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みんなで作る物語コミュのそら 雲 そして …

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いつものけだるい朝だった。
昨晩も仕事で疲れた体を引きずって家に帰り、こうこうと光る蛍光灯の前で一つ深呼吸をし、それからドアーに手をかけて気力を絞って陽気な声を作り上げて家人へ言った物だった。
「ただいまあ〜」

夕子はドアを後ろ手に閉めると、休む間もなくキッチンへと急いだ。

「ああ、お帰り」
昔は健脚で馴らした夫の顔に蓄えられた髭が、妙に彼の臆病さを象徴している様で今ひとつ馴染めない。
少し疲れた瞳が妙にまとわりつくのを気付かぬ様に、米びつの中を大きな仕草で覗いて言った。

「今日は、お早いお帰りだったのね」

「ああ、ちょっと体が重く感じてね」
圭一の答えに『ダイエットすれば』と呟く自分の思いが気に入って、先程までの疲れが少し遠のくような気がした。

コメント(21)

米びつから何時ものように1合取り出し『あぁ、今美味しいから2号にしようかしら』と、
計量カップをまた入れながら「あなた、食欲はあるの?お米、この間新しいのを開けたばかりで美味しいから大目に炊こうと思うんだけど」

「大丈夫だよ」

「風邪っぽいわけじゃないのね?最近運動不足なんじゃない?」
米を研ぎながら何の抵抗もなく夫を気遣い良い妻を演じている。
いや、演じているのではない、自然にそうしているのだ。
そうして水を取り替えて、もう一度研ぎながら『このお米美味しいから、食べて欲しい』なんて他の人を思っている。
我ながら自分の事がほんの少し怖くなった。

すこーしづつ薄い皮を顔の上に重ねるうち、朝はけだるいものになったような気がする。

こんなけだるいのだもの、今日はきっと曇り。
先日から家の回りでも梅が満開になってほのかに香っている。
『花曇ってこの季節にピッタリだわ』と思った。
重い頭をやや右に向け、夕子はいつもの癖で右隣に眠る圭一の頬に触れようと左の腕を差し出すと、規則正しい圭一の寝息に出会った。
柔らかに、彼女の腕を阻止するようなそのリズムを乱す理由が見つからず、思わず出した腕を引っ込めてしまった。

さっさと起きて、朝食の支度をしなくては…。

毎日の決まりきった所作は、決して嫌いというのではないのだけれど、どこかほこりっぽく、朝日の部屋を照らす様さえ退屈なあくびを誘った。

一つ大きく伸びをすると、ベッドを後に、いつもの朝を迎える。
朝食を用意し、ひからびた出がけのキッスを交わし圭一を送り出すのだ。

いつもの朝と、何ひとつ変わらなかった。圭一を送り出すそのときまでは。
空に正幸の乗った飛行機を探したが、そこにはのんびりと春を告げるふっくらした白い雲があるばかりであった。

夫の出勤時間を気を揉んで待ち、夫が出かけるや否や取る物も取り敢えず急いた恋を忍び、緊張を重ねた夕子の心は、いささか疲れていた。

始まりはいつもあなたから。

夕子は軽く人差し指を薄く形のいい唇に推し当てると、人差し指の腹を空に向かってぴいんと一本突き出した。

行ってらっしゃい あなた。
私はいつでもあなたのそばにいるのよ。
気付いて、感じて、そうして触れて。

夕子の突き出した人差し指が春の衣を着た陽の光に抱えられ、それから虚しく空を切った。

体の芯にけだるさを覚えた夕子は、携帯を取り出して勤務先の事務所に欠席の連絡を入れるとほっと一つ息をついて、マンションのエレベータに乗り、自室のある7階を押した。

午前十時の集合住宅は、早朝の喧騒とは裏腹に静寂に満ち、幸いなことに近所のうるさい知り合いと無駄な時間をお喋りで費やす必要もなく自室に着いた。

先程、出がけに、シンクに漬けた洗い物がもの鬱気にこちらを見つめている。

夕子は、コートをリビングのソファに置くと、休む間もなく朝食の残骸を片付け始めた。
ただ、じっとしてしまったら、どんな思いが心に浮かぶのか見当もつかず、自分に少しばかりの恐怖を感じていたからだ。

夕子はせわしなくスポンジを皿の中で往復させる。
一つの皿をどれほどかけて洗っただろうか。

不意に夕子の手から、皿が滑った。
皿は、シンクの中で大きな音を立てて、きれいに2つに割れた。

皿の割れるのを心待ちにしていたかの様に、突然夕子の目に涙が溢れた。

圭一への裏切りを嘆いているのか、正幸との別れを悲しんでいるのか、自分でもよくわからなかった。

そもそも結婚が間違っていたのかもしれない。

圭一と夕子の始まりは、圭一の企みから始まっていた。
もう19になるのだから
家を出ようかと思います
母とけんかをしたとかそんな
ことではないんです ただ 何となく
それならばひとりきり 生きてみろと
云われても 無理なこと わかってる
それだけに 歯がゆくて
中途半端なんです


もうそろそろ 子供という
足かせが重くなっただけ
世の中がいやに なったとかいう
訳ではないんです ただ 何となく
学校を人並に無事に出て
いつの日か 幸せな花嫁に
敷かれている レイルウェイ
途中下車しちゃ いけませんか

当時流行っていたさだまさしの歌がふと頭をかすめた。
そうだった。
圭一と出会い、私はときめくでもなく、苦しむでもなく、心の抑揚を感じるという恋と言うものを経験しないまま、結婚してしまったんだわ。

圭一に、何の不満が在ると言うのではないが、始まったその日から、夕子の求める愛のために動くという空気に触れたことがないのだ。

なぜ、圭一と結婚したんだったっけ。
無邪気なものね 男って…

夕子にメールを送った正幸は、「これでよし」と一言呟いた。
東京での仕事は全て完了した。

南国の空港は、本土より一足早く季節を迎えていたので、厚手のジャンパーを腕に持つと、空港パーキングまでゆっくりと歩いて行った。

空には既に春の恰幅のいい雲が、あちらこちらにフワフワと浮いていたが、正幸はそんなことには気が付かない。
彼の目は、ただ進む方向ばかりを眺めている。

今日は、これから真直ぐ仕事場へ向かい、残してあった書類、まだプリントアウトしていない作品等の整理に当てるつもりだ。

正幸の仕事はフォトグラファー、写真を撮っては雑誌に掲載したり、また、頼まれればどんな写真でもどこへでも出かける、プロの写真家だ。
昨今は、デジタルカメラの出現で、素人でもそれなりの写真が撮れるようになったし、現像等を片手間にしていた一昔前の写真屋のようなのんびりした生活が出来にくくなってきた。

そこで、彼は、素人では撮りにくい写真の撮影を仕事の種にしている。
動きのある、止まることのないものたちの瞬間を切り取って、永遠の命を吹き込むことが、最近の彼の主な仕事だった。

動物達、流れ行く雲、彼の中にひと時の瞬きはあったとしても、それが未来永劫続くと思ったことは一度もない。一期一会、彼の生き様だ。

そんな彼に撮影の依頼があったのが、そうだ、今からちょうど半年前だったか?
都内の中堅どころのダンス教室の発表会の写真撮影の依頼が舞い込んできた。


最近の不況のせいか、かれのじり貧の生活に渡りに船、早速都内へ乗り出して行った。
教室は、都会とは少し離れた、昔ながらの風情の残る街にあった。
初夏のけだるい空気が炭素と混ざって、吸い込むと胸の辺りにまとわりつくようなだらっとした空気が正幸を迎えた。

