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トランスパーソナル心理学コミュの臨死体験と仏教

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長澤靖浩『超簡単訳 歎異抄・般若心経』(銀河書籍刊 星雲社発売)を読んで
(Q&Aつき)

星川 淳(作家・翻訳家)+長澤靖浩回答

「臨死体験であの世がわかった著者が訳した」と副題のついた旧友の新著(ん、これは著書なのか訳書なのか?)を読んで、禅の“公案”のような宿題をもらった気がする。というのも、刻一刻を生きることの根幹に関わる本書のテーマが有無を言わせず立ちはだかるのに加え、著者に感想文を求められていて、その両方に応えようとすると一筋縄でいかないからだ。

そこで感想文のかわりに、仏弟子と釈尊との対話っぽいQ&A形式を想定して(もちろん私が前者、著者が後者)、質問を投げかけることを考えた。著者の健筆ぶりからして、本がもう1冊書けるほど回答が来そうな気もしたが、とにかくやってみた。

問いの前に少しだけ前置きすると、私自身は臨死体験も見性体験もないフツーの人間だ。二十代いっぱいぐらい、対抗文化の現場に身を置きながら“精神世界”のマーケットめぐりをする中で、いくらかのドラッグ体験や瞑想体験はあるものの、仏教系もセラピー系も含めて広く浅く齧った程度。浅学の証拠に、なぜか親鸞とは縁がなく、歎異抄も読んでいなかったから、本書でエッセンスに触れられたのはありがたかった。

ただ、人と変わった点が一つあるとすれば、上記“精神世界”マーケットめぐりの末、オウム真理教の事件と前後して、インド系の宗教に特有の「解脱パラダイム」と私が呼ぶ歴史の長い大きな枠組み、つまり生と死の循環を絶対苦と見たり、そこから脱出することに至上価値を置いたりする考え方に、根源的な疑問を持つようになったことだろう。以来、そういう余計な枠組みを取り払い、徹底的に自然のままであること(精神的・宗教的に特別な境地を求めたりしないことを含む)を心がけている。その意味で、「ひたすら自然の無限の働きに身をまかせよう」(本書48ページ)という長澤訳の歎異抄と通ずるところがあるかもしれない(まあ本書に照らせば、「自然のままであることを心がける」こと自体が自力主義でアウトかな…)。

さて、その上で著者への質問を4つ――

《Q&Aはじめ》

Q1:
長澤訳の歎異抄で繰り返し説かれる「宇宙(自然)の無限の働きに身をまかせる」ことには大いに共感するのですが、それには南無阿弥陀仏の念仏など仏教の枠組みがどうしても必要ですか? 言い換えると、まったく別の文化・言語や宗教的伝統を持つ人、あるいは無宗教の人が、南無阿弥陀仏も唱えず、「死んでから完全に解放された世界において初めて悟りを開く」(本書88ページ)ことを特に信じる気持ちもなく、それでも「宇宙(自然)の無限の働きに身をまかせて」生きることは可能なのでしょうか?

A1:
おっといきなり、根源的な質問ですね。
私自身は10代のときから「歎異抄」を読み、「般若心経」を読み、禅籍その他の仏典を読み、聖書のイエスの言動を読んできました。
そのときから、うすうす感じていたことがあります。
それは、これらの枠組はぜんぶその時代や社会や、宗教的伝統が要請した基盤の上で、その基盤そのものすら破壊して無条件な解放に導くものだということです。
今は臨死体験を経て、完全な確信をもって言います。
親鸞は浄土三部経の伝統の上に立って、それさえも破壊して超えていくために、その枠組みを用いて語っただけです。イエスが旧約聖書の伝統の上に立って、それさえも超えていく言説をしたように。
おっしゃるように、論じはじめると本がもう何冊か書けてしまいますね。だから、端的に応えると、親鸞が言っていることに気づき、無限の宇宙のままに生きる道に目覚めるきっかけや道筋は無数にあると思います。
人は自分の置かれた時代や社会や文化の中で、それぞれの形でそれを見つけると思うのです。ただその道の先達が徹底して考えつめた跡をたどることは、どの道を歩むにせよ、その自分を様々な角度から照らしてくれます。
その意味で先達の書いた書には大きな意味があると思っています。

Q2:
「生と死を超えた世界へと永久に解放される」(本書91ページ)ことに魅力を感じません。というか、死は死んでからのお楽しみとして、生はもっと深く味わい尽くしたいと思います。こんな私でも「宇宙(自然)の無限の働きに身をまかせる」ことはできますか?

