の方法は想像もつかない。
 いつもと様子が違ったのは、巫女のヤマ勘を振りかざすハルカが、同じ部屋にはいたが一言も発しなかったことくらい。まあ、寝てたのだから当然だ。
 結局、各地の火の一族に連絡し、情報収集に努めることを確認しただけに留まる。
 会議が終わると卑弥呼に促され、海ノ衆の姉妹はフセマルと食事に行った。
「さ、報告の続きを」
 卑弥呼は、三人が退室するのを見届けると、何食わぬ顔で俺にそう告げた。
 ──かなわねーな、この女王さまには。
 俺は、苦笑いしながら、隠していた二枚のカードを卑弥呼に見せることにした。
 だが、話す前に確かめておきたいことがあった。じいさんのことだ。
「なあ、卑弥呼さま。ここにいるのは、あんたと俺のふたりだけだ。お互い隠しっこなしにしないか?」
「かまいませんよ」
 卑弥呼はゆっくりと椅子に腰掛け、俺には隣りの椅子を勧めた。
「さっそくだけど、あんたと建政坊の間に何があった?」
 俺は勧められた椅子ではなく、卑弥呼の正面の椅子に前後、逆にまたがって座った。
「建政坊? ああ、あの生きているうちに天狗になった変わりダネの……。やはり、おまえはあの男に縁【ルビ:ゆかり】のある者だったのですね?」
「建政は俺のじいさんだ。てーことは、例の魏志倭人伝は、じいさんが渡したんだろ?」
 卑弥呼は、じいさんの面影を探すように俺の顔を見つめている。
「ええ、預言書だとね。『命が惜しければ、俺を信じろ』とも申されました」
 卑弥呼の声に動揺は微塵もなかった。まるで他人事のように聞こえた。
「で、あんた、信じたかい?」
 俺は、椅子の背もたれの上に片肘をついて、卑弥呼の答を待った。
「まさか。そう簡単に他人の予言を信じては“卑弥呼”は務まりませんよ」
 卑弥呼の目が光り、口元には不敵とも見える微笑が浮かんだ。
「そりゃ、そうだ。巫女の商売あがったりか……。だけど、うちのじいさん、金と女に関しちゃ、しつこいからな。『はい、そうですか』ってわけには、いかなかったろ?」
「ええ、二度目に会ったとき、妙な矛を地に突き立てて『これを抜く者が邪馬台国を救う』と食い下がってこられましたね」
 そこまでは、虚空坊から聞いている。知りたいのは……。
「そのあと、どうなった?」
「突き立てた矛に首を差し出し、あっという間に……。おかげで聖地は血だらけですよ」
 思い出し笑いだろうか。さもおかしそうに、卑弥呼が珍しく声をあげて笑った。
「おいおい、笑い事じゃねーだろ……。いちおう訊くけど死んだんだよな?」
「……阿呆」
「へ? い、今、“あほう”って言った?」
 あまりに似つかわしくない卑弥呼の返答に、俺の声は裏返っていた。
「言いましたとも。あまりの愚鈍さにいささか呆れました。その様子では、本当に気づいてないようですね。おまえは健政坊に、すでに何度も命を救われているはずですよ」
「はぁ?」さらに俺の声は一オクターブ上がった。
「ただの錆びだらけの不細工な矛が、触れてもいない物を斬れるとお思いか?」
 俺は思わず立ち上がった。床に転がしていた逆矛を拾い上げる。
「でぇぇぇ!? ちょ、ちょっと待って。これ? ……これのこと?」
 卑弥呼が言ったことが、にわかには信じられなかった。だが、確かにこの矛から、じいさんの声を何度か聞いた気がする。俺は、持ち上げた逆矛におそるおそる呼びかける。
「じいさん? おい、本当にじいさんなのか?」
 だが、逆矛からは何の応答もない。俺が矛に話しかけるのを見て、卑弥呼は怪訝な表情を浮かべている。
「いくら魂が込められているとはいえ、矛には口がありませんからねぇ……」
 卑弥呼は、また声を出して笑った。
「人間から天狗に、天狗から矛に。おまえのじい様は、ずいぶんと欲張りに転生を楽しんでおられる様子。そうそう、未来で人間になる前には、この私と夫婦【ルビ:つがい】だったとも聞きましたよ。……毒蛇のね。はるか昔には神と呼ばれたこともあるとか」
 卑弥呼の表情からは、笑みが完全に消えうせていた。
「あんたと夫婦? それに神様? いや、それは絶対、口から出まかせだから。孫の俺が保証するから。いや、ホント……、気にしないで。は、は、は……」
 俺は、必死で笑い方を思い出し、引きつった笑みを浮かべた。
「そうですか、それは残念。あながちウソとも思えなかったのですが。それに騙されてみるのも、たまには面白そうでしたがね」
