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分離派史学会コミュの「最後のハプスブルク皇帝」

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「パルチザン時代のティトー」 神田信夫・柴田三千雄編『世界の歴史』(山川出版社 1994年)313頁引用。

 かつて東欧には「南スラヴの国」を意味するユーゴスラヴィアという国があった。この国は「六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」という有名な数え歌がある。それだけ複雑な国家であった。 
 この国は第一次世界大戦後に誕生するが、民族対立が頻発し、政情は不安定であった。第二次世界大戦中は枢軸国側によって占領されてしまう。ユーゴスラヴィアの各民族が、連合国側と枢軸国側に別れ、血で血を洗う民族抗争の舞台へと発展していった。にもかかわらずユーゴスラヴィアはパルチザンの指導者ティトーによって第二次大戦後に復活する。F・ルーズベルトもチャーチルも民族対立の事情から、この国の再建が困難と見ていたが、彼によってそれが可能となった。
 歴史家A・J・P・テイラーはティトーについて「最後のハプスブルク皇帝なのか、あるいはまた、これはすべて新たな出発であり、ティトーは長い歴史の中で繁栄したユーゴスラヴィアの最初の支配者たりうるであろうか?」と問いを投げかけている。ハプスブルク皇帝とは、第一次世界大戦に敗れるまでオーストリア・ハンガリー帝国皇帝として君臨していた。この国もまたユーゴスラヴィアと同様の複合民族国家であった。実際ティトーは共産党を良くまとめあげた。彼を信頼する部下たちが、各地に散らばり、この国の分裂回避に尽力した。ティトーがいなければ、この国の維持は難しかっただろう。
 だがティトーの死後、世代交代が進み、彼とともにパルチザン戦を共にした同志達も引退した。冷戦の終結によって、東西対立が解消した結果、外国からの脅威も消え、各民族が団結する理由もなくなった。民族対立が激化し、求心力を失ったユーゴスラヴィアは解体した。結局彼は「ユーゴスラヴィアの最初の支配者」ではなく、「最後のハプスブルク皇帝」だったようだ。別な見方をすれば、統治困難なユーゴスラヴィアを半世紀維持させた才覚はあったと言えるかもしれない。

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