A2:
それは歎異抄9条で唯円が、親鸞にした質問に似ていますね。
そして、この質問に対する親鸞の答の結びは「早く死んで浄土へ往きたいなどと感じるようであれば、かえって『煩悩がないのであろうか』『宇宙の無限の働きから外れているのではないだろうか』と疑ったほうがいいですよ」(超簡単訳)です。
ご心配はむしろ逆かもしれません。
「生をもっと深く味わい尽くしたい」と思っている星川さんのような等身大の自己をあるがままに生きる存在をこそ、宇宙は生と死を超えた世界に解放するのだと親鸞は言っています。
それが宇宙の深い願いなのだと。
それと「生と死を超える」ことと「死ぬ」ことはあくまでも異なりますね。
「生と死を超える世界に永久に解放される」とは、生きている間は、この上なく十全に生きるということです。
「宇宙の無限の働きを信じる心が定まったときに、無限の光に抱擁された」(超簡単訳)ということです。
それでこそ、死ぬまでの間、本当の意味で十全に生きることが可能になるのです。
この本の「おわりに この世に投げ返されて」にも書きましたが、臨死体験を経て私は死に「ある意味では」(重要)恐怖がなくなりました。
でもそれは「もういつでも死んでしまってもいいと思うことではけっしてありません。逆に、『今生きている一瞬一瞬を二度と戻らない大切な時として100パーセント生ききる』という決意を新たにすることだったのです。
それに実際には、僕は放射性物質を含む食べ物を摂らないことにすごく気をつけていますし、原発や戦争に強く反対しています。死にたくないし、すべての人に生を十全に生きてほしいんです。
それと、これは恥ずかしいけど、実は告白するなら、今でも飛行機が苦手で。ちょっと揺れるだけで、ドキドキしちゃうんです!(笑)
まだ、生きてやることあるんだよーってね!

Q3:
般若心経について、ざっくりお尋ねします。「空」(くう)の思想は歎異抄に比べて若いころから慣れ親しんできたので、長澤訳は全体に「うまく言い表わすなァ」と感心するばかりですが、「空」の達観はともすれば、個別・具体的な現実や、それにともなう問題などに無関心ないし淡泊な態度を生みがちです。たとえば、脱原発運動に熱心な私の知人は、禅の高僧から「青臭い」と一喝されたそうです。こうした傾向をどう思いますか?

A3:
その禅の高僧には、「空」がわかっていないと断言します。
孫悟空で有名な玄奘三蔵が「般若心経」を漢訳する際に、サンスクリット語をそのまま音写したマントラの部分、
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」
を私は
「こえていけ こえていけ こえることをこえていけ
彼方の彼方 はるかなる今ここ 悟りよ おめでとう」
と訳しました。
すべてを超越した「彼方の彼方」は「はるかなる今ここ」です。
「今ここ」で、every little thingをこの上なくいとおしく大切に感じていない人は、「空」がわかっていないと、私は断言します。
いとしい者たちの命を守り抜きたいという深い思いが盛んで、あきらめきれないものがたくさんある存在こそ、空に目覚める契機に最も近い存在です。
宇宙が一番愛している存在なんです。
何かを感じないようにして達観することは、むしろ、目覚めから遠ざかって、自分の殻に閉じこもることだと思います。

Q4:
最後にもう一つ、私の拙い理解では、「空」(くう)は「空っぽ」とか「ない」というより、世界の本質が因縁生起の網の目、つまり関係性の超複雑系ネットワークであって、個別の実体と見えるものも、その広大かつ細密なフィードバックループのどこかに局所的に存在するわけではないことを指しているように思われます。長澤訳の般若心経からはあまり感じられない、こうしたシステム論的な空のとらえ方は、色(しき=物質)に偏った謬見でしょうか? 空か色かというのも、一種の二元論になりかねない気がするのです。

