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トランスパーソナル心理学コミュの人類の知性の発達

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文化人類学ではありませんが、知性の発達はどの様に進化してきて近未来からづーと先の未来には、人類はどうなって行くのかを概観していったら面白いかも。
そんな思いで、トピックを作りました。

コメント(44)

>>[4]

もともと人も類人猿も狩猟の動物ですから、生存に適さない場所からは移る必要があります。その環境適応に於ける知識の蓄積が知性になっていったのでしょう。
食物も豊富で移住の必要がないアマゾン未開地では、今も時間概念がない部族もいます。
>>[5]

苦しみが知性を発達させる、とも言えるでしょうか。
もちろんその知性とは単に百科全書的なものではなく、生き延びてゆくことと密接に関係した知性でしょうが。
>>[2]

石器や土器がどうやって発祥したのかは分かりませんが、四大河文明が栄え、文化が広がっていく最中、日本は独自の文化を形成していたのが、とても面白く、ワクワクする出来事だなぁとおもったのです。
農耕だけじゃなく、狩猟も栄え、狩猟の連中は週に2日ぐらいしか狩りに出ず、かなり食べ物も豊かであったと明らかになっているらしいのです。
文化を形成していきますが、和合や信頼を大事にし、そういった時代に白目が露出して来た進化の過程が楽しいと思いました。
白目が露出している哺乳類は人間だけで、それによって何に注目しているかが明らかになり、他人が何を求めているかが、判る様になり、更に信頼や共有が大事になって行くのも面白いです。
先程、ブックオフに行って、白川静さんの字源辞典を見掛け、触手が動いたのですが、躊躇して止めました。笑
>>[3]

形象文字の中にヨーガの字(絵)があったのは、佐保田鶴治というインド哲学の学者の著作で知ってましたが、キリストもヨーガをやっていたと言う学者もいます。 日本で有名なハタ・ヨーガは、ヨーガの中では密教的な要素が強く、本道はアシュタンガ(八支則)の心を制御する事がヨーガの中心課題だと言うようです。 しかしハタ・ヨーガをやってもサマーディ(三昧)に入れる人が殆どいないというのは、不思議な事だと思います。
>>[8]

佐保田先生は阪大を定年されてから、ヨガの実践をされた方。メキメキと健康を取り戻し、ハタヨガから始めクンダリニヨガの覚醒まで進み、サマディ全般をほぼ解説しています。70歳位の頃から、ヨガと禅、仏教の融合点、共通点を平易に解説し、凄い方だと思います。
>>[7]

なるほど〜。白目によって、だいぶ相手の思いを推測できるようになったわけですね。
>>[9]

僕も佐保田先生の著作には大変お世話になりました。 僕はあのヨーガスートラから入ったので、今日の日本のヨーガには、戸惑いを隠せません。笑
>>[7]

枝葉の話ですが・・・

長年、『荘子』の研究をするにあたり、字源辞典を何冊ももっていますが、
その中に白川静氏の『字訓』『字統』もあります。

私の個人的な感想にすぎませんが、
彼の場合、その字源解読においての出典をいろいろ明らかにしてくれていて、
彼の字源解釈における、並々ならぬ情熱と努力を感じるのですが、
ほとんどの文字を、古代の呪術的なものと関連付けて解釈する傾向にあり、
どちらかというと主観(思い入れ)が入り込んでいるのではないかと思え、
客観的見地からするとすんなりとは納得できない解釈がほとんどでした。

様々な解釈がある中で、私が研究した限りにおいては、
藤堂明保氏の解釈によって、かなり今まで謎であった部分が解明されたため、
白川氏はじめ、他の学者の誰よりも、群を抜いて、私は藤堂氏の説を支持しています。
(藤堂氏は白川氏の説を酷評しています。)

けれども、その藤堂氏の説さえもすべて鵜呑みにできない解釈があるのではないかと、
この前の「愚」という漢字で持論を述べたように、字源解釈は奥の深いものだと思っていますが…。

白川静氏の本をやめて正解だと個人的には思いました。(笑)
もし、買うなら、やはり藤堂明保氏のものを推薦しますね。
>>[11]

私がテキストにしたのも佐保田先生の著作からです。チベット系の修行法のテキストありましたが、観想法やると前頭部の頭痛が酷くなるので向かないと思いました。瞑想と禅は違うよと指摘してくれたのは、4年前に遷化された雪担老師でした。
>>[13]

成る程、そうでしたか。 ありがとうございます。
漢字は面白いですよね。
学生時代勉強が出来なかったので、今から勉強したいと思います。
>>[14]

