ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

三輪コミュの三輪氏の歴史 ? 「三輪子首」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 Wikipediaに、三輪子首(みわのこびと)なる人物が掲載されています。
 672年の壬申の乱のとき、伊勢で大海人皇子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)を迎え、後に大和への増援軍の指揮官の一人になったそうです。
 なお、大三輪真上田子人(おおみわのまかむだのこびと)、あるいは神麻加牟陀児首(みわのまかむだのこびと)ともいい、姓(カバネ)は君ということです。姓は三輪逆と同じですね。

 以下はその事績に関する記述・・・
「壬申の乱の勃発時、三輪子首は伊勢国の介(すけ;後記参照)であったと推測されている。大海人皇子はまず美濃国で兵を集めさせ、自らは24日に大和国の吉野宮を発って東に向かった。25日に伊勢の鈴鹿郡に入ったところ、国司守の三宅石床、介の三輪子首、湯沐令の田中足麻呂、高田新家に出会った。そこで500人の兵を発して、鈴鹿山道を封鎖した。以上が『日本書紀』の説明で、500人の兵は三宅が連れてきたものと推測される。この後も伊勢国からは兵力が動員され、軍の一翼を担ったと考えられる。
子首はこの後、7月2日に美濃から倭(大和国)に向かう軍の指揮官になった。共に軍を率いたのは、紀阿閉麻呂、多品治、置始莬であった。倭に到着してから大伴吹負のもとで戦ったが、そこでの子首の行動については書紀に記載がない。
『続日本紀』大宝元年(701年)6月11日条によって、神麻加牟陀君児首が100戸を封じられたことが知られる。
天武天皇5年(676年)8月に大三輪真上田子人君が死んだ。天皇はこれを聞いて大いに悲しみ、壬申の年の功によって、内小紫の位を贈り、大三輪真上田迎(おおみわのまかむだのむかえ)君と諡した。迎とは、大海人皇子を鈴鹿で迎えたことによる。」

 さて、文中の介(すけ)というポストについてですが、「国司(こくし)は、古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す。郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司にあった。国司は国衙(こくが:役所のこと)において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司り、管内では絶大な権限を持った」ということです。
 おそらく伊勢の地方官吏(No2)として、あるいは事績に記述されているように軍人として活躍したのでしょう。

コメント(2)

凄いですねぇ。本当に良く勉強されていると言うか所で三輪って中国の楊州のお寺とは何か関係ありませんかぁ。昔そこへ行った時ですが何か三輪と関係があったような記憶があるのですが同でしょうか
?興味深いですね。何とか思い出していただけませんか。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

三輪 更新情報

三輪のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング