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Vashti Bunyanコミュのヴァシュティ・バニヤン・インタビュー

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 まだまだ感動冷めやらぬVASHITIの来日公演ですが、
 いつもお世話になっている
 我らが越谷マイク政義氏のメルマガに掲載されたインタヴューを
 転写しますね。。。
               THE BEGGARS TOBY

ストーンズ・ファンにも知られるヴァシュティ・バニヤン、彼女は1965年5月
21日にミック・ジャガーとキース・リチャード(ズ)共作、アンドリュー・
ルーグ・オールダムのプロデュースによるシングル「想い出は忘れられない
(Something Just Stick In Your Eyes)」でデビュー(『ザ・ローリング・
ストーンズ・ワークス』で聴ける)。

そんな彼女が2度目の来日。3月16日にBillboard Live TOKYOでインタビューし
、その後ライヴを楽しむ予定だったけど、ジョニー大蔵さんにプロ&アマ・チ
ャリティー・ゴルフ大会の表彰式&チャリティー・オークションのMCを頼まれ
、ヴァシュティ・バニヤンは欠席。

いくつかの質問事項を用意して、インタビューを高見展さんと中川五郎さんに
お願いした。

●では、まずあなたのキャリアを振り返らせていただきたいのですが、よく知
られているように、そもそもあなたのキャリアはアンドリュー・オールダムに
発掘されたということになっていますが、どういう経緯だったのか教えてくだ
さい。
「初めて会ったのは、わたしの母親の友人の女優さんを通してのことで、パー
ティでわたしが歌っているのをみかけて、アンドリューが興味を持つかもしれ
ないと思ったらしいのね。マリアンヌ・フェイスフルがちょうどアンドリュー
の事務所をやめたばっかりだったから、わたしなら重宝するかもしれないとい
うことで。それで、その女優さんの事務所で初めて会ったんだけど、その時ア
ンドリューは一言も、なにも言わなくて(笑)。とっても怖かった(笑)。何
曲か歌って、そのまま帰ったんだけど。翌日になって、アンドリューがわたし
とレコードを作りたがっていると連絡が入って」

●じゃあ、それがオーディションだったんですね。
「そう、そうとは知らなかったけど。まだ19歳で世の中で起きていることのほ
とんどなにもわかっていなかったから(笑)」

●当然ながら、ミックとキースが書いた「Some Things Just Stick in Your
Mind」をあなたの「I Want to be Alone」とカップリングしてシングルで出す
というのは、アンドリューの思いつきだったんですか?
「そう、で、わたしとしてはそれはやりたくなくて、あくまでも自分の曲でや
りたかった。自分としてはパフォーマーよりもソングライターをやっているつ
もりだったし。だから、すごく嫌だったんだけど、父からのここは妥協するべ
きだよという勧めがあって、それでB面にわたしの曲を収録することになった
わけ。どっちみち、誰にも聴かれることはなかったんだけど(笑)」

●(笑)そんなことはないと思いますけど。ただ、そういうことであれば、ス
トーンズとの交流などはあまりなかったんでしょうか。
「そうね……でも、レコーディングの時にはミック・ジャガーが居合わせてく
れたんだけど。それにアンドリューの事務所に出向くと、何度かストーンズの
人たちとは顔を合わせることもあったし。特にやっぱり、キース・リチャーズ
はいつも親身に接してくれたのね。あの人たちのなかでは唯一わたしと音楽の
話をしてくれたし、今自分たちがなにをやっているのかって、具体的に音楽の
話をしてくれるのってキースだけだったから(笑)。ほかの人たちはもう、な
にを話してもなにをやらせても、あのパーティがあって、このパーティがあっ
て、そればっかりで・・・(笑)。だからまあ、とっても楽しい雰囲気ではあ
ったのよ。ただ、わたしがやりたいことではなかったのね。わたしがやりたか
ったのは、自分の作品を世に送り出したいということだったから。それでまあ
、ほかを探すことになったわけだけど」

