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エリック・アンダースンコミュの簡単なバイオグラフィ(公式HPより)その1

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※以下は公式HPに掲載されている、エリックの
バイオグラフィの意訳です。細かい部分が知りたい
方は、原典のhttp://www.ericandersen.com/bio.htm
をチェックしてみて下さい。

 エリック・アンダースン(以下エリック)の曲、声、ギターは既に30年の経歴を持ち、21枚のアルバム、北米やヨーロッパ、そして日本で行った過去のツアーなどに集約されている。彼の歌はジュディ・コリンズ、フェアポート・コンヴェンション、ピーター・ポール&マリー、リック・ネルソン、リンダ・ロンシュタット、グレイトフル・デッド、フランソワーズ・アルディなど世界中のアーティストによって録音されている。

 1943年ペンシルヴァニア州ピッツバーグ生まれの彼は、幼い頃をバッファローで過ごし、そこでギターとピアノを習い始めている。その頃地方の会場でゴールドのスーツをまとい歌うエルヴィスを、彼の高校で公演を行ったエバリー・ブラザースを観たらしい。またケリンハンのミュージック・ホールでマイルス(ディヴィス)楽団も目撃している。
 その頃彼はフォーク・グループを結成し、ウッディ・ガスリーやウィーヴァーズの多少ポリティカルな歌を演奏したり、ランボー、ボードレール、(ジャック・)ケルアック、そしてアレン・ギンスバーグの素晴らしい著作(詩)を読むことに多くの時間を費やしている。二年間の大学での就学の後、ヒッチハイクでサンフランシスコに赴き、自作の新しい歌をノースビーチのコーヒー・ハウスで試してみたり、ビート・ジェネレーションの詩人を探してみたりしていた。彼は幸運にもシティ・ライツの本屋でギンスバーグ、ローレンス・フェリンゲッティ、ニール・キャサディと会うことが出来た。数週間後、彼は彼等がケネディ暗殺の夜にハイト・アシュベリーで行ったポエトリー・リーディングのリサイタルを聞いた。

ソングライターのトム・パクストンは63年の秋、エリックを”発見”した。それはノースビーチのコーヒー・ギャラリーでの事だった。彼はエリックの歌を聴き、ニューヨークへ招待してくれた。64年、エリックは直にフィル・オクスとボブ・ディランが居たグリニッジ・ヴィレッジの作曲サークルに紹介される。彼は”フォーク・シティ”のオープニング・アクトに起用され、『ニューヨーク・タイムス』のロバート・シェルトン(訳者注:ディランを公に紹介した事でも有名な記者)がレヴューを書いた。そこでは「スターに匹敵する信じがたいものを持った一流のライター、パフォーマー」と紹介された。彼はヴァンガード・レコードと契約、ファースト・アルバムを録音する。

ヴィレッジのフォークやジャズのクラブで、彼はアメリカのブルース、ジャズの生きた巨人たちの歌やプレイを目撃している。その中にはミシシッピ・ジョン・ハート、ジュディ・ロデリック、ランブリン・ジャック・エリオット、スキップ・ジェイムス、ライトニン・ホプキンス、マディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、ドック・ワトソン、デイヴ・ヴァン・ロック、ゲイリー・ディヴィス、デヴィッド・ブルー、アンクル・デイヴ・メイコン、フレッド・ニール、サンハウス、アニタ・オディ、チャールズ・ミンガス、ビル・エヴァンス、ジョン・コルトレーン、そしてマイルス・ディヴィス・・・彼はマスター達が自分の声や楽器でどのように聴衆を魅了するのかをそれらの中で学び掴んでいった。

次の三年で彼は4枚のアルバムを録音、初期のクラシックである「カム・トゥ・マイ・ベッドサイド」や「サースティ・ブーツ」、そして「ヴァイオレット・オブ・ダウン」を含む曲をヴァンガードから発表した。ブラザーズ・フォーが「カム〜」をコロムビアからシングルで発売した際には、その曲が過激と判断されAMラジオからいきなり締め出されたりしている。ジュディ・コリンズやブルース・プロジェクトは残りの2曲をポップ・ヒットとして世に送り出した。

※「その2」へ続く。

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