 卑弥呼は、俺を横目で見ながら口に手を当ててまた笑いはじめた。この人のジョークは俺にはきつすぎる。それどころか毒気に当てられて命が縮む思いだ。じいさんが言うように本当に前世は蛇だったのかも。
「さて、そろそろ、鏡の話をしてくださいな」
 唐突に、だが自然に、卑弥呼の言葉は世間話でもしているような調子だった。
「えっ? あぁ……」
 なぜ俺が隠していたのが、鏡のことだとわかったのか、訊く必要はないように思えた。
「ちょっと前、俺は、うちの蔵で青銅の鏡を見つけた。それで、その鏡が光ると俺はこっちに来るんだよ。たぶんじいさんも同じようにして、あんたの前に現れたんだと思う。あっ……? もしかしてこの話、じいさんからもう聞いてた?」
「いいえ」
「じいさんが、その青銅鏡をどんな経路で手に入れたか、俺にはわからない。今わかってるのは、その鏡を作ったのが、十中八九、徐福だってことだ」
 一瞬だけ卑弥呼の目が大きく見開く。だが、すぐに細まり口元には笑みが戻る。
「なるほど、ありえない話ではないですね。それで、蔵で見つけた鏡は完成していましたか?」
 穏やかな声だ。卑弥呼の声を聞くと俺の心も次第に落ち着いていくのがわかる。
「それ、徐福にも訊かれた。訊かれたんだが、思い出せないんだよなぁ……」
「思い出せないのではなく、確定していないのかもしれませんね」
 卑弥呼が、大丈夫だと言うようにニコリと微笑んだ。
「どういうこと?」
「占いでも不確定な未来は、ぼやけて見えるものなのです。おまえやハルカが、このあと、何をなすかによって未来が変わる。そういうことですよ」
 声の調子は相変わらず柔らかい。だが“未来が変わる”。その部分は断定に聞こえた。
「あんた、俺が未来から来てたことも気づいてたのか?」
「薄々は。アレも預言書ではなく伝承記録のようでしたしね」
 アレとは、魏志倭人伝のことだろう。卑弥呼の口から魏志倭人伝の話が出て、以前から気になっていたことが俺の頭をかすめる。
「なあ、あんた。自分が死ぬと書かれていて、よくそんな風に平気でいられるな」
 思わずつぶやいて俺はすぐに後悔した。言わなくていいことだった。俺はすぐに取り消して詫びようとした。だが卑弥呼の返答のほうが一瞬、早い。
「おまえは勘違いをしていますよ。“卑弥呼”は位の名であって個人を示すものではありません。当代最高位の巫女。元々はその程度の意味です。私の前にも卑弥呼は何人もいましたし、私の後にも……」
 なぜだろう。卑弥呼は、そこで言葉を切り、俺を見たままで、ほんの少しだけ遠くに目をやった。そんな気がした。
「ただ、私はもう十分に長く生きました。むしろアレに書かれていた“卑弥呼”が、私であってくれればと切に願っています」
「そうか……。俺も、歴史に名を残す卑弥呼が、あんたみたいな優しい人だといいと思うよ」
 お世辞でも何でもない。俺は心の底からそう思った。
「ありがとう」
 そう言って卑弥呼が立ち上がった。俺のそばに来るとハルカの寝顔を、ちらりと覗き見てから、俺のすぐ横の椅子に席を移す。
「張政、次はおまえの話を聞かせてください。おまえは大きな不安を抱いていますね。もういいでしょう。私に話しなさい。話すのが嫌なら手を握るだけでもいいですよ」
 ハルカが、よくそうするように、卑弥呼も俺の顔を正面から真っすぐに見つめた。
「……何でもお見通しなんだな」
 俺は、卑弥呼の視線をかわしながら溜息をついた。
「女王の座に長くいれば、人の顔色をうかがう術くらい身につきますよ」
 卑弥呼が自嘲気味に顔をしかめた。トップにはトップなりの苦労があるのかもしれない。
「徐福が、俺が生まれた時代に新しい邪馬台国を作るって、ぬかしやがって……。俺、正直、あのジジイが怖い。どうしていいか、わかんなくて……。どうすりゃいい?」
 俺の問いかけは、ガキが母親に訊ねるように飾り気がなかった。
「戦いなさい。そして止めなさい。その矛を持つおまえならできます。ただし……、その戦いにハルカを巻きこまないように……」
 卑弥呼の言葉の前半は、なんだか無責任に聞こえたし、後半は、おいおい、さんざんぱら俺を巻きこんでおいて、今さらそりゃないだろう。勘弁してくれだ。
「どういうことだ?」
「本人にお訊きなさいな」
 卑弥呼は立ち上がり、寝ているはずのハルカを振り向いた。途端に……。
「どひ〜! ごめんなさい……。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、声をかけるきっかけがなくて……」
 飛び起きたハルカは、とりあえず元気そうだった。

 ─2─

 寝台の横に立った卑弥呼が、ハルカを見下ろしている。いつになく厳しい表情だ。
「私の意見は伝えました。あとはふたりで話し合って決めなさい。ただし私とあなたに残された時間は、それほどありませんよ。わかっていますね?」
「はい」ハルカも神妙に応えた。
 その返事を聞くと、卑弥呼は緊張の糸が切れたように寝台の縁にふらふらと腰掛ける。
「それとハルカ……、私は少し疲れました。私と一緒に寝るつもりがないのなら、寝台を返してもらえますか?」
「えっ? あ、すみません。すぐに空けますから」
 ハルカは、いそいそと寝台から這いでると
「……お布団、暖めておきましたので、ごゆっくりお休みください」と小声で付け加えた。
「それは、どうも」
 卑弥呼はうんざりした面持ちで、ハルカの体の形に汗でぐっしょりと濡れた敷布を眺めた。
 俺とハルカが逃げるように卑弥呼の部屋から出ようとしたとき、ちょうど戻ってきたフセマルとかち合った。竜宮から来た美人姉妹も一緒だ。
「奴国上空に到着しましたが、あの様子ではアマテラスを降ろす場所もありませんな」
 フセマルは卑弥呼にそう告げると、部屋の中央を大またで横断し奥まで行き、なにを思ったか壁を乱暴に殴りはじめた。三度ほど叩くと、ピッと音がして壁に何かが投影された。
「この仕掛けを偶然、見つけたときは腰を抜かしたものよ」
 振り向いたフセマルが笑った。
 壁に映し出されたのはアマテラス号から見下ろした地上の景色だった。
 夜だというのに海岸線や山の形がはっきりとわかる。見渡す限り、大地の上にあるものすべてが燃えていたからだ。動くものは明滅する溶岩と風に煽られる炎だけだった。
 その地獄絵は、花乱がいくつか山を落とし、ジャングルも消えたせいで、二十一世紀の別府にかなり似ていた。だが、海岸線の形が違う。俺は、そんなどうでもいいことを、ぼんやりと考えていた。
「これは酷い……。ですが、火が収まるまでは手の施しようがありませんね」
 卑弥呼は苦しそうに胸を押さえていた。ハルカも青ざめている。ふたりは生きながら焼かれた花ノ衆の残留思念に感応しているのかもしれない。
「えっと……、火を消すだけでいい? それならお姉ちゃんとあたしでできると思うよ」
 あっけらかんとした口調で、そう言ったのは海ノ衆の特使の片割れ、妹の辰実だった。
「頼めますか?」
 卑弥呼が姉妹を振り向くと
「多少、地形が変わってもよろしければ」と姉の辰穂が静かに応えた。
「どうせ生きている者はいません」
 卑弥呼の低い声に姉妹が同時にうなずく。
「私は空を。辰実は海からやって」
「あ、お姉ちゃん。ずるい、ずるい。あたしが空だよ」
 姉妹は、玩具を取り合うような調子で何ごとか揉めている。とうとう卑弥呼の目の前でジャンケンもどきのゲームをはじめた。
「申し訳ありませんが、格納庫に案内してください」
 勝負に負け少し悔しそうな表情を残したまま、辰穂がフセマルを振り向いた。
「かまわんが格納庫で何を?」
「いえ、外に出るだけです」
 平然と言ってのけた辰穂とは対照に、訊ねたフセマルのほうが慌てている。
「外? これは異なことを。今、空の上だということをお忘れか?」
「これは異なことを。山犬のおじちゃん、あたしらが海ノ衆だということをお忘れか?」
 口調をマネて、フセマルをからかったのは妹のほうだ。いつの間にかフセマルの背後に回り尻尾まで握っている。そのやりとりを卑弥呼は面白そうに眺めている。
 フセマルは困り果てて卑弥呼をうかがう。すると卑弥呼は口元に笑みを浮かべたまま、うなずいた。フセマルは、合点のいかぬまま、またノシノシと部屋を横断する。
「ついて来い」入り口で振り返ったフセマルの物言いは、かなり横柄になっていたが、
「よろしくお願いいたします」と辰穂に頭を下げられると、
「どうぞ、こちらへ」と、簡単に態度を軟化させ、うやうやしく姉妹を廊下に促した。
 三人が出て行くと、卑弥呼は壁のスクリーンの前に陣取った。
「ふたりとも、よい機会です。海ノ衆の力を、しかと見ておきなさい」
 ハルカはテーブルの上にあった、茶菓子がわりなのだろう、クルミが入った器ごと手首で挟んで持ち上げると、卑弥呼の横に足で椅子を並べた。
 ──手に包帯を巻いたほうがよさそうだな。
 俺はハルカの痛々しい手を気にしながらその横に座り、勧められるままにクルミに手を伸ばした。まるで家族団らんのホームシアターだ。

