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荘子コミュの19、河伯と北海若(4)大と小

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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━秋水篇━━━━━━━━━
19、河伯と北海若(4)大と小
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
河伯曰          河伯曰く。
然則吾大天地而小豪末   然らば、則ち吾天地を大として豪末を小とするは、
可乎           可ならんかと。
北海若曰 否       北海若曰く。否(いな)。
夫物量无窮 時无止    夫(そ)れ物は量に窮まりなく、時は止まるなく、
分无常 終始无故     分(ぶん)に常なく、終始に故(こ)なし。
是故大知観於遠近     是(こ)の故に大知は遠近に於いて観る。
故小而不寡        故に、小なるも寡(ひん)とせず、
大而不多         大なるも多とせず。
知量无窮         量の窮まりなきを知ればなり。
證曏今故         今故(きんこ)で証曏(しょうきょう)す。
故遙而不悶        故に遙かなるも悶(もん)とせず。
掇而不跂         掇(ひろ)うも跂(き)せず。
知時无止         時の止まるなきを知ればなり。
察乎盈虚         盈虚(えいきょ)を察す。
故得而不喜 失而不憂   故に得るも喜ばず、失うも憂えず。
知分之无常也       分の常なきを知ればなり。
明乎坦塗         坦塗(たんと)で明らかにす。
故生而不説        故に生(い)くるも説(よろこ)びとせず、
死而不禍         死するも禍(わざわい)とせず。
知終始之不可故也     終始の故(こ)べからざるを知ればなり。
計人之所知 不若其所不知 人の知る所を計るに、その知らざる所に若(し)かず。
其生之時 不若未生之時  其の生くるの時は、未だ生まれざるの時に若かず。
以其至小 求窮其至大之域 其の至小を以て、其の至大の域を窮めんことを求む。
是故迷亂而不能自得也   是の故に迷乱して、自得すること能わざるなり。
由此観之         此れに由りてこれを観れば、
又何以知豪末之      又、何を以てか豪末の
 足以定至細之倪      以て至細の倪(げい)を定むるに足るを知らん。
又何以知天地之      又、何を以てか天地の
 足以窮至大之域      以て至大の域を窮むるに足るを知らん。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽(金谷治 訳)
…………………………………………………………………………………………………………
河伯はたずねた、「それでは、私はこの天地を大きいもの、細かい毛さきを小さいものと考えたら、それでよろしいか。」
北海若は答えた、「いやだめだ。いったい外界の物は、その数量に限りがなく、その時間的な流れはとどまるときがなく、それぞれの持ち分を転々と変化し、その生滅のくりかえしは執着(しゅうちゃく)をゆるさない。だから真実の知恵に目覚めたものは〔お前のような固定的な見方はしないで〕、遠大なことと身のまわりのこととをあわせて観察する、そこで、小さいからといって卑屈にもならず、大きいからといって得意にもならない。万物の数量は無限〔で大小も相対的〕だということをわきまえているからである。また彼は古今をあわせて明らかにする、そこで時代がへだたっているからといってあいまいにすることもなく、今のことだからといってあくせくすることもない。時の流れはとどまることがな〔くて古今も絶対的でな〕いということをわきまえているからである。また彼は満ち欠けをあわせて観察する、それで何かが得られたからといって嬉しがることもなく、何かを失ったからといってくよくよすることもない。それぞれの持ち分が転々と変化〔して得失が循環〕するということをわきまえているからである。また彼は万物を平均してつらぬく道をあきらかにする、そこで生きているからといって喜ばしいとも思わず、死んだからといって凶(わる)いこととも思わない。生滅のくりかえしは執着をゆるさないということをわきまえているからである。
人間の知識の範囲というものは、その未知の世界の大きいのにはとても及ばない。人間の生存してるい時間というものは、その生まれる前の悠久なのにはとても及ばない。そのように至ってちっぽけな存在のくせに、とてつもない大きな世界をきわめつくそうと求めるから、そこで迷いに迷って本来の自分に安らかに満足していることができなくなるのだ。こうしたことから考えてみると、いったい細い毛先きこそが最小の領域を確かに定めているなどということが、どうしてわかろうか。いったい天地の広がりこそが最大の世界を確かにつくしているなどということが、どうしてわかろうか。」
…………………………………………………………………………………………………………

▽(吹黄 訳)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
河伯は言った。「それならば、私は天地を<大>とし、細い毛先を<小>と心得ておけば、それでよろしいでしょうか。」
北海若は言った。「いやだめだ。
そもそも物のその量は窮まりなく、時は止まらず、
分かれ目は常にあるものではなく、終始は固定することがないのだ。
これが故に、大知(大いなる知に至った人)は遠近両方に於いて観るのだ。
故に、<小>でも<寡(すくない)>とは思わず、
<大>でも<多(たっぷり)>とは思わない。
空間を占める量は窮することがないことを知っているからだ。
(大知は)今のこととそれ以前のこと(の結びつき)でうらづけるようにと向かうのだ。
故に遙かな(過去からの長い時間がかかる)ことであっても悶々としない。
(現在進行形のものを)次々につないで集めて(充足し)、(未来に)背伸びすることもない。
時間は止まることがないことを知っているからだ。
(大知は) 満ちたり欠けたりすることをすみずみまで観察するのだ。
故に、何かを得たからといって喜ばず、何かを失ったからといって憂うことがない。
分かれ目が常にあるものではないということを知っているからだ。
(大知は)感情の起伏が起こらないような塗(みち)を明らかにしてゆくのだ。
故に、生きているからといって悦ばず、死んだからといって禍だと思わない。
終始は固定すべきではないということを知っているからだ。
人の知っているところを計るならば、その知らないところにはとても及ばない。
人の生きている時間は、生まれる前の時間にはとても及ばない。
その至って<小>なるもので以て、
その至って<大>なるものの領域を窮めようと求めるものだ。
それ故に、迷い乱れて、自分の体験による理解でもってさとることができないのだ。
こうした比較に由りこれを観るならば、又、細い毛先が至って<細>なるものうちの最小の末端として定めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。
又、天地が至って<大>なるものうちの最大の領域として窮めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。」
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コメント(16)

┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 河伯曰        ┃【河伯曰く。】
┃  然則吾大天地而小豪末 ┃【然らば、則ち吾天地を大として豪末を小とするは、】
┃  可乎         ┃【可ならんかと。】
┗━━━━━━━━━━━━━┛
河伯は言った。「それならば、私は天地を<大>とし、細い毛先を<小>と心得ておけば
ば、それでよろしいでしょうか。」
…………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【河伯曰く、然らば、則ち吾れ天地を大として豪末を小とするは、可ならん
 かと。】は「河伯はたずねた、『それでは、私はこの天地を大きいもの、細かい毛さき
 を小さいものと考えたら、それでよろしいか。』」としています。

◇【河伯曰く。然らば、則ち吾天地を大として豪末を小とするは、可ならんかと。】は、
 通説と大差なく「河伯は言った。『それならば、私は天地を<大>とし、細い毛先を<
 小>と心得ておけば、それでよろしいでしょうか。』」としました。

┏━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 北海若曰 否    ┃【北海若曰く。否(いな)。】
┃  夫物量无窮 時无止 ┃【夫(そ)れ物は量には窮まりなく、時には止まるなく、】
┃  分无常 終始无故  ┃【分(ぶん)に常なく、終始は故(こ)なし。】
┗━━━━━━━━━━━━┛
北海若は言った。「いやだめだ。
そもそも物のその量は窮まりなく、時は止まらず、
分かれ目は常にあるものではなく、終始は固定することがないのだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【分】は、「けじめ」。「区別」。「ポストに応じた責任と能力」。「もちまえ。」

*【故】は、「攴(動詞の記号)+古(かたくなった頭骨。または、かたいかぶと)」で「かた
 まって固定した事実になること。」

◆通説では、【故】は「固」に通じ、「常」の意で「こだわりなずむこと」としています。
 【北海若曰く。否(いな)。夫(そ)れ物は量には窮まりなく、時には止まるなく、分に常な
 く、終始は故(なず)むなし。】は「北海若は答えた、「いやだめだ。いったい外界の物
 は、その数量に限りがなく、その時間的な流れはとどまるときがなく、それぞれの持ち分
 を転々と変化し、その生滅のくりかえしは執着をゆるさない。」としています。

◇【北海若曰く。否(いな)。夫(そ)れ物は量には窮まりなく、時には止まるなく、分に常な
 く、終始は故(こ)なし。】は「北海若は言った。『いやだめだ。そもそも物のその量は窮
 まりなく、時は止まらず、分かれ目は常にあるものではなく、終始は固定することがない
 のだ。」としました。
●通説では、次のようになっています。

河伯はたずねた、「それでは、私はこの天地を大きいもの、細かい毛さきを小さいものと考えたら、それでよろしいか。」
北海若は答えた、「いやだめだ。いったい外界の物は、その数量に限りがなく、その時間的な流れはとどまるときがなく、それぞれの持ち分を転々と変化し、その生滅のくりかえしは執着(しゅうちゃく)をゆるさない。

〇新解釈では、つぎのようになります。

河伯は言った。「それならば、私は天地を<大>とし、細い毛先を<小>と考えれば、それでよろしいでしょうか。」
北海若は言った。「いやだめだ。そもそも物のその量は窮まりなく、時は止まらず、
分かれ目は常にあるものではなく、終始は固定することがないのだ。


【河伯曰】【河伯曰く。】
【然則吾大天地而小豪末】【然らば、則ち吾天地を大として豪末を小とするは、】
【可乎】【可ならんかと。】
〔河伯は言った。〕
〔「それならば、私は天地を<大>とし、細い毛先を<小>と心得ておけば、〕
〔それでよろしいでしょうか。」〕

──北海若に出会う前までは、河伯は自分のことを<大>だと思いあがっていました。しかし、北海若に出会い、はじめて自分が<小>であることを認め、北海若を<大>だと感じたのです。ところが、北海若の話を聞いているうちに、北海若よりまさる天地を<大>だと考えるようになったのでしょう。

そして、反対に、自分を<小>だと感じたけれども、そんなに卑屈になる必要はなく、細い毛先を<小>だと認識していれば、自分はその中間に位置する者だということになると心得ていればいいのかどうかを確認しているようです。

【北海若曰 否】【北海若曰く。否(いな)。】
〔北海若は言った。「いやだめだ。〕

──それに対して、北海若はきっぱりと言います。「いやだめだ。」と。
ものの認識の仕方は、そんなに単純なものではないと言っているようです。

【夫物量无窮 時无止】【夫(そ)れ物は量に窮まりなく、時には止まるなく、】
〔そもそも物のその量は窮まりなく、時は止まらず、〕

──物をその量で<多>とか<少>とか、その面積で<大>とか<小>とか言えるのは、ある条件下の一点からのみ言えることで、その視点や単位が変われば、その<多少><大小>の評価も変わるものだと言っています。常に、相対的なものなので、絶対的な判断はできないというわけのようですね。

時間は止まることがありませんので、万物は刻々とその姿を変化していると言えそうです。時の経過によって、どんなものでも流動的に変化するものだ…と言っているのでしょう。

【分无常】【分に常なく、】
〔分かれ目は常にあるものではなく、〕

──また、その分かれ目(区分)があるように思えるのは一時の仮のもので、常にあるわけではなく、認識はどうとでも変えられるものだということです。例えば、河伯(黄河)を「川」の区分で見ると<大>となりますが、海を含む「水」の区分で見ると<小>となってしまうように、区分の位置づけが違ってくると認識が変わってくる…と言っているようです。

【終始无故】【終始は故(こ)なし。】
〔終始は固定することがないのだ。〕

──始まりがあれば終わりがあります。それですべてだと考えるのは固定概念です。終わりがあってもまた始まりがあるのです。すべての状態は、変化の過程にある暫定的なものだですから、物事を固定的な(断定的な)概念でとらえることはできないことになるでしょう。どんなことが起きても、始めから終わりまで何事にも固執しない意識でもって見ていれば、瞬間々々すべてのものは一新され、なじみのないものになる…ということでしょう。

┏━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 是故大知観於遠近 ┃【是(こ)の故に大知は遠近に於いて観る。】
┃  故小而不寡    ┃【故に、小なるも寡(ひん)とはせず、】
┃  大而不多     ┃【大なるも多とはせず。】
┗━━━━━━━━━━━┛
これが故に、大知(大いなる知に至った人)は遠近両方に於いて観るのだ。
故に、<小>でも<寡(すくない)>とは思わず、
<大>でも<多(たっぷり)>とは思わない。
…………………………………………………………………………………………………………

*【寡】は、宀(やね)の下に頭だけ大きいひとりの子が残された姿を示すもので、「ひ
 とりぼっちのさま」を示します。「たよるべき人や力のないこと」。「すくない」。

◆通説では、【遠近】を「遠大なことと身のまわりのこと」と解釈しています。【寡】は
 「卑屈」、【多】は「得意」と意訳しています。
 【是(こ)の故に大知は遠近を観る、故に小なるも寡(すく)なしとせず、大なるも多しと
 せず。】は「だから真実の知恵に目覚めたものは〔お前のような固定的な見方はしな
 いで〕、遠大なことと身のまわりのこととをあわせて観察する、そこで、小さいからと
 いって卑屈にもならず、大きいからといって得意にもならない。」としています。

◇【遠近】は、「遠い外なる宇宙(世界)と近い内なる宇宙(世界)」と解釈しました。
 【是(こ)の故に大知は遠近に於いて観る。故に、小なるも寡(ひん)とはせず、大なるも多
 とはせず。】は、「これが故に、大知(大いなる知に至った人)は遠近両方に於いて観るの
 だ。故に、<小>でも<寡(すくない)>とは思わず、<大>でも<多(たっぷり)>とは思
 わない。」としました。

┏━━━━━━━┓
┃▼ 知量无窮 ┃【量の窮まりなきを知ればなり。】
┗━━━━━━━┛
空間を占める量は窮することがない(内外無限大だという)ことを知っているからだ。
…………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【量の窮まりなきを知ればなり。】は「万物の数量は無限〔で大小も相対的〕
 だということをわきまえているからである。」としています。

◇【量の窮まりなきを知ればなり。】は「空間を占める量は窮することがない(大小無限大
 だという)ことを知っているからだ。」としました。

●通説では、次のようになっています。

だから真実の知恵に目覚めたものは〔お前のような固定的な見方はしないで〕、遠大なことと身のまわりのこととをあわせて観察する、そこで、小さいからといって卑屈にもならず、大きいからといって得意にもならない。万物の数量は無限〔で大小も相対的〕だということをわきまえているからである。

〇新解釈では、次のようになります。

これが故に、大知(大いなる知に至った人)は遠近両方に於いて観るのだ。
故に、<小>でも<寡(すくない)>とは思わず、
<大>でも<多(たっぷり)>とは思わない。
空間を占める量は窮することがない(内外無限大だという)ことを知っているからだ。


【是故大知観於遠近】【是(こ)の故に大知は遠近に於いて観る。】
〔これが故に、大知(大いなる知に至った人)は遠近両方に於いて観るものだ。〕

──大いなる知に至った人は、自分の意識している視点をずっと遠くに引き離したりして外なる宇宙(世界)を感じたり、ぐっと近くに引き戻して内なる宇宙(世界)を感じたりすることによって、物事の両面を同時に観ている…ということのようです。

【故小而不寡】【故に、小なるも寡(ひん)とはせず、】
【大而不多】【大なるも多とはせず。】
〔故に、<小>でも<寡(すくない)>とは思わず、〕
〔<大>でも<多(たっぷり)>とは思わない。〕

──大いなる知に至った人は、普通の人のように、肉眼で見える世界だけでものごとを単純に判断していたわけではなく、肉眼では把握できないもっと別の意識的感覚によってものごとをとらえていたようですね。

意識の中で顕微鏡的視野から見れば、最も<小>だと思っていた毛先の世界も、さらに<小>の世界があり、毛先も<大>なるものとも言えることになるのです。だから<小>でも<寡(すくない)>とは言えないことになります。

また意識の中で望遠鏡的視野から見れは、最も<大>だと思っていた天地も<小>なるもので、宇宙空間は限りなくさらに大きく広がっていますので、普通とらえている天地とは言え、<多(たっぷり)>とは言えないことになります。

【知量无窮】【量の窮まりなきを知ればなり。】
〔空間を占める量は窮することがない(内外無限大だという)ことを知っているからだ。〕

──大いなる知に至った人は意識的な感覚によって、空間を占める量を固定した概念で、絶対的な<大>とか<小>とか限定することなどできない内外無限大のものだということを十分承知しているからだ…と言っているのでしょう。

