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夏目漱石コミュの『坑夫』

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漱石はこの作品における人間の自己同一性への懐疑と分析によって図らずも今日の菅総理と鳩山前総理の間の内閣不信任案をめぐるやりとりを風刺している

「人間ほどあてにならないものはない
約束とか契(ちかい)とかいうものは自分の魂を自覚した人にはとてもできない話だ
またその約束を楯(たて)にとって相手をぎゆぎゆ押し付けるなんて蛮行は野暮の至りである」


皆さんはここに表れた漱石の自我論についてどう思われますか?

コメント(8)

政治には特に関心のない者の私見です。
ここでいう人間の自己同一性への懐疑というものは、我々のようなごく一般の庶民に向けられ得るものであって、公人としての政治家たちのやり取り云々には当てはめるべきではないと思います。

菅さんがああいった、こういったのというのを撤回したり反古にしたりするのを、鳩山さんがペテン師だ何だのと騒ぐのは、確かに果たされなかった約束に対する非難に違いありませんが、漱石のこの一節を政治家たちに向けてしまっては政など一つも機能できなくなってしまうでしょう。
政界の裏で日常的に行われている根回しや利権のやり取りのなかで、ペテン師だなどと騒ぐこと、それをわざわざ報道するのはあまりに幼稚すぎるように思えます。公の世界の中に私を混ぜ込みすぎている。
あくまで菅さんは公人として、政界という特殊な領域の中で鳩山さんと何らかの約束を交わし、それを遂行しなかった、あるいはできなかった。菅さんが力不足で、また鳩山さんがそれを確実に遂行させるだけの政治的な力を持っていなかった、鳩山さんが菅さんにいっぽんとられたというだけの話です。

私人としては、勿論菅さんも鳩山さんも自己同一性の懐疑を向けられ得るべき存在ではありましょうが。

ちなみにこのトピックをたまたま見つけて、初めて『坑夫』を読みました。いつものことながら非常に面白く、また考えさせられる作品でした。教えていただきありがとうございます。
よしのまいさん、どうもありがとうございます

もちろん政界の騒動に引っ掛けたのは時局におもねったご愛敬ですが、よしのまいさんのおっしゃる通り問題を広く私人に引き戻すなら、

僕たちの存在のあり方の根底に漱石は鋭く杭をうがっているし、またそれゆえにこの懐疑は僕たちの誰もが成長過程の一時期にいだいた経験のある懐疑(それゆえほとんど忘れてしまっている懐疑)ではないでしょうか?
誰もがということはおそらく言えません。多少なりともじっくり内省を試みたことのある人間にはよく起こることだと思います。
誰もが、と言えないのは自分の心の所作について深く考えを巡らすことのない人たちもたくさんいるからです。大抵昨日Aだといっていたことを翌朝になってBだと言って、それでいて自分が正義みたいな顔をしている人は、生まれついてからそのような自らの変化についてたまたま考える機会のなかった人(気づかずに成長してしまった人)か、自分の利得のために意図的に自分をごまかしている人かと思えます。後者の人は自己同一性への懐疑なんて世間で一銭の得にもならないことには頭を働かさないことと思います。
仰るとおり、このことは非常に大事な問いでありながら、正解を得ることなく、考え続ける余裕もなく脳内のどこかに葬り去られてしまっている懐疑なのでしょうね。人間は、存在の総体としては、時間的には連続した、一つ理の通った個体であると言えますが、その内面的世界においてはめまぐるしく変化している。その自分の変化に対して、昨日はAと思われたことが今日にはBと思われる、こうまで早くに考えや認識を変えてしまった、昨日の自分と今日の自分とは同じ自分だと言えるだろうか、そもそも自分とは一体何者であろうか、と言うのが少なからぬ人の経験する懐疑ですね。
私などは結局変化するのも含めて自分なのだろう、と片付けておりますが。昨日はAをするのが嫌でしょうがなくて、悩んだ挙句自分を悩ましているAに腹が立ってきて、ここは一つ何が何でもやり通してやる、などと次の日の朝には発奮していたりする。Aが嫌でうじうじしていたときの私も、Aに対して積極的に片をつけて見せようとする私も、どちらも自分です。漱石は理知的な人であったから、自己という確たる存在が事物や他者に対して、時により違う反応を見せることが我慢ならなかったのでしょうかね。でなきゃ約束なんてできないし、約束を盾に相手を押し付けることもできない、なんて言えないでしょうから。

しかしこう思うのですが、身体についても自己同一性は疑い得ませんかね。と言うのも人間の体は毎日何億という細胞が死んではまた同じだけの数が生まれて、今触っているこの右腕と昨日の右腕は、どのくらいまで「同じ自分の右腕」と言えるのだろうか、などということを考えたからです。更にいうと、その新しい細胞が生まれてくるときに逆にどうしてそれらは「自分」を維持しうるのだろうか、それとも維持し得るべき自分の型などなく、気づかないうちに私たちの身体そのものも変化しているのだろうか、と思ったからです。それが老化であり、成長と言う名の変化であるならば、やはり身体についても変化していくのが自分自身であることを受け入れねばならず、結局自分というのは極めて暫定的な存在なのだなあ、と、今お茶を飲みながら感慨に耽っております(笑)
よしのまいさん

漱石は内面の自己同一性について懐疑を提出しているのですが、その内面が連続したものとして疑わしかろうがそうでなかろうがそれを磔(はりつけ)にしている身体をもって社会は、他者は、まさに同一性を認知しますね

その身体の同一性をも疑問にかけようとするのは、よしのまいさんばかりでなく仏教もまた徹底的に行なっていることですね

「一体自我などどこにあるのか? 内面も身体も一瞬一瞬変化消滅するあやふやなものであり何ら実体などないではないか!」と。
まあ一定の同一性を仮定しておかなければ社会が機能しませんからね。
ただ、あると思っているところが実はないという、それが為に色々なすれ違いや煩悶や誤解などが生まれるのでしょうね。
身体についても、私は仏教に全く不勉強なので何も言えませんが、おそらく既にたくさんの人たちによって考えつくされていると思います。

『坑夫』については村上春樹さんも『海辺のカフカ』の中で登場人物に論じさせていますね
カフカ少年が『坑夫』の内容を要約してみせると図書館員の大島さんはこう言う

「君が言いたいのは、『坑夫』という小説は『三四郎』みたいな、いわゆる近代教養小説とは成り立ちがずいぶんちがっているということかな?」
申し訳ない、カフカも三四郎も読んでいないので生半可なことは言えないのですが…冷や汗

ただ、『坑夫』は銅鉱という一種浮世を離れた深い穴を巡る死―出奔と言う社会的な死、人間性を失った坑夫たち(例外もいますが)の精神的な死、一歩間違えば簡単にジャンボーとして葬り去られてしまう肉体的な死―と、そこからの再生を描いていると言う点で、昨今の村上文学と相通ずる所があると思います。
単なる若者の成長物語ではないと言いますか…
漱石文学に特徴的な一癖も二癖もあるような女性も出てきませんしね。

もし78910さんの引用された部分が、その「死と再生」のテーマに関わりを持っているとするならば、それは最初に提起された「自己同一性への懐疑」、変遷していく自我の定義不可能性、死の水に腰まで浸り、積極と滅却の間を何度も行き来する主人公の自我の有り様と、どのような繋がりを持ちえるでしょうか。

自我を構成する自らの意思を超えた何らかの人間の生の働きが、主人公を銅鉱の外まで引っ張り出すことができた、と言ってしまうのは言い過ぎでしょうか…
面白かったです

安さん、素敵な人だ(*´ω`*)

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