A4:
この質問の答えは少し専門的になってしまいます。
星川さんの訳書、ジョアンナ・メイシー著『世界は恋人、世界は私』(筑摩書房)は名訳だと思います。あのときは私も仏教用語を英語から、サンスクリット語に戻し、サンスクリット語から、日本人の親しんでいる漢訳仏教用語に戻したらどうなるかを、確認しておくのを手伝わせていただき、自分自身、大変勉強になりました。
そのときに私が感じたことは、ディープ・エコロジーでは、仏教の縁起生空を、この時空の中での相互依存的連係生起としてとらえているという特徴です。
しかし、ブッダが菩提樹の下で悟り、根本仏教として明らかにした縁起生空とは「十二縁起を通じて、時空が生起しているように見える。がその実は空だ」ということです。
般若心経ではそれを踏まえて、さらにその十二縁起そのものが本当は空なんだよと言っています。
仏教は認識論=存在論の世界です。
なぜこの時空が実在するものであるかのように生起しているのか、その構造を見抜き、その彼方に超えていき、その上で「はるかなる今ここ」に戻ってきたのが、ブッダの悟りの内容です。
ケン・ウィルバーは、「ディープ・エコロジーは縁起生空を、時空の中での物質的な織物と誤解して四つの象限を折りたたんでしまった」という批判を展開しました。
これには半分だけ、正鵠を射た面もあると思います。
が、私は今度はケン・ウィルバーのこの考えは、先ほどの禅の高僧と同じような罠に陥る危険性に満ちていると感じます。
今ここに還ってきているのか、疑わしい面があります。(笑)
この件については、ディープ・エコロジーと仏教の螺旋状の縒り合わせが必要であると、私は『魂の螺旋ダンス』で論を展開しています。
気になる方は、参考にしていただければ幸いです。
すべてを超えたものがすべてを抱きしめているこの宇宙で、私は死ぬまで、この私を生ききります。
いとしい存在や、美しいこの星が破壊されるままになることは、「空」が「宇宙」が許しません。

《Q&Aおわり》

上記のような問いとは別に、歎異抄を通じた親鸞の世界観が、「野やまにしかをかり、とりをとりて、いのちをつなぐともがら」と先住民的な人びとを親しく受け入れていることの先進性(本書26ページ)の指摘や、他力の視点から昨今流行りのマインドフルネスに釘を差すあたり(本書86〜87ページ)は、2004年刊の『魂の螺旋ダンス』(第三書館)から一貫した著者の洞察が光る。

修士課程まで仏教学をおさめた根から、瞑想などの幅広い実践の幹が立ち上がり、生来のやんちゃな反逆精神とラディカルな政治性という枝葉を伸ばした末に(31年間、高校・中学の教師を務めた真面目さも併せ持つのだが…)、臨死体験で独特の花が咲いた。戻ってきて本書を世に出してくれたことに深く感謝したい。

コメント(49)

臨死体験とは、脳の働きが停止したときにこそ、生じるものです。

アメリカの脳科学者エベン・アレキザンダーは、臨死体験から生還したあと、
自分の脳のMRI写真を見て、脳の機能が停止しているときこそ、
自分は臨死体験していたと確信しました。

そのMRIを見ているシーンは、2年前の新しい方の「臨死体験」NHKスペシャルでも
放映されていました。
しかし、そのあと、理由を告げぬまま、番組と立花隆は、脳現象説の方に傾いていきます。
アレキザンダーは無視されたみたいな印象を覚えました。

心拍停止すると一番危険なのは、脳の壊死です。
僕の場合、このまま死ぬか植物人間ですと言われていたところから回復したのですが
身体障碍と高次脳機能障碍が残りました。

そして僕の場合も脳の機能が止まっていたときにこそ
「二元的認識構造」はなくなって、臨死体験をしていたと思います。
詳しく、「超簡単訳 歎異抄・般若心経」の「はじめに 私の臨死体験より」に書きました。

十二縁起も五蘊説も、せんじ詰めれば二元的認識構造のことだということができます。
ウイルバーのいう非二元というのは、それをこえた覚醒の次元です。
こえていけ こえていけ こえることをこえいけ
彼方の彼方 はるかなる今ここ 悟りよ おめでとう

というのは

どのような境涯であるか
「はじめに 私の臨死体験より」には散文で書いたといえるでしょう。
いや、詩も書いたな。

とにかく本全体でそれを「歎異抄」と「般若心経」を通じて
わかりやすく書こうと努めました。

それが「この世に投げ返された意味」だと信じて。

最終章「この世に投げ返されて」には現在の心境、
むしろ一瞬一瞬をいとおしみ、100パーセント生きようと感じるに至ったことについて書きました。
>>[9]、どうもありがとうございます。


