ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

社会学コミュの自己と社会の共通性

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
初めましてこーちゃんです。
まずは自己紹介から、まだ社会学を初めて間もないものですが開発社会学及び比較社会学に興味を持っております。
では質問に移らさせていただきます。

”世界との相関的位置づけとしての自己
世界とは独立した絶対的な自己
世界に縛られた存在として、われわれは後者の自己を確認することはできるのだろうか
なるほど環境を変えて現れる自己の共通項を模索するというのは可能な試みのようだ
しかし果たしてそれは自己の共通項なのか
それとも世界の共通項なのか”

自分が17歳の時に先輩から問われた問題です。
皆様の意見お聞かせください。

コメント(13)

けんじーさん>返信ありがとうございます。

>”世界の共通項でもあり、自己の共通項でもある”
それは社会によって自己が形成され、個人の絶対的なキャラクタリスティックではないということなのでしょうか?または社会とは別物で絶対的に存在する自己があるのでしょうか?お考えをお聞かせください。

いえいえ、ここまで洗練された考えを伺わせて頂いたのは初めてです。ありがとうございます。
構造的理解が既に出ているようなので、意味世界の観点からの自分なりの解釈を。ちなみに、私もまだ始めたばかりなので意義の有る意見とはならないと思います。あしからず・・・

意味は当然遺伝的な物ではない以上世界と自己との関係性は必ずあります。しかし、絶対的な自己は本当に有り得ないのでしょうか。希望の意味も超えて有り得ると思います。ジンメルによれば個人はその関係の組み合わせの特殊性から、個性が生まれるとしています。社会が成立すると外部化する様に、個人もまた一度成立すれば外部化(相対的な意味で。)するやうな気がします。

故に単なる世界の共通項では、無くそこには創発的何かが生まれるのではないでしょうか。そして独立運動を開始するのではないでしょうか。

無学故に浅い内容になってしまって、すいません。

私は、社会学の専門家ではありませんし、社会学の教育を受けた訳でもありません。こんな「こんな考え方もあるよ」という程度に読んでいただければと思います。

「世界との相関的位置づけとしての自己」という捉え方をする場合、その時間は常に「いま」になるはずです。
現在なら現在、ゼロ年代ならゼロ年代、昭和なら昭和という区切られた一定の時間のなかでの関係ということになります(この時間の捉え方を「いま」としておきます)。
私見ですが、社会学の物の見方は、基本的には、「いま」を前提としているように思います。

この「いま」に時間の経過という概念はありません。時間を動かさないからこそ、他者との関係も捉えられるのでしょう。正確にいえば、時間の変化も捉えようとすると、自分自身の変化、他人の変化、その両方を捉えないと関係を捉えることができなくなります。それは非常に困難な作業なので、時間の方を固定して考えてみるのでしょう。

この「いま」による関係の理解と対をなすのが、「世界とは独立した絶対的な自己 」の理解なんだろうと思います。

私は、「世界とは独立した絶対的な自己 」の理解というのは、ある意味では可能だろうと思います。その方法は、通時的な理解です。

「いま」による解釈においては、時間を動かすことはしませんでした。当然、時間の変化、歴史的な自己理解というものは、「いま」による解釈によっては成し得ません。

「いま」の解釈のなかでは、時が固定されていました。通時的な解釈では「時」が動きます。しかし、ここで時を動かすだけでは、結局、時間と関係の複雑さの壁に突き当たります。ですから、通時的な解釈においては、「時」ではなく「場所」を固定します。

こーちゃんさんが持っている問題に立って考えるなら、場所を「自己」の上に固定して、「時間」を動かせばいいんです(固定する一点をここでは「ここ」と呼びます)。
自分の過去、現在、未来を捉えようとする時、もはや「世界」の影響を考える必要はないはずです。なぜなら、最初から「場所を『自己』の上に固定する」と明言しているからです。逆にいえば、通時的な理解だけでは、世界との関係を捉えることは不可能です。

このように、「いま」による(共時的な)理解、「ここ」による(通時的な)理解には、それぞれ長所と短所があります。ですから、ある対象を捉えようとする時には、通時的な視線と共時的な視線を合わせて、「いま、ここ」による理解が必要だと考えられます。

長くなりましたが、もし私が「自己」を捉えようとするなら、そのように捉えます。
松木@産業廃棄物さん
返信ありがとうございます。とても分かりやすく理解しやすい文章で無学の私にはとても助かりました。

>個人はその関係の組み合わせの特殊性から、個性が生まれるとしています。
:つまり社会が形成されると同時にその複雑化された特徴のうちで個人の自己が形成されるという事でよろしいでしょうか?