●というわけで、アンドリューとの体験はあまり満足のいくものではなかった
と。
「というより、それはもうちょっと後で起きたことで、ここまでの話はまだ65
年に起きたことなのね。それでいったんアンドリューのところから離れて、自
分ひとりでシングルを出してみたわけ。自分とチェロを使ってという形で。で
も、これもうまくいかなくて、これはそれこそ、誰もまったく聴いていないは
ずだし。でも、その後、アンドリューが自分でレーベルを立ち上げるという話
になって、これは当時としてはものすごく新しい話だったのね。この時点でイ
ンディペンデントなレーベルを立ち上げた人なんてほかにはまだいなかったか
ら。それまではEMI、パーロフォン、デッカとか、そういうメジャーしかない
世界だったわけで、それだけ画期的な試みだったから、イミディエイトでやっ
てみようかという話はものすごくわたしも前向きに考えていたわけ。その後、
いくつか曲も書いていたし、それを聴いてもらったら、これはイミディエイト
でぜひやらせてほしいという打診をもらって。それで、シングル3枚分のレコ
ーディングをしたんだけど、結局、1枚も出してもらうことにはならなかった
のね。まあ、それぞれに事情があったわけだけど・・・要するに、イミディエ
イトではいろいろアイディアが渦巻いていて、それはそれでどれも本当に素晴
らしいものなんだけど、そういうのがなかなか形にならなくて、そのうちに次
のアイディアへなだれ込んで、その過程でなんかいろいろうやむやに忘れられ
ていくっていうことがよく起きていたのね。わたしもまたそのなかの1人だっ
たわけで。そこでわたしももう気持が折れてしまったから、またイミディエイ
トをやめることにしたの。それとロンドンや自分の家族、そういうものも全部
を捨てることにして、知らないところへ行ってみることに決めたのね」

●では、60年代の残りの日々はデビュー作の『Just Another Diamond Day』の
楽曲を用意していくことに費やされたということなんですか。
「そもそもこのアルバムの楽曲とかもレコーディングするつもりはなくて、自
分が後にしてきた過去とあわせてすべて捨ててきたつもりだったのね。ただ、
ロンドンからスコットランド北部まで馬に引かせた荷車で旅していく過程でい
ろいろ書けたものがあって。ドノヴァンがアーティストたちを集わせるコミュ
ーンみたいなものを作っていて、そこへ行くつもりだったんだけど。そこへ行
く途上でこうした楽曲がいくつも書けて、特にそれをレコードにするつもりも
なかったのね。ただ、そこへジョー・ボイドとも出会って、彼がもう一度やっ
てみろと音楽業界に引き戻してくれたわけ。それで、旅が終わった時点でロン
ドンへ戻ってみて、これらの楽曲をなんとか形にしてみせたわけ。ドノヴァン
のコミューンもまるで形にはならなかったっていうこともあって(笑)」

●(笑)なるほど。
「(笑)着いてみたら、なんにもなかったっていう感じだったから。あはは」

●(笑)そうした時代を今どのように振り返ったりしますか。
「どういう風に? そうね、とても楽しくて今も懐かしい時代だとは思うわ。
いろんなバリアーが打ち壊されていく時代だったし、特にエンタテイメントの
世界では若い人たちが主導権を握っていく時代だったから。それまではどこを
向いてもスーツを着た年寄りがすべてを仕切っていたから。若い人がそれだけ
力を握っていくっていう意味ではとてもわくわくする時代ではあったのね。よ
りよい時代を作っていこうっていう。実際にそうなったかならなかったはまた
別の話として。だから、わたしとしてはすごくクリエイティヴな時代だったと
思う。若い人たちにとってはそれまで許されていなかった機会がいろいろ開け
てきた時代だったしね。それにすごくみんなが勇気も奮って行動していたとい
うか。というのも、当時の大人たちというのは、とにかくなにかつけて頭ごな
し否定してくることが多かったから。なにもかも言われたとおりにきちんとや
らなくちゃならなくて、それができないとそれだけでのけ者にされてしまうと
ころがあったのね。だから、そういう鼻つまみ者が当時は大勢たむろしていた
というわけなのね(笑)」

●そうやって『Just Another Diamond Day』の楽曲を用意していた日々を特に
象徴するような思い出ってなにかありますか?
「まあ、だからその楽曲をいろいろ旅しながら書いた頃のことかしら。旅をし
ていたその頃の日々が思い出になってるわよね。馬を引かせて、当時のボーイ
フレンドと一緒で。あとは犬と小さな荷車っていうか(笑)。とにかく音楽を
かけるための電力がまったくなかったから、それがわたしの基礎を作ってくれ
たというか。つまり、最後に聴いたのがドノヴァンで、それ以外の影響を受け
ようがなくなったというか(笑)。それと旅の途上で出会った伝統的なミュー
ジシャンたちとかから影響されるという。まだヴァイオリンを弾いたりする人
たちがよく見かけられたし、スコットランドに入ってから特にそういう人たち
をよく見聞きすることが多くて。それで、当時の流行の音楽よりも、そういう
ものにものすごく影響を受けたところがあったのね。そういう意味で、ひとり
っきりでなんかいろいろ考えて煮詰まっちゃうよりは、わたしにとってそうい
う影響がすごくプラスに働いたと思う。自分のようなタイプのミュージシャン
が近くにまったくいないっていう状況はとても孤独だったけど、でもちょっと
独特なものを作り上げていくためにはすごくいい環境だったと思うのね」

●けれども、そうやって『Just Another Diamond Day』を発表して、それから
『Lookaftering』を出すまで35年もあったわけですが、これだけ時間がかかっ
たのはどうしてだったんでしょうか。
「というのも、『Just Another Diamond Day』を作ってみたのはいいけれども
、結局、これもまた誰にも聴かれることにはならなかったし、リリースもまと
もには出してもらえなかったのね。フィリップスではちゃんとカタログにも入
れてもらえなかったくらいだし、だから、誰にも知りようのないレコードにな
ってしまったの。結局、音楽誌とかでいくつかレヴューが載った程度で終わっ
て、そのうちのひとつがとてもひどい記事だった。書き手は聴いていると気が
滅入って憂鬱になる作品だとしていて。そもそもわたしがこの作品を書いたの
は、自分の鬱屈とした心境をはねのけるためだったのに人を憂鬱にさせている
となったらどうしようと思ってしまって、その記事を読み終えて雑誌を閉じて
、そこでもう二度とやらないと心に誓ったのね。それから二度とギターにも手
を触れなかったのよ。上の子供にギターの弾き方を教えることになった時以外
はね。そういうわけで、音楽を本当にもう自分から遠ざけてしまったわけなの
。それは心から傷ついたからなのね。わたしはわたしなりにやって、でも、誰
にも理解されなかったっていうことになったから。耳に入ってくる意見は、こ
れじゃただの童謡だとか、言葉遊びだとか、さまつな音楽だと、そういうもの
ばっかしで。それでわたしもまた、そういう風に考えてしまうようになったの
。自分の音楽なんてどうでもいいもので、すごくつまらないものだと。だから
、その後の35年の間、わたしはまるで音楽とは関わらなかった。子供たちに歌
ってあげるようなこともしなかったし、なにもしなかった。ただ、コンピュー
ターを家でも使うようになってインターネットにアクセスしてみたら、人々が
わたしのレコードについて語り合ったりしていたことを初めて知ったのね(笑
)!」

●なるほど(笑)。
「しかも、みんなが、当時のわたしがこう感じてほしいと思っていたようなこ
とを口々に語ったりしていて。でも、当時は誰もなにも言ってくれなかったの
よ。自分の親しい友達さえなにも言ってくれなかった(笑)。だから、そうい
うことを発見して、それがまた大きなきっかけになったというか。また、ブー
トレグが出回っていたから、わたしの版権を持っている会社に連絡を入れて相
談してみたら、そこの担当者のひとりが実際に聴いてみてくれて、それから連
絡をもらって、素晴らしいと思ったと言われて。わたしとしては『これって夢
なんじゃないのかしら?』ってほほをつねりたくなったわ(笑)。で、その人
がわざわざスピニー・レコードを設立してくれて、『Just Another Diamond
Day』を再発してくれたわけなの。まあ、せいぜい200枚くらい売れればいいか
ななんて話をしていたんだけど(笑)、どうも、最初にリリースした時にはな
かったようなインスピレーションを人々に今回はもたらすことができたみたい
なの。実際にそのことを目撃して、その成果を享受することになって、本当に
幸せだと思う。あんな昔に作ったものが、結局は誰かに理解されていたという
こと、そのおかげで、わたしの心の鍵も開けて、またギターを手に取ることが
できたし、『うーん、思っていたほどひどいもんじゃなかったのね』って思え
るようになって、そうすると、また曲を思いつくことができるようになったと
いうわけなの」

●そうした心境の変化をきっかけに新作に取り掛かったという感じですか?
「それとプロデューサーのマックス・リヒターと出会ったということが大きか
ったわね。というのは、マックスはわたしのやろうとしている音楽を本当によ
くわかってくれるから。わたしの頭のなかでどういう音が鳴っているのか、そ
れをわかってくれるわけ。わたしは楽譜を書けも読めもしないから、だから、
どんな音をイメージしているのか、それを言葉でしか説明できないんだけど、
それでもマックスはよくわかってくれるわけなのね。だから、仕事のパートナ
ーとしてすごくうまくいったし、わたしのキャリアなかでも(笑)、最高の瞬
間だったんじゃないかしら。とても素敵な経験になったのは確かなの」

●ちなみに、『Just Another Diamond Day』が音楽ファンの間で熱く語られて
いたのを発見したのは具体的にいつぐらいのことだったんですか?
「えーと、96年ね」

●で、それまでは本当に文字通り、音楽から遠ざかっていたということなんで
すか。
「そう。自分にまた音楽がやれるなんて、それまでは1回たりとも、思いつき
でさえ、考えたことがもうなかったから。だから、このめぐり合わせはとても
幸せなものだったと思うのね」

●で、マックスと知り合って、新作への構想が実現していったという経緯だっ
たんですか。
「ううん、まずはグレン・ジョンソンがやっていたピアノ・マジックっていう
バンドがあって、彼からわたしは初めてレコーディングに参加してもらえない
かというアプローチを受けたのね。で、それが30年以上経って初めてスタジオ
に足をまた踏み入れる機会になったわけ。で、本当に楽しかったんだけど、で
も、実は自分がまだ歌えるかどうかもよくわからなくて、お話をいただいた時
は『はい、もちろんです!』ってすぐに承諾したけど(笑)、本当はまだ歌え
るのかどうか全然わからなかったの。でも、いざ、スタジオでマイクの前に立
ってみたら……もう、本当に気持ちよくなっちゃって(笑)」

●(笑)。
「(笑)天にも昇る気持だった。それからスタジオから出ても、もうずうっと
雲の上を歩いているような心地で、そのままふわふわした気分で娘に電話をし
て『お母さん、またこういうお仕事をやってみたくなっちゃった。またアルバ
ムを作ってみたいわ』って話したのをよく憶えてるわ。ただ、手持ちの曲がこ
の頃はまだ全然なくて。でもね、ひょっとしたら、またやれるのかしらってい
う思いつきはその時、感じたのね」

●そこでまた曲を書き始めたことだと思うんですけど、わりと自然に曲が湧い
てくる感じだったんですか。
「もう全然っ(笑)!」

●(笑)。
「もうなにをやっても、ゴミみたいなものしか書けなくて(笑)。あーひどい
、海の底にでも沈めておかなくちゃって思うものばっかりで(笑)。だから、
本当にちょっとずつ前に進んでいくっていう感じだったのね。その間はもう、
誰にもなにも聴かせなかったし。それから今度はアニマル・コレクティヴに会
うことになって、今度は彼らのEPの『Prospect Hummer』のレコーディングに
参加してほしいと声をかけてもらったのね。しかも、彼らはファット・キャッ
ト・レコードと契約していたから、レコーディングの時にも、ファット・キャ
ットのデイヴといろいろ話すことになって、今なにをやってるのっていう話に
なったのね。実はいろいろ曲を書いているのって話したら、もし意見などほし
かったらぜひこちらに送ってみてよと言われて、せっかくだから送ってみたら
、そのままファット・キャットと契約することになったという。するとそのフ
ァット・キャットにマックス・リヒターもいて、しかも、マックスがたまたま
わたしの住んでいるエディンバラに引っ越してきたばかりだというので、実際
に会いに行ってみたらっていう感じでね、本当にその後は成り行きのまんまで
とんとん拍子にうまくいったのね。だから、本当に素敵なめぐり合わせだった
のね。ある人に出会うとそこからまた別の人へという繋がりが2年くらいどん
どん続いて、その間、ずっと曲をひとりで書いていくっていう作業を同時進行
させていて、それがすべて『Lookaftering』で形になったわけなのね」