教室の中に入り、一通りの挨拶を済ませた正幸の視野に、華奢な、支えておらないとどこかへ消えて行ってしまいそうな、小さな少女から抜け出せない風の女性が、時折
早く、また、突然その動くスピードを緩めて踊っているのが飛び込んできた。
緩慢な動きかと思えば、突然にその早さを増す、その不思議な彼女の経過に見とれていた。レオタードに染みる汗が、胸の谷間を中心に外へと広がっている。
突き出した形の良い胸は、レオタードの中で居場所を探しあちらこちらへと小刻みに揺れる。
振動が正幸に伝わって、心臓が波打ち始めたのを感じ、誰にも気付かれていないだろうかと辺りを見回す仕草は、なにか悪いことをして叱られた後のばつの悪さを思い起こさせた。

豊満な胸の持ち主を拝もうと顔へと視野を広げてみる。

彼女だ。間違いない。

彼がまだ少年だった頃、席を共にして学んだ彼女に違いない。

時を経、いくらかの年輪が彼女の顔の一部を覆っていたが、それもほんのわずかなもので、余分なものを生きる時間とともに削ぎ落してきた彼女の姿がそこにあった。

幼い彼は、彼女に憧れていた。彼女を好いていた。
彼の初恋に違いなかった。

彼女はちいさな、良く笑い、時折、笑顔の中に妖艶な大人の女を秘めた少女だった。

彼は、そんな彼女を見るにつけ、胸の高鳴りを覚えたものだったが、経験したことのない心の躍動を、彼は恋だとは自覚していなかった。

妙に気になる。あの笑顔が気になる。僕に気付いてくれないだろうか。

気を揉む彼の感情にただの一つも気付かぬ彼女をいつしか彼は心の中で支配していた。
正幸は決めていた。

過去に彼の思いを気付かずにふわりと消えて行った女性は、彼女だけだったから。

彼は女性に何故かモテた。彼は知らず知らずのうちに母性を渡って遊ぶ方法を身につけていたのだ。
そんな手段を手に入れる以前の清純な彼は、彼女を彼の手中に収めることが出来なかったのだ。

今の彼の持つ手腕に寄って今こそ彼女を手中に収める。それこそ今生きる彼の過去に対する勝利。

彼女に勝つ。
このゲームは、彼の心を興奮させた。

彼は彼女を手中に納めるための青写真を作ることにした。

期間は半年。この最後に彼の大目標、彼女を射とすを置く。
半年を3つのステージに分ける。
それぞれの目標は、1)アセスメントとラポール形成、2)相互理解と愛の芽生え
3)統合的な愛の形成、である。

心ならずも彼女に出会ってしまったあの夏の日に、既に一つ目の目標を達成させるために彼は準備を敢行していたのだ。

セッション1
彼女が彼に声を掛けた時に、やや慌てたように振る舞った彼は、女の心を読んでいた。おどおどしながら、小動物の様に純真さを保つ瞳の力を、彼は充分に理解していた。

彼女とのお喋りは、時折彼を真から夢中にさせそうになったが、獲物を落す狩人は、常に冷静でなくてはならないと自分を戒め、彼女に思わず引き込まれそうになる自分を制した。

そうして、曖昧な友情をちらつかせ、彼女を安心させることに成功した。

「今度はいつ東京に来るの?」

彼女の口から突いて出た何気ないこの言葉は、彼の第一ステージの達成を意味した。

ふふん、我ながら上手いものだ。

次のステージは…
ここがヤマだ。
セッション2
目的:相互理解と愛の芽生え

予定通り、正幸を乗せた飛行機は羽田へと到着していた。
羽田から都内の宿泊予定のホテルまでリムジンで行くと夕子にメールで伝えておいた。
生憎、約束の三時に着く時間のリムジンはなかった。
時刻表を見ると、ホテル到着が午後五時のリムジンんが目に止まった。
空港発車が午後3時半だ。
腕の時計を見ると、午後二時丁度をさしていた。
あと一時間半もある。
那覇から、東京までの登場時間に等しい。

