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左近将監コミュの南部家の出自

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甲斐国の南部荘を所領として「南部」を姓とし、奥州藤原氏討伐に
軍功を挙げて糠部郡(ぬかのぶのこおり)に配置されたと伝えられ
ます。

奥州と甲斐の所領を往復したとも伝えられ、甲斐国にも所領があっ
たのですが、中先代の乱でその所領は失ったとのこと。

11代信長は鎌倉幕府滅亡の際に殉死と伝えられ、本格的に奥州北
部の経営に乗り出したのはこれ以降のことと思われます。

南部氏は「三戸」、「八戸」の2家が存在し、私が見るところでは
「八戸南部氏」の入封が早かったものと考察しています。

南北朝の争乱の時期、南朝方の主力であったのは「八戸」であり、
南朝勢力衰退の後は「三戸」が台頭したものと考えます。

この両家については「三戸」、「八戸」それぞれの郷土史家が争っ
て正当性を主張しているのですが、決定打となる古文献が世に出て
いません。

本コミュニティの主題である九戸左近将監政実の乱において、三戸
は小田原に参陣して本領安堵の朱印状を下付され、八戸は留守居役
として奥州にとどまったために大名とはなり得ませんでした。

遠野に本拠を持つ阿曽沼氏が南部氏の附傭となって衰退し、後にそ
の所領から放逐された後、八戸は遠野に移転することになります。
通姓を「八戸」から「遠野」に改め、代々「遠野弥六郎」を名乗っ
て家老第一席の家格でした。

南部家=南部藩は、江戸期に一度取りつぶされています。参勤交代
の遅延、居城の無断修復など、法度に触れる行為を行ったためなの
ですが、先代の利直が水戸頼房の教育係を務め、位階も従三位の高
位まで上った人 = 幕府への忠誠が明らかであったという理由か
ら改易にはならず、「南部藩」を取り潰して「盛岡藩」を新たに設
けるという形で存続させたのです。

問題になるのは「三戸」、「八戸」のいずれが正当な家なのか、と
いうことです。それを証立てる資料は24代晴政の代に失火で消失
し、全くと言っていいほど伝わっていません。

江戸期に幕府の命によって「寛政諸家家系図」が各武家で編纂され
て提出されたのが通史となっていますが、多方面の資料と突合する
と矛盾点が多々見られます。

私見ですが、南部家とは次のような成立過程をたどったのではない
でしょうか。

本家である「三戸」は甲斐の所領を直接統治し、飛び地である奥州
は管理官ともいうべき「八戸」が統治していた。鎌倉幕府健在の時
期は問題は皆無であったが、北条家(鎌倉幕府)が滅亡した時には
「幕府方の勢力」だったために衰退し、それが中先代の乱で統治権
を完全に失い、飛び地であった奥州に下向。

八戸は在地管理官として勢力を扶植し、その力を背景に南朝方とし
て華々しい活躍をするが、当主が阿倍野(現・大坂)で討死するな
どし、さらに北朝が大勢を占めるようになったところから勢力を大
きく減退させた。(八戸南部は足利幕府の降伏勧告を最後まで無視
し続けた)

逆に本家であり、八戸南部の庇護下にあった三戸南部はいち早く北
朝という旗幟を鮮明にし、戦国大名としての地歩を固めることが出
来たものである。

まだ仮説であり、それを裏付ける資料がないことが残念です。遠野
を通姓とした八戸家の「遠野文書」にその端緒を見いだしたいので
すが、南部叢書などの古文献が「三戸南部本家説」を強固に主張し
ているために、当地方では通説となっていて苦労を覚えます。

周辺の大名家の資料も南部家の歴史を補完するものではないのです。

津軽家は南部家と犬猿の仲、佐竹家は関ヶ原以降の入封、伊達家は
少々早いものの、南部家とは殆ど無縁の家。ただ、先祖が同じ南朝
の伊達行朝であるところから、伊達家文書の中にも見るべきものが
あると考えます。

小田原に参陣しなかった和賀、稗貫、大崎等の諸氏の資料は、小田
原の陣の後に起きた争乱で散逸したと思われ、それ以前に南部氏に
よって滅ぼされた斯波氏の資料に関しては些少なものとなっていま
す。

近世大名となった南部氏の家臣には、古くからの名家であった田鎖
や大槌もありましたが、支配体制強化の中で疎んじられ、家格を下
げられるか、或いは断絶させられるなどしているために史料が極め
て少ないのが現実です。

コメント(5)

虎猫大権現さま

ご指摘のとおり、文化14年の藩名変更が正しく、汗顔の至りです。これからもよろしくお願い致します。長文になっちゃうのではしょったのが原因の一つ、そして俗説を混同させたのがもう一つの理由です。

恥ずかしさを薄めるため、多弁になっちゃいます。

武家諸法度は寛永12年(1635)に改訂され、参勤交代が義務づけられました。重直は寛永13年(1636)の春に遅延、即ち「制定直後」に遅参してしまったことになります。

花巻(盛岡から直線距離で40キロほど)のところで10日間を費やしてしまい、幕府に睨まれてしまいました。この他にも城の無断修築やキリシタンの大量捕殺もあってさらに疑われ、蟄居させられています。

ここで重直に肩入れしてみましょう。盛岡城の完成は1633年のことで、不都合による手直しや改修も必要だったはず。築城して僅か2年ほどとは言え、居城でもあり防衛施設でもある城の修築は必要だったとも思えます。(幕府には届けでなければなりませんが)