そうですね、僕も禅と瞑想は違うものだと思います。 四禅に始まる八解脱は全く瞑想と違う赴きですが、僕は「瞑想」という概念は止観を軸にしますが、夢想も、無想も「瞑想」の枠に入れて良いと思ってます。 観想も黙想もイメージトレーニングもアファメーションも止の瞑想も、洞察の瞑想も含んだもので良いんじゃないかと、思っています。
>>[16]

 故せったん老師は、「理屈わかっているなら、坐れ、坐って死に切れ」とよく言ってました。工夫というのを訪ねると、「そういう頭の中の作業をしないのが早道」と答える。
 「大悟十八、小悟その数知れずというが、悟りがそんなたくさんあったらおかしいじゃないですか」と聞くと「そりゃそうだ。ホントは最後の1発悟り終わったらもう悟りないよ」と云う。もっといろいろ教わりたかったが、生死事大、無常迅速。
>>[17]

そうですね、大空は雲の流れに干渉しませんですね。 顔(OK)
>>[8]

>キリストもヨーガをやっていたと言う学者もいます

新約聖書 マタイによる福音書 11:28〜30には、次のような文章があります。

Come to me, all who labor and are heavyladen, and I will give you rest.
Take my 【yoke】 upon you, and learn from me; for I am gentle and lowly in heart,and you will find
rest for your souls.
For my 【yoke】 is easy, and my burden is light.

「すべての重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしの【くびき】を負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるだろう。
わたしの【くびき】は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


この【yoke】(くびき)という言葉は、例えば旧約聖書の中の「ヨブ記」の最初には、ヨブの家畜を「○頭」と表現しているなかで、牛だけは「五百【くびき】」という表現をしていたりします。(ちょっと意味深です。)

この【yoke】は「yoga」(ヨーガ)と全くの同語源だとみなされており、
その語源はサンスクリット語「結びつけること」の意からできた言葉です。

グルジェフは、人間には四つの身体をもつ可能性のあるものだとし、その目指すところの過程の一つに、その四つの間に「連結器」にあたる一種の磁気をつくりあげ、全体を統一体として「結びつける」必要を説いていたりします。

それぞれに違う方法論や表現法にをとることになったのでしょうが、その本来の意図するところは、同じところから発しているということもあるかもしれないと思います。
>>[20]

くびきという言葉はヨーガの「綜制」を連想しますね。 僕がアビダルマを学ぶ上で、キーになっていた言葉てました。

僕の師であるリトリートマスターのラマ・イエシェ・ロサル師はスコットランドで瞑想指導をしていますが、大多数のキリスト教圏の瞑想者に指導していると聞きました。 この師は当時に五年先まで予約が一杯だったので、日本に呼べないと思い、断念しましたが、キリスト教の瞑想者が沢山いると聞いて嬉しく思ったのを記憶しています。
イギリスの新聞にもその事が記載されているのを見て、キリスト教の人も瞑想を探求する人が結構居るんだなぁと、感心しました。
「てました。」というのは、「でした。」の「゛」の部分が「ま」と誤ってタイピングする為に間違ってしまった所です。
お詫び申し上げます。
>>[21]

 何か聞き覚えのあるお名前だなと思って、ロサル師を検索したら、’93年に来日されていたのですね。
で、ページを開いたら、質疑が掲載されていました。

 参加者 瞑想しているときに、あるビジョンが浮かんだんです。男の人が雪を運んで、井戸を埋めようとしている。もちろん雪はすぐに解けてしまいますから井戸は全然埋まらないのですが、彼は黙々とそれを続けているんです。

 ラマ その男の人は、なんのために雪を運んでいるのでしょう。

 臨済宗の禅僧白隠の毒語心経にも

 「他の痴聖人を傭って 雪を擔(にな)って共に井を塡(うずむ)」との記述があります。面白いものですね。
>>[23]

僕はその当時、同じカギュ派でもシャンパカギュ派という伝統を学んでいたので、ラマ・イエシェには、2名の友人を繋げる為に、行ったのですが、仕事で行くのが遅れ、会場では遅刻が判らない様にこっそりと、部屋に入りました。
すると講演をしていたラマの所に「こっちにいらっしゃい」と手招きされて、遅刻したのを窘められるのかと思っていたら、「貴方はちゃんとした修行をしていますね。」「どんな師に学んだのですか?」とチベット語を尋ねて来たのです。
僕が「カルー・リンポチェに学びました。」と答えると、「すると、ラマが貴方と私は兄弟弟子になるので、カギュ派の日本支部の運営を手助けして欲しい」と言われ、「出来る事なら良いですよ。」と答えたら、修行の内容とか色々話し合って、気が付いたら日本のカギュ派の責任者に任命されてしまいました。 それは良いのですが、それからが問題山積で、少し疲れちゃいました。
>>[24]

 組織を作る、動かすというのは大変ですね。それもまた修行の1つかもしれません。
>>[25]

>>[25] ひらさん

確かに修行かも知れません。笑
警察庁、警視庁、法務省が絡み、国際的な問題だったので、僕の手には負えませんでしたが。
パターン認識
私たちは日々の出来事を過去の出来事と類似点を見出し、同じ様なものとして処理することが多いのですが、不安や恐怖や嫌悪を強く感じる人は、認識の橋を架け、認識の飛躍をやってのけます。
これは実に様々な事柄に見出されます。
ただ類似している事柄を、同じ様に認識する事は「パターン認識」と呼ばれますが、これには利点もあります。
一つ一つの出来事を注意深く精査しなくても済むという事に繋がっています。 朝起きて、顔を洗い歯を磨き、朝食を取り、ニュースを見て職場に向かう。 いつも決まった電車に乗って、乗換えをして職場に着く。 少人数か大人数かは違いが有るものの、ほぼ決まった人達を顔を合わせ、業務に取り組む、会議や打合せがあって、夜になりお疲れ様と退社します。 業種や業務の違い、立場の違いによって一つ一つの事は異なるものの、皆自分なりのパターンがあります。
パターン処理は楽になるのですが、二つ以上のデメリットが生じてしまいます。 一つはメリットとしても感じますが、一年が短く感じる様になります。 年齢を重ねるとどんどん一年は短く感じる様になるのは、物事に対しパターン認識で処理しているからという側面がありめす。

二つ目のデメリットは、パターン処理されると、自然に起こる短い空間を意識出来なくなることです。
自我意識は瞬間瞬間の空間に対する意識も、エゴに注意力も支配され、新鮮さを感じる事が出来なくなって行きます。 新鮮で生き生きとした感覚は、幼少期に置き忘れたものの様に感じなくなって抽象化、概念化という精神的なスクリーンを通してしか生命を感じなくなり、周囲の世界は生気を失った単調なものになってしまいます。
それこそ列車に乗っている思考のようなもんだと思います。楽なようでいて慢性的に疲れているんじゃないかと僕は自分のこともかえりみて、そう思います。
実は疲れているからこそ、そんな列車に乗った、表面的には楽そうな思考で毎日を流している。
これは非常に危ない。事故が起きなければいいが、逆に言えば事故が起きずに列車思考でやりおおせていられるってゆうことは奇跡的なことで、感謝しなくちゃいけない。
だから、必然的に事故が起きたならばすぐさま本来の頭の使い方に還って誠心誠意、現実と向き合うということをしなくちゃいけない。
しかし、相変わらず事故処理が済んだらまた列車思考に乗り込んでゆくというなら、これは列車思考と時々の必然的事故との繰り返しに過ぎない。

この問題は僕も日々、取り組んでいる問題です。ずっと明敏な意識のままやっていったらいいのかと思うと、それでは体力が続かないようにも感じたりする。

やらなきゃならないことに、目先を変えた新鮮さを絶えず取り込むようにしながら、静かに自分の中でやりがい、面白さ、挑戦をまぶすようにしながらやっていくのがいいのでしょうか。
>>[29]
「感謝をしなくてはならない」という着眼点は素敵ですね。 感謝は想像以上の喜びに気付かせてくれる、パターン認識からピュアにしてくれるものすごい恩恵をくれる福音だと僕は感じています。
>>[30]

野生状態の中で、常に猛獣がどこから飛び出してくるか気にしながら生きなくっちゃならなかった頃に比べて、楽ちん列車思考でやってられるのは、私たち人間がお互いにさまざまな注意を網の目のように構築した社会を作り上げたからこそできることで、
それを考えたら本当にこの社会を構成しているすべての人のその協力に感謝せずにいられませんね。
>>[32]

そうですね。いろいろな人がいろいろな場所でいろいろな姿で生きている、働いている、そのことが複合的に織り合わさって一人一人の、何とか近代的な生活と安楽が成り立っている。
名も知らないすべての人たちへの温かい感謝の気持ちを時おり意識的に呼び起こして毎日をすごすなら、私たちはほんのちょっと深い幸せにひたることができますね。
>>[31]