 あのふたり、本当に格納庫のハッチからダイビングしたようだ。ほどなく、火の海に落下していくふたりの少女が壁のスクリーンに映し出された。一瞬だ。だが、俺のSS【ルビ:スーパー・スケベ】アイが間違えるわけがない。ふたりとも何も着ていなかった。
 ──今のとこ、プレイバックしてコマ送りしてくれ! それと待ち受け画面も欲しいぞ!
 俺が心の中で叫んだと同時だった。アマテラス号の底部が放つ丸い光の中で、姉妹のものであろうふたつの点が、地上すれすれで二本の曲線に変わった。その線はうねりながら、見る間に太く長くなっていく。
「ぶわっ!」
 ハルカが口いっぱいに含んでいたクルミを派手に吹き出した。二本の線の正体に気づいたからだ。俺も修学旅行のとき、どこかの寺の天井で見たことがある。
 ──竜だ!
 二頭の青竜が空を泳いでいる。アマテラス号めがけてグングン昇ってくる。
 ついにスクリーンは、二頭の竜の顔のアップでいっぱいになった。俺は生まれて初めて見たよ、笑顔でカメラに手を振る愛想のいい竜を。
 一頭はアマテラスのすぐそばを通り抜けると、さらに天高く舞う。もう一頭は海に向かって急降下をはじめた。
 辰穂と辰実の姿が見えなくなってから、しばらくは何も起きなかった。
 静寂を打ち破ったのは無数の雷鳴だ。天から地に向かって何百本もの稲妻の柱が一斉に立つ。それに続けて、すべての風景とすべての音を消し去るほどの雨が地上に落ちた。日本中の雨雲をかき集めて一斉に絞ったような勢いだ。
 だが、本当のクライマックスは海上の遥か彼方で静かに準備されていた。
 いつの間にか海岸から水が消えていた。その代わりに水平線に、延々と続くビル街のような黒い壁が現れた。
 ──津波だ。
 それも尋常な高さではない。花乱が落とさなかった山の上半分だけを残し、真っ黒な水が奴国全土を一瞬で被いつくした。
 だが、それで終わらない。同じ規模の波が、息つく暇もなく何波も押し寄せる。ついにはわずかに頭を覗かせていた山の頂上さえも削り取られ水没した。
「あれが年端も行かぬお嬢さんふたりの力。兵の数が百に満たない竜宮が、なぜ他国に恐れられているか。これでわかりましたね」
 卑弥呼の声が耳に届いていないのか、ハルカは口をあんぐりと開けたまま壁を見つめている。いや、確かにあの姉妹の力は凄いと俺も思う。それは認める。だけどもだ……。
「火が消えたはいいが、あれじゃ、アマテラスを降ろす地面もないんじゃねーの?」
「ええ、まあ……。実を言えば、さすがにここまで凄いとは私も思っていなかったのですよ。それに地形を変えてもいいと答えてしまいまし、困りましたね」
 さほど困った様子もなく、卑弥呼はハルカの抱えていたクルミを鷲づかみにすると、二、三個まとめて口に放りこんだ。その様は、俺のお袋のヤケ食いに似ていた。
「あれ、なんだろ? ほら、ぐるぐる回ってるよ」
「ぐるぐる回ってるのは、おまえの目だろ」
 そう言いながら、ハルカの指さすポイントに俺も目をやった。確かに地上を覆う水のあちこちに大小の渦ができている。見える範囲だけでも一〇や二〇はあるだろう。
 風呂の栓を抜いたときに、ああいうのできるよなぁと、ぼんやり眺めていて気づいた。 実際には小さい渦でも直径数メートル、大きいものなら三〇メートルはあると。
「穴にでも流れこんでいるようですね」
 卑弥呼の何げない一言に、俺とハルカは顔を見合わせた。巨大な渦は、溶岩が噴き出た穴から鬼奴国に海水が流れこんでできたものだった。
「ぐるぐるが、みるみる大きくなってる」
 ハルカの言うとおり、渦巻きのサイズは見る間に大きくなっていた。それだけではない。水かさも急激に下がっている。
「地面が見えてきましたね。これなら夜明けには上陸できるでしょう。あなたたちも自分たちの部屋で少し横になったほうがいいですよ」
 そう言うと卑弥呼は大きな欠伸をした。さっさと出て行けという合図だ。

 ─3─

 卑弥呼の部屋を出て、俺たちにあてがわれた部屋に引き上げる途中、廊下の端から子守唄が聞こえた。先に声をかけたのは、赤ん坊を抱いてお散歩中の三富だ。
「おや、もう起きて大丈夫なのかい?」
「うん。もうバッチリ。それより何か困ったことはない?」
 ハルカに訊かれて、三富はしばらく考えて、
「壹与が珍しく夜泣きをするくらいかね。まあ、こうやって歩いてれば、泣き止むから別にいいんだけどさ」と苦笑いした。
「一眠りするくらいの間なら子守りを頼めると思うよ。三人ほど当てもあるし」
 ハルカが赤ん坊の顔を覗きこみ、べろべろばー、とやりはじめた。
「誰?」俺は思わず訊いた。
「まずフセマル。あの人、この船の中で実はいちばん子供が好き。私にはわかるんだ。次は卑弥呼さま。泣いてる鬼でもきっと泣き止むよ」
「おいおい、本気【ルビ:マジ】かよ……。じゃあ三人目は?」
「張政! 子供と年寄りにはなぜか好かれる!」
 当たってるだけに嬉しくない褒め言葉だった。どうやらハルカは最初から俺に子守りをやらせる腹だったようだ。
「メシはまだ、お乳か?」
 と訊いたからには、どうやら俺は子守りを引き受けるつもりらしい……。
「柔らかい物なら何でも食べるよ。あと、オシッコ、ウンコは、ちゃんと泣いて報せる。いつもは寝つきもいいし、本当に手間のかからない子だ。それに……」
「それに?」と繰り返した俺に、
「おまえさんのことが好きみたいだね」と三富は赤ん坊を俺の胸に押しつけた。
 俺は大慌てでハルカに逆矛を預け、おっかなびっくり赤ん坊を受け取る。壹与は俺に抱かれた途端、けらけらと笑いはじめ、笑い声が止んだときにはぐっすり眠っていた。
「ほらね!」「だねえ!」
 三富とハルカが、俺の腕の中で寝息を立てる壹与の寝顔に顔を寄せる。
「壹与を預かってもらう代わりに、あたしは、こいつを預からせてもらおうかね」
 そう言うと三富は、ハルカが抱えていた逆矛に手を伸ばす。
「最初に見たときから気になってたんだよ。どんな無茶な使い方をすれば、こんな風になるのかねぇ。柄【ルビ:つか】が折れ曲がってるだろ。あたしが直してやるよ」
「……できるのか?」壹与を起こさないように俺は声を潜めた。
「あたしゃ、土ノ衆だよ。歩く前からトンテンカンやってたさ。まあ、ここまで酷いと元通りというわけにはいかないがね。この辺りでちょん切って、寸を詰めようと思ってる」
 三富は、柄の折れ曲がった辺りを太い指でコンコンと弾き、首をひねった。
「道具は? 私に手伝えることがあったら遠慮なく言って」
 どうやらハルカは、俺の子守りより三富の手伝いに興味がわいたらしい……。
「道具は格納庫にあったので足りるし、手伝いは息子にやらせるよ」
 三富は、俺が両手で二、三度、振るのがやっとの逆矛を、片手でブンブンと振る。
「折れたときに破片かなにかが、柄の中に剥がれたようだね。だから振るたびに重心が微妙にぶれる。ついでに見ておくよ。出来上がりは明日の昼。それでどうだい?」
 ──破片? 重心がぶれる?
 そんなこと、これっぽっちも気づかなかった。いや、でも今はそんなことより……。
「……てーことは、俺、昼まで子守り?」
「心配しなくても、たぶん昼近くまで起きやしないよ」
 そう請け負った三富の笑顔を見て、俺は胸をなでおろした。

 ──話が違うぞ!
 部屋に着くとすぐに目を覚ました赤ん坊を見て、俺は溜息をついた。
 今のところ機嫌はいいようだが、赤ん坊なんてもんは、いつか泣き出すに決まってる。
「どうしよう?」
 俺は赤ん坊を抱いたまま、ノイローゼの熊のように狭い室内を行ったり来たり。
「ちょっと落ち着いたら?」
 ハルカがうっとうしそうに俺を見上げた。
「そ、そんなこと言ったってよぉ……」
 俺のほうが、赤ん坊より先に泣き出しそうだ。
「ずっと抱っこしてるわけにもいかないし寝かすところがいるんじゃないの?」
「お、そうだな」
 ハルカに壹与を渡すと、俺は非常持ち出し用リュックを探った。ビニールのレインコートとアルミのブランケットを取り出し、急いで寝床を設える。替えのTシャツをシーツにして、枕はツバキ湯のタオルで作った。
「お母ちゃんですよ。アババババ」
 ハルカが赤ん坊を振り回すように揺らす。そのたびに壹与は声を上げて笑った。
「おまえ、いつから、お母ちゃんになったんだよ」
「練習だよ、練習。あんただって今のうちに練習しといたほうがいいよ」
 そう言うと、ハルカは俺のほうに赤ん坊を向ける。
「ほ〜ら、壹与。おまえの大好きなお父ちゃんが来ましたよ〜」
 ハルカは放り投げるように、赤ん坊を俺の胸に預けた。
 壹与は、本当に勘の鋭い子だ。そろそろ寝床に置いても平気かな、と俺が考えるだけで「置くと泣くからね」という顔をする。そして実際、置くと火がついたように泣き、慌てて抱き上げるとピタリと泣き止む。仕方なく完全に寝るまで抱いていることにした。
 赤ん坊というものは意外と重い。一〇分もすれば腕が痺れ、二〇分で背中が痛くなり、三〇分後には腰にくる。そしてなにより熱い! 大人より体温が高いのか、それともこの子が特別なのか、抱いてるだけで汗が吹き出す。
 だからといって、途中で投げ出すことはできないし先送りもできない。赤ん坊の面倒をみるということは、明日ではなく、今、とにかく必死で頑張る。そういうことだ。
 卑弥呼に、今後のことをふたりで話し合え、とかなんとか言われた気もするが、それは明日でもかまわない。しょせんは大人の都合だ。後回しにできる。
 俺とハルカは“Let it be”を三回、歌っては交替するという暗黙のルールを作った。ふたり合わせて三〇回ほど歌ったときだ。ついに壹与をブランケットの上に横たえることに成功した。
 二時間あまりの耐久戦が終わり、俺もハルカもフラフラだった。だが、ふたりで大事を成し遂げた。その喜びと充実感でいっぱいだった。
「かわいいね」
 ハルカが壹与の傍らに胡坐【ルビ:あぐら】をかいて、ふっくらした頬を人差し指でチョンと押した。
「なんで、こんなにかわいいんだろうな」
 俺はハルカの後ろに足を投げ出して座りこむと、ハルカを抱きしめながら肩越しに壹与の寝顔を覗きこんだ。
「あんたが、いいお父ちゃんで助かったよ。ありがと」
「しかし、赤ん坊の世話がこんなに手がかかるもんだとは思わなかったよ。こんなのが毎日毎日、続くんだよなあ。親って大変だな」
 ふと、俺もそうやって育てられたという当たり前のことに気づいた。そして、おそらく何年かのちには、俺も悪態をつきながらも同じことをやっているだろう。もちろん、この女とだ。
「私もいつか、こんなかわいい子のお母ちゃんになりたいな」
「じゃあ、そっちも、ちょっと練習しとくか?」
 俺はハルカの頬にキスしながら、膨らみに手を伸ばした。
「……あ、もうバカ。あんたって、そればっかだね」
 そう言いながらも、ハルカは体を入れ替えて俺の首に手を回す。
「……そういうとこ、嫌いじゃないけど」
 ハルカが額をくっつけ、唇が触れ合うような距離でささやいた。その残されたわずかな距離を俺の唇が詰める。
「なあ、ハルカ……、言えよ……、おまえと……、卑弥呼さま……、何を……、隠してるんだ?」
 唇と唇をつけたり離したりしながら、切れ切れに俺は訊いた。

「実は、私………………、次の卑弥呼なんだ」
 大声を上げそうになった俺の唇をハルカの唇が、すかさずふさいだ。

 ─4─

 ハルカは、なかなか唇を離さなかった。そのせいか、唇が離れたときには、いつもとは逆に俺の興奮はすっかり収まっていた。
 俺たちは、壹与が目を覚まさないように声を潜める。
「……おまえが卑弥呼って、どういうことだよ?」
「……ねぇ、あっちで話そうよ。私も少し横になりたいし」
 ハルカは立ち上がり、壹与からいちばん離れた壁際まで行き、床に寝ころぶと俺を手招いた。
 このシチュエーション。いつもの俺であれば「ハルカ〜」と一声ほえて、迷わずハルカの上に覆いかぶさっただろう。だが、今日の俺ときたらハルカの横に並ぶのが精一杯だ。
「どうしたの? 元気ないね。こないだの続き、してあげようか?」
 ハルカは、いそいそと俺の下半身に手を伸ばした。
「……ごまかすなよ。だいたい、そんな手で何をしようってんだよ?」
「あ、ほんとだね」ハルカが背中に手を隠した。
「ちょっと待ってろ」
 俺はリュックに手を伸ばし、もう一度、中を引っかきまわした。大きな三角巾があった。それをふたつに裂きハルカの手を覆うとガムテープで固定する。
「これじゃ、ご飯、食べられないよ……」
「うるせぇ。俺が食わせてやる」
 俺はハルカの横にごろりと寝ころがって、両手を頭の後ろで組んで天井を眺めた。
「どこから話せばいいか、わからないよ……」
「じゃあ、最初から話せよ。ぜんぶ聞いてやる」
 俺は、ハルカの首の後ろから手を回し肩を抱き寄せた。ハルカの頭が俺の肩にちょこんと乗る。
「小ちゃい頃は、なんで私だけ親がいないんだろうって、よく泣いてた。今から思えば、私、生まれてすぐに親と引き離されたんだよね」
 ──ハルカが両親の話をしなかったのは、そういうことか……。
「なんで親と一緒に暮らせないんだ?」
「私も、そのへんよく知らないけど、卑弥呼は個人じゃなくて、みんなのものなんだって」
「なんだよ、それ……。わけわかんねーな。まあ、いいや、それで?」
 ハルカは天井に記憶が映っているかのように上を見あげている。
「将来、自分が卑弥呼になるのかもって、初めて感じたのは八つか九つのときかな」
「そのときは、もう奴国にいたんだよな?」
「そう。花連と手紙をやりとりしてて気づいたんだよ。王位継承権第二位の王女と、一対一で交換された私って、いったい何者なんだろうって」
 ──あっ、言われてみればその通りだ。何で今まで気づかなかったんだろ。
 にしても、八歳か九歳のハルカが気づいたことを、指摘されるまで気づかない十七歳の俺って……? あ〜ぁ、なんだかなぁ。
「正式に知らされたのは、邪馬台国の墜落が決定的になって帰国してから。そのときは卑弥呼さまの体調がもうすぐれなくて、私が次の卑弥呼になる日取りも決まってたみたい」
「それ、いつだ? もうすぐなのか?」
 俺は思わず頭を起こした。俺の胸に頬をつけているハルカと目が合う。
「高千穂で最初に会った夜のこと覚えてる? 本当はあの日に、私、卑弥呼になるはずだったんだよ。『神様が遣わした救世主の御魂を宿した新しい卑弥呼』そんな風に、卑弥呼さまが、みんなの前で宣言する筋書きだったんだ」
 ──そういえば、俺が現れないことを想定した練習をしていたと前に聞いた気がする。
「なあ、今さらだけど、卑弥呼って何なんだ?」
 卑弥呼さまは『当代一の巫女』と言ったが、ハルカ自身はどう考えているのか、俺はハルカの口から聞きたかった。
「みんなの背中をちょっと押す役かな。不安を和らげたり励ましたりして、導くの」
「それって、おまえがいつもやってることだろ?」
「だから、私、卑弥呼なんだってばぁ」
 ハルカの目が笑った。甘えたような、それでいてどこか寂しげな声だ。
「あ、そうか。なんか女王なんて偉そうなもんと、おまえが結びつかなくて」
「張政の救世主だって、どっこいどっこいだよ」
 俺たちは、顔を見合わせると声を殺して笑った。
「そりゃ、そうだよな。お互い様か。えーっと、それでどうした?」
「あんたが突然、現れたもんだから、卑弥呼さまも内心じゃ慌てたと思うよ」
「そんな風にはゼンゼン見えなかったけどな。……で?」
 ハルカの目が、いたずら坊主が悪巧みを思いついたように、にっと細まる。
「あんたが本物の救世主かどうか、私が見極めるまで、卑弥呼になるのを待ってもらった」
「よくそんなワガママ、通ったもんだな」
「だからー、私、本当に卑弥呼なんだってば。それくらいの融通は利くよ」
 そう言うとハルカは寝返りを打つようにして、俺の横にうつ伏せになった。
「そっか。そんで、おまえの見立てじゃ、俺は本物の救世主なのか?」
 ハルカがクスクス笑っている。頬杖をついて面白そうに俺を見ている。
「やだ。あんたまで本気にしてたの。そんなの、わかるわけないじゃない」
「えっ? だって今、見極めるって……」
 俺は思わず上半身を起こし、ハルカを見つめた。
「卑弥呼になったら、あんたのそばに、いられなくなるからウソついた!」
 満面の笑顔でそう言い放つと、ハルカは飛びかかるように俺に抱きついた。
 どうやら俺のかわいい嫁さんは、俺の想像よりとんでもない女だったらしい。
「それ、まずくないの?」
「だから、どうするか『ふたりで相談しなさい』って言われたんじゃない?」
 ハルカは、俺の太ももの上にどっかりと腰をおろした。
「ああ……。そこにつながるのかよ……。で、どうするつもりだ?」
 と、訊いたが、答はわかっていた。
「とりあえず、一大率をやっつけるよ、張政と」
「ああ、やってやるよ。でも、そのあとは?」
 あの徐福を倒す自信など、もちろんなかった。倒せたとしても命懸けになる気がした。
 だが、俺にはその後のことのほうが何倍も、何十倍も不安だった。
「あんたのとこにお嫁に行く。指切りしたよ」
「よーし、わかった!」
 ハルカの返事を聞いて、俺は覚悟を決めた。
 ハルカは俺のもんだ! みんなの卑弥呼になんか、してたまるか!
 いざとなったらハルカをかっさらって、二十一世紀に逃げてやる。
 邪馬台国がどうなろうと知ったことか。
「なんとかなるって。れろびーだよ。れろびー」
 俺の覚悟を知ってか知らずか、ハルカがのん気に笑った。その笑顔を見た途端、気が緩んだのだろう。強烈な睡魔が俺を襲った。そういえば丸一日、寝ていない。
「……寝るか?」
「川の字で寝ようよ」
 俺とハルカは、寝ている壹与のところに這っていき、そっとそばに身を横たえた。
「おやすみ、お父ちゃん」
 そう言ったハルカが、このとき俺よりも何百倍もヤバイ覚悟を決めていたことに、マヌケな俺は、まだ気づいていなかった。