正幸は電車で目的のホテルまで行くことに決めた。
夕子にはリムジンで着くとメールで伝えておく。

正幸は心得ていた。待つ時間を持つことが、心の高揚に少なからず関係することを。
正幸の今回の東京への滞在期間は3日間。
このなかで、夕子の心を我がものにするためには、多少の強引な方法もやむを得ない。
夕子はそろそろホテルに着く頃だから、きっと2時間は裕に待つことになるだろう。

正幸はモノレールに乗った。

南の島の秋に入りかけの十月の早い季節は、まだまだ日の光も健在で、ややもすると汗がじっとり衣を伝う。ほんの二時間前まで汗をハンカチで拭っていた正幸だった。

いくらか涼しくなった軽やかな風が正幸を包む。遠くまできたのだと秋の早い訪れに実感する。
旅行気分も手伝って正幸の気分は高揚している。何より夕子の存在が正幸を興奮させるのだ。

彼は、彼の作ったゲームが気に入っていた。
今回はステージ2を敢行する為に、夕子に会うのだ。
制限時間内で、どれだけ、目的に近く達成を得ることが出来るのか、今から楽しみだ。

新橋で山の手線に乗り換える。平日の昼下がり、山手線は3分間に一本の間隔で運転している。
容易にすわることが出来たものの、それでも立っている人がいるほどで、東京の人口密度の高さは尋常じゃないことを伺わせる。

こんな尋常でない人数の中で、出会い、幼い心を焦がした女、その女に何十年という年月を経て偶然にも再び出会う奇跡がいったいいくつ転がっているというだろう。

正幸は決着をつけなければならない心が彼女を自分に会わせたのだと確信していた。

「決着をつけるため」
正幸は、思わず声にならない独り言をのどの奥で呟いた。

電車が池袋駅に着くと、正幸は電車を降りた。まだ、約束の5時までに一時間は裕にある。
正幸は、ターミナル駅の駅周辺をぶらつくことにした。
久方ぶりの東京の街はめまぐるしいほどにその様相を変え、たまにやって来るよそ者を受け入れまいと鉄の防御を成しているようである。

路地裏の小さな交差点に占い師が座っている。
手持ち無沙汰の正幸はふらりと占い師の前に座り込んだ。

占い師は突然の来客にちょっとの間、押し黙っていたが、すぐに話し始めた。
「お客さん、何を占いましょうか?」
正幸はちょっと考えて、それから言った。
「僕の将来について」

占い師は正幸の華奢なひょろ長い指を開かせ、手のひらを覗いた。

「お客さんは、芸術家だねえ。感性が鋭いでしょう。お金に恵まれることは無い。かと言って困るわけでもない。有名になるでも無く、だからって仕事で食べられなくなるほどでもない。
恋愛も同じ。こちらって言う本命があるわけじゃ無し、だからといって無いわけじゃない。
お客さんの人生は、そうさなあ、ケセラセラってとこかなあ」

どちら着かずの優柔不断、そんな嬉しくもない占いに2000円の暇つぶし代金が高いのか安いのか、正幸にはさっぱりわからなかった。

正幸は財布を出し、代金を払うと 立ち上がり、安っぽい十字路を後にした。
財布とともに、白い小さな手帳を落してしまったことを正幸はそのときまだ気づいていなかった。

正幸は、ターミナル駅構内の花屋で一本の深紅の薔薇を買い、タクシーへ乗り込むと、夕子の待つホテルへと急いだ。
正幸は、事務所へ着くと上着を脱いで早速仕事の打ち合わせに入った。
上着のポケットから手帳を取り出そうとする正幸の顔が曇った。

ない。内ポケットに中身の貧弱な薄い財布と一緒に入れたはずだった白い手帳が見当たらないのだ。
空欄が多いものの、それでもスケジュールを書き留めておいたものだけに、明日からの仕事に差し障りがある。
どこでなくしたのか?さっぱり見当もつかない。

