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内山節コミュの内山節に触発されて考えたこと

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はじめまして。
ダイコクコガネと申します。今日、コミュに入れていただくことにしました。
よろしく、お願いいたします。
入って早々にトピを立てたりして申し訳ありませんが、ご挨拶に代えて書き込ましていただきたく思います。
日記に書いたものの転載です。
『「里」という思想』・『戦争という仕事』に触発されて書いたものです。

『思想としての山』

どうして山に登るのか。その理由は、ひとによって違ったものであるだろう。
いや、もしかしたら山に登る理由を訊くこと自体が意味のないものなのかもしれない。
メロンパンが好きなひとに、どうしてメロンパンが好きなのかを訊くのと同じ次元のことでしかないのだろう。
が、どうして山に登るのかに、わたしは拘ってしまうのである。その理由を、ひとから訊きだそうというのではない。自分自身に問い掛けているのだ。
どうして山に魅了されてしまったのか。どうして山に入ると、それまでのささくれ立った心の苛立ちや、ガラス窓に何度となく体当たりする蝿のような、目に見えない巨大な壁にぶち当たってもがいている黒々とした焦燥感が、土と化したブナの落ち葉の層に染み込んだ泥水が透明な水に変わっていくように浄化されていくのか、その理由がどうしても知りたいのである。

心の浄化の度合いは、入山した山によって違った。それは、動かしようのない確かな実感であった。避暑地の喧騒さながらの北アルプスの山々と、ひとが余り入らない南アルプスの南部や東北の山々とでは、全くといっていいほど違ったものだったのである。

上高地から梓川を遡るようにして横尾まで辿る道は好きだ。死に絶えたとばかり思っていたのに、自分の中に野性がまだ宿っっていたことに気づかされる。甦ってきた野性と対話しながら歩くのは愉しい。上高地から離れれば離れるほど、自分の奥深くに眠っていた獣の本性が牙を剥いて顔を出すのがわかる。
が、心の苛立ちと黒々とした焦燥感は消えはしない。以前として引きずったままだ。横尾を通り越して、登山道は槍沢に入る。浮いた岩が堆積したガレ場の歩き難い登山道だ。やがて、はるか前方に槍の矛先が見え出す。それでも、苛立ちと焦燥感は消えることはない。

南アルプスの南部と東北の山々に入ると、不思議なことに心の苛立ちと黒々とトグロを巻いていた焦燥感が嘘のように消え去るのである。
そして、甦ってくるのは腐乱したように眠っていた野性だけではない。あの懐かしい、羊水の海を漂っていたときの、記憶を超えたところにある原初の自分が甦ってくるのである。今、生きてここに在る。その神秘に、赤子のような無垢の心で真摯に向き合うのである。
山に入る前の自分が、きれいさっぱりと無くなっている。目の前に全く違う世界が拡がってくるのだ。風の匂いがする。木々や草花の会話が耳に入ってくる。山の息遣いと鼓動が聴こえる。自然に宿る魂までが見える気がするのだ。

同じ山である。どこに違いがあるのだろうか。わたしの思考は、いつもそこで足踏みをしていた。どうしても、その先に進めなかったのだ。
しかし、最近になって、わたしはやっと前に歩き出すことができた。よちよち歩きの子どものように、たどたどしい足取りではあるが、確かに前に進むことができた。

北アルプスの山々は、山小屋が完備されている。白馬岳にいたっては、特別ルームまで用意されている。売店では何でも売っている。食べ物とて、平地とさして変わりがない。要は、金を出しさえすれば何でも手に入るのである。当然に制限はある。ありはするが、基本的には平地のままの「生き方」の延長でしかないのだ。平地の価値がそのまま、山にあっても生きているのである。

資本主義とは、常に膨張を続けなくてはならない。拡大再生産というものが根底にあって成り立っている。商品とは、つまりは人の欲望の投影でしかない。だとすれば、欲望の拡大再生産こそが資本主義の本質なのではないだろうか。新たなる欲望を作り出し、欲望を消費させるメカニズムが資本主義の社会を動かしていっているのだろう。そのメカニズムが破綻したときに、資本主義の社会もまた破綻する運命にある。
人の欲望には限りがない。無限に肥大化する人の欲望こそが、資本主義の社会の無限なる拡大を保証しているように思われている。
しかし、地球は有限である。無限に肥大化していく欲望を永久的に吸収できはしない。それを補完するのが、無限に進歩し続ける科学という「真理」なのだ。資本主義の社会とは、科学の進歩というものの絶対的な信頼の土壌の上に花開いたのだと思う。