縄文時代の日本は、四大河分明に比べると、原始的で、文化と呼べる様な代物ではないと何となく思っていましたが、中国の最初の国家商(殷)の源流であるという仮説があって、沖縄や鹿児島の人達が大陸に渡り殷を作り漢字という形象文字を作ったという仮説にはロマンを感じます。
縄文土器は土鍋の源流でもありますが、人の形をした物や妊婦の様な物がありますが、人型の遺跡は全て粉砕されていて、多分宗教的儀礼で粉砕されていたのではなかろうかと目されています。 邪馬台国よりずっとずっと前の時代に宗教があったというのは、文化活動ですよね。
和合・信頼・協力は、食文化にも貢献しましたが、村作りにも「火」「鏃」の発達以上に、人類に貢献したようですね。
>>[32]

凄い、「感謝」の効用を味わっていますね。
「感謝」はそれまでの生き方を昇華して関わりある総ての人を四海兄弟(しかいけいてい)と坂本龍馬が士農工商の制度を越えて皆が手を取り差別の無い社会を夢想した想いを連想しますね。
>>[38]
「人類皆兄弟」のコマーシャルは貴乃花でしたっけ? 笹川会長でしたっけ?朧げな記憶です。
会員制の伊豆リゾートホテルでしたが、そのホテルに泊りに行きました。 会員権を自慢したかったバイト先の主人の満面の笑顔が忘れられません。
温泉だったのですが、建て物の荘厳さに圧倒されて温泉の記憶は残っていないのです。
中森明菜の叔父にあたるマスターは、連れてくると言っていましたが遂に会う事は有りませんでした。
>>[40]
笹川会長でしたか、ありがとうございます。

パラパラとか巷で流行ってましたね。
ディスコやロックンロール等は懐かしいです。
時代の変化の最中にいた事を実感しますね。笑
脳科学者の茂木健一郎さんがこんな事を言っています。
恋愛も銀行の残高もイリュージョンであると言っているんです。 恋愛も経済も実態がある訳ではないのに、「価値」付けられたものが実際にある様に私たちは、価値の共有によってリアリティを感じています。

大昔、海岸線沿いで暮らしていた海人族が桜貝を貨幣とし価値の交換をして共有が成り立ち、経済が発達しました。
後に海から羊などの山の文化に取って代わるのですが、価値の共有によって、信頼の礎が出来て、協力するという共同体が発展する土壌が出来て行きました。

価値は形を変えても、何らかの基準を持ち、何が本人にとって重要な価値なのかは人それぞれが違うものです。
経済的な視点を突き詰めると、お金が最も大切だと思いがちですが、最も大切になるのは、「時間」になっていきます。 直ぐに何かを買う為に幾ら欲しいとか、考えるのですが、稼げばお金は入ります。 しかし人生の時間は限度があります。 不老不死なら良いのですが、そうだとしても老いて行きます。 愛する者と時間を共有したり、人にお金を払って自分が労働する事を代わりにやって貰ったりします。
幸せだと感じるのもお金じゃ買えない事も多いのじゃないかと思います。 この様に価値を感じるものは沢山のバリエーションがありますが、各々が感じる大切なものは違います。
判断は、個人的なモノなので、思違いをしている時はありますが、気付けば済む(進路変更が容易)場合が多いと感じます。 ただ、一つの要点は自分で限界を作り自分で縛り不自由な思いをしている人の相談が多いので、思考や夢の想像は自由に成るのに役に立つと感じます。
大河ドラマで、よく作られた戦国時代の物語を観ていても、そこに人間のさまざまな知の発達やその過程を味わうことができますね。
もちろん現代人である脚本家による投影や、個人のわざを重視する観点が浸入しているかもしれませんが、それでも本当に面白い考察機会を与えられますね。
赤ちゃんが自分の世界を広げるのと何ら変わりはないのです。

当たり前すぎてスルーしていた生活のあれこれに注目した結果、文明化が加速したのと同じでさ。

問題は、これから何を受け取り、何を受け取らないかです。

これまでの知性の実績は、ただの下拵えであり、料理に例えるなら、その美味しさを決定する技術やセンスの修練度が問われるのです。

人類の知性も、その知性の修練度が試されているんですよ( ̄∇ ̄)

悪意なら地獄を、真実なら驚嘆を、偽善なら混乱を増大させていくのと同じ様に知性も叡智に向かって突き進み、躓いたら転げ落ちるだけです。

踏ん張り留まった!と思っていたら奈落の底での夢見、なーんて事があるので、油断は出来ませんね(´・ω・`)

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