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中 勘助コミュの2015年神奈川近代文学館「中勘助と『銀の匙』」展 企画担当さんを囲んでの茶話会

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2015年8月29日(土)14:00-16:00 神奈川近代文学館小会議室

今回は本邦初となりました中勘助展を企画担当されたKさんに、展覧会ご準備のあれこれ等、
貴重なお話を伺えればと会を開きました。Kさんから今回の茶話会のお土産(参考資料)に「生誕130年没後50年 『銀の匙』の作家 中勘助展 会場のご案内」会場(第2展示室)の見取り図と、「企画展 「生誕130年没後50年 『銀の匙』の作家 中勘助展」企画書」(主旨と会場構成、スポットの橋本武先生のコーナー概要)、中家略系図(会場にも展示されてあったもの。岩波書店『中勘助全集』第17巻年譜ほかをもとに作成されたもの)を頂く。

Kさんです (Kさんお名前のみご紹介)
参加者自己紹介

Sさん 
高校の地学の新任の先生が初めてのご挨拶で中勘助さんの『銀の匙』のお話しをされました。そこで興味を持ち、初めて『銀の匙』を読み感銘。文学では中勘助と西東三鬼が一番好きです。

Aさん 
Sさんとは中高の同級生。御殿谷さんとはフェイスブック繋がり。奈良が好きで当麻寺の伝説を題材にした「ひばりの話」を読んで、興味を持ちそのあと『銀の匙』を読んで、『犬・島守』を読みました。中勘助文学のファン歴としては非常に浅いです。

私M 昭和50年代の月刊少女漫画誌、毎月テーマに沿った欄外の作者コメント。「私の好きな本」で、ある漫画家さんが中勘助の『鳥の物語』を紹介されていた。数年後、本屋さんで『鳥の物語』を見かけて、あの時の。と購入して読んだのがきっかけです。

Kさんの自己紹介
神奈川近代文学館がここに建てられた時に入った。館と共に30年になりました。

何故、中勘助展を企画したか
・生誕没後のメモリヤルイヤーでもあった
・神奈川に縁

内々の話では、橋本先生がご存命中の頃ですが。職員の中に橋本先生と関係のある者が居て橋本先生の手元に勘助からの手紙がある。と知る。

二方向から模索
・「橋本先生」「『銀の匙』」「手紙」 勘助を検証しながら『銀の匙』に特化した展覧会
・中勘助の全体像を紹介する展覧会

展覧会を企画する時
「誰」をするか決める → 「構成」を練る → 「資料」を集める 
この時、資料が無いと構成の段階で作ったコーナーは萎んでいく

一般的に作家の展覧会は原稿を展示します。
『銀の匙』の原稿のありかを調べてゆくとそれがどこにも無い。

A: えー、それって原稿は残ってないってことなの?
(Kさんがメイキング中勘助展を話されているとAさんが実にフランクにお尋ねする。この一言で神妙に拝聴するだけの場が一気に和やかなものとなり、参加者も質問や気付きを思いついた時点でそれぞれ
差し挟んでお話が膨らんでいく闊達な茶話会となりました。Aさん深謝!)

一枚もない。ご遺族の中にも無い。漱石の推薦を受けた作品ですから簡単に処分しないのに朝日新聞の中にも無い。調べていくと他の作品の原稿もない。

推測ですが、勘助が朝日新聞社から原稿を取り戻し焼いてしまったのではないか、と。
『しずかな流れ』の中で「あぐにのものはあぐにのもとへ」と、(原稿を)燃やしている文章がある。

A: 作家って残したがるよね…燃やしてしまうなんて凄いね…。普通じゃ考えられない
S、M、唸るように頷く

最初の全集では勘助が編集するのですが、その時も掲載された雑誌を切り貼って赤を入れた。
一般的に作家の展覧会は原稿を展示するが、勘助の場合それは出来ない。

勘助の一番最初の展覧会となるので遍連的に人生とシンクロさせながらの展覧会
原稿と同じように手紙も静岡では十数通しか残っていない。

・文壇付き合いはほとんどない
・一般人との付き合いが多い
ここが重要なファクターであり、ここから展覧会をふくらませていこうと思った。

中勘助の初めての展覧会なので初めての特典として(笑)調べると初公開となるものが出てくる。
静岡の方へも資料要請をしていたが人員不足や色々でなかなか進まず、金一さん関係を押さえていくことにした。

Q: 菊野恵美子さんは静岡から紹介して頂いたのですか?

