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井上靖コミュの■あすなろ物語・三部作の世界。

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■「あすなろ物語」とそれに併行する「しろばんば」「夏草冬濤」「北の海」の三部作時代の世界について特化したトピを作成させて下さいませ。西域物、歴史物、社会物も確かに井上靖先生の主要な分野ですが、この少年の伊豆時代そして青年の金沢時代は何ともいえず、語り続けたい魅力のあるものと信じています。
■ちなみに小生、井上靖先生に憧れ、旧制四高すなわち金沢大学に行きました。湯ヶ島は2005年7月含め、2度ほど墓参りもしています。文学上のこと、湯ヶ島・伊豆周辺のことをいろいろ語り、情報などをご提供下さいませ。

コメント(58)

■妙覚寺の雪ちゃんです。僕が長い間、想像していたのはもっと現代的な感じの女性でしたが、昔っぽい感じの人でした。写真は「現代日本文学アルバム15 井上靖」(学習研究社1973)からの引用です。
■井上靖の小説「明日くる人」の中に、戸田海岸で主人公らが過ごす情景が出てきますね。主人公の一人がカジカを採取するのです。戸田へアクセスする道路事情なども現在とは違っていますが、景色だけは同じようです。土肥より戸田派の僕としては嬉しい内容でした。
すみません、質問なのですが…
井上さんがエッセイか何かで
「小学生の頃、作文に”いつも富士に見られています”と書いたことがある」
と言っていたと思うんですが、どの本だったか忘れてしまいました涙
分かる方がいらしたら、どうぞご教授くださいあせあせ(飛び散る汗)

※トピとずれていますね、、ごめんなさい涙
はじめまして。
井上靖の、しろばんばを、中学生の時に読み、憧れて、
大学は、金沢と静岡大学を受けました。
入ったのは、金沢大です。

湯ヶ島は、聖地ですね。
よろしく、です。
■『読んで、行きたい名作のふるさと』(教育出版・清水節治著、2005)という書籍の内容の一部をwebにアップしています。
目次を見ると「しろばんば」は収録されていません。
けれど、おそらく収録できなかったであろう「しろばんば」関係の写真をホームページ・カメラ紀行「名作のふるさと」http://www.geocities.jp/seppa06/0406rohan/sima1.htmで見ることができます。とても懐かしい風景です。
web上にこういう形で紹介するという方法=活字とデジタルのコラボもいいですね。
「あすなろ物語」は私の子供の頃からの愛読書です。もう何十回も読みました。同じ本を何十冊買っただろう。本屋に行くとこの本を探し、図書館でも決まってこの本を探すのです。困ったことがあった時、どうしようもなく落ち込んだときはこの本を探しています。あすなろは檜に似ていますが、でも決して檜にはなれないのです。しかし檜になろうと努力することが大切だとこの本は教えています。「あなたはあすなろでもない、あすなろは何かになろうと努力する」と言ったフレーズがありましたね。私はまたこの本を探してます。本
井上靖さんが寄宿していた沼津の妙覚寺に行きました。境内には文学碑もありましたよ。
■だいぶん前の書き込みにコメント。
>24 僕も、古本屋へ行くと、井上靖の本を探します。
中学生の時、国語の教科書に「しろばんば」か「あすなろ物語」の文章があったのですね。
>25 沼津の町に泊まりましたが、妙覚寺も、千本松原も行ってません。一度くらいはいけるかな。
■井上靖の言葉

「子どものとき、狩野川はとても大きく見えました」
■>19 妙覚寺の雪ちゃんは、ウェブによれば、
1985年7月26日に82歳で死亡なさっているんですね。静岡市清水区興津中町の理源寺に「今井幸」として墓があるそうです。
井上靖氏の「初恋の人」あるいは「初接吻の女性」ともいわれているらしいですが、本当でしょうか?
■2010.4.16の報道によると、「井上靖書斎、旭川に移築」。
東京都世田谷区の自宅の書斎などが、旭川市の井上靖記念館へ寄贈されることになって、2011年度に蔵書などとともに公開の予定とのこと。
■一ノ瀬洋三母子は、「しろばんば」で正月に、洪作が、湯が島の伊豆楼に訪ねて行った人物です。三島に在住です。
■2010.6、沼津と伊豆をドライブした時の写真です。1。
千本松海岸、井上靖文学碑、その碑文。
■2010.6、沼津と伊豆をドライブした時の写真です。2。
妙覚寺正門、妙覚寺境内、狩野川。
■2010.6、沼津と伊豆をドライブした時の写真です。3。
淡島付近から沼津方面、三津浜。
■2010.6、沼津と伊豆をドライブした時の写真です。5<終>。
井上靖邸、井上靖邸内部、井上靖邸横。
■「あすなろ物語]より。

「加島浜子はどうしている?」
■井上靖 墓誌「幸せな一生」

「明治四十年五月六日、陸軍軍医井上隼雄の長男として旭川に生まれ、湯ヶ島に育つ。第四高等学校、京都帝国大学哲学科に学び、毎日新聞記者を経て作家生活に入る。詩集「北国」「星蘭干」小説「猟銃」「しろばんば」「風濤」「孔子」他多数を発表。シルクロードに惹かれ、日中両国の文化交流に尽す。文化勲章、勲一等旭日大綬賞を受く。柔道六段、お酒大好き、心宏く温かき人 多忙な中にも幸せな一生を終える」
                            平成三年十一月九日 妻ふみ是を記す
夏草冬波は、NHKの夕方の少年ドラマ枠で、やってましたね。
1972年ころかな。
川に飛び込むシーンを覚えています。
>>36
これって土蔵の跡でしたっけ。
10年以上前に訪れた時は、中に入れなかった記憶あります。

おぬい婆さんの葬式の列を
風邪で寝込んでいたこうちゃが見送ったのも
ここの2階の窓辺からなんでしょうね。
■>42
36の写真は、道の駅「天城越え」の中にある昭和の森会館・伊豆近代文学博物館に付設されている井上靖旧邸です。入場料300円ですが、展示室から外にでたところにあって間近に見れます。これはもちろん本来のばしょから移築されたものです。土蔵はこの家の裏手・東側にありました。
ご存じとも思いますが、「野良犬少年」のサイトhttp://www1.ocn.ne.jp/~nora2010/に詳しい地図などがあり、参考になります。

ところで、<2012.4.19のニュースより>
映画「わが母の記」(監督原田真人、井上靖の自伝的小説)が2012年4月28日公開される。役所広司(56)・樹木希林(69)が出演。同作は2011年のモントリオール世界映画祭で、審査員特別グランプリを受賞した。
とのこと。
■伯母のまちの写真です。
まちは八重の姉。八重らは9人きょうだい。
「しろばんば」でさき子のモデルになっています。
当時の女性の雰囲気があります。
(「現代日本文学アルバム15井上靖」、学習研究社1973より)
■映画「わが母の記」が上映されていても、このコミが活性化しないというのは、ミクシィの現状を物語っているという感じかな。
写真は、靖と母親。まぁ、気の強い八重さんも昔の人ではあったということでしょうか。
(「現代日本文学アルバム15井上靖」、学習研究社1973より)
■井上家の先祖は、四国地方から流れてきた落人です。
■沼津・三津の話
沼津市の内浦三津には井上靖の母・八重のすぐ下の妹・きくえが養女になっていた松本家がある。きくえがこの家の養女になったのは、八重やきくえの母たつの姉がここに嫁していたためである。つまり姪が伯母さん夫婦の子どもになったということで、このような養子縁組は昔はよくあった。
「夏草冬濤」の終わりで洪作たちは伊豆行きの船で西伊豆の土肥へ向かう。その時、狩野川の御成橋から船に乗り、江浦を経て、最初に降り立ち、一泊したのは重寺であった。
沼津市内からは国道414号線を南下して、口野放水路交差点の突き当りを右折して県道17号線に入り、ほどなくして到着する重寺までは市街地からは今では車だとおよそ30分ほどの距離か。三津はこの重寺の北に隣接する。
1955年に沼津市に編入される前に内浦村は、明治期に君沢郡(のち田方郡)三津村、長浜村、重寺村、小海村、重須村が合併して発足した。しかし三津はなぜ「みつ」でなくて「みと」なのだろうか?そして名前からすれば、3つの入江か港が存在する地であろう。地図をみると3箇所の陸の窪みが見えなくもないが「沼津市史」にその地名由来の記述はあるのだろうか。(写真1は三津の街並み)
この三津には、洪作少年は長岡から現在の県道130号線で徒歩で三津の町に入った。その手前、今は新三津坂トンネルが通っているが当時は旧道の三津坂隧道を抜ける峠越えの道だった。トンネルを過ぎてこの道を下る途中の場所で三津の街並みと内浦湾の光景が見えてくる。
常々山の景色しか見ていない、いろいろな場所を訪れたことの少ない少年にとって「今まで彼が知っている場所では、ここが一番美しいところではないかと思った。あるいは日本で一番美しいところかもしれない」」と思わせたのは当然だったかもしれない。
この「日本で一番美しいところかもしれない-井上靖」というフレーズはイザベラバードが「日本奥地紀行」で山形県置賜の地を評して「東洋のアルカディア」と言ったように、宿泊施設や伊豆三津シーパラダイス、淡島などのあるこの地の絶好の観光用キャッチフレーズになる。
井上靖はこの景色だけではなくて、松本家(「しろばんば」では松村家)に歓迎されたことや、すこぶる快適な夏休みを過ごしたことで上記のような感想を持ったに違いない。また井上靖は「学生時代、ひと夏をここで過ごしたい」と言っていたという。
松本家は森に囲まれた氏神の横の道を登った寺への坂の途中にある(写真2-学習研究社「現代日本文学アルバム15井上靖」より)
ところで、井上靖も通った旧道の三津坂隧道は現在通行不能だが、地元の人の力でトンネルの大改修できないだろうものか。ウェブ上で幾人の人が探索しているこの隧道は歴史のあるものである。路面はなんとかなったとしても、少し費用をかけて天井の改修をしないと当局の通行許可を取るのは難しいだろうが。
■19にある妙覚寺の雪ちゃんの写真は、井上靖らと記念撮影した時のものです。
右側に井上靖氏も写っています(旺文社文庫「しろばんば」解説1969より)。
■再び、沼津・三津の話。

現代日本文学アルバム15「井上靖」(1973、学習研究社)の足立巻一「井上靖文学紀行『幼き日のこと』から『星と祭』まで」の「三島・沼津」の項から、

「…八重さんの妹きくえさんは西伊豆三津の旧家松本家の養女になり…、井上さんは小学校、中学校のころからよく夏休みには三津の松本家に行ったので、満子さん(八重の妹きくえの娘・三島間宮家に嫁した隼雄の姉宇米の長男精一の妻ー引用者注)はそのころのことを7よくおぼえている。「子どものときからこちらの気持ちをすぐ読みとる人でした。苦労人ですわね。幼いころ、両親と別れて暮らしたせいでしょうかという話であった。
別の日、わたしは三津をたずねた。
青く湾入した海岸に家々が密集し、みんな海に向かいながら背山へ段をなしてせりあがっている。山はすべてミカン畑だ。家々の庭には夏ミカンが垂れていたり、幹の太いツバキがのぞいていたり、ボケの花が咲いていたりする。天気のとりわけいい日だったから、人たちは海やミカン山に出かけているらしく、家々はひっそりし、道で出会う人もない。
松本家は、鬱蒼とした森を持つ氏神さんの横を登った坂の途中にあった。塀はコンクリートになり、門も現代ふうであるが、白壁の大きな土蔵がまず目にはいり、構えは旧家の威厳をたもち、よく手入れされた立ち木はどれも古い。ここでもまた、井上家、石渡家、間宮家とかようあう家霊のようなものが感じられた。が、家族はみんなミカン山にでもいっているらしく、案内を乞うても犬がほえるばかりであった。
坂をのぼると、石段のうえに寺があり、日にあたったモミジがすさまじいほど燃えている。ここも無人であった。井上さんは、学生時代、ひと夏をここで過ごしたいといっていたそうである。
寺から集落と海とが見わたせた。右手に淡島という小島があり、集落のまんなかには壮大に枝をひろげたケヤキがある。井上さんが海で泳いだのはここが最初であり、すっかり気にいって二年続けて遊びに来たことが『しろばんば』に描かれ、「洪作は今まで彼が知っている場所では、ここが一番美しいところではないかと思った。あるいは日本で一番美しいところかもしれない」とまで書かれている。…」
■ある井上靖関係のサイトによれば、

湯ヶ島に川端康成、梶井基次郎が訪れていた時期に、
旅館は3軒しかなかったそうです。
■「私が初めて大きい川を見たのは、金沢の高等学校時代の三年をその河畔で過した
犀川ですが、これは夏でも冬でもいつも、手を入れたら冷たいなと思われるような独特な
川波のきらめきを持った川です。犀川大橋の上から上流を眺めますと正面に白山連峰が
見えますが、いかにも四時そこの万年雪を融かして流れてきているという感じで、小さい
石の磧を東岸に抱いた一本の青い流れは見渡す限り上流まで小さい川波のきらめきを
みせています。磧に立つと淙々という形容がぴったりする川瀬の音が聞え、大河の感じは
ないが、百万石の城下街にふさわしい気品のある川といえましょう」