北アルプスの山々に入山すると、欲望の制限を受ける。次々と泉のように湧き出す欲望をただ消費することに慣れてきた者にとって、それはある意味、新鮮な感覚である。メロンパンの味が、平地で食べているときと違うのである。同じメロンパンであるのに、不思議である。欲望が制限されたことそのものが、メロンパンの味を良くするはずはない。ひとの意識が、メロンパンの味を変えたのである。ひとの感覚とは、いい加減なものだ。
メロンパンの市場価値が高まった、つまりは交換価値が高まった結果だ。近代経済学的な解釈をすれば、そうなるのだろう。
確かに、北アルプスの山々にあっては資本主義的な市場は存在する。ただ、制約を受けるだけなのだ。制約を受けるから、価値が変わるのだろう。が、根本のところでは変わりはしない。

南アルプスの南部や東北の山々には、北アルプスの山々のような山小屋はない(今はどうかわからない。わたしが山をやっていたときはそうだった)。金があっても、買うものがない。金はただの紙でしかなくなる。資本主義的な市場は、完全に消滅するのだ。
すると、世界が一変してしまう。昨日までの価値が、まるっきり無価値になる。世間的な地位が、名声が、役立たずになる。プライドという仮面が剥がされていく。昨日までの欲望が、一瞬のうちに色褪せたものに変わってしまう。喉から手がでるほど欲しかったものが、どうでもよくなる。自分という人間を突き動かしていた欲望とは何だったのか、見えてくる。自分があって、その結果として欲望があったのではない。先ず欲望があって、知らぬ間にその欲望に支配されてしまった、欲望に操られていただけの自分の姿が見えてくるのだ。資本主義の本質が見えてくる、といってもいいのかもしれない。鉄鎖となって煉獄に閉じ込められていた、資本主義のマジックから解放されるのだ。
今、生きてここにある。その事実の前に、丸裸のままで立たされるのである。すると、目の前の自然が見えてくる。原初の自分に立返るのだ。
科学の対象として自然があるのでない。科学も単なる自然の一部であるにすぎない。そんな言葉を、頬を撫でていく風がささやくのである。そして、心の底から頷いている自分がいる。自然の中で生きていくしかない。目の前に広がっている自然は、生きていくことを許してくれている。そう実感するのである。
豊穣なる自然は、決して拒むことはない。知らぬ間に、その懐に抱かれている自分がいる。
そのとき、ささくれ立った心の苛立ちや黒々とした焦燥感はきれいさっぱりと消えてなくなっているのである。

F・テンニエスは『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の中で、共同社会(共同態)としてのゲマインシャフトを規定した。ひとの心に内在する共同性を土台として個々人がその中に内包されている、制度的な諸関係が派生する前の段階の社会とゲマインシャフトを捉えた。そして、歴史の発展にともなって、制度的な諸関係を根底としたゲゼルシャフトに移行するとした。
民主主義とは、個人として完全に独立した自由人としての市民を前提として成り立つ。資本主義もまた、独立したひとつの労働力という商品としての個人を前提にして成り立っている。民主主義と資本主義とは符合するのだ。
民主主義にとっても、資本主義にとっても、ゲマインシャフトは野蛮な遺物でしかない。無知と因習と、おぞましい原始的な宗教とが支配する、地縁と血縁とでがんじがらめにされた闇のような社会でしかない。
ゲマインシャフトとは、ほんとうにそうした社会なのだろうか。

資本主義と民主主義とは西欧で生まれたものである。キリスト教はユダヤ教の分派としてイスラエルの地に誕生した。そして、イスラム教はユダヤ教とキリスト教の影響のもとに成立したのである(加藤隆「一神教の誕生−ユダヤ教からキリスト教へ」)。
一神教であるキリスト教とイスラム教とは、奇妙なことにユダヤ教を母体としているのだ。
M・ウェーバー『プロテスタントティズムの倫理と資本主義の精神』を出すまでもなく、資本主義と民主主義が一神教であるキリスト教の支配する西欧という風土の中で生まれたことは自明である。
西欧における自然とは、どのようなものであったのだろう。湿潤なモンスーン季候の風土にある日本人がイメージする自然とは、大きくかけ離れたものであるように思う。
西欧の自然の中に、たった一人で放り出されたとしよう。わたしが南アルプスの南部や東北の山々で肌で感じ取った「生きていくことを許してくれる」豊穣な自然のイメージは、ありえないのではないかと思える。生きることを拒絶する自然なのだと思うのである。
一面にヒース草が覆う、痩せた大地。そんなイギリスのイメージが、わたしの中にはある。
生きることを許してくれない自然。だとすれば、ひとはその自然と闘っていかなくてはならない。自然は拒絶する対象でしかなくなる。自然はひとの手で、「生きていける」ように変えていく対象となる。ひとが自然よりも上になるのだ。一神教であるキリスト教が、西欧で支配的になったのも、頷けるような気がする。

