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日本の即身仏・ミイラを巡る旅コミュの即身仏一覧表

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○弘智法印 (対面済み)
 「寺院名→西生寺」「所在地→新潟県三島郡寺泊町野積」
 「享年→66」「没年又は入定年→貞治2年(1363)」

○弾誓上人
 「寺院名→阿弥陀寺」「所在地→京都市左京区大原古知原」
 「享年→63」「没年又は入定年→慶長18年(1613)」

○本明海上人 (対面済み)
 「寺院名→本明寺」「所在地→山形県東田川郡朝日村東岩本」
 「享年→61」「没年又は入定年→天和3年(1683) 」

○宥貞法印 (対面済み)
 「寺院名→貫秀寺」「所在地→福島県石川郡浅川町小貫」
 「享年→92」「没年又は入定年→天和3年(1683)」

○舜義上人 (対面済み)
「寺院名→妙法寺」「所在地→茨城県西茨城郡岩瀬町本郷」
「享年→78」「没年又は入定年→貞享3年(1686)」

○全海上人 (対面済み)
「寺院名→観音寺」「所在地→新潟県東蒲原郡鹿瀬町菱潟」
 「享年→85」「没年又は入定年→貞享4年(1687)」

○阿南の行者 (対面済み)
 「寺院名→瑞光寺」「所在地→長野県下伊那郡阿南町新野」
 「享年→50」「没年又は入定年→貞享4年?(1687)」

○忠海上人 (対面済み)
 「寺院名→海向寺」「所在地→山形県酒田市日吉町2丁目」
 「享年→58」「没年又は入定年→宝暦5年(1755)」

○秀快上人 (訪問、対面できず…)
 「寺院名→真珠院」「所在地→新潟県柏崎市西長島鳥甲」
 「享年→62」「没年又は入定年→安永9年(1780)」

○真如海上人 (対面済み)
 「寺院名→大日坊」「所在地→山形県東田川郡朝日村大綱」
 「享年→96」「没年又は入定年→天明3年(1783)」

○妙心上人 (対面済み)
 「寺院名→横倉寺」「所在地→岐阜県揖斐郡谷汲村横倉」
 「享年→36」「没年又は入定年→文化14年(1817)」

○円明海上人 (対面済み)
 「寺院名→海向寺」「所在地→山形県酒田市日吉町2丁目」
 「享年→55」「没年又は入定年→文政5年(1822)」

○鉄門海上人 (対面済み)
 「寺院名→注連寺」「所在地→山形県東田川郡朝日村大網」
 「享年→62」「没年又は入定年→文政12年(1829)」

○光明海上人 (対面済み)
 「寺院名→蔵高院」「所在地→山形県西置賜郡白鷹町黒鴨」
 「享年→不明」「没年又は入定年→嘉永7年(1854)」

○明海上人 (対面済み)
 「寺院名→個人蔵」「所在地→山形県米沢市簗沢小中沢」
 「享年→44」「没年又は入定年→文久3年(1863)」

○鉄竜海上人 (対面済み)
 「寺院名→南岳寺」「所在地→山形県鶴岡市砂田町」
 「享年→62」「没年又は入定年→明治14年(1881)」

○仏海上人 (対面済み)
 「寺院名→観音寺」「新潟県村上市肴町」
 「享年→76」「没年又は入定年→明治36年(1903)」


↓※こちらでも紹介しています↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage80.html

コメント(25)

2007年7月8日、一般公開(御開帳)している即身仏すべて(15体)との対面が終了。

おめでとうございます。

私は去年月山の2体を拝見させていただきました。
いろんな思いがあったと推察しますが、また追々教えてください。
おめでとうございます。
ぜひルポをアップしてください。

ちなみにミイラ一覧表、ほかに富田子之吉(円通寺)と、ネットに一切出ていないもう一体がありますよ。
リトセアさま

富田子之吉は、茨城県友部町宍戸(現在は笠間市に併合されている模様)の円通寺に祀られています。
文久元年(1861年)に熱病で死んだ、三歳の子供です。

もう一体については、すみません、事情があってあまり公にできないのです。

リトセアさま

どういたしまして。
自然ミイラは、自ら仏になる意思を持った即身仏とはまた違うものですが、茨城県では墓地より自然ミイラが出土すると、「これはありがたい仏様に違いない」と寺院に祀るケースが幾つもあったようです。