┏━━━━━━━━┓
┃▼ 證曏今故  ┃【今故(きんこ)で証曏(しょうきょう)す。】
┃  故遙而不悶 ┃【故に遙かなるも悶(もん)とせず。】
┗━━━━━━━━┛
(大知は)今のこととそれ以前のこと(の結びつき)でうらづけるようにと向かうのだ。
故に遙かな(過去からの長い時間がかかる)ことであっても悶々としない。
…………………………………………………………………………………………………………

*【證(証)】は、「言+登」で、「事実を上司の耳にのせる」→「上申すること」。
 転じて、「事実を申しのべて、うらづける」の意となります。「あかす」意。

*【曏】の「郷」は「邑+ごちそうをはさんで人が向き合うさま」で、ある方向に向かっ
 て歩く意を含みます。「日+郷」は「日が先方に向けて去っていくこと」。「むかう」。
 「さきに」などの意。

*【故】は、「ふるい」。「以前にあった物・事がら」。「以前の」。「ゆえに」。

*【遙】の「右側の字(ヨウ)」は、「こねる、細ながくのばす」意を含みます。「遙」は
 それを音符とし、しんにょうを加えた字で、「細くながくつづく道のはて」。「はるかか
 なたにあるさま」。

*【悶】は、「心+門」で、「胸がふさがって外に発散せず、むかむかすること」。

◆通説では、【今故(きんこ)を証曏(しょうきょう/=明)す、故に遙かなるも悶(もん)とせ
 ず。】は「また彼は古今をあわせて明らかにする、そこで時代がへだたっているからと
 いってあいまいにすることもなく、」としています。

◇【今故(きんこ)で証曏(しょうきょう)す。故に遙かなるも悶(もん)とせず。】は、
 「(大知は)今のこととそれ以前のこと(の結びつき)でうらづけるようにと向かうのだ。
 故に遙かな(過去からの長い時間がかかる)ことであっても悶々としない。」としました。

┏━━━━━━━━┓
┃▼ 掇而不跂  ┃【掇(ひろ)うも跂(き)せず。】
┗━━━━━━━━┛
(現在進行形のものを)次々につないで集めて(充足し)、(未来に)背伸びすることもない。
…………………………………………………………………………………………………………

*【掇(てつ)】の[又×4]は、つなぐことを示します。「手+[又×4]」は、「散在した物
 を次々とつないで集めること」。「ひろう」。

*【跂】の支は、枝の原字で、みきから細かくわかれたえだ。【跂】は「足+支(わかれ
 る)。」「足の指がわかれて六本(余分に多く)あること。」「つまだてる。」「足の指先
 でたって背伸びする」。

◆通説では、【掇】は「ちかき」と読んで「今のこと」とし、【跂】は「あくせくと煩わし
 く努力すること」と解釈しています。
 【掇(ちか)きも跂(き)せず。】を「今のことだからといってあくせくすることもない」
 といった意訳になっています。

◇【掇(ひろ)うも跂(き)せず。】は、「(現在進行形のものを)次々につないで集めて(充足
 し)、(未来に)背伸びすることもない。」としました。

┏━━━━━━━┓
┃▼ 知時无止 ┃【時の止まるなきを知ればなり。】
┗━━━━━━━┛
時は止まることがないことを知っているからだ。
…………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【時の止まるなきを知ればなり。】は「時の流れはとどまることがな〔くて
 古今も絶対的でな〕いということをわきまえているからである。」としています。

◇【時の止まるなきを知ればなり。】は「時間は止まることがないことを知っているから
 だ。」としました。
●通説では、次のようになっています。

また彼は古今をあわせて明らかにする、そこで時代がへだたっているからといってあいまいにすることもなく、今のことだからといってあくせくすることもない。時の流れはとどまることがな〔くて古今も絶対的でな〕いということをわきまえているからである。

〇新解釈では、次のようになります。

(大知は)今のこととそれ以前のこと(の結びつき)をうらづけるようにと向かうのだ。
故に遙かな(過去からの長い時間がかかる)ことであっても悶々としない。
(現在進行形のものを)次々につないで集めて(充足し)、(未来に)背伸びすることもない。
時間は止まることがないことを知っているからだ。


【證曏今故】【今故(きんこ)を証曏(しょうきょう)す。】
〔今のこととそれ以前のこと(の結びつき)をうらづけるようにと向かう。〕

──空間(量)のことだけに終わらず、時間のことについても言及しています。
今のこととそれ以前のことは、偶発的に起こったことではないのです。今という「結果」の世界は、それ以前の「原因」の世界からの時間の経過によるものであると言えるでしょう。大いなる知に至った人は、その結びつきをうらづけるようにと向かう…と言っているのでしょう。

【故遙而不悶】【故に遙かなるも悶(もん)とせず。】
〔故に遙かな(過去からの長い時間がかかる)ことであっても悶々としない。〕

──ですから、すぐに思うような「結果(真相の理解)」が得られなくても、それが「遙かな(過去からの長い時間がかかる)こと」であっても、いずれは必ずやってくるものとして、悶々とせず、心静かにして待っていられる…と言っているようです。

【掇而不跂】【掇(ひろ)うも跂(き)せず。】
〔現在進行形のものを次々につないで集めて(充足し)、(未来に)背伸びすることもない。〕

──彼は、「今ここ」にあること、つまり現在進行形で起ることに任せ、ものの真相を知るのに、最初はバラバラな状態を認識していても、それをそのまま受け入れて充足しているものなのです。結論を急がず判断を保留し、時間の経過にともない「順次つないで集めていく」と、いつしかジグゾーパズルをはめていくかのように、最初は理解できないようなことでも、ある時、そこに描かれた絵(真相)が何であるかがわかるようになるようなものだ…と言っているようです。