頭を抱えている正幸のポーチから軽いジャズの音楽が流れて来た。正幸の携帯の着信音だ。
正幸は、ポーチから携帯を掴み取ると、疲れた声で言った。
「はい、川上です」

電話のあちらの声はか細く聞き取りにくかった。
それでも、相手がやや年配の男であるらしいこと位はわかった。

正幸は耳を澄まして男の声を聴くことに専念した。

「藤田だが」
鷹揚な、物怖じしないその言い方は、大手の重役であることを伺わせた。
「白い手帳を池袋の駅前で拾ってねえ。最後のページを繰ったら、持ち主、多分君だろうな、君の電話番号か?どうも、よく判らんが、どこか、地方の方かな?東京ではなさそうだ。東京なら市外局番が03だからねえ。いや、そんなことはどうでもいい。君が困っているじゃろうて、電話をかけたのだが。どうだ、君の手帳か?」

正幸はほっと胸を撫で下ろした。いくら仕事が詰まっていないとはいえ、約束を反古にしたら二度と契約は貰えない。相手方の機嫌を損ねないで済んだ。

正幸は丁寧に挨拶した。
「ありがとうございます。白い手帳、メタリックの安物ですが…。はい僕のです。ありがとうございます。」

男は電話を切るといぶかしげにメタリックの金属素材の白い表紙を持った。
「こんな、鍋のふたのような素材の手帳など、見たことが無いが…。」
呟くと男は国鉄の切符を目白駅まで買った。
男は大抵は黒塗りの運転手付きのダットサンで出かけるのだが、今日はお忍びの外出だったので珍しく、自宅のある目白から電車を利用していたのだった。

正幸との約束の目白駅の改札口で男はイライラしていた。30分待っても正幸が現れないのだ。
「親切で届けてやると言ったのに、人を待たせるとはどういうことだ。まったく」

正幸はやきもきしていた。目白駅で9時にと約束したのに一向に男が姿を表さないのだ。じいさんめ、どっかで倒れでもしたのか?それとも気が変わって待ち合わせ等バカバカしいと家路へと着いてしまったのか?

正幸のポーチから着メロが流れる。
「はい」
正幸が答えるなり
『君は人をバカにしておるのか?どれだけ約束の時間に遅れたら気が済むのだ?
私は親切で君に手帳を渡してやろうと、こう思っていたのだが、もういい!!」

「あっ、まって」
正幸の声が電話越しでなく、直接男の鼓膜を震わした気がした。
男は、電話に答えて言う。
「何だ!!」
「僕、今、目白通り沿いのJRの目白駅の改札口にいますけれど…。」
男が周囲を見回す。正幸が周囲を見回す。それらしい人はどちらも見つけられない。

男は我にかえって言う。
「貴様、どこの目白駅だと?」
正幸は呆れたように大きな深呼吸をして答えた。
「JRですよ。JR。上野や新宿じゃないんだから私鉄なんてないっしょ。JRの目白…」
答え切らないうちに男が電話口に言う。先程から、小銭がなくって売店で新聞を買って両替をしてもらったのだが、生憎5000円札しかなくって嫌な思いをしたものだ。今年発布された聖徳太子の入った一万円札を使ってもみたかったが、いくら厚顔無恥な藤田にも、それはいかんせん出来なかった。

藤田の手元の電話機は赤い電話機の公衆電話だった。

「ん?」正幸も、自分をけたたましい声で自分を罵倒する声を電話越しでなく、春の風に乗って直接鼓膜を揺すっている様に思えた。

何気なく藤田が手帳を見ると、メタリックな表紙が周波数の合わない画面を提供するように横に邪魔な線がいくつか入っているものの、そこには先程から聞こえるセリフと同時に正しく口を開けている、藤田より十は若い男がこちらを見つめていた。