西欧の風土の中で生まれた資本主義と民主主義とパラレルな関係で、ゲマインシャフトの解釈も見直される必要性がある。わたしはそんな気がしてならない。
共同性における自然との関わりが、問題だと思うのだ。
モンスーン気候の日本にあっても、台風という形で自然は気まぐれに牙を剥く。暴風で家屋がなぎ倒され、洪水が襲う。しかし、自然は根本的なところで「生きることを許してくれていた」。洪水でさえ、肥沃な土壌を作る手助けになっていたのだ。自然は、ひとの外にある対象ではなかった。ひとは、自然の懐で生きるしかなかった。自然の一部だった。
だから、大木にも神は宿っていたし、大きな石にも神は宿っていた。自然の中の生きものにさえ神は宿っていた。森羅万象、どこにでも神はいた。一神教など存在する余地はなかったのである。
資本主義と民主主義とを輸入した日本においては、西欧的なゲマインシャフトの解釈までが輸入された。地縁や血縁や因習といった負の解釈が支配的となった。地縁や血縁や因習などというものよりももっと根本にあるものが、思考からすっぽりと抜け落ちてしまったように思えて仕方がない。自然との関わりが抜け落ちてしまったのである。
ひとは赤子の心で自然と向き合っていた。生きてあることを許してくれている豊穣な自然の懐に抱かれていた。ひとの上に、超然とした姿で自然があったのだ。だから、ひとは自然の意志と摂理とを尊重したのである。その意識は共同性として、誰もがもっていた。地縁や血縁などよりもより高い次元のものであった、とわたしは考えている。
柳田國男の「民俗学」における方法論は、この自然との関わりの面にアプローチするものではなかったのか。そして、「方法としてのアジア」というものの可能性があるとするならば、この側面からではないのか。これは、わたしの妄想である。

4月18日、在野の民俗学者である吉野裕子が逝去した。『蛇―日本の蛇信仰』は、わたしは労作だと思う。しめ縄と鏡餅、案山子までもが蛇信仰に由来したことを検証したものである。古くからある文化というものが、自然との関わりのなかから生まれ出たものであることが判るように思える。

資本主義は真っ先に、このゲマインシャフトにおける自然との関わりの部分を巧妙に分離して闇に葬り去った。何故ならば、これこそが資本主義のアキレス腱だったからだ。そして、ゲマインシャフトにおける地縁と血縁と因習という側面だけが、無知蒙昧としてクローズアップされた。これさえもズタズタにされた。

今、世界中をグローバリズムというグロテスクな資本主義の化け物が闊歩している。化け物は効率化という呪文を唱えながら闊歩していく。その呪文を耳にした者は麻薬常習者のような虚ろな目をして、ニタニタと笑いながら化け物の前に跪くのである。

効率化というものは何なのだろう。闇に葬り去られた、自然との関わりの側面から見たら、愚の骨頂でしかない。欺瞞も甚だしい。
国際分業化として、アジアの豊穣な大地と風土に根ざした稲作中心の農業から、輸出商品としての単一作物栽培に切り替えられた。果ては、田に海水を入れて日本市場向けの海老養殖まで始める始末である。もう二度と、稲作ができない田なってしまった。これが、市場経済における効率化というものの正体である。

そして、昨今の穀物高騰である。食料としての米が足りずに飢えに苦しんでいる民は、アジアの豊穣な大地と風土が育んできた稲作地帯に生きてきた民である。日本人が総裁をしているアジア開発銀行が、緊急援助に乗り出すという。先ずは食料援助が必要だと訴えている。何を言っているのかと言いたい。ふざけるのもいい加減にしてほしい。恥ずかしくないのだろうか。欺瞞も甚だしいと、声を大にして叫びたい。

資本主義は、消費されて捨てられ腐臭を放つ欲望というゴミの山を作りながら、新たなる欲望を生み出して、限りなく肥大化していく。中国の13億を超えるひとの欲望が、ギラギラとした煽動的な情報でかきたてられて、限りなく増幅していく。それでも、限りない科学の進歩という信頼は揺るぎないように見える。

この怪物を仕留める手立てはないものなのか。わたしには、闇に葬られたアキレス腱しかないように思える。そのアキレス腱を自然の民であるマタギの手で切り落としてしまうのだ。そんな空想をしている。

わたしは、和辻哲郎の『風土』を改めて読み返している。そして、今更ながら「農業」というものを考えている。「山」と「農業」。こんなにも近いものか、という感慨にふけっている。

わたしの「山」という思考を前に進めてくれたのは、ある本を読んだからである。
内山節『「里」という思想』『戦争という仕事』である。

コメント(1)

ダイコクコガネと申します。
お久しぶりです。

2010年8月22日(日)NHKスペシャル「灼熱アジア」を観て、考えたことを日記にUPしました。
よろしければ、読んでいただければ幸いに思います。
内山節の思想が色濃く反映された感想だと、自分では思っています。
URLは下記の通りです。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1570126128&owner_id=17651878

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