途中の段階で理解できないと落ち着かず、短気であったり焦ったりして、「今ここ」にない未来のものを「背伸びして」想像し、その結果の世界を歪曲したかたちで誤解、曲解するようなことはないのです。

【知時无止】【時の止まるなきを知ればなり。】
〔時は止まることがないことを知っているからだ。〕

──早く知りたいと焦らなくても、順次変化していく「今ここ」にあるものだけを十全に知っていきさえすれば、彼は時間を気にすることなく、真相が明らかになるまでじっくりと待っていられるのも、時は止まることがないことを知っているためだ…と言っているようです。
┏━━━━━━━━┓
┃▼ 察乎盈虚  ┃【盈虚(えいきょ)を察す。】
┃  故得而不喜 ┃【故に得るも喜ばず、】
┃  失而不憂  ┃【失うも憂えず。】
┗━━━━━━━━┛
(大知は)満ちたり欠けたりすることをすみずみまで観察するのだ。
故に、何かを得たからといって喜ばず、何かを失ったからといって憂うことがない。
…………………………………………………………………………………………………………

*【察】は、「宀(いえ)+祭」で、「家のすみずみまで、曇りなく清めること」。転じ
 て、「曇りなく目をきかす」意に用います。

*【盈】は、「皿+いっぱいになってたれるさま」。

*【盈虚】は、「みちることと欠けること」。

◆通説では、【盈虚(えいきょ)を察す、故に得るも喜ばず、失うも憂えず。】は「また彼
 は満ち欠けをあわせて観察する、それで何かが得られたからといって嬉しがることもな
 く、何かを失ったからといってくよくよすることもない。」としています。

◇【盈虚(えいきょ)を察す。故に得るも喜ばず、失うも憂えず。】は「(大知は)満ちたり
 欠けたりすることをすみずみまで観察するのだ。故に、何かを得たからといって喜ば
 ず、何かを失ったからといって憂うことがない。」としました。

┏━━━━━━━━━┓
┃▼ 知分之无常也 ┃【分に常なきを知ればなり。】
┗━━━━━━━━━┛
分かれ目が常にあるものではないということを知っているからだ。
…………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【分(ぶん)の常なきを知ればなり。】は「それぞれの持ち分が転々と変化〔
 して得失が循環〕するということをわきまえているからである。」と意訳しています。

◇【分の常なきを知ればなり。】は「分かれ目が常にあるものではないということを知っ
 ているからだ。」としました。
●通説では、次のようになっています。

また彼は満ち欠けをあわせて観察する、それで何かが得られたからといって嬉しがることもなく、何かを失ったからといってくよくよすることもない。それぞれの持ち分が転々と変化〔して得失が循環〕するということをわきまえているからである。

〇新解釈では、次のようになります。

(大知は)満ちたり欠けたりすることをすみずみまで観察するのだ。
故に、何かを得たからといって喜ばず、何かを失ったからといって憂うことがない。
分かれ目が常にあるものではないということを知っているからだ。


【察乎盈虚】【盈虚(えいきょ)を察す。】
【故得而不喜】【故に得るも喜ばず、】
【失而不憂】【失うも憂えず。】
〔(大知は)満ちたり欠けたりすることをすみずみまで観察するのだ。〕
〔故に、何かを得たからといって喜ばず、何かを失ったからといって憂うことがない。〕

──ものごとは満ち溢れるばかりでなく、からっぽになることもあるのですが、大いなる知に至った人はその両面を経験することで、すみずみまで観察しているのです。だから得失に一喜一憂することはないということですね。得失は一時の暫定的姿のようなものだと理解していれば、何かを得たからといっても有頂天になることもなければ、何かを失ったからといっても憂鬱になることはない…と言っているようです。

【知分之无常也】【分に常なきを知ればなり。】
【分かれ目が常にあるものではないということを知っているからだ。〕

──得たり失ったりする分かれ目は、変わらないままいつまでも同じ状態で長く続くことはないということのようです。一喜一憂しないのは、分かれ目は常なるものではないことをよく知っているからだ…ということでしょう。
┏━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 明乎坦塗     ┃【坦塗(たんと)で明らかにす。】
┃  故生而不説    ┃【故に生くるも説(よろこ)びとせず、】
┃  死而不禍     ┃【死するも禍(わざわい)とせず。】
┗━━━━━━━━━━━┛
(大知は)感情の起伏が起こらないような塗(みち)で明らかにしてゆくのだ。
故に、生きているからといって悦びとはせず、死んだからといって禍だと思わない。
…………………………………………………………………………………………………………

*【坦】は、「感情の起伏がない。」また、「態度・行動に裏表がない。」

*【塗】は、「みち。」もと「どろを平らに伸ばしたみち。」のち、広く「みち」のこと。

*【坦塗】=「坦途」は、「でこぼこのないたいらなみち」。

◆通説では、【坦塗(たんと)を明らかにす、故に生くるも説(よろこ)びとせず、死するも
 禍(わざわい)とせず。】は、[また彼は万物を平均してつらぬく道をあきらかにする、
 そこで生きているからといって喜ばしいとも思わず、死んだからといって凶(わる)いこ
 ととも思わない。]としています。
 
◇ここの【説】は通説に従い(内篇ではないので)「悦」に通じるものだと解釈しました。
 通説では【塗】を「道」と同義にしていますが、新解釈では少し違うととらえました。
 「みち」は「みち」でも「でこぼこのないみち」と言っているところがミソです。
 【坦塗(たんと) で明らかにす。故に生くるも説(よろこ)びとせず、死するも禍(わざわ
 い)とせず。】は[(大知は)感情の起伏に動じないような塗(みち)で明らかにしてゆく
 のだ。故に、生きているからといって悦びとはせず、死んだからといって禍だと思わ
 ない。]としました。

┏━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 知終始之不可故也 ┃【終始の故(こ)べからざるを知ればなり。】
┗━━━━━━━━━━━┛
終始は固定すべきではないということを知っているからだ。
…………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【終始の故(なず)むべからざるを知ればなり。】は、「生滅のくりかえしは執
 着をゆるさないということをわきまえているからである。」としています。

◇【終始の故(なず)むべからざるを知ればなり。】は「終始は固定すべきではないというこ
 とを知っているからだ。」としました。何事にも「同化しない」ということですね。
●通説では、次のようになっています。

また彼は万物を平均してつらぬく道をあきらかにする、そこで生きているからといって喜ばしいとも思わず、死んだからといって凶(わる)いこととも思わない。生滅のくりかえしは執着をゆるさないということをわきまえているからである。

〇新解釈では、次のようになります。

(大知は)感情の起伏に動じないような塗(みち) で明らかにしてゆくのだ。
故に、生きているからといって悦びとはせず、死んだからといって禍だと思わない。
終始は固定すべきではないということを知っているからだ。


【明乎坦塗】【坦塗(たんと) で明らかにす。】
〔(大知は)感情の起伏に動じないような塗(みち) で明らかにしてゆくのだ。〕

──人の心の中では、様々な感情の起伏が起こる「塗(みち)」があるものです。そんな中にあって、大いなる知に至った人は感情の起伏に動じない「塗(みち)」で明らかにしてゆく…と言っています。それはどのような状態かと言えば、自らの中で起こっている様々な感情の起伏を、一歩離れた所で、客観的に観察している第三者のような自分の主格がいて、起伏のない静かな水鏡のような「塗(みち)」の状態を保って、その鏡に映して観察していくことによって、一つ一つ明らかにしている状態だ…と言えるようです。

【故生而不説】【故に生くるも説(よろこ)びとせず、】
【死而不禍】【死するも禍(わざわい)とせず。】
〔故に、生きているからといって悦びとはせず、死んだからといって禍だと思わない。〕

──そういう状態(境地)になれば、生死のとらえ方も随分変わってくるようです。つまり、生きているからというだけで単に悦ぶわけでもなく、死んだからといってそれを禍だとは思わず、自然の成り行きに逆らうことなく受け入れる姿勢がうかがえます。

【知終始之不可故也】【終始の故(こ)べからざるを知ればなり。】
〔終始は固定すべきではないということを知っているからだ。〕

──大いなる知に至った人は、感情や思索に振り回されることがない、水鏡のような起伏のない状態を保つことのできる意識的な観察者(主格)を自己内部に確立していて、一方で起こる様々な起伏(変化)を体験しても、それに同化することはないのです。そうした第三者的な主格の立場に立てば、それが生であろうと死であろうと冷静に観察でき、受け入れられるのです。どうしてかというと、生が始まりで死で終わるという一般的な固定概念で自ら縛るべきではないと知っているからだ…と言っているようです。つまり、終わりがあればまた始まりがあるということを覚醒した意識は知っているからでしょう。このことからも推察できるのは、生死を一回限りと思ってないのではないかということです。
┏━━━━━━━━━┓
┃▼ 計人之所知  ┃【人の知る所を計るに、】
┃  不若其所不知 ┃【その知らざる所に若(し)かず。】
┃  其生之時   ┃【その生(い)くるの時は、】
┃  不若未生之時 ┃【未だ生まれざるの時に若かず。】
┗━━━━━━━━━┛
人の知っているところを計るならば、その知らないところにはとても及ばない。
人の生きている時間は、生まれる前の時間にはとても及ばない。
…………………………………………………………………………………………………………

*【計】は「言+十(多くを一本に集める)」で、「多くの物事や数を一本に集めて考える
 こと」。「勘定・計算した結果」。

◆通説では、【人の知る所を計るに、其の知らざる所に若(し)かず。其の生(い)くるの時
 は、未だ生まれざるの時に若かず。】は、「人間の知識の範囲というものは、その未知
 の世界の大きいのにはとても及ばない。人間の生存してるい時間というものは、その生
 まれる前の悠久なのにはとても及ばない。」としています。

◇【人の知る所を計るに、其の知らざる所に若(し)かず。其の生(い)くるの時は、未だ生
 まれざるの時に若かず。】は、「人の知っているところを計るならば、その知らないと
 ころにはとても及ばない。人の生きている時間は、生まれる前の時間にはとても及ばな
 い。」としました。
 
┏━━━━━━━━━━┓
┃▼ 以其至小    ┃【其の至小を以て】
┃  求窮其至大之域 ┃【其の至大の域を窮めんことを求む。】
┗━━━━━━━━━━┛
その至って<小>なるもので以て、
その至って<大>なるものの領域を窮めようと求めるものだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【域】の「或」は「戈(ほこ)+囗(四角い範囲)」で、「四角い場所をくぎって、武器
 で守る」意を示します。【域】は「土+或」で「或」の原義をあらわすようになったもの
 です。「さかい。」「くぎり。」また、「くぎりの中。」「境界線で囲まれた土地」。

◆通説では、【其の至小を以て其の至大の域を窮めんことを求む。】は「そのように至っ
 てちっぽけな存在のくせに、とてつもない大きな世界をきわめつくそうと求めるから、」
 としています。

◇【其の至小を以て其の至大の域を窮めんことを求む。】は「その至って<小>なるもので
 以て、その至って<大>なるものの領域を窮めようと求めるものだ。」としました。

┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 是故迷亂而不能自得也 ┃【是の故に迷乱して、自得すること能わざるなり。】
┗━━━━━━━━━━━━━┛
それ故に、迷い乱れて、自分の体験による理解でもってさとることができないのだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【迷】は、「辵+米(こつぶでみえにくい)。」「まよう(道がわからなくなってしまう。」

*【亂(乱)】は、左の部分は、「糸を上と下からひっぱるさま」。右の部分は、乙印で「
 押さえる」の意。【亂】は「左の字+乙」で「もつれた糸を両手であしらうさま」を示
 します。「みだれる・ものごとのすじ道がとおらない。」

*【自得】は、「自分の状態に満足して、楽しむ。」また、「得意になってうぬぼれる。」
 「自分で心にさとる。」「自分の体験によって理解する。」

◆通説では、【是の故に迷乱して自得すること能わざるなり。】は、「そこで迷いに迷って
 本来の自分に安らかに満足していることができなくなるのだ。」としています。

◇ここでは【自得】をどう解釈するかによってニュアンスが違ってきます。
 【是の故に迷乱して、自得すること能わざるなり。】は、「それ故に、迷い乱れて、自分
 の体験による理解でもってさとることができないのだ。」としました。
●通説では、次のようになっています。

人間の知識の範囲というものは、その未知の世界の大きいのにはとても及ばない。人間の生存してる時間というものは、その生まれる前の悠久なのにはとても及ばない。そのように至ってちっぽけな存在のくせに、とてつもない大きな世界をきわめつくそうと求めるから、そこで迷いに迷って本来の自分に安らかに満足していることができなくなるのだ。

〇新解釈では、次のようになります。

人の知っているところを計るならば、その知らないところにはとても及ばない。
人の生きている時間は、生まれる前の時間にはとても及ばない。
その至って<小>なるもので以て、
その至って<大>なるものの領域を窮めようと求めるものだ。
それ故に、迷い乱れて、自分の体験による理解でもってさとることができないのだ。


【計人之所知】【人の知る所を計るに、】
【不若其所不知】【その知らざる所に若(し)かず。】
〔人の知っているところを計るならば、その知らないところにはとても及ばない。〕

──人の欲望は、より多くの知識を得て、<大>なる存在になろうとすることにあります。博学者であればあるほど、他人より<大>になることに力を入れます。人は互いに競り合って、膨大な言葉をかき集め、その記憶した量で計ってみようとすることがあります。知っていることを他人と比較して計ってみると<大><小>の違いが生じるかもしれません。ところが、まだ知らないことと比べて計ってみたら、人間どうしの多少の差などどんぐりの背比べどころか、まったく問題にならないくらい知っていることは至って<小>なのです。知らないことといったら気が遠くなりそうなくらい、至って<大>なのです。

【其生之時】【その生くるの時は、】
【不若未生之時】【未だ生まれざるの時に若かず。】
〔人の生きている時間は、生まれる前の時間にはとても及ばない。〕

──また人の欲望は、より長く生きて、<大>なる存在になろうとすることにあります。
食生活や運動に気をつけたり、薬やサプリを服用して少しでも寿命を延ばそうと躍起になります。しかし、どうあがいてみても長くても百歳前後がいいところです。一方生まれる前の時間は永遠と言えるほどに長いのです。人の生は至って<小>なのです。生まれる前の時間といったら、想像を絶するほど、至って<大>なのです。

【以其至小】【其の至小を以て】
【求窮其至大之域】【其の至大の域を窮めんことを求む。】
〔その至って<小>なるもので以て、〕
〔その至って<大>なるものの領域を窮めようと求めるものだ。〕

──人はそんな桁外れに違う、至って<小>なる言葉を増やす知識の知り方で、至って<大>なる未知の領域を知り尽くしたいと求めているのです。また、人はそんな桁外れに違う、至って<小>なる寿命を延ばすことばかりを考える時間のとらえ方で、至って<大>なる悠久の時間の領域を窮めようと求めているのです。過去には不老不死を夢見て、練丹(外丹)術にはまった人もいたようです。

【是故迷亂而不能自得也】【是の故に迷乱して、自得すること能わざるなり。】
〔それ故に、迷い乱れて、自分の体験による理解でもってさとることができないのだ。〕

──そんな知識の知り方や時間のとらえ方をしているから、道がわからなくなってしまったり、すじ道が通らなくなったりしてしまうほど迷い乱れている…と言っています。言葉を伴う知識だけで知ろうとすれば、必然的に矛盾や混乱が生じてしまうのです。また、本当の意味での永遠の時間を手に入れることができるということと、今世において不老不死になるということが同義であると思い違いして、錬丹術の外丹における丹砂(硫化水銀)を主原料とする丹薬が、実際には人体に有害であるにもかかわらず、その効果を信じこんで服用したため、唐の皇帝が何人も命を落としたという事実があるのです。

何度か触れましたが、人間は転生するものだということを前提にしているようです。ただ死を境に人生をリセットするように今世に生まれ落ちた時点から再スタートしてはただ終わるだけの人生か、死を乗り越えられるものを確立して何らかのものを前世から引き継ぐことができる人生かの違いが生じるようです。そこで永遠の時間を手に入れるために、練丹術はもともと外丹ではなく内丹を練り上げるとする思想から興ったものだと考えられます。

「自得」とは、本当の「知り方」や「時間のとらえ方」を会得していることではないでしょうか。本当の「知」とは、頭脳だけでなく体験を通して全身全霊をもって理解することのようです。しかし、それらをさとるのはきわめて難しいことだ…と言っているようです。
┏━━━━━━━━━━┓
┃▼ 由此観之    ┃【此れに由りてこれを観れば、】
┃  又何以知豪末之 ┃【又、何を以てか豪末の
┃  足以定至細之倪 ┃ 以て至細の倪(げい)を定むるに足るを知らん。】
┗━━━━━━━━━━┛                    
こうした比較に由りこれを観るならば、又、細い毛先が至って<細>なるものうちの最小の末端として定めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。
…………………………………………………………………………………………………………

*【此】は前にも説明したように、「止(あし)+比(ならぶ)の略体」で、「足を並べてもう
 まくそろわず、ちぐはぐになること」。普通、代名詞の「これ・この」の意か、接続詞の
 「ここに」という意味しかありません。

*【倪】の兒(=児)は、泉門がまだふさがらない頭と、足のついた幼児を描いた象形文
 字。「倪」は「人+兒」で、兒に含まれている、「弱くて小さい」の意味をあらわすこと
 ば。「細い末端」。「細目ですかし見る」。

◆通説では、【倪】を次の【域】と同じ「領域」の意味としています。
 【此れに由りてこれを観れば、又た何を以てか豪末の以て至細の倪(げい)を定むるに足
 るを知らん。】は、「こうしたことから考えてみると、いったい細い毛先きこそが最小
 の領域を確かに定めているなどということが、どうしてわかろうか。」としています。

◇【此】は、原義より「並べて比べてみること」の意味が含まれているものだと解釈して
 「こうした比較」と訳しました。【倪】は「(最小の)末端」としました。
 【此れに由りてこれを観れば、又、何を以てか豪末の以て至細の倪(げい)を定むるに足
 るを知らん。】は、「こうした比較に由りこれを観るならば、又、細い毛先が至って
 <細>なるものうちの最小の末端として定めるに足りるものだなどと、どうしてわかる
 ものか。」としました。

┏━━━━━━━━━━┓
┃▼ 又何以知天地之 ┃【又、何を以てか天地の
┃  足以窮至大之域 ┃ 以て至大の域を窮むるに足るを知らん。】
┗━━━━━━━━━━┛
又、天地が至って<大>なるものうちの最大の領域として窮めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。」
…………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【又た何を以てか天地の以て至大の域を窮むるに足るを知らんと。】は「い
 ったい天地の広がりこそが最大の世界を確かにつくしているなどということが、どうし
 てわかろうか。』」としています。

◇【又、何を以てか天地の以て至大の域を窮むるに足るを知らんと。】は〔又、天地が至
 って<大>なるものうちの(最大の)領域として窮めるに足りるものだなどと、どうして
 わかるものか。」〕としました。
●通説では、次のようになっています。

こうしたことから考えてみると、いったい細い毛先きこそが最小の領域を確かに定めているなどということが、どうしてわかろうか。いったい天地の広がりこそが最大の世界を確かにつくしているなどということが、どうしてわかろうか。」

〇新解釈では、次のようになります。

こうした比較に由りこれを観るならば、又、細い毛先が至って<細>なるものうちの最小の末端として定めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。
又、天地が至って<大>なるものうちの最大の領域として窮めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。」


【由此観之】【此れに由りてこれを観れば、】
〔こうした比較に由りこれを観るならば、〕

──北海若(荘子)は顕微鏡も、望遠鏡も知りません。そんな知識なしに自分の感覚を研ぎ澄ました観察眼で固定概念を打ち崩すかのように、<小><大>の世界を自在に比較しながら観ているのです。

以下の文は、最初の河伯の質問に反問という形をとって、答えているのかもしれません。

【又何以知豪末之足以定至細之倪】【又、何を以てか豪末の以て至細の倪(げい)を定むるに足るを知らん。】
〔又、細い毛先が至って<細>なるものうちの最小の末端として定めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。〕

──河伯は顕微鏡の存在を知りません。河伯は、細かい毛先が至って<細(小)>の最たるものだという固定概念を打ち破ることができるでしょうか。

現代の認識からすると、その反問に知識としては答えられそうです。<小>だと思っていた毛先の世界も、細胞、分子、原子、素粒子などと比べれば<大>なるとも言える世界が広がることがわかります。だから毛先は「最小の末端」とは言えないことになります。

とはいえ、北海若が問題にしているのは知識ではなく、意識のあり方だということを忘れてはならないのです。

【又何以知天地之足以窮至大之域】【又、何を以てか天地の以て至大の域を窮むるに足るを知らん。】
〔又、天地が至って<大>なるものうちの最大の領域として窮めるに足りるものだなどと、どうしてわかるものか。」〕

──また河伯は望遠鏡の存在を知りません。河伯は天地が至って<大>の最たるものだという固定概念を打ち破ることができるでしょうか。

現代の認識からすると、この反問にも知識としては答えられそうです。<大>だと思っていた天地の世界も<小>なるもので、太陽系、天の川銀河、おとめ座超銀河団、ラニアケア超銀河団などといったふうに宇宙空間は限りなくさらに大きく広がっていますので、普通とらえている天地とは言え、「最大の領域」とは言えないことになることがわかります。

肉眼や知識で知ることのできる限界のなかで、細かい毛先が最も「微小」のものといって、どうして限定できるのだろうか…また、人によって違う概念をもっている天地が、最も「大」という領域として、限定できるのだろうか…と言っているようです。

この時代には、顕微鏡も望遠鏡もありません。しかし、北海若が言っていることは、意識での顕微鏡眼や望遠鏡眼をもっていたと言えるのかもしれません。

そうなると、確かに、当時の概念での「豪末」や「天地」が、極限を示しているとは言えなくなるのは、今の我々には充分に類推できるところです。

「世界」には、その時には知ることのできないような「下には下」のものが、「上には上」のものがあるということで、それは際限ないものです。

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