正幸の携帯のウェブ電波が乱れたかと思うと、そこには鉄橋の架かっていない目白駅の改札を背に、恰幅のいい初老の男が映し出されていた。

「あ」お互いに驚愕の声を挙げた。
目白駅だった。
互いに吸い込まれるようにしてやって来たそこは、確かに先程まで目白駅だった。

「また起こったか…」
藤田が少し眉間にしわを寄せて言う。
2人の立つそこは 椿が咲き誇る庭園だった。

正幸はあっけにとられてただ辺りを見回すばかりだった。
「な、なんなんだ…」
正幸は、呆然とした。

先程までの喧騒が嘘の様に静まり、空は黒さを増し、夜の闇に光るネオンは一切のその姿をかき消していた。
高いビルディングは一つも見当たらないし、街灯だって見当たらない。
暫くして目が闇に馴染んで来ると、とりどりに映える椿の大きく自信を讃えた花の群れがそこかしこに闇に隠れながらも咲き誇っているのがいくらかは伺えた。
花をくすぐる美しい香りは、先程から正幸に椿の存在を伝えてはいたのだが。

「これは、」
正幸の驚愕を気にも止めずに藤田は声色一つ変えずにいった。

「私たちは違う時代へ来たのだ」

「ち、違う時代?」
正幸は、このポンコツメタボオヤジの妄想に慌てた。
とんでもない奴に関わってしまったものだ。
気が狂ってる。上手いこといって、ここから逃げ出さねば。

「違う時代っていつ?」

メタボは答える
「明治の初め、江戸が終わって10年足らずと言ったところか。
わたしも、このトリップに参加してそう時が経っているものではないので良くはわからないのだが…。
ここがどこだかわかるか?」

トリップは、必ず同位置から始まって、同位置で終わるらしい。
時間を逆行して、ここは明治初期であること。

トリップの始まりの位置は、ここ。
椿で覆われた美しい庭園が時間の交錯地点になっているというのだ。
そうして、また、突然に時間に吐き出される場所、元の時間への出口は池袋駅北口辺りの喧騒の中だと言うのだ。

正幸の頭の中は驚愕で一杯だったし、第一時間旅行は可能にしても、それを遂行したと言う話は聞いたこともなかったので、真に受ける気にはならなかった。

大体、それに、このメタボの電話口での話さえ、普通じゃなかったように思う。
国鉄?
確かにJRは、かつて国鉄と言ったがっ…

正幸は冷や汗とともにメタボに聞いた。
「あなたは一体?」

メタボは答えた。
彼は藤田という。藤田グループの3代目社長で、昭和39年の3月からやって来たという。
この庭園は後の椿山荘であり、彼の先先代が山県有朋から買い受け庭園美を誇る結婚式場へと、ひいては彼の尽力によりホテルへと変貌を遂げる予定であるのだと。

彼は、何度かトリップを重ねているのだが、その始まりも終わりも、まったく感知しうるところではなく、突然やって来ては突然に去って行くのだということ。
ただ、昭和29年に移築された三重塔は、どうも時間の架け橋に密着しているらしく、その前にいたときに、この経験を重ねる確立の高いこと。

正幸は、信じられないという面持ちを露に、ただ話を聞いていた。

すると、母屋の方角から痩せ表の男がいぶかしげにこちらに歩いて来るのが見えた。

ふと、正幸の鼻先でプウーンとカレーのいいにおいがした。

「腹が減った。」
正幸は呟いた。
つかつかとその男はやって来た。
小さな細身の体にも関わらず、その男は背景に自信を携えてあった。
男は口ひげを気にしながら、いぶかしげに辺りを見回している。
さっと藤田が男の前に一歩踏み出し言った。
「これは、藤田さん」
小柄な男が藤田に言うのが聞こえた。

正幸は、椿の葉影に身を地締めて隠れていたのだった。
別に藤田がそうしろと言ったわけではないのだが、何か、見たこともない小高い椿のきれいな丘にいる自分は、どうこの境遇を理解し振る舞っていいのか皆目見当がつかなかったので、とりあえず隠れてその状況を伺うことにしたのだ。

