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明治維新コミュの大村益次郎(村田蔵六)

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口数が少なく、村では余り評判の良い医者ではなかったようである。
慶応2年(1866年)、6月の幕長戦争(第二次長州征伐)において石州口方面の指揮を担当。幕府側を悉く撃破し浜田まで進撃。浜田城を陥落させる。藩論において討幕運動が高まり東上策が唱えられると、自重論を説く。

明治元年(1868年)2月には京都に赴き、王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。4月には大坂から江戸に進駐し江戸府判事を兼任。上野において彰義隊を破る(上野戦争)、5月には鎮台府の民政会計を任される。戊辰戦争では兵站参謀として、東北諸藩の奥羽列藩同盟軍や抵抗した旧幕臣らに対し江戸で軍略を練る。明治2年(1869年)2月に函館・五稜郭を制圧し戊辰戦争が終結。

明治2年9月4日、彼は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。兇徒が所持していた「斬奸状」は、大村襲撃の理由が彼の急進開化主義に対する強い反感にあったことを表している。  辛くも一命をとりとめた大村は山口藩邸に移送され数日間の治療を受けた後、大坂の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去。享年46。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コメント(7)

村田蔵六

 「明治維新」という革命の為に、神が遣わした使徒。
 蔵六を“火噴き達磨”と称した、天才高杉晋作と好対照を成す、秀才。(19世紀に、戦略 兵站術を駆使)
 
 存命中に、西郷隆盛(足利尊氏の如き者と酷評)の叛乱を予言し、大阪に兵器工場(後の陸軍工廠)の建設を提案。これが見事に的中、山県有朋を唸らせる。

 あの 西郷すら戦術の一道具として使うあたりが、彼の真骨頂。しかし、それが自らの命を縮めることになる。

 歴史に if があったなら・・・嗚呼。
大村益次郎こそ真の戦略家だと思います。

ただ一点、自分の考えや作品を上手に人へ伝えられないというプロモーション戦略に弱い決定的な弱点が災いして暗殺されてしまいました。(と私は推察しています)

それも、まるで、坂本竜馬のように、役割の終焉と同時に神が天へ召還したとしか思えないタイミングで。

大村益次郎や坂本竜馬、吉田松陰などが生きて維新を迎えられたら、まったく違った明治政府になったことでしょう。

今の日本も、ぜんぜん違ったカタチになっていたと思います。
今思ったんですが、写真見ると額が大きくありません?
花神を読ませて頂いてから、心なしか酒のつまみに『やっこ』が多くなったような(爆)
以下、以前知人の方に送ったメールの引用です。


 ある意味、彼がいなければ維新は成立しないか、大幅に遅れていたと思います。


 幕府の長州征伐や、維新成立後の不穏な時期の戊辰戦争(これに負けたら新政府は

転覆していた)のときの、総大将のような役をやっています。


 恐らく歴史上の誰が指揮しても勝てない戦の戦略考案と、指揮命令を行って勝って

しまったのですが、それらを一切誇らず妻に自分が何をやっているかも(昔のまま医

者をやっていると思っていたようです)知らせず、質素な暮らしをしていた様です。


 金や名誉といったものに執着せず、寧ろ自分の名誉を隠蔽しようとする姿には、衝撃を覚えました。
> 妻に自分が何をやっているかも知らせず、質素な暮らしをしていた


ミッション・インポッシブルみたいですね。(もうすぐmi3が後公開♪)

天が放った工作員?

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