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小早川水軍の将 浦宗勝コミュの九州出兵

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尼子氏の滅亡後、大友氏に属する立花艦載が大友義鎮に反旗を翻し、そして筑前の親毛利の諸将達もこれに同調する動きを見せ、立花艦載は毛利氏にその援軍を請うた。

永禄11年(1568)4月、元就は艦載の要望にこたえ清水左近将監8千の兵を立花城に派遣した。
この事態に大友義鎮は激怒し、戸次艦連、吉岡艦理らの武将を派遣して立花城を攻めさせ、また豊前でも毛利氏の属城を攻略していった。
元就はこの事態を打開しようと同年6月、伊予から戻ったばかりの吉川元春、小早川隆景の両将を九州に向かわせ、輝元の代理として福原貞俊を赴かした。

大友勢により、7月中旬立花城は陥落。

元春、隆景は、下関に到り、児玉就方に大友方の水軍を追い払わせ、豊前に上陸。
宗勝は毛利勢輸送の後、陸戦隊の将として隆景に従った。
9月初旬には大友方に寝返った長野弘勝がこもる三岳城を攻め、謀を似てこれを陥落させた。
その後、大友方は豊前松山城を幾度となく攻めたが、毛利方の杉重良等が防ぎ戦い撃退している。

立花城奪回を期す隆景は、水軍に立花城の形勢を監視させ、
大友方の援兵を断つため筑前馬見の要害に砦を構築させ備えさせた。
翌12年正月には笠木に食糧を入れ、また立花城の背後に新たな城を築くなど、立花城攻略の準備を着々と進めた。

ここに於いて、肥前の大名、龍造寺隆信は大友との関係を断ち、毛利氏に誼を通じてきた。
大友義鎮は直ちに軍勢を肥前に向けさせた。

元春と隆景はこの機に乗じ、豊前を発し、筑前に入り兵船を名島の内海に浮かべ4月16日、立花城への攻撃を開始した。
元春は水の手口を、隆景は城の南口より攻撃するも、抵抗しぶとくなかなか門を破ることができなかった。

大友義鎮はこれを知ると直ちに龍造寺と和睦をはかり兵を収め、戸次艦連、臼杵艦速、吉弘艦理の三老を将として立花城の救援にむかわせた。
その数大友軍6万、毛利軍4万。
元春、隆景らは城兵の攻撃を抑えつつ、大友軍を迎撃するという苦しい戦いを強いられた。
戦闘は5月1日、小早川方の椋梨陣への襲撃から始まった。
大友方は戸次艦連、五条鎮定などを操出し、毛利陣を攻撃。対する毛利方も元春、隆景をはじめ、諸将が奮戦、陣を死守して一歩も引かなかった。
大友方は、城内に糧食を入れようと画策していた事から、隆景は楢崎信景にその備えを命じた。
なかでも、5月18日の大友氏の総攻撃は激しく、なかでも楢崎信景の陣が苦境に陥り、3丁(約320m)あまりも後退するほどであった為、元春、隆景が兵を出しこれを助けた。
かくて戦闘は7時から13時に及び、各方面の戦況、概ね毛利方有利に展開し、大友軍を撃退することが出来た。
宗勝はこのとき、椋梨次郎左衛門の持ち口で戦い武名をあげている。
この戦闘に於いて、毛利軍の敵首を獲るもの数百級に達し、戸次艦連の一族被官にも戦死者、負傷するもの多く、大友方は撤退を余儀なくされた。
味方の援軍の望みが絶たれ、糧食も底を尽きてくると城方は、ついに降伏を申し入れてきた。
元春、隆景は元就と図ったうえで、これを受諾。
城将田北民部丞、鶴原掃部助以下籠城者の全部を助命し、田北、鶴原両名の身柄は
宗勝により丁重に豊後に送還させた。
大友氏の将士もその弓前の礼儀正しき事、嘆賞せぬものはいなかったという。

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