と、『川の話』という小篇で『北の海』の舞台・犀川のことを書いています。
<写真は桜橋から犀川下流方向>
■「天城峠のずいどうは、洪作たちにはなんともいえず魅力のあるものだった。湯ヶ島部落から峠までは二里近くあったが、ずいどうを見に行くというと、子供たちはその遠さを忘れて、いつもそこまで行ってみようという気になったものであった。洪作はずいどうの入り口まで行くと、そこに立って内部をのぞいた。ずいどうは石で畳んであるところも、地肌のむき出しになっているところもあり、三十メートルほどの長さの間、天井からはずっと水が滴り落ちていた。そのためにずいどうの中の地面は湿っていて、ところどころに水溜りがあった」(「しろばんば」より」
写真は、1=旧天城トンネル北側、2=旧天城トンネル南側
■「電車から降りて何程も行かないうちに、洪作は道の左手に、赤煉瓦の建物があるのを見た。四高の校舎であった。校門をくぐった。夏休暇にはいっている筈であるが、それでもかなりの学生たちが出入りしていた。洪作は鳶永太郎のあとに従って、正面の建物を左に見て、建物を大きく廻って行った」(「北の海」)

写真は、2007年5月19日撮影の旧制四高校舎=金沢近代美術館で開催された生誕100年記念の「井上靖と青春の地金沢-小説「北の海」を中心に」企画展の時。
■金沢のW橋です。1枚目は途中の階段、2枚目はそこから桜橋方面の景観、3枚目は途中にある書籍の形をした碑。碑には、北の海 井上靖 二人は橋を渡ると、かなり急な坂をじぐざぐに登って行った。「この坂はW坂というんだ。W字型.に折れ曲がっているでしょう」杉戸は説明してくれた。なるほど少し登ると折れ曲り、また少し行くと折れ曲っている。「腹がへると、何とも言えずきゅうと胃にこたえて来る坂ですよ。あんたも、あしたから、僕の言っていることが嘘でないことが判る。稽古のひどい時には、この辺で足が上がらなくなる。なんで四高にはいって、こんな辛い目にあわなければならぬかと、自然に波が出て来る」とあります。
そして、足立巻一氏の「井上靖文学紀行・「幼き日のこと」から「星と祭」まで-詩と自伝的作品を中心に」(現代日本文学アルバム第15巻井上靖・1973学習研究社P95)は、「犀川を桜橋で渡ると、「北の海」のW坂が字形のように台地へつづいている。台上をいまは寺町と呼ぶが、以前桜畠といい、井上さんは二年生の春から父が弘前第八師団軍医部長に転任したため、この一角に下宿した。そのあたりはいまも細い道に向かいあって門をかまえ、木立ちを持った古い家が多い」と書いている。
学生時代、私も寺町に住み、このW坂を大学に歩いて通いました。もっとも、南側に迂回するゆるやかな車の道があるので、そちらも通ることが多かったのですが。
W坂は、冬季には、その形を見せますが、それ以外の時期は、桜の葉が茂って、全体を見ることはむつかしかったように思います。
■「夏草冬濤」
○一般に井上靖の小説「夏草冬濤」は「しろばんば」や「あすなろ物語」から続く自伝的小説と位置づけられている。静岡県立沼津東高等学校の前身、旧制沼津中学時代での生活を、作者の実体験をもとにして描かれた青春小説であると誰もがそう思っている。しかし、実際にはそうばかりでもないようである。そこには明らかに読者を意識した井上靖特有の虚構が存在するのである。
○平成7年の夏、私は○岡県教○委員会主催の文学紀行イベントで、県下の文学好きな高校生6名と一緒に、この小説の舞台である沼津や三島の各地を訪れ、また、作中に登場する方々とお会いし、当時のお話しを伺う機会があった。小説の初めの方にある、いわゆる「鞄紛失事件」。これは主人公の洪作が始業式に必要のない鞄を学校に持っていくのが恥ずかしいため、下宿のあった三島から徒歩で通学途中、黄瀬川の神社にある楢の木の根元に隠したが紛失してしまい、教師に怒られるばかりか伯母まで学校に呼び出され、ようやく後で見つかった、という事件である。(実は鞄の中にあった弁当の匂いを嗅ぎつけた犬の仕業であったのだが・・・)