菊野恵美子さんの存在は前から知っていました。
展示した結婚式の写真は中家にはなかった。
末子さんと兄弟姉妹のお若い頃の写真など新しい発見があり、資料が揃っていくと同時に静岡からも
資料がきた。

各々、質問や気付きをフランクに出せるようになると、リアルタイムの流れに集中し、メモはほとんど
取れなくなりました。
以下、順不同ですが思い出す質疑応答です。

Q: 2回目のギャラリートークでお話しされた松岡譲さんの『漱石写真帖』の中にあった勘助の顔の部分がわざと破られていた?写真は会場に飾られていたのですか?

K: 飾っていません。あの写真帖は漱石没落、松岡譲が散逸するのを回避しようと編んだもの。
松岡譲がどこからあの写真を持ってきたのか分かっていません。

Q: 小堀杏奴さんに謹呈した中勘助の著書が大量に古書店に出てきた経緯は?もしかして何らかの
誤解から仲たがいが生じた?

K: 関係は最後まで良好だったでしょう。小堀四郎没後、遺族にアトリエ整理を任された小堀家に長く
出入りしていた方(お名前・関係メモせず)がいらっしゃった。その方の尽力で小堀氏への手紙は世田谷文学館へ、勘助の肖像画は豊田市美術館へ、としかるべき場所に収められた。謹呈本は受け入れ先が
なかったのか、その時古書店に出されたのだと思います。

Q: 勘助さんのお父様、勘弥さんはお殿様と東京に出て来られたと。

K: 藩の中でも倒幕派と佐幕派にわかれた。竹腰家も関与したとされる。青松葉事件。城山三郎著
『冬の派閥』に青松葉事件が出てきます。ただし竹腰家の名前は出てきませんが。これは竹腰家の
系図なのですが、ここに「勘弥養女」とあります。わざわざ自分の血の繋がりのない人を養女にして
竹腰家に嫁がせています。

M: 凄い…色んなお殿様のおうちの系図が載ってる…こんな本があるんだ…。どこが出版元?
A: 霞会館…やっぱり学習院系
M: うわー!五万!
A: しかも下巻だけで
(たぶんKさん苦笑中)

Q: 金一さんと末子さんの結婚は勘弥さんの働きかけで?

K: たぶんそうです。

Q: 野村のおうちは何故、中家と繋がろうとしたんでしょう。お金に困っていた、ということでも無いですよね?

K: 零落はしていないですよ。

Q: 金一さんが優秀な方だから?将来を見込んで?

K: あ、もともと中家はお殿様に仕えるお医者様のおうちです。

A: それで金一さんはお医者様に…?!

S: 勘助が伯母さんの元を訪ねて鰈をご馳走になる場面。あそこは何度読み返しても涙を誘います。漱石の『坊っちゃん』(明治39年)の中での清と別れのシーンを思い出させます。自分だけの発見だと
思っていたら『中勘助の『銀の匙』を読む』の十川信介さんもご本の中で同じことをおっしゃっていました。やっぱり同じところに気がつく人がいたか、と(笑)。

K: 勘助は漱石の本は読んでいない。と云っていましたが、どうなんでしょうね。

M: 読んでいたけど読まなかった事にしていたんじゃないかしら?読んじゃったら自分の想い(批判的な事)を云わなきゃならなくなるから

S: ついついそう思って読むと、これは勘助の家庭や周辺の人間関係を、まるっきりのモデルとまではいかなくてもモデルに使っているのではないだろうか、とか思えてしまう作品があります。

K: 影響を受けたり与えたり…していたのかもしれませんね。三角関係が多いですよね。漱石の作品は。

S: 漱石の作品に出てくる女性は嫌な女の人ばかり(笑)。
(ここで暫しSさん、Kさんとで漱石談)

S: 『銀の匙』は擬音を多用している印象だったのですが、論文用に読み返してみるとほとんど使ってないのですね。ただ、勘助独特の言い回しというのかしら情景の表現が独特のものがたくさんあって、甘酒だったか杯に注ぐ情景を「棒のように」と表しているところなんかも独特だなぁ、と感じました。

M: 棒???甘酒、、、鯉だかフナみたいに顔を揃えて飲むシーンだっけ?

