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癒しの森コミュのターナーの絵 癒しの名画美術館 −2−

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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(写真3=ターナーの自画像)
 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallard William Turner, 1775年4月23日 - 1851年12月19日)は、18世紀末?19世紀のイギリスのロマン主義の画家である。イギリスを代表する国民的画家であるとともに、西洋絵画史における最初の本格的な風景画家の一人である。
 私が、大学受験の英語の勉強に使っていた旺文社の参考書に、フランスのアランという哲学者の諺に、ターナーのことが出てきたのが彼の作品との出会いと関心をもつきっかけでした。その諺で「ターナーは文盲だった故に彼の絵が他の画家より色彩が豊かな作品となったのだ」というような内容だった。理屈にとらわれることなく、そのために感性あふれる画風ができたとアランは評価しているのです。
 ターナーの人物・経歴=1775年ロンドンのコヴェント・ガーデンに理髪師の子として生まれる。母親は精神疾患をもち、息子の世話を十分にすることができなかった。ターナーは学校教育もほとんど受けず(アランはこの境遇の事を指摘していたのだろう)、特異な環境で少年時代を過ごしたようである。13歳の時、風景画家トーマス・マートンに弟子入りし、絵画の基礎を学んだそうです。当時の「風景画家」の仕事は、特定の場所の風景を念入りに再現した「名所絵」のような作品を制作することで、今で言う写真屋さんだった。マートンの元で1年ほど修業したターナーは、ロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学。1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し、1799年には24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年、27歳の時には同・正会員となっている。
 ターナーにとって転機となったのは、1819年、44歳の時のイタリア旅行であった。ルネサンス期以来、長らく西洋美術の中心地であったイタリアへ行くことは、イギリスのような北方の国の画家たちにとってのあこがれであり、ターナーもその例外ではなかった。イタリアの明るい陽光と色彩に魅せられたターナーは、特にヴェネツィアの街をこよなく愛し、その後も何度もこの街を訪れ、多くのスケッチを残している。イタリア旅行後の作品は、画面における大気と光の効果を追求することに主眼がおかれ、そのためにしばしば描かれている事物の形態はあいまいになり、ほとんど抽象に近づいている作品もある。
 彩色の傾向=ターナーが好んで使用した色は黄色である。現存している彼の絵具箱では色の大半が黄色系統の色で占められている。逆に、嫌いな色は緑色で、緑を極力使わないよう苦心した。ターナーは知人の一人に対して「木を描かずに済めばありがたい」と語っている。また別の知人から、ヤシの木を黄色く描いているところを注意された時には、激しく動揺している。こんなエピソードも聴いた事があります。ロンドンの火災の時に、人々が驚きあっているのに、ターナーは夜空に広がる炎に感嘆し、ひたすらスケッチしていたそうです。
 (写真2=雨、蒸気、スピード‐グレート・ウェスタン鉄道 (1844) )=1842年に制作された『吹雪‐港の沖合の蒸気船』では蒸気船はぼんやりとした塊に過ぎず、巨大な波、水しぶき、吹雪といった自然の巨大なエネルギーを描き出している。印象派を30年も先取りした先駆的な作品であったが、発表当時は石鹸水と水漆喰で描かれたなどと酷評された。この作品を制作するために、ターナーはマストに4時間も縛りつけられ、嵐を観察したという逸話が残っているそうです。
 代表作は何と言っても「 解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号)(1838)」(写真1)です。
 テメレーア (戦列艦)=(HMS Temerarious, 1798) はイギリス海軍の軍艦で98門搭載の二等戦列艦。トラファルガー海戦に参加した。世界的にはターナーの絵画に描かれたことで著名。同名の軍艦としてはイギリス海軍では2代目である。1938年に描かれた掲出の「解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)は世界的な名画と言われ、2005年に行われたイギリス国内の一般投票により「最も偉大なイギリス絵画」に選ばれているそうです。日本語では「戦艦テメレール号」となっていますが、原語では「Fighting Temerarious」であり、トラファルガーでの奮闘をたたえる愛称となっている。
 絵としては、一日の終わりの夕映えの中で任務を負えてスクラップ化されるために曳航されている嘗ての戦艦の姿の絵である。この絵は単なる夕方の港を描いた風景画ではなく、観る人がみれば、栄光ある戦歴の戦艦も引退をむかえるときがきたという、まさに人生の黄昏を風景上にあらわしているのであって、これぞ名画中の名画といわれる由縁なのです。
 三島由紀夫も、この絵にいたく感動して、そこから小説「午後の曳航」を発表。この小説は、日本のみならず、海外でも評価され、映画化までされています。
 映画「午後の曳航」=とある港町を舞台に、少年と未亡人である母親の前に現れた男との関係や心の葛藤を描いた作品。サラ・マイルズ、クリス・クリストファーソンほか出演。
スタッフ/キャスト
 出演者:サラ・マイルズ/クリス・クリストファーソン/ジョナサン・カーン
 監督:ルイス・ジョン・カリーノ
 原作:三島由紀夫
 撮影は、英国映画界の重鎮ダグラス・スローカムで、青く冷たい海の映像は極めて 
 印象的。ジョニー・マンデルのスコアは映画音楽でも屈指の名曲である。
あらすじ=英国の港町。13歳の少年ジョナサンは、母のアンとふたり暮らしをしていた。ある日、母にせがんで大きな外洋船ベル号の見学に出かけたジョナサンは、そこで出会った二等航海士のジムに強烈な憧憬を抱くようになる。そして未亡人となって久しいアンもまた、逞しいジムに官能を覚える。三島由紀夫の中期の代表作であり、「金閣寺」と並んで海外でも人気の高い「午後の曳航」を、日英合作により映画化されているのですよ。

 一枚の絵からでも、多大の影響を与えるものなのですね!
コミュニケーションは、言葉だけではないということが解る一例としてこの絵を大いに評価したいです。

コメント(4)

りゅうぞうさん
癒しの名画美術館(2)のトピックありがとうございました。 
月を重ねていく内に登録者の増えてくると思います。
多忙な現役の方は読む時間がないかもしが、心を磨きたいと思う人は是非読んでいただければと思います。
ふたみさんへ
こめんとありがとうございます。頑張ってみます。
一枚の絵から小説に発展し、さらに映画化された流れを初めて知ることができました。
絵の持っているパワーが、三島由紀夫さんにペンを握らせたのですね。
絵心のない私ですが、縁に触れることの大切さを感じていますので、これからも宜しくご指導ください。
ターナーは、日本人には親しみの有る画家の一人ですね!
知人の言う事には「私は、後期の抽象画のような風景画、そして生涯を通じて見られる色彩に魅かれています。 そう言えば、夏目漱石の「坊ちゃん」に、「ターナー島」の言葉があったの思いだしましたよ。」とのことで、調べてみたら出てきましたよ「ターナー島」が・・・
(夏目漱石 小説「坊ちゃん」より)
向こう側を見ると青島が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと言っている。野だは絶景でげすと言っている。絶景だかなんだか知らないが、いい心持には相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹がまっすぐで、上が傘のように開いてターナーの絵にありそうだね」と赤シャツが野だに言うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がりぐあいったらありませんね。ターナーそっくりですよ。」と得意顔である。ターナーとはなんのことだか知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。舟は島を右に見てぐるりと回った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平らだ。赤シャツのおかげではなはだ愉快だ。できることなら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられんこともないですが、釣りをするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。俺は黙っていた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかとよけいな発議をした。赤シャツはそいつはおもしろい、われわれはこれからそう言おうと賛成した。このわれわれのうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青島でたくさんだ。

 島は、愛媛県松山市高浜町1丁目の沖合い150メートルにあるそうです。

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