「先程別れたばかりですのに、失礼を致します。私もいくらか自分の力でこの旅行を操れればいいのですが、なにぶん不慣れなものでして…」

口ひげの小柄な男が答えて言う
「いやいや、あなたには散々協力を頂かねばならぬ。何度でも訪問して下さい。」
時に、その、小汚い若造は…
口ひげの男が正幸を指して藤田に訪ねる。
「いや、私も彼に関してはまったく素性を知らないのです。
奴の落したらしい手帳を渡してやろうと目白駅で待ち合わせたところが、いつの間にか、また、山県さん、あなたの屋敷、いえ、この椿の麗しい丘へとやって来てしまったのです。」
口ひげの男は眉間のシワを更に深くして答える。
「目白駅…」
あわてて、藤田が言い直す
「いや、その、とにかく、待ち合わせをして、ですな、彼にその、手帳を渡そうとしたところ、またもや山県さん、あなたにお会いする羽目に…」
ふんふんと顎をしゃくしあげながら小柄な細身の髭男が頷く。
「まあ、藤田さん。あなたにしても、この若者にしても、この有事の折、私からすれば何か浮かれて見えるのです。
私は、幼き頃から武道一筋生きたものですから、確かに世事には長けていないのだが…
それにしても、あなたがたは、なにかどこと言うのではないが、緊迫感に欠けている。いや、失礼とは思うが…、なにが、どうと言うのでないが…」

藤田はあわてて口を挟む
「いやあ、私はその、次男坊でしてなあ。親の期待を背負わずに生きて来たと言うか、まあ、そんなところでしょうかなあ」
何故か、藤田の額からは粒のような汗が溢れ出していて、それをきちんとたたんだ四角い真っ白な几帳面にたたまれたハンカチで拭う様は、やはり、どこかの重役のそれであった。
正幸は混乱した。
この美しい椿に覆われた広大な土地に、軍服で現れた彼とは一体誰なのか?いや、この広大な土地、見渡す限りビル1つないここは一体どこなのか。
大体、藤田と言う奴は一体どこから湧いて出て来たのか?
それにこの真っ暗な空に天の川さえ容易にみつけられるこの空はどうだ?
辺りの街灯さえなく、心なしか、この美しい椿の庭にさえ先程からわずかに香る堆肥の香りのようなものは何なんだ?

空気が何の隔たりもなく鼻を通って肺に行き交うのはどうしたことか?
普段なら、ねっとりとした缶を開けて、その端を気遣うようにする息が、こんなにもストレートに肺にまで達する心地よさは一体どうしたわけだ?

正幸は頭を傾げた。
『藤田さん、いったい…」
言いかけた正幸の口を覆うように藤田は言った。
「山県さん、今日は確か」
答えて髭の小男が言う。
「はい、今日は、明治十年西南戦争の勃発の日、はて…、この忙しいのに、何故私はここにいるのだろう?」

正幸の目は大きく開けられ、口はほうけたように閉ざすことを忘れていた。
「ち、ちょっと待てよ…、明治十年って、西郷隆盛が切腹なさっちゃったあの、西南戦争かよお〜〜〜、勘弁してくれよお」

と、思うのもつかの間、正幸のバッグに潜んでいるカメラが夜の青白い月の光を浴びて煌々と光っていたのを藤田は見逃さなかった。

椿の群生しているところからやや離れた、少し小高くなった小さな丘の上から、にわかに懐かしい香りが漂った。甘いほの紅色のさくらにも似た甘く切ない香り。
ほんの先程まで抱きしめていたような、ずうっと先に抱きしめる夢を追っているような、ふんわりと消え行く定かではない香りであった。

香りの節にであった時、ふと、彼の頭に、あの、未来かいにしえか夢か誠か整然としない記憶の様にやわらかな、少し自信なげに離す彼女の声を聞いたように思った。
『私、スカートを履いて来たのよ。あなたのすきな、たくさんプリーツの入った春色のスカートよ』

夕子…

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