>「時空のある世界」に「私」が存在するという認識構造はどのように生じているかを説明しているのが、十二縁起や五蘊説です。それらはもともと根本仏教からの伝統的な教説ですが、般若心経はそれを踏まえて、それらもぜんぶ実は空なんだ、そのようにして説明してみただけなんだと言っています。


あびさんは根本仏教においてすでに私というものが空だと言われている、時間空間も世界すべても空だと言われている、しかし十二縁起の教えや五蘊の教えは空だとまでは言われていないととらえていらっしゃる、ということでしょうか。
そして般若心経は十二縁起の教えも五蘊の教えも(すなわち初期仏教そのものも)空だと言っているのだ、ということでしょうか。


>だけどそのとき、根本仏教の教説をぜんぶ再現するのではなく、「乃至」(ないし)という言葉などを使って省略してしまいます。そのため、根本仏教を知らない人は何が空だと言っているのかひとつひとつはわかりません。そこで「超簡単訳」では、それをいちいち注に書くのではなく、なにげに訳の中にぜんいれて、読むのがめんどくさくないように訳しました。 言い換えると、根本仏教をぜんぶ一回呼び戻して、それも現代語にして、それもまた空なんだよといいました。仏教もまた空なんだよと。


空とは確かな実体などない、という意味でしょうか。だからこだわる必要なんかない、例えばキリスト教やその他の宗教を信仰したってまったく構わない、こだわるな、という所まで言っていると考えていいのでしょうか。
>>[4]

それと、あびさんがしばしば使われる「縁起生空」という要語は浅学ながら僕は初めて見る言葉なのですが、どういう文献あるいは論者によって使われているものか教えていただけたなら幸いです。
ブッダの悟りの内容が縁起生空ということであるということを確かめるための文献は、主として阿含経です。しかし、阿含経は、いろいろな形と内容を含んだ膨大なもので、三千経近くあります。

しかし、般若心経を見ると、十二縁起(縁起生空)、五蘊説、四聖諦など、根本仏教の主とした教説は、ぜんぶ「お呼び出し」がかかっています。
僕に言わせると、ほんとうは、この3つを知らずして、般若心経を読むことは、般若心経の叙述において想定されていないんです。
ですが、知らずして読んでいる方はけっこう多いことに、訳しはじめてFACEBOOK連載しはじめたときのフィードバックなどで気づきました。僕は修士まで仏教学を修めたので、ふうつ、そんなこと知らないことを忘れがちなんですね。
ですから、僕はこの「超簡単訳」では、「お呼び出し」して訳しました。
般若心経ではそれらの教説において説いたひとつひとつの要素も実はそれだけで実体をもつものではなく空なんだよということを強調しています。
でも、ある意味では、それは初めからブッダがそれを説明しようとして、これらの言葉を使っただけですから、初めからわかっていたことです。(;´・ω・)

まことに申し訳ありませんが、私はここで、仏教学の講義をはじめるつもりはありません。(何年もかかります。)
むしろそれら仏教の教説を理解せずとも、究極の解放は無条件で可能であるということについて述べた本が『超簡単訳 歎異抄・般若心経』だという、パラドックスがあります。
それでも、もし、質問に応えられるとしたら、『超簡単訳 歎異鈔・般若心経』を読んでいただいて、本文に沿ってなら、今後もお答えできるかもしれません。

現実的な話になりますが、
楽天なら送料無料、1200円+税で、翌日来ます。(楽天ブックス仏教書部門5月2日からの週6位)
アマゾンはなぜか在庫あり表示にならず、3999円、3980円、3980円の新品未読プレミア品(名目上中古・・・横流し品か?)がアマゾンマーケットプレイスに出ていて、クレーム中です。(;´・ω・)
>>[14]、お応えどうもありがとうございます。
私が知らなかった「縁起生空」という言葉は仏教文献をひもとけば当たり前のようにそこかしこに見つけられる用語だ、ということでしょうか。
そうです。
ジョアンナ・メイシーが英語に訳し、その語を日本語に戻したものが、
「相互依存的連係生起」とされている本が多いです。
これを漢訳仏教用語でいうと「縁起生空」です。

トランスパーソナル心理学畑では、仏教を学んでいない人がけっこう多く、
しかも、全体がアメリカからの逆輸入になっているので
知らない間に英語から日本語に戻した用語を用いているのに、
それが漢訳仏教用語では何なのか、知らない場合が多々あります。