キリシタンの大量捕殺は幕府の方針に沿って遂行したものであり、その命を遵守したことは評価されるべきですが、176人という、それも布教の中心地ではない場所での人数としては異例と言えます。この人数が幕府に疑念を抱かせたのは無理がないかも知れません。

そして悪意ある「俗説?」です。参勤交代の途中、花巻で費やした10日間について、重直は「持病の再発」と弁明しています。しかし俗説では「妾の腹を割いて子がいるかどうか確認した」などと流布されていました。

なぜ重直が悪人化してしまったのかですが、これは藩の分割相続に起因した後世の付会ではないかと思っています。確かに重直の代で10万石の格式は失われました。しかしこれはやむを得ないことです。

子は早世し、養子も死去し、後継者が不在だったのです。重直は4代将軍家綱に面会して裁定を願い、家綱は結果として盛岡8万石、八戸2万石に分割して相続させました。本来であれば嗣子のいない大名家は改易となるのですが、このトピックに記したとおり、父の利直は幕府に尽くした貢献者でもありました。記憶による書き込みで恐縮ですが、利直は前田家100万石の相続問題にも寄与し、その人物と才能は知られたところであったようです。

将軍本人の裁定なので問題はないはずなのですが、重直は国元に後継者選定を、そして家の存続を直接将軍に面会して依頼したことを家臣団に伝えていなかったようです。そして国元ではお家騒動に近い状態となり、混乱したのだそうです。重直が悪く言われる原因はここらへんにありそうなのですが。

盛岡8万石は何とか収まったとしても、収まらなかったのは八戸藩でした。というより、元々八戸家として存続し、小田原の陣以降に家臣に列していた遠野南部氏が収まらなかったとか。

元々八戸の領主であり、室町末期には三戸、八戸、九戸と並んで国人と見られていた家であり、それが小田原の人で家臣にならざるを得なくなったうえ、当主となった女性:清心尼から利直が田名部3,000石を恫喝に近い方法で取り上げたなどなど、遠野南部氏は堪え忍ぶ勤めをしてきました。

家臣は「八戸が別家として大名家になり、自分達の主は家臣の扱いのままか」と怒ったとも伝えられます。元八戸家だった遠野南部氏の家臣は、遠野に主家が移封された後も八戸と遠野を往来したのだそうです。

このような潜在的な屈辱感、不満から新・八戸家の当主が就任間もなく死んだのは暗殺であり、その下手人は遠野南部の手の者だという説も流れたようです。

長くなった話をまとめると、重直が家の存続を願って将軍に裁定を依頼したことは誤りとは言えないと思います。早々に嗣子を定めておくべきだったことは確かですが、盛岡8万石を継いだ重信は七戸家を担っており、しかも異母兄弟なので直系の相続ではないところからやむを得なかったのかも知れないと擁護しておきます。

普通の大名家なら嗣子を定めずに当主が死去すると改易であり、旗本などなら目をつむる「末期養子」は見逃しません。そもそも「嗣子は○×です」と事前に届け出るものですから。

その中で将軍直々に、そして世間体では改易という形をとりつつも分割相続させたということは余りある温情と言えます。利直の貢献度のほか、伊達の背後にある牽制勢力としても必要だったと聞いたことがあります。さらにその中で伊達と境を接し、支えることができるのは強固な家臣団を擁する八戸家=遠野南部氏という理由で八戸から移転となったようです。

遠野南部氏が入封する前、代官が入っていましたが統治が難しく混乱は根治できなかったとか。旧来の主である阿曽沼広郷を内紛から領外に追い出し、遠野南部氏を据えて安定を得ることができたのは、やはり強力な家臣団の存在あってのことと思います。

虎猫大権現さま、これからもご指摘、御教示、様々とお願い致します。これからもよろしくお願い致します。
虎猫大権現さん

こちらこそ御教示、御指摘を賜りたく存じます。私の参考資料の主体は、現在のところ職場の図書館にある市町村史です。既に絶版になり、貴重な口伝や図面もある反面、資料的には市町村を越えられない内容のものもあります。

本来であれば最新資料を目にするべきなのですが、まずは第一歩という思いから古い資料から着手している段階です。
それと平行しながら最新情報も得ようとしていますが、その部分では大きく立ち後れていることも自認しています。

そして地域でなくては得られない情報もあり、虎猫大権現さんを始めとして皆様から御教示を賜らなければなりません。

こちらこそ、今後もよろしくお願い致します。
始めまして。若輩者が失礼します。

かつては歴史の検証などは、年寄りがやるものだなどと思っていましたが、
歴史は繰り返すの例え通り、人間の歴史など今も昔もさほど変わらないと
最近つくづく思う様になりました。

大事なのは、歴史から学び、それを現代にどう役立てるのかという事だと
思います。

例えば、トピ主様が書いておられる、南部藩改易の理由の一つ、キリシタン
大量捕殺。この事件は大変興味をそそられる部分です。
幕府の命に従いながら、多過ぎるとして非難される。

これなども、部下が上司の指示で仕事をしたら、やり過ぎだと言われ叱られる。

しかし、この件はそんな単純な話ではないと思います。

ただやり過ぎだとしたら、指示を出した方にも責めが及びます。

もしかしたら、何者かの興奮を鎮める為に、敢えて泥を被せたとは考えられない
でしょうか?

だから、改易とはならず。藩名変更、分割継続となったのではないでしょうか?

又は、徳川幕府の統治方針は、各大名の牙を抜き、反抗勢力の弱体化だと
思います。

それは「樅の木は残った」にも書かれているように、一族内に内紛の種を
植え、自滅させる方が効率的です。

無学の者の、浅知恵とお笑い下さい。

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