水海道市で文政年間に発掘された少女のミイラを祀っていた時は「かたまり仏」と呼んでいたことからも、このことが伺えます。
尚、この少女ミイラはその後新潟の円光寺に祀られてましたが、昭和42年に元の墓地に埋め戻されました。

こういった背景には、岩瀬町の舜義上人や、茨城に近い福島県石川郡浅川町の宥貞法印が信仰を集めていたことが有るのではないかと推察します。
>リトセアさん

話をすると長くなりますが、即身仏と即身成仏は違います。あと、私が
調べた以外ではおそらく日本には即身仏はないはずです。但し、ミイラは
何体かあります。ちょっと詳しく説明をすると自力でその姿になったものが
即身仏であり、その反対に他力(人工的)または偶然(自然)にその姿になった
ものがミイラであると分類することができます。

実は日本には即身仏以外にもミイラ伝説(例えば奥州藤原氏三代のミイラ等)と
いうのが少なからずあり、私はそういったミイラについても、出来る限り訪ねて
みようと思って下調べなどもしていましたが、厳しい修行の末、即身仏となられた
方達と対面するにつけ、偶然ミイラとなった方達にはあまり興味がなくなって
しまいました。(これらは墓地の改装中に偶然出土したものが多いようです。)
即身成仏については何をもって定義とするかにもよりますが、土中入定伝説で
あれば、日本各地に非常に多く分布しております。ただ、明治維新後は即身仏と
なることは法律的にも禁止となっています。簡単に言えば自殺であり、それに
協力した人は自殺幇助となりますからね。



>TOKIさん
お久しぶりです。お元気でしたか?
>しゃけさま
ありがとうございます。

you tubeに、待定法師の発掘風景がアップされてたみたいでしたが、何度見ても最初の数秒で止まってしまいました。

法師は入定の際、自分の体より87の肉片を抉り出し、あちこちに祀るよう遺言しました。
法師自身の肉体は、山崩れでどこかへ流されたのか、発掘しても何も出て来ませんでしたが、抉り出した肉片の幾つかは現在でも祀られて残っています。
かなり部分的ですが、これらも広義の即身仏と呼べるかもしれません。
先日、山梨県富士吉田市にあります「富士吉田市歴史民俗博物館」に行って参りました。
その折りに特別企画展としまして「食行身禄」の遺物 を展示しておりました。
食行身禄は富士山信仰(いわゆる富士講)の中興の祖で、富士山烏帽子岩にて厨子を作り、その中で断食行(ただし、毎日茶碗一杯の雪解けの水のみを飲み、弟子に講義をしていた)を行い、31日目に入定したそうです。
その後に弟子達が身禄を富士山頂に祠を作って祀り、暫く信仰されていたそうですが、山頂で自然災害が起きた際に祠も崩れて以来、所在が不明となったそうです。
ご参考までにと思い、書かせて頂きました。
食行身禄の即身仏は、同じ富士講の対立する村上派によって打ち砕かれた、ということのようです。

同じく富士山頂には、案山禅師と弟子の久円が入定し、暫く巌窟に有った、と享保年間の僧伝にあります。
が、この文面には、いささか首を傾げたくなる箇所もあり、信憑性のほどは定かではありません。
食行身禄の即身仏についてですが、対立派により損壊した説は博物館にて「余り言えない話ですが」と言う前置きがあり、旧来からの地元の方数人のみを交えてのお話で伺いました。
ご研究されている方には有名なお話だとは思いますが、
一応地元では「タブー」視されているお話の様ですから、控えたつもりでした。
以上、補足させて頂きます。
TOKIさんの言っているのは、神奈川県鶴見の総持寺にある
中国で入手されたもののことでしょうか?
「ネットには一切 情報がない」と言ってるから違うかな?
marsarinさま

中国で入手したというのは石頭和尚ですね。
それではないのです。
1967年の本に書かれていたのですが、もしかしたら元の墓地に戻されたかもしれません。
>>[19]

トップ画像は浅川町の貫秀寺の宥貞法印です。

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