●“Wayward”をどのように書いたのか、教えてもらえませんか。
「えーとね、わたしがずっと音楽から離れていた間、わたしは子供たちを育て
たり、田舎で暮らしたりと、家庭にどっぷり浸かっていたわけだけど、でも、
わたしの心のどこかには、ツアーをしたりとか、旅をしたりとか、かつて自分
が送っていたような生活をまた送ってみたいと思う自分もいたわけなの。でも
、それと同時にわたしの気持は子供たちに注がれてもいたわけで、すると、家
に腰を落ち着けていること、そして子供たちの面倒をみることはもうどうして
もやらなきゃならないことだったわけ。だから、女にとっては、今とは違う世
界も自分にはあったんだという、矛盾がいつもついて回ってくるのね。で、そ
の別の世界は、子供たちが自分の手を離れるまでは足を踏み入れられない世界
になってしまうわけなの。そういうことへの思いがあって、この“Wayward”
が書けたということがあるんだけど。だから、この曲のなかの父親たちが置き
去りにされていくというくだりについては、実はね、わたしはまた別なヴァー
ジョンもレコーディングしていて、それは置き去りにしちゃうのはちょっとか
わいそうかしらって気になったから、もうちょっとやんわりした内容なんだけ
ど(笑)。でも、マックスが置き去りにしちゃったヴァージョンの方がいいっ
て言い張って。歌がそっちの方がよかったからということで(笑)」

●やっぱり置き去りしちゃった方に気持ももっと込められていたんですかね
(笑)?
「いずれにしても、本気じゃないのよ(笑)」

●(笑)わかりました。では、デヴェンドラ・バーンハートやジョアンナ・ニ
ューソンなど、わりとラディカルな今のフォーク・シーンを牽引する若いアー
ティストとのコラボレーションなどはどういう風にして実現したのでしょうか
。
「うーんと、それはデヴェンドラの方からわたしにメールを書いてきたってい
うことがあって。ちょうど彼が『Just Another Diamond Day』を発見した頃の
ことだったのね。デヴェンドラにとっては、彼の人生のなかでもちょっとよく
ない時期を迎えてた頃で、ただ、このアルバムを聴いてとても助かったという
ことが書かれてあったのね。で、わたしのCDについていたメール・アドレスに
『こんにちは! ぼくはサンフランシスコ在住のただのダニです』っていうメ
ール送ってきたわけ(笑)」

●(笑)相当キテますね。
「『ずっと自分の歌を歌ってきていますが、ものすごくしんどい経験が続いて
いて、やめようかと思っています』っていう、もうほんとに気の毒な内容のメ
ールで、『自分の音を送ってもよろしいでしょうか』ってあったから、『送っ
てもらうのは全然構わないから、自分のことをダニなどとは呼ばないでね。人
前で自分の歌を歌うガッツがあれば全然ダニなんかじゃないんだから』って返
事をしたんだけど。その後、メールや電話で連絡を取り合うようになって、つ
いは会うことになったんだけど、本当に素敵な子で、だから、その後の彼の成
功にはとってもほっとしたっていうか。それにとっても特別な人だから。それ
とわたしをジョアンナ・ニューソンと引き合わせてくれたのもデヴェンドラだ
ったし。でね、人はよくジョアンナがわたしの曲に影響されているというけれ
ども、そんなことはなくて、わたしと実際に知り合うまではジョアンナは聴い
ていなかったはずなのよ。だから、むしろデヴェンドラやジョアンナ、あるい
はアニマル・コレクティヴについてわたしが思うのは、彼らや彼女こそが、わ
たしの居られる場所を作ってくれたということなのね。あるいは、ここまでの
過程でわたしと仕事をしてくれた人、そういう人たちみんながわたしの居場所
を作ってくれたということで、わたしがみんなに影響をもたらしたとか、そう
いうことでは全然ないと思うのね。むしろ、みんながわたしの音楽が生きてい
けるような場所を作ってくれたということなのよ。そのことだけでも、みんな
ことをとてもかけがえなく思っているの。それともうひとつ重要なのは、デヴ
ェンドラもジョアンナも、わたしが音楽をいったん捨てた時くらいの年頃なの
ね」

●なるほどねえ。
「だから、音楽的にいうと、わたしもまだ、その辺からやり始めたばっかりだ
からという思いがあって。だから、ここまでずっと一緒にやってきているミュ
ージシャンたちもみんな本当に若いんだけど、それはそういう風に選んでいる
わけじゃなくて、たまたまそうなってしまうわけなのね。でも、やっぱり、み
んなよくわかってくれるっていうことがあるし、わたしもまたそうなのよね(
笑)」

*中川五郎さんのコンサート・レビューが下記に掲載されている

http://www.musicpenclub.com/review-p-201004.html

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