○私達文学散歩グループは実際に黄瀬川の神社(現在の智方神社)へ足を運び、文庫を手に登場人物の役を決め、身振りも交えて朗読するというロールプレイを試みた。すると、現在でも神社にはご神木となっている大きな楢の木があり、その根元は複雑に絡み合い、盛り上がっていて、ちょうど学生鞄ひとつぐらいは入りそうな窪みが実際に何カ所かあった。ある生徒曰く、「これは時空体験ですよね。」。まるで洪作や同級生の小林、増田ら、登場人物の思いが時を超え、生々しいほどの臨場感をもって甦ってきたような心持ちになった。そしてそれは、その後の場面である三嶋大社でのロールプレイにおいても同じであった。「ああ、本当にこんなことがあったんですねえ。小説ゆかりの地を訪れ、井上靖の当時の思いを疑似体験し、作品に酔うことができたなあ。」とつぶやいた生徒だけでなく、誰もがそう確信していた。しかし、後でわかったことだが、それらの場面は全くの虚構であった。「自伝的」とは言え、それはやはり想像の産物としての、「井上作品」の世界だったのである。
○この作品の中で洪作が下宿していた家の息子として登場する従兄弟の俊記、間宮清一さん(平成7年当時87歳・故人)に伺ったところ、「えっ?鞄をなくして怒られた? さてそんなことはあったかなあ、全くないと思いますよ。当時、井上は毎日柔道ばかりしてましたからね。柔道しかないという感じでしたよ。」という言葉が返ってきた。あまりの意外さに愕然とする6名の高校生達。今までのロールプレイはいったい何だったのかという怪訝そうな顔つきをしている。そして、追い打ちをかけるようにさらなる「生き証人」がとどめを刺した。
○金井廣さん(当時88歳・医師、詩人)はこの作品全体を通して「金枝」と呼ばれる重要な登場人物である。作品冒頭には水泳講習会で上級生からいじめられた洪作が先輩の「金枝」達に救われる場面があり、ラストには一緒に土肥旅行に出かけるというシーンがある。「確かに水泳講習会はありましたねえ。でも、井上がいじめられたり、僕らがそれを助けたという事実はありません。最後に土肥へ行ったのは事実ですが、僕はその時病気で参加しなかったのに行ったことになってますしね。・・・鞄事件? そんなのないと思いますよ。井上が後ででっち上げたんでしょう。」・・・どうやらこの「自伝的」小説には随所に事実の脚色や虚構が潜んでいるようである。金千本浜より旧制沼津中学のあった香貫山方面を望む。井さんは続けてこう話した。「あったことをあったとおりにそのまま書くだけでは自分が面白いだけでしょう。相手はつまらないじゃないですか。だから、なかったこともいろいろと想像して書く。読者に読ませたいからですよ。問題は、それがすぐにウソとばれるようじゃあ、小説としてダメなんだと言うことです。本当にあったかもしれない、あったんだと読者に思わせるから感動するんでしょう。それが小説というものでしょうね。その意味で、井上はでっちあげがうまかったですよ」<つづく>(「駅弁の小窓」http://ekibento.jp/より)
■<つづき>○目が「テン」だった周りの生徒にようやく笑顔が戻った。そう、例えば鞄事件については、毎日片道5キロも歩く途中の神社で休むこともあっただろうから、その経験が小説の素材になり得たのである、と。あるいは取材をしたのかもしれない。そういう小説家井上の努力があり、思惑があったからこそ、その上に架空を交えて場面を再構成し、私達が騙されるほどの文章表現に仕上がったのではないか、と。鞄の事件が事実であろうがなかろうが、たとえ虚構の世界を通してだとしても、私達文学散歩グループはこの小説によって当時の井上靖、そして洪作少年と触れあうことができたのである、と。
○金井さんはさらに続けた。「井上は短編の名手と言われてきましたが、ある時こんなことを言ってましてねえ。・・・もともと小説が長くないんで、推敲する時には原稿を部屋の壁に順序よく貼っておく。それを毎日、眺めるんだそうです。すると、この表現は長すぎるから短くしよう、いや、やっぱりいらない、などと思って消していく。完成して気づいたら、最初の10分の1くらいになってるんだそうです」
○短編ではないにしても、おそらく「夏草冬濤」についても同じようなことをしたのであろう。虚構を含みながらも十分に構想を練って書いた自分の文章に厳しく向き合い、ここから先は言い過ぎ、これだけでは言い足りないというぎりぎりのポイントを見切ったのであろう。こうして井上靖の「自伝」的小説「夏草冬濤」は生まれたのである。 (「駅弁の小窓」http://ekibento.jp/より)
>>[42]
■4年半後の返信です。

[36]の写真は、「道の駅天城越え」の敷地内にある「昭和の森会館」に併設されている井上靖旧邸の建物です。
小説に登場する土蔵は、現在は取り壊されていて、今は公園になっています。
ただし、土蔵内部の様子は「昭和の森会館」内部に模型が展示されています。

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