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山本義隆コミュの磁力と重力の発見 

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 ボチボチと面白いところを書いてみませんか。でかい書評論文などと言うと、ヘジテイトしかありませんからね。既成の物理学史家はどうもこの「国では」生まれることが出来ないようです。しかも東大という権威主義の塊に取り付かれないといけないようですし。物理学と科学史学の両方を踏まえないと、今の大学制度にしろ、大学院制度にしろ、この分野の研究を行える人間は出てこれない、この辺を考えながら、今の時代の科学の意味を問い返してみたいものです。
 「東大闘争は、あれは貴族と貴族予備軍の闘いであった」という御仁が居て、それに対しては、闘ってきた人間として、是非異議を唱えなければいけません。
 何で飯を食おうが勝手ですが、その精神構造は払拭してもらいたいものです。現代において、科学とは何か。学問とは何かという問題を提起した、その斬新さにおいて、この書の意味も深められると言うものです。

コメント(9)

この本の特徴の一つは近代科学の起源に、機械論的伝統すなわち、アルキメデス的な伝統と、目的論的伝統要するにアリストテレス的伝統だけではなく、魔術的伝統を入れていることです。この辺が、これまでの多くの通史的科学史書とは毛色が違うところでしょうか。ヘルメス主義についての本格的な研究書も今となってはあるのでしゅが、昔は、カーニーの「科学革命論」とパオロ・ロッシの「魔術から科学へ」、英国文学の研究者にはよく知られていましたが、フランシス・イエイツの「ジョルダノ・ブルーノ」研究くらいが唯一の魔術的、土着文化をも踏まえた研究であった、と言う気がいたします。ルネサンス世界の難しさ、あれは近代なのか、中世の残滓なのか、という一種不思議な世界をもフォローしていると言うことでしょうか。ある意味で異端的な、パラケルススの医化学もこの魔術的伝統の中に吸収しながら展開しているのは、これまでの科学史家の、狭い了見を広げてみせるという仕掛けになっているような気もいたします。
はじめまして。
遅ればせながら現在、『磁力と重力の発見』二巻めの読み途中です。
2003年当時は、ナゼこんなお硬い本が売れているのかと不思議でしたが、、非常におもしろい!
構想、着眼点、文章のセンス、論理展開。びっくりしながら読み進めています。なかなかこういう本には出会えません。

特に、筆者の立ち位置が(全共闘議長という意味ではなくて)、すばらしいと感じます。現代科学に精通している著者が、過去の時代時代の思想をけしてないがしろにせず、むしろ深く鋭くしつこく読み込み理解しようとし、エッセンスとエピソードを適確に取り出し、それでいて視点も論点も流されずに安定している。
そして、現代科学史における、誰しもがぼんやりと感じているいわゆる暗黒時代の前後の接合に関する疑問に、徹底的に対峙して新論を打ち立てるという、誠実かつ反骨旺盛な改革者。すばらしいとしか言いようがない。

淡泊なカヴァーと題名が、二巻目からは売れ筋小説のように、ドキドキさせてくれるデザインと題名に見えてきます。(主観的な話でスミマセン)
『磁力と重力の発見』を読了した所です。
1・2巻は驚き色めきつつ読みましたが、率直にいって3巻目は、素人目にも手抜きあるいは未成熟の出来でした。

私はこの、まさに壮大な「前=科学史」としての本書が、これまでの一般的な科学史に取って代わる、前置きなしの「科学史(前半)」になることが期待できると1・2巻を読んでいて強く感じました。
それは、視点の明確さ、評価の公正さ、各時代での思想の理解重視と、現代科学からの価値などを柱に、これまで軽視されてきた魔術や宗教や土着の思想にも偏見を捨て光を当てて再検討・発掘・評価しなおし、手加減なしで「真の科学史」を打ちたてようとする、非常に志のたかい図書であることが感じとれたからです。あたらしい価値観・歴史観の創出といえるほどです。

1・2巻<古代・中世・ルネサンス>の項では、遠隔力というテーマから外れてまでも、医学や化学や博物学や、人物やその時代背景に細密な説明を加えてサブテーマの伏線を張り、本書に懐の深さを彫り込んできました。
ところが佳境であるはずの3巻<科学革命>にきて、なぜか論調が豹変してしまう。
大切に育ててきたサブテーマを著者が自らシャットアウトし、医学も科学も人物も時代背景についても語ることを放棄している。
きっと大作ゆえ、最後まで研究執筆の息が続かなかったのだと推測します。