そして、「相互依存的連係」という部分はブッダが最初に説いた内容でいえば、
もともと「十二縁起」のことであって、
この世のいろいろな物質が互いに相互依存しているという意味とは異なります。

だからこそ、
ケン・ウイルバーは、「4つの象限を折りたたんでいる」という批判をしたんでしょうけど、

私は、

折りたたんでるというのは、言いがかりだ。

ディープ・エコロジーやディープ・デモクラシーは、
ケン・ウィルバーの四つの象限図の第十三段階、
内面的・個的にはヴィジョン・ロジック(個を保持しながらも互いを理解する)、
内面的・集合的にはケンタウロス(心身統合的)、
外面的・集合的には全地球的な段階
に相当すると
私は考えている。

ヴィジョン・ロジックや心身統合的な深い内面的体験を、
ディープエコロジーは折りたたんでなどいない。

と最初から申し上げているとおりです。

すみませんが、これ以上の質問は、今回の本の本文に沿って・・・にしてください。
漢訳仏教用語で言うと「縁起生空」だとおっしゃるその言葉は、僕は学びが浅いのか、あびさんが使われるのしか見たことがありません。
カルマ・ランジュンさんなどお詳しい方はそういう言い回しを見たことがあられるのでしょうか。
大死一番大活現成難しいね、トラパを学んだだけではわからないでしょうねえ。
>>[19]
いきなり振られましたが、僕は「此縁性」という事が「空」だと思っているので、「縁起」というのは「此縁性縁起」は部派仏教から大乗へと変化していく過程で解釈の多様化・複雑化が増して来てしまいましたので、それぞれの拘りがあっての言葉だと思います。
と言う訳で、詳しい訳では有りませんが、そう言う言い回しはしていません。
>[18]
おっしゃるように、用語への質問はいったん取り止めさせていただいて(カルマ・ランジュンさんにも返信いただきまして、どうもありがとうございます)、内容から思う所を学ばせていただきたいと思います。

歎異抄9条を取り上げていらっしゃいます。真宗の方々と語り合うと、いろいろと精緻な議論に沈潜しがちですが、ここがトランスパーソナル心理学コミュだということもありますから、より自由に考える所を皆さんにうかがい、学ばせていただこうと思います。


「念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜のこゝろおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこゝろのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば・・・」


念仏により踊躍歓喜の心を今ここでいつでも実現するというのが宗教の本義的あり方のように思うのですが、歎異抄の文脈ではなかなかそういう議論は真宗の方と交わしたことがありません。
そして浄土というのも死後ではなく、念仏を称える今この瞬間にわが身において実現されるもの、というとらえ方はなかなか真宗の方々と解釈的に共有がかなわないようですが、これも私の自由すぎる考えでしょうか。
ウィキペディアで「臨死体験」を検索すると、まとまった論が見つかります。

数々の様々な説と、その説への批判と、客観的な視点での検証がなされています。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%AD%BB%E4%BD%93%E9%A8%93

僕自身は、チベット仏教の「カギュ派」の修道論の二本の柱、即ちマハームドラー(大印契・チャクチェン)とナーローパの六ヨーガとがあり、六ヨーガは臨死体験を通じて悟っていく13世紀に完成した精神生理学的な6つのアプローチの方法なのですが、上に上げたリンクで解説されている状態を自分が体験していきます。 トランスパーソナルの母体となっている「ユング心理学」はこの臨死体験も大きな影響与えていると推測されます。
比較的最近有名になった「チベット死者の書(バルドゥ・トゥドル)」を世界に紹介したのは、心理学者のユング その人だったのです。

チベット仏教というと、偏見を持つ人が居て、インド仏教とは違うと観念的な思いがある人もあますが、チベット語というのは、インドの伝統文化を継承する為に造られた言語なので、チベット語を古代サンスクリット語に変換すると昔のインド仏教が再現出来ると言うものです。

トピ主の「あび」さんもよく主張されていますが「十二縁起」を「空」の依所として論を展開されているのですが、ゴータマ・ブッダを始まりとするなら、パーリ仏典の『自説経(ウダーナ)』にある「此縁性」から「十二縁起」や「四諦」が展開したとする故 中村元先生の研究で明らかになりました。

なので、あびさんの書き込みは注意深く見させて頂いています。 臨死体験も空の論証も僕も興味の中心なので、細かい事はさて置き、余りマニアックな経験は置いて、傍観したいと思っています。
>>[24]