>社会が成立すると外部化する様に、個人もまた一度成立すれば外部化(相対的な意味で。)する。
:外部化はこの際グローバリゼーションや国際化と捉えてよいのでしょうか?もしくはもっとミクロな場合の事なのでしょうか?もしこれが国際的枠組みで捉えられる場合それは世界的社会に基づいた、社会の共通項である自己に感じられます。

>故に単なる世界の共通項では、無くそこには創発的何かが生まれるのではないでしょうか。そして独立運動を開始するのではないでしょうか。
:この考え、個人的にもの凄く好きです。ただその創発的な何かがたんなる社会の共通項に見えて仕方ありません。またこの独立運動と言う点でもただただその社会のシステムになる過程かもしれないと捉えてしまう自分がいます。
>まだ荒ぶれる絢さん
返信ありがとうございます。

>社会学の物の見方は、基本的には、「いま」を前提としているように思います。
:社会学は幅広く遠い昔からの社会形成から現時点の社会現象まで取り扱っていると思うので今を前提としている必然性はここではないかと思います。

”自己の共通項なのかそれとも世界の共通項なのか”

この質問において時との関連性が私にはよくわかりません。
とても詳しくコメントを頂きましたがそのような捉え方で自己を認識した場合まだ荒ぶれる絢さんは

”自己の共通項だとおもいますか?それとも世界の共通項だと思いますか?”
けんじーさん>

ご返信ありがとうございます。
自分の拙い日本語をお許しください。
この場合において私は世界を”世界的社会”と捉えていました。

>無人島で自給自足生活を送ればいいだけの話。
この枠組みにおいて社会は存在しないので質問の証明には繋がらないと考えます。
しかし長いスパンで見た場合個人が個人の文化社会を形成する場合も考えられるので一概に繋がらないとは言い切れないかもしれません。

>社会と言う環境を個人でどう受け止めるかで自己が形成され、オリジナルの特徴が現れる。
人は複数の社会間を経験することにより自己を確認するようです。これが圧倒的多数の人間が行う自分探しの旅というものだと捉えております。その場合その社会を個人で受け止める場合それは社会の共通項なのではないのでしょうか?一概にオリジナルの特徴とは言い切れず双方間に適応できる社会的特徴だとは捉えられないでしょうか

>社会だけでは自己は形成されません。社会と生命の特徴により自己が形成されます。
まず始めに社会により自己が形成されると言った場合それは社会の一部なのではないのでしょうか?独立した個人とは考えられません(>または社会とは別物で絶対的に存在する自己があるのでしょうか?>ありますよ。)
二つ目に生命の特徴とはなんでしょう。うふふ。
皆さんの考えを読むのがとても面白いです。
世界はあるいは世界社会という言い方もありましたが、私たちが普段あるいは単体で言う社会は、世界に含まれるものだというように私は考えます。世界と社会の違いを明確にすることは僕にはできないですが、一つの補助線に出きる考えは規範だと思います。ある社会で有効な規範を共有していると言うのが一つの社会の条件になりそうです。
その意味で世界社会の有効な規範になりうるのは、生物としてのホモサピエンスということがあって、日本社会の有効な規範は日本人ということだろうと思います。
可能域について探求しています。
自己と社会の共通性は「できない事」と「できにくい事」と「できるかもしれない事」と「できる事」とがあり、整理して「できるかもしれない事」について知恵を出し工夫をし具現化しようとする作用があるということだと思います。
様々な立場に置き換えてみると「人間可能域」と「共助可能域」に具現化することができ、
コミュニテイの構築や防災対策など自己と社会を結ぶものが具現化されていきます。
様々な立場の方と連携できる事を願っています。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

社会学 更新情報

社会学のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング