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荘子コミュの16、からっぽの船 

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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━山木篇━━━━━━
16、からっぽの船  
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
方舟而済於河       舟を方じて河を済(わた)るに、
有虚船来触舟       虚船の来たりて舟に触るるあらば、
雖有惼心之人不怒     惼(へん)心ある人と雖(いえど)も怒らず。
有一人在其上       一人、其の上に在るにあれば、
則呼張歙之        則ち呼びてこれに張歙(ちょうきゅう)せしむ。
一呼而不聞        一たび呼びて聞かず、
再呼而不聞        再び呼びて聞かず、
於是三呼邪        是(ここ)に於いて三たび呼ばんか、
則必以悪声随之      則ち必ず悪声を以ってこれに随わん。
向也不怒 而今也怒    向(さき)には怒らずして今や怒るは、
向也虚 而今也實     向(さき)は虚にして今や実なればなり。
人能虚己以遊世      人能く己を虚にして以て世に遊べば、
其孰能害之        其れ孰(たれ)か能くこれを害せん。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

▽(金谷治 訳)
…………………………………………………………………………………………………………
舟を並べて川を渡っているとき、空舟(からぶね)がやって来てこちらの舟に接触したとしますと、どんな怒りっぽい人でも〔あきらめて〕腹をたてることはないでしょう。ところが一人でも舟の上に乗っていたとなると、あちらへ向けろこちらに向けろと声をはりあげるものです。一度呼びかけてとどかず、二度呼びかけてもとどかない、そこで三度めということにもなれば、必ず罵(ののし)りのことばがいっしょに飛んでいきます。前の場合には腹をたてなかったのに、こちらで怒るのは、前の場合は空舟で虚であったのが、こちらでは人が乗っていて実であったからです。人の世渡りも〔同じことで、〕己れを虚(むな)しくして無心の境地でのびのびと世を過ごすなら、だれもそれを害することはできないものです。
…………………………………………………………………………………………………………

▽(吹黄 訳)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
舟をある方向にむけて河を渡っているとき、
(流れにそって進む)からっぽの船がやって来て、こちらの舟に接触した場合、
どんなに薄っぺらな心で短気の人であっても怒らないだろう。
(ところが)一人でもその上にいるとなると、
呼びつけて、これにいきりたって意見を主張するものだ。
一度呼びかけても聞かず、再度呼びかけても聞かず、
ここで、三度目の呼びかけともなると、
必ずや悪態をついた声でもってそれ相応の感情が付随してゆくものだ。
さきの場合は怒らなかったのに、今の場合は怒るのは、
さきの場合は<虚(からっぽ)>であったのに、今の場合は<実(中にいる)>だからだ。
人の場合も己を<虚(からっぽ)>にして世界を遊ぶならば、
だれもそれを害することはできないだろう。
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コメント(8)

┏━━━━━━━━━┓
┃▼ 方舟而済於河 ┃【舟を方じて河を済(わた)るに、】
┃  有虚船来触舟 ┃【虚船の来たりて舟に触るるあらば、】