「チベット死者の書(バルドゥ・トゥドル)」はまさに臨死体験を先取りして詳しく見せてくれるような内容で、しかもその一切が仏教教義と適合的に記述されている格好で、特異独特なもので多くの学びをもたらしてくれるものですね。
これを本当に人が肉体の死滅後に経験する過程だととらえるか、それとも精神・霊性の深みを垂直的に探究した所にあらわれた一つの文化的解釈と見るかは人により異なるでしょうが、瞑想の強力な拠り所の一つになることは間違いないですね。
>>[25]
死後の経験は死んだら判ることで、死んでみないと、実際の事は解りません。
しかしながら「知覚」という事に焦点を合わせたら何が真実かは人によって判断基準は異なります。
最近の脳科学で解ってきた事などでは、当たり前の真実だと思っていた事が、実際にはかなり疑わしい事なども多々あります。 つまり人は見たい様に現象と関わり、解釈が生まれます。
ケン・ウイルバーとの共通の先生であるカル・リンポチェは、シャン・カギュー派の座主でマイトリーパ系の相承系譜にあり、六ヨーガの優れた行者です。 臨死体験を中心にした意識の構造を精緻に味わい喜び(光明)を見出す達人でもあります。『ワン・テイスト』などの日記の様な著作を見る限り、そこまでの境地に達した人には、感じれませんけど、ウイルバーの「知」の貢献はとても深いものがあると感じます。
(1)78910さん。
すみませんが、僕が本文に沿ってと言ったのは、レビューの本文ではなく、書籍の本文です。
僕の立場になって考えてみてくださればわかると思うのですが、僕はもろもろを表現するために本を書きました。それを作品として、それに託したのです。
レビューに基づく質問に無限に回答していると、本を書いた意味がなくなり、極端に言うと、もう一度、ぜんぶここに書くことになります。(^_^; 
要するに買ってほしいのでしょうと言われればそれまでですが、そうです、書いたのは、入手して読んでいただくためです。もちろん、図書館にリクエストでも、誰かが買って回し読みしていただいても、なんでもいいのですが。(^_^;

(2)カルマ・ランジュンさん。
此縁性とは、縁起の原理の「原理そのもの」を表したものだと思います。つまり、
「此が有れば彼が有り、此が無ければ彼が無い。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
ということですよね。
しかし、この原理を言うことだけで仏教の教説というものが成立しているとは僕には思えません。これは縁起の「原理」であって、仏教ではその上で、具体的にどのような縁起を教説としているかではありません。
今は大学を離れているので、すぐに正確に原典を引用できませんけど、WIKIにもこう書いていますね。

『自説経』(ウダーナ)の出典箇所においても、この「此縁性」を述べた直後に、それを詳細化・解説する形で、「十二因縁」が述べられる。
したがって、「此縁性」は「十二因縁」を要約したものであり、「十二因縁」は「此縁性」を詳細化したものであることが確認できる。

これは僕が大学で習ったとおりの解説になっています。耳にタコができるぐらい聞いたとおりです。
『チベットの死者の書』と呼ばれているものの来歴をざっと解説します。
この書は、チベット仏教では主流派ではないニンマ派が、時節が到来して発掘された発掘経典であると主張しているものです。
が、その実、『倶舎論』がずさんに改竄されたものでしかないことは、仏教学者によって証明されています。
(大谷大学「仏教学セミナー」五一号。ツルティム・ケサン)
イーヴァンス・ウェンツは、これを1927年に『チベットの死者の書』とまるでチベットの死生観を代表するようなタイトルで発表しましたが、本来は「深遠なる教え 寂静尊と忿怒尊を瞑想することによる自ずからの解脱』の中からの「中有における聴聞による大解脱」という部分を訳したものとするべきです。
その後、ユングが注目したり、ティモシー・リアリーらが、サイケデリックマニュアルとして解説し、西海岸などで流行しました。
以上の来歴は正確に押さえ、あまり重視しない方がいいと、僕は思っています。
皮肉なことに、以上のような細部の議論は、『歎異抄』が必要ないとしているものです。それを超簡単に訳したのが、本書です。

「わたしたちのような愚かで修行する根気もない人間、経典を読むこともできない者が、宇宙の無限の働きを信じれば解放されるということを、師から承って信じているのでございます。」(超簡単訳 歎異鈔 より)
>>[30]

