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カント(Immanuel Kant)コミュのありのままのもの、物それ自体

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カントは言う。

「直観によって得られる物の表象というものは、その物自体に属するようなものを何ひとつ含んでいないのだ。
物の表象は、それの現象であって、すなわち私たちがその物によって触発される仕方でしかない。
私たちの認識能力というものはこのような受容性であり、それが感性と呼ばれるものであって、
この受容性の下では、いくらこの現象というものを徹底的に調べ尽くそうとも、
結局は物それ自体の認識には到底およばないものなのである。」
(『純粋理性批判』岩波文庫版110頁参照)

皆さんとともに考えさせていただきたいと思います。

コメント(20)

「私たちが雨にあう時、その雨滴というものはあくまでも現象として私たちにもたらされているものであり、
その小さな円い形態にしろ、
さらには落下する雨滴の下地になっているその空間さえも、
どれもこれも決してそのもの自体として存在しているのではなく、
実は私たちの感性的直観のありさま(またはその根本的な変容)に過ぎない。
先験的な対象すなわちありのままのものというのは、私たちには依然として知られないままなのだ。」

(同書112頁参照)
>>[001]

私は、哲学に関心はかなりにありますが、入門書も読み通せないレベルです。

それであまり分らないまま、質問します。
目の前に石ころが見えたので、それをちょっと蹴ったら、その石ころは1メートルぐらい動いたのが見えました。
この石ころは、物自体ですか?
石ころが見えた、蹴ったときに爪先に当たる感じがしたは、現象ですか?
>>[002]、どうもありがとうございます。
ともにカント哲学を理解しよう、読んでみようという努力を共有できることを嬉しく思います。


>目の前に石ころが見えたので、それをちょっと蹴ったら、その石ころは1メートルぐらい動いたのが見えました。この石ころは、物自体ですか? 石ころが見えた、蹴ったときに爪先に当たる感じがしたは、現象ですか?


石ころが見えたというのは、私たちの視覚という感性によって受容されたことにより、すでに私たちの感性に具わる直観の形式に従った現象であって、その物のありのままではないとカントは言います。
その石ころを蹴ったというのも私たちの触覚という感性が受容する印象の一つであり、やはり現象として与えられたものでしかないとカントは言います。
そして石ころが転がる運動というのは、私たちの考える能力であるところの悟性に、先験的に具わっている純粋概念があくまでも現象についてそのようにまとめるのであって、
決してありのままのものそれ自体に私たちの認識が届いているわけではない、
とカントは言っているのではないでしょうか?

以上についてぼくの読み間違いでしたら、ぜひ皆さんに教えていただきたいと思います。
m(__)m
>>[003]

私の幼稚な質問に親切な回答を頂いて感謝いたします。
昨日、ブックオフで「純粋理性批判」を探すと、上、中だけで、定価の半額程度なので買いませんでした。
竹田氏の完全解読を図書館で借りましたが、まだ着手していません。
‐‐‐‐‐‐‐
石ころについては、だいたいの考えが分かった気がします。
「自分が経験している、考えていること、痛いという感じ」は、物自体ではなさそうですが、どうでしょうか?
私が、ある他人と会話しているとき、その他人が、考えているであろうことは、私にとって物自体でしょうか?
>>[004]、ありがとうございます。
カントを読む際は、カントの文章の中にどんどん呑み込まれるままになるよりは、
ひとりの生活者としての純朴な疑問を常に提出してみることがとても大切なようにぼくには思えます。


>「自分が経験している、考えていること、痛いという感じ」は、物自体ではなさそうですが、どうでしょうか?


そうです。私たちの心の中に生じている表象というものはすでに私たちの心的内容が変容されたそのありよう、すなわち現象でしかなく、
すでに物自体ではないとカントは言います。


>私が、ある他人と会話しているとき、その他人が考えているであろうことは、私にとって物自体でしょうか?


私が他者の心の中を推測し、或る表象を得たとしてもそれは私の心的内容が変容したという現象でしかなく、
本当にその他者が思っていることは決して到達しえない向こう側にあるもの自体だとカントは言っているのではないでしょうか?
>>[005]

的外れの質問でした。すみません。まずは、竹田氏の完全解読 純粋理性批判にチャレンジします。
例えば蛇なんかは温度で外界を把握しますね。蛙は動くものだけ「存在する」と把握する。彼らの視界から世界を感じた時、人間とは全然違う把握の仕方をします。

人間は人間の感覚器官や、言語などの規定方法に世界把握を依拠している。
『物の表象は、それの現象であって、すなわち私たちがその物によって触発される仕方でしかない。』
人間の可視光線の範囲以上に感受領域の広い『存在者』を、想定してみる……。例えば赤外線や紫外線も「見える」宇宙人なんかだと世界把握の仕方は全然変わってくるだろう……とかw もっとも、カントが考えていたのは「完全な存在者」(完全に世界を把握できる存在)としての『神』かもしれないですけど。