              ◇◆◇

「ふたりとも起っきしてくだちゃい」
 声は優しかったが起こし方は乱暴だった。頭が足で揺すられた。
 手が使われなかった理由は、すぐにわかった。フセマルが赤ん坊を抱いていたからだ。
「一大率に動きがあったんでちゅよ。じきに発進するから準備してくだちゃい」
 フセマルが赤ちゃん言葉で壹与に話しかけている。悪い夢を見ているようだ。
「邪馬台国が移動していると、さっき連絡があったんでちゅよ」
 そう言うと、フセマルはレロレロと長い舌を震わせた。獲物を前に舌なめずりしているようにしか見えない。が、壹与には大受けだ。声をあげて笑っている。
 フセマルの子供好きを見抜いていたはずのハルカも、この変貌ぶりには呆れ顔だ。
「いま、邪馬台国が動いてるって言った? 私の聞きまちがいじゃないよね?」
「そうらしいな。驚きでちゅね。レロレロ、バ〜」
「で、どこに向かってんだ、邪馬台国は?」と俺。
「北北東だ。卑弥呼さまは、預言書のとおりなら、狙いは狗奴国【ルビ:くなこく】とおっしゃってまちゅ。いよいよ決戦になるかもしれないでちゅー」
「じゃあ、上陸は中止?」そう訊いたハルカは、なぜか慌てていた。
「一小隊を残していきまちゅよ。ほ〜ら、高い高い」
 フセマルが赤ん坊を高々と放り投げた。キャッキャ、キャッキャと、ご機嫌の壹与の声を聞きながら、俺はハルカを振り向く。
「奴国になんか用か?」
「うん、花連の髪、埋めてもらおうと思って」
「ああ、そうだな。なるべく日当たりのいい場所にな」
「なら中央格納庫に急ぐでちゅよ。ついでに張政、これもお願いちまちゅね」
 フセマルが足で俺のほうに、何かを蹴ってよこした。
 拾い上げると、それはウンチまみれのオムツだ。
「じゃあ、悪いけど、壹与のこと、ちょっと見てて。行こっ、張政」
 フセマルの都合も返事も聞かずに、ハルカは部屋を飛び出した。
「任せて大丈夫なのか? あいつ、赤ん坊を食ったりしないよな?」
 俺は廊下に出ると、前を行くハルカに声をかけた。
「赤ん坊の扱いに慣れてない人が、オムツ換えたりしないよ」
 笑顔で振り返ったハルカの顔色が、なぜかみるみる曇っていった。
「バカぁ! もぉ、やだ! なんで、こんなときに……」
 オムツを摘んでいた俺の手が透明になり、ハルカの泣き声が遠のいていった。







(第十章 花椿 に続く)
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コメント(3)

「言いましたとも。あまりの愚鈍さにいささか呆れました。その様子では、本当に気づいてないようですね。おまえは健政坊に、すでに何度も命を救われているはずですよ」

卑弥呼の台詞。「建政坊」ですね。
今更ですが気付いたんで一応コメント入れておきます。

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