チベット仏教史の解説ありがとうございます。
ニンマ派は古派と呼ばれる様に、新訳派のカギュや、ゲールク派が台頭する前までは伝統的な宗派と言えると思います。
僕は学者や学生じゃないので、粗末な事はどうでも良くて、バルドゥ・トゥドルは各宗派にあって、重要な生死観を形成しているのです。 ニンマ派版とかカギュ派版なんです。
ニンマ派版も複雑ですが、ゲールク派のはもっと意識の展開が多く、それらは修道論に密接なので、軽視する人はいないと思います。
>>[29]

もちろん、買ってほしいという宣伝であることは伝わっておりますが、
あびさんが応答して下さるか否かにかかわらず、コミュニティとして提供された主題を語り合う自由もまたあろうと思います。
あびさんにおかれましては無理して応答なさらずとも、コミュニティの会話の一環としてコメントしたり論じ合ったりしているのだと眺めて下さるだけでも結構です。
>>[29]
>>[30] あびさん

丁寧に、正確に知るべき所、語るべき所をおろそかにしないという誠実な姿勢をうかがうことができました。どうもありがとうございます。
>>[31]

細部の議論というよりも、自力にたのむ修行一切を必要ないと言っているように見える、ということではないでしょうか。
弥陀の他力が全面的に意識化される地点に立って、自力というか、自他の相対的視点そのものが乗り越えられてしまっているように思います。
78910さん
親鸞において、自他の相対的視点が乗り越えられているというのは、根源的にはそう思います。

その上で
これは、歎異鈔一二条から引用しました。
この条は、学問や経文を読んで理解することが必要だという説への嘆きです。
だから今やっている議論がなくても・・・・
という意味でここから引用しました。
この条の訳文全体を引用すれば、この条で言っていることはもっとはっきりわかると思います。
しかし、一方で、
「ここで私にもう一度ぜんぶ言わせないで、本文を読んでから言ってください」
と私は言っているわけでして・・・・。(^_^;

コミュニティが、レビューだけ読んで、自由に論議するのはおっしゃるように自由です。
どうぞ、続けてください。

私はそろそろ撤退し、誤りだと思っても、指摘せずにスルーすることにしたいと思います。(^_^;
>>[37]が誤りだと思われた時に指摘したり問いただしたりされることは立派な慈悲の実践だと思いますよ。
僕も歎異抄の十二条をいま一度、じっくり読ませていただきたいと思います。
書き手が作品に託すということの意味は、書き手でないとぴんと来ないかもしれません。
ひとつひとつにはスルーするということは、裏返せば、次の作品に集中するということです。
>>[40]
死を意識していると、生きている事の素晴らしさに気付き易いですよね。
どちらにも囚われず、心のゆとりの空間を味わえれば、素敵な日常になりますよね。
気付きは素晴らしいと、感じます。
拙著「超簡単訳 歎異抄・般若心経」を読んでいただいた読者から興味深い「非二元的な体験」のレポートが寄せられています。
いくつか紹介させていただきたいと思います。
その1

(以下引用)

本を読んで思い出しました。
以前、私がヒプノセラピーを受けた時の体験は著者の臨死体験に似ていました。
私以外は誰も存在せず、全ての物がなくなり、そこには延々と黄金色の大地が山脈の尾根が連なるように広がっていました。私は少し高みから眺める意識だけの存在になり、
そよぐ風だけを感じていました。
そしてついに私という存在もその黄金色に溶けてなくなりました。
黄金色は光のイメージだったのかもしれません。
すべて満たされてゼロになる体、身体もない私もない、それが空というのでしょうか。
セラピーのとき、「とんな感じがしますか?」と尋ねられ、「不思議です。私以外誰もいない、何もかも無いのに孤独も不安も感じません」と答えました。
更に「あなたのその後の人生は見えますか?」と尋ねられました。「その後はもう何も見えません。ひょっとしたらまた何か始まるのか…今はよくわかりません」と言いました。
人によれば、前世や後世が見えるのでしょうか。
私にはその体験だけで充分に思いました。
本を読んで思い出しました。
当時は人にうまく説明出来なかったのですが、あの時の私は一時的に「空の世界」に行っていたようです。
空というのは、私が溶けてゼロになったあの世界かもしれないと思いました。
おかげさまで何か繋がった感じがします。ありがとうございました。
拙著「超簡単訳 歎異抄・般若心経」を読んでいただいた読者から興味深い「非二元的な体験」のレポートが寄せられています。
いくつか紹介させていただきたいと思います。
その2