人間の「触発される仕方」は、あらかじめ『先天的』(種の形態的)に決まってるわけです。「人間」という種の在り方として。カントは感性だけでなく、「思考法」ともいうべき『悟性』にも「先天的な形式」があると洞察した。ここには西洋の伝統的な論理学の形式が整理されて入ったわけです。その「形式」と「外界の刺激」がぶつかり合うのが『先験的』。

石ころの問題でいうと、カントは『時間』というものも「人間の世界把握の形式」として捉えた。実際、脳損傷の症例などをみると、現象を時間的な連続性として把握できず、例えば、蹴って転がり出した石が、次の瞬間にはいきなり遠くにあるような……そんな外界把握になる人が実際にいるわけです。転がる石を「連続的」に把握するのは、脳がそれを「構成」するから、ということです。

つまり「連続する時間性」というのは、人間の『触発される仕方でしかない』ということですね。カントは脳損傷のケースとかを知ることなく、思考だけで論理的に人間の世界把握の形式を洞察した。と、僕は思ってます。

字面でイメージするのではなく、具体的に把握すると、カントの世界がとっつきやすくなるかなと思います。

人間は感覚器官の外部で、機械的に感知領域以上の事を把握できるように進歩しましたが、それでも人間は人間の『思考形式』の限界を越えられるのか? という問題はまだ存在すると思います。

それが今現在も重要な問いかどうか…は、判りませんが。
>>[006]

いや、全然的外れなんかじゃありませんよ。
普通、そういうことを考えるのは当たり前だと思います。
上のハルカさんのコメントは、ぼくのお応え以上にずっと素晴らしいものだと思います。
>>[007]、どうもありがとうございます!
ぼくがヨロヨロと読ませていただいている所を、本当によく噛み砕いて下さってありがとうございます。
コメントの素晴らしい内容にウットリしながら読ませていただきました。
また、単に痩せたゴツゴツした解説ではなく、
豊かなふくらみと問題意識を合わせ持ったお話を綴っていただけて、
ぼく自身、より明瞭な像を結ばせていただけて嬉しいばかりです。
今後ともよろしくお導きのほどをお願い申し上げます。
>>[007]

>人間は感覚器官の外部で、機械的に感知領域以上の事を把握できるように進歩しましたが、それでも人間は人間の『思考形式』の限界を越えられるのか? という問題はまだ存在すると思います。


カントの考えは、たとえどんなに機械的方法を通して、より微細に詳しく対象について表象を得られるようになったとしても、
機械を通して得られる詳しい表象さえ私たちの心的内容の変容という現象であることに変わりなく、
決して対象自体について知りうるわけではないのだ、
というものでしょうか?
もちろんカントの考えを受け入れるか受け入れないかの自由は各人にあるわけですが。
あくまで私的な解釈ですが、機械を通しても「感性」に依拠する……という以上に、『AはBである』というような「論理的規定」それ自体が、「人間の先天的な外部把握方式である」ということが問題になってくるかと思います。それはつまるところ『言語』で「世界を規定する」というところの問題です。

結局のところ、「目の前の石」を『知る』の、『知る』とは何か? という問いになると、世界像の理論=科学の理論的根拠、の問題になってきます。

これを巡って「言語論的転回」というものが起こり、論理的に世界を把握する完全性をめぐってラッセルやホワイトヘッドの方法論が提唱され、有名な『ゲーデル問題』とかクワインのホーリズム等の問題に展開していく……というのが哲学史的な流れかと思います(極めて大雑把ですが)。

ただ、そもそも西洋哲学が前提にしている「完全なる真理」というものが、極めて特異な性格であることには留意すべきだと思います。

簡単に言うと「完全なる知識」というのは、「更新されることのない=不変」の知識です。と同時に、「現象の如何によって左右されない」理論こそ、「完全な」知識なのです。つまりカントの『物自体』を否定できることが、哲学上の至上命題でした。

完全なる知識が論理的に存在する、と証明しようとしたのがラッセル達で、その証明は無理だ、と数学的に証明したのがゲーデルです。クワインは世界理論というのは部分から構成されていて、一部が間違いと判っても部分を修正することで延命する、自身を修理しながら航行を進める『ノイラートの船』のようなものだと言いました。

つまるところ「把握しきれない世界」としての『物自体』は、消しようがなかったわけです。これは論理的な性格として、ということです。

この先、科学理論が進歩して、その世界理論が100%整合的だとしても、それはあくまで「我々が使用する限りにおいて」その時の「現在の検証に耐えうる」という限定においてのみ『真理』のように振る舞える、ということが論理的に言える、という話なのです。

その理論を「充分」と捉えるか、あるいは「不充分」と捉えるかは、その受け取り方次第になるかと思います。またそれを問題にすること自体が、『重要な』問題とされるか? という問題もあるかと思います。

90年代まではこういう問題を云々することが非常に流行でした。今は恐らく別の方向性が主流でしょう。無論、だからといって何が重要か、というのは先天的に決められませんが。
>>[011]

カントが、どんなに優れた機械を発明して対象をより精密に解明できるようになろうが、
そのデータを受け取る立場の人間の感性が限定された形式を持っている以上は、
どんな認識も根源的認識すなわち対象そのままの認識にはなりえないのだ、
と考えていたとしても、

精密なデータを利用して科学による二次的な発明から便益を得るのも、
同じように制限された受容形式を持つ人間なのだから、
実は何ら実際的には不都合はないのだ

と僕には思えます。
的外れの質問で済みませんが!

他人の思考、感情、性格、書いた文、話した内容は、物自体ですか?
>78910さん

 あなたがそれで「充分」だと思うなら、それでいいと思います。ただ、だとしたら何故そもそも「物自体」を問題にしたのか? とは思います。もっとも、『僕に』答える必要はありません。答えることがむしろ、考えることからの免罪符となるでしょうから。

>野口さん

 それは哲学的には『物自体』の問題というより、『他者』の問題となると思います。
 ハイデガー、レヴィナス、デリダ、柄谷行人などにあたるのがいいかもしれません。真面目に考える気があるのならですが。
>>[14]

>真面目に考える気があるのならですが。
私はインターネットの書き込みはmixiだけですが、常に真面目です。ただし、大して慎重に考えていない場合は多い。

上記の質問を書いた理由は
◎「物自体」の範囲がよく分らなかった。
○パソや携帯電話は「物自体」と思われるが、そこに表示されたテキストとその意味は「物自体」ではなさそうである。
しかし、ある人が投稿を何回かすると、投稿間に時間的関係がある。
すると、「物自体」以外でも時間関係があることになりそうである。

どうも、私はカントの哲学は分り難い、相性が悪そうだという感じがしてます。
「プロレゴメナ」を読もうとしましたが、まるで分らなかった。
--------------------

>それは哲学的には『物自体』の問題というより、『他者』の問題となると思います。
 ハイデガー、レヴィナス、デリダ、柄谷行人などにあたるのがいいかもしれません。

到底、そこまで手が出せそうにないです。
「現象学」の入門書を読もうとしましたが、これも直ぐに挫折しました。
でも、私はカントの哲学より相性が良いように感じてます。

「他者」の問題となる、という点について:
チンパンジーはかなりに知的能力がありそうです。また、アフリカ象は人が聞けない低周波音で会話をしている、という番組がありました。
すると、人間の「他者」には収まらない可能性があるかも知れない(根拠薄いヤマカンですが)。
>>[13]

日本語には幸運なことに物事という言葉があります。
そういうのは「もの」じゃなくて「こと」です。
>>[016]

レス、有難うございます。
質問すると余計に混乱しそうなので止めときます。
>>[013]

>他人の思考、感情、性格、書いた文、話した内容は、物自体ですか?


それらのものが自分の感受性の向こう側にそのもの自体としてあるわけですが、
自分の感官によって受容されるにはそれらが自分に現象として現れる形式を通らなければならないし、
さらには多様なバラバラの印象のままではなくちゃんと結合されるために悟性のカテゴリーによる構想力を経なければならないので、
そうして初めてとらえられたものというのは、カントの用語で言うなら決してそれらのありのままそれ自体ではないと言えると思います。
>>[018]

丁寧な説明、有難うございます。
他人の思考、感情は、石ころ以上に把握し難いので、ありのままそれ自体ではないと私も思います。

私は軽率で、疑問点があると直ぐ質問する癖があるので、少し反省して竹田氏の「完全解読」をもっと読み進んでから発言するようにします。
>>[13]

>他人の思考、感情、性格、書いた文、話した内容は、物自体ですか?


他人が書いた文章や話した言葉などは私たちの感性によって受けとめられる現象に他なりませんが、ではそれら文章や話し言葉の発出元となったその他人の思考や感情や性格はどうか。
それらについては私たちは他人の文章や話し言葉から類推するだけだ。もちろんその類推は的外れなものから、案外近いもの、さらには当の本人によって「なるほど〜。自分でも気が付かなかったけれど、そうかもしれない」と深く納得されるものなどさまざまでしょう。
でも、やっぱり思考や感情や性格それ自体は感性の届きえない物自体として、類推するばかり・・・というのが、カントの考え方なのかなあ。
皆さんからさらに教えていただけたら、有り難いです。

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