S、K: 鯉?フナ???

M、S、K:
文庫本『銀の匙』のページを繰って探す

「二人がひな段のまえへちょこなんとすわって仲よく豆煎りなぞたべていると、伯母さんは三つ組のお杯の小さいのをお客様に、なかほどのを私にとらせてとろとろの白酒をついでくれる。白酒が銚子の口から棒みたいにたれてむっくりと盛りあがるのをこくこくと前歯でかみながらめだかみたいに鼻をならべてのむ。」中勘助著『銀の匙』岩波文庫P118

Q: 中勘助についての研究論文などはないのですか?

K: 木内英美さんが勘助の論文を発表されています。菊野恵美子さんは今、岩波の『図書』で勘助について書いておられます。

M: 富岡さんは展覧会見にきましたか?

K: (苦笑)いらっしゃらないと思いますよ。 

M: 来ないの?なんで?興味ないのかなー?本書いたのに?富岡さん、一気に読んじゃったから、中勘助さんのアクにあたっちゃったんじゃないかな?きれいなだからわかりにくいけどアク強いから。勘助さんはかなり推敲して時間をかけて書かれるじゃないですか、勘助さんが書く時間と同じ位の時間をかけて読まないとアクにやられる(笑)。

K: よく云われる幼女愛嗜好もどうかな?と思うんですよね。 

M: 菊野恵美子さんは富岡さんを尊重しつつ中勘助の幼女愛嗜好を否定されてますね。嬉しいです。

K: 随筆等の妙子さんへの接し方、発表する。ということは皆が見る。ということですよね。

M: そうですよね!やっぱり勘助さんはかなり確信犯的にされてますよね?作品をよんで誤解して離れるなら離れてもいい。って

Q: 菊野さんはおいくつ位なのでしょう?

K: 女性のお歳なので…あまりちゃんとお聞きした事はないのですが…多分、60代…後半かと…

A: 若い。まだまだこれからたくさん書けますね。

Q: 和さん姉妹は皆さん未婚のようですが、それは戦争で適齢期の男性の数が少なくなっていたから?

K: いいえ、たぶんお父様が…。持ってこられる縁談を全て…。ただ、勘助に関しては違ってました。

Q: 皆さん、職業婦人だったのですか?学校の先生とか?

K: はい。和さんは絵を教えてらっしゃって妹さんは書の先生をされてました。

A: 結婚式の当日にお兄様が自死する。っていうことは、自分たちの結婚記念日になると
お兄さんの死んだ時のことを思い出す。ということになるのね…。
(一同唸る)

Q: 戦争詩ですが、他の中勘助作品は推敲に推敲を重ねて言葉一つにも神経を使っているのに

K: ずいぶん紋切り型なんですよね。

Q: 軍に協力しないとペナルティがあった。とか、逆に協力すれば特別に配給をもらえた。とか

K: いや、なかったと思いますよ。また勘助に戦争協力させても影響力、無いでしょう。

M: 確かに(笑)!

K: ただ、当時の日本人の気持ちや、近しい人たちが戦地に赴いている。という事はあったでしょうね。

A: 『銀の匙』で先生に「日本人に大和魂があれば支那人には支那魂がある」と云った少年が戦争翼賛の詩と結びつかなくて

K: そうなんですよね。ただ、時代的に勘助は三つの戦争を見ているんですよね。日露、日中、太平洋、三つの戦争を見た世代です。勘助は。

Q: 野上弥生子は生涯実作者であったのに対して晩年の勘助を批判的に見ていますが、お兄さんが亡くなったことで書く気持ちが無くなったのではないかと思い始めています。また、勘助は作品を広く不特定多数の読者に向けて書いていたのではなく、末子さんだったら末子さんに。妙子さんにだったら妙子さんに向けて、対象を一人に定めて書いていたのではと、展覧会を拝見して思い始めています。お話(小説)で慰める。とか救いをあげる。

K: 確かに自分にコンプレックスがあるからそれで書く。という作家もいますからね。お兄さんが亡くなって、精神的にも落ち着き作家としても認知されていますし、短い随筆を書いていれば経済的にも困らなかったでしょうし。

***

展覧会と閲覧室での中勘助関連本、Kさんのギャラリートーク(や、トーク終了後の立ち話)で
初めて思い至ったことが多々ありました。

・師弟関係の連鎖 漱石と勘助 漱石に受けた恩を返す→ 勘助と橋本武先生(その先に居る生徒)、塩田さんや加藤さんら愛読者、親族や親しい年若い人々

・妙子さんに対して書かれた出版物→皆が読む わざと際どい文章で誤解するひとには誤解させて篩にかけていた?

・具体的な想像 
・70過ぎた兄、57歳の勘助。男2人。家の中で兄の介護をしながら自分も執筆をする。
・長年独身で、一人で暮らしていれた。お寺で籠もったりして平気な人
・お兄さんの介護、お姉さんの介護から解放されてしまったら、また独りの生活に戻ってしまうのではないかとの周りの気持ち
・お兄さんが自殺した部屋のあるおうちで暮らす気持ち→疎開

***

2015/6/7.21 (日) 14:00- ギャラリートークから
その時に一高、東大の恩師、漱石に見せて推薦を受ける。漱石は手放しで推薦している。
漱石がいなければ道筋はたっていなかった。続編『つむじまがり』も漱石に読んでもらって絶賛される。

精神的な繋がり、敬愛する存在として漱石というものがあったというのは間違いない。
文学的な資質としても、漱石の山房に集まったという意味ではなく、精神的な作家としての資質を受け継いでいるのが勘助。と、よくいわれる。

勘助は大学卒業後の病床で『銀の匙』の元になるような素材は書きためていたと記しています。それを商業的な媒体に発表してお金に代えて生活のもとに充てる。という道に至ったのは、お兄さんが倒れてしまって中家を支えなければいけない。という現実的な事情があった。その時、一高、東大の時に夏目漱石に教わっていなければ、朝日という舞台――漱石本人が連載小説を何編も発表している――、そういう舞台に全く無名の新人であるにも関わらず発表出来たということは、勘助にとって本当に漱石との出会いとは、偶然とはいえ大きな事件だったといって間違いないと思います。

先生から弟子へ。
弟子が先生になって。で、今度の立場は勘助から橋本先生の仕事になって、こういうサイクルで残っていく、伝わっていくんだな。という、師弟関係の連鎖、というのですか、こういうことも勘助というのをやってて思いました。なかなかこういう関係というのも珍しいな、と思います。

昭和25、6年の葉書ですから、作家として確立して評価されている勘助ですが逐一丁寧に返事を書いている。
これ以外にも加藤喜美子さん、愛読者、この方もクリスチャンで、結核でずっと療養されている。
そういった方からくる手紙にも逐一返事を書いている。


70過ぎた兄、57歳の勘助。男2人で、家の中で兄の介護をしながら自分も執筆をする。という生活

想像すると勘助は長年独身で、一人で暮らしてこられました。若い頃はお寺で籠もったりして平気な人。
またここでお兄さんの介護、お姉さんの介護から解放されてしまったら、また独りの生活に戻ってしまうのではないか、と周りは思ったかもしれない。無理矢理結びつけた方が後々の為じゃないかという配慮が周りにはあったのではないか。そうでなければ普通、延期するなり何なりしたと思う。それくらい周りは勘助を慮った。



コメント(1)

「世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる」という良寛の歌を思い出しました。

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