(以下引用)

私は、仏教のことはほとんどわかりませんが、臨死体験への関心から読ませていただきました。
私は、今から16年前、吐血し樟葉のK病院に入院したのですが、胃潰瘍による出血が止まらず、心拍停止の状態に陥り、後で家族に聞いた話ですが、医院長が馬乗りになり、私の心臓をバンバン叩いたそうです。
次に目覚めた時は傍らに白衣の看護師さんが立っておられ、ココどこですか?と尋ねたところ高槻のM救命救急センターです。と答えられました。
その間5日間生死の境をさまよったようです。
その5日間で体感したことは、著者が本書16頁で述べられている覚醒だけのその世界で、まさに私という意識はありませんでした。
その5日間で学んだのか、その後認識したのかは定かではありませんが、完全に理解したことがあります。
それは117頁で書かれている空とは世界がそこに実態として存在するのではない・・・
これを読んだ瞬間ドキッとしました。
絶対に人には理解できない感覚なので、しゃべったことはないのですが、そもそもあの世もこの世もなく自分自身が宇宙そのものであり、俗に言うこの世は完全にバーチャルな世界で実態はありません。
人々がバーチャルな世界を体感している理由は、はっきりと理解しています。
その理由は意識だけの世界はあまりにも退屈なので、この世と言う現実を作り出しているだけです。
そこにはムドラーもマントラも南無阿弥陀仏も一切不要です・・・。
「千と千尋の神隠し」の主題歌であるこの曲は本当に名曲だと思い出しました。

さよならのときの静かな胸
ゼロになる体が 耳を澄ませる
生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街も みんな同じ

https://www.youtube.com/watch?v=9O4SMw_8Om0
>>[44]

>人々がバーチャルな世界を体感している理由は、はっきりと理解しています。その理由は意識だけの世界はあまりにも退屈なので、この世と言う現実を作り出しているだけです。


そこに退屈という極めて限定的な存在に特有の感情が生じるものでしょうか。
むしろ限定的な存在が生じてしまった後に、そこから無限定の世界を振り返って、退屈だったんだろうなあと一つの解釈をしているだけなのではないでしょうか。
>>[46]  最近、覗いてませんでしたので、返事が遅れました。これは僕の文章ではなくて、寄せられた感想です。ですので、僕に聞かれても・・・・。汗
あれ以降、アマゾンなどにいくつもレビューがつきました。気の向くままに紹介させていただきます。

心を透明にして踊る
By Amazon カスタマー

この本を読むことは浜辺で波音を聞いていることに似ています。

もともとお経や仏教書の訳なわけだから、

お坊さんがお経を読むのを聞いているのにも似ています。

それはまるで癒やしの音楽のように心地よい感じです。

大きな活字を追っている目は、

どこかで淀むことはなく、すらすらとひっかかりもなく進んでいきます。

手が自然にページをめくってどんどん進んでいきます。

波音や読経やヒーリング音楽と違うところは、この本では、言っていることの意味がわかることです。

気持ちよさと一緒に、意味が心と体の中に入ってきます。

気持ちいい上に意味もすらすらわかるなんて、あまりないことです。

中身は深いけど言葉はやさしい詩を読んでいるようでもあります。

私はこの本のどこを開いてそこを読んでもすぐその気持ちよさの中に入っていけます。

自分の中に何かがふわっと広がって「宇宙の無限の働き」と呼ばれているものや

「空」と呼ばれているものの中に誘われていきます。

お経を聞いているのも好きだけど、それは意味がわかりません。

この本を読むことはお経を聞くのに似ているし、

マントラと呼ばれる不思議な言葉を唱えるのにも似ています。

一番違うのは意味が自然にわかることです。

どこから読みはじめて、どこまで読んでもいいのです。

何度読んでもいいのです。

好きなところは、何度も口に出して唱えるように読んでいます。

この本を読むことは、心を透明にして踊ることに似ています。
自分が死ぬということについて一つの心構えを持っておくことは、本当に死が目前に来た時に苦しんだり、ジタバタしないためにも大切かもしれませんね。
しかし、生きているその時その時をいつわりなく、十分に味わいつつ生きることが死の時を心穏やかに受け入れるということにつながる面もあると思います。
常日頃の生き方を大切にしたいと思います。

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