特にガリレイ、デカルトなど一般の科学史・思想史における大御所の業績を、説明も足りないまま過小評価し、主要な仕事を看過するという書き方は粗雑で、さっさとフックからニュートンに繋いで磁力を重力に引き継いで終わりという、ご都合主義の完結編になってしまっている。
3巻目に出てくる人物は大体有名人だから説明不要ということなのか、人物解説や歴史的背景、一般的な科学史での評価の説明などがほとんどなされていない。キリスト教思想の影響についても触れられていない。唯物論も、中世以降なぜかすっぽり抜けています。豊かな「科学史」の培ってきた伏線が台なしです。
デカルトにかんしてはとくに著者のカンに触るらしく、デカルトの大言壮語に辟易する説明が何度も記されていて、かえって『磁力と重力の発見』のそれまでの気品に傷をつけるほどです。
いえ、じじつデカルトは大口を叩くし、根拠のないことを絶対真理のように論じ、ガリレイとともにケプラーの仕事を掴み損なっているので、著者による一刀両断はある意味で「正しい」し「痛快」ではあります。
ちなみに、山本氏のデカルト批判は、パスカルの口述によるデカルト批判とかなり被っていますが、パスカルはほとんど話にも出てこない。

それにしても、デカルトが大風呂敷を広げたからこそ「俗受け」しそしてまた世間に忘れられるのも早かった、という表現はおかしい。山本氏の「俗受けする思想」への嫌悪感が顕わですが、それは完全にお門違いでしょう。著者の論調の錯綜です。
なぜなら、そもそも著者および著者に導かれてきた読者の我々が、共に長い道のりを探求してきたものは、時代時代で受け入れられた思想と阻害された思想の内容と、その時代背景的な理由づけと、後世の科学への影響とであったはずだからです。
わかりやすくいえば、俗受けしたかどうか、権力に認められたかどうか、受け継がれたかどうか、はじめての示唆や発見だったかどうか、つまり社会と人物との間で科学性がどう練り上げられていったかということこそが、本書のテーマではなかったのでしょうか? それをここへ来ていきなりデカルトのみを「俗受け」批判で済ませるのはテーマ追求の放擲であって無茶苦茶ですし、しかも著者によるその思想の価値判断自体が、社会に受け入れられたか否かによって変わりうるというのも本末転倒です。
「真の科学史」の話はどこへいってしまったのか。
ボイルもフックもニュートンもライプニッツも皆、「俗受けするから」デカルトを読んだわけではないはずです。そこにはちゃんと大物なりの理由があるはずです。

要するに、折角これまでの科学史を塗り替えられたかもしれないこの大著が、3巻目の杜撰な展開のために、それこそただのアンチテーゼに落ち着いてしまう。
すると我々は、本書と一緒にこれまでの一般的な科学史もやはり読んでおかなければ、近代と現代の納得いく流れを捉えられないことなります。

そもそも1・2巻の話の展開のペースを考えれば、3巻目の内容が1冊に収まりきるはずがない。17・18世紀は科学が急展開を迎えるのですから。

エピローグでは、人工磁石登場の背景にも仕組みにも触れずに、インテグラルやサインコサインの出てくる数式でもって、私のような勉強不足の読者を煙に巻くという不親切さを経て、さらに、歴史に名を残さなかった研究者を一括して何何エピゴーネンと呼んだりし、刺々しい筆致で書きなぐるかのようにラストを駆け抜けました。
p865には、宗教思想などの近代科学以外の要素を「無意味で余計なこと」と一蹴してしまいますが、それじゃあ1・2巻で我々が追ってきたものは何だったんだ、という話です。時代時代にそれぞれの思想があったと書いたのは著者だったのではないのでしょうか?
結局、山本氏が捉え損なったのは「デカルト哲学」の意義あたりからだと思います。デカルトの世界観が単純すぎると批判されていますが、著者はデカルトを単純に見積もり過ぎたのです。
要約を第一義とし、遠隔力についてのみにスポットを当てたために、現代からみればボロボロのデカルト自然学にばかり焦点が当てられてしまっている。ほんとうは形而上学のほうがずっと科学と非科学とに関する思想の要になっている。だからこそ当時から社会への影響力が強かったし、19世紀に蘇って今でも論じられる。

本書の論旨の致命的なところは、科学史における魔術の復権を目論んでおられるのに、魔術のデカルトへの影響さえ何も語られていないことかもしれない。。


それにしても本書ではデカルトについての考察が不足しているので、思いつくままに指摘してみます。
・デカルト哲学の要点は、何を言ったかということよりも、何を切り捨てたかにある。つまり、デカルトの単純視(と個人的思想による断定)という試みそれ自体の功績の見落としている。それはキリスト教的思想と魔術とを切り落とし、世界全体を体系化する試みにつながり、空間そのものの定量化→無限宇宙の設定とつながっていく。(ケプラーもガリレイもニュートンでさえも、世界を体系化しようという気概はなかった。フックやニュートンの「世界の体系」はもっと狭義である)
・定量化・定式化・実証が現代科学の要ですが、デカルト座標はまさに空間の定量化・定式化でした。解析幾何学の現代物理学への関与について語れば、あえて極論をいえばニュートンを飛び越えてさえデカルトが現代科学に影響を及ぼしていことが示唆できましょう。
・本書でところどころで取り上げられてきた「無限宇宙」はデカルトに引き継がれ、エーテルの概念もアリストテレス→ブルーノ→デカルト→その後の人々と脈々と継がれていきます。このあたりの説明もあったほうがいい。
・あれほどラテン語と各国の俗語による記述について論じていたのに、デカルトが書いたフランス語初の学術書については、(ちらりとだいぶ前に出てきただけで)3巻ではスルーされている。
・「光」に関してのサブテーマがいつしか消えてしまったが、デカルトも光の研究で有名。入射角と屈折率についての研究は彼が最初ではない、程度の説明があるといい。
・山本氏は、デカルトとパワーとの一番の違いを経験・実験の重視においていますが、デカルトも経験・実験の重要性に関しては(世間ではあまり取り上げられませんが「哲学の原理」で)主張しています。みずから動物の解剖も光の研究もやっています。
・山本氏は、デカルトが第一原理からの演繹ですべてを知りうるとしているように書いているが、デカルトがいっているのは人間個人の理性感性で確信できることこそを真理と判断しよう、という広い意味合いでの演繹法である。ここに実証主義が伴わなかったことがデカルトの失敗である、と批判するのが正しいと思われる。それでも、即物的に実証されることこそが真理であると判定できるのも、やはり人間理性に依っているのだから、デカルトを科学の萌芽の一部とみなしていいかもしれません。
・山本氏はデカルトを理神論者としているが(神の一撃で〜(p790))、デカルトのいう神はそのまま「自然法則」という言葉に置き換え可能なほど無神論に近い汎神論的かつ理神論的な有神論、しかしキリスト教思想の手前オブラートにも包まなければならない表現での神という論じかたをしていた。(だから、ここでも中世に続いてキリスト教思想の影響を語っていただかなければ話がつながらない。)
・自然学について、山本氏はデカルトの自然学をつまりは「捏造」と評しているが、冷静に見ればガリレイにおける「仮説・論証・実証」での「仮説」段階どまり、とするのが自然。唱えた説が間違っている例は無数にあるのに、いくら自信過剰が鼻につくとはいえデカルトのことだけを「捏造」と評すのは公正な判定とはいえない。その後に触れられるボイルのあたりの説明では、「捏造」ではなく「作業仮説」としていいかえてあるのですから。
・若かりしニュートンのデカルトについての思索には触れられているのに、ニュートンの仇敵ライプニッツが究極のデカルトマニアだったことは無視されている。

……すみません、ついつい長々と素人論を書きました。。
(ちなみに、私が読んだのは2004年6刷版ですが、1・2巻にそれぞれ誤植一箇所ずつ、3巻目はフォントの大きさのミス1行と表記不統一1箇所に気がつきました。一体どれくらいの人がきちんと通読しているのだろう…)
それにしても、1・2巻はよかった!『一六世紀文化革命』も読みます。
目立ちますとも!

『磁力と重力の発見』はたくさんの賞を受賞しただけあって大著です。
山本氏の思惑どおり、魔術の科学への寄与を正当に評価するという思惑は成し遂げられており、その意味では非常に価値のある作品です。

問題は、デカルト=単純な機械論と決めつけて、最後に自然魔術の含む科学性こそが機械論に対して勝利する、という構図がおそらく前もって設定されていたということです。

しかし、魔術を扱うなら科学と魔術の両方にかかわる薔薇十字団の説明があってしかるべきなのに、ほぼ全くその言葉も出てきません。薔薇十字団のデカルトへの影響も、したがって全く出てこない。

3巻目だけ、まるで別人が書いたかのようなのです。
そもそも、本書執筆のためにラテン語まで習得した著者が、なぜ悪役デカルトについては『哲学原理』とマイナーな『宇宙論(世界論)』しか参考にしていないのか。

『史的展開』はいかがでしたか?
ありがとうございます。
私も『史的展開』読んでみたいと思います。
熱力学は私にとって単位を何度も落とした苦手分野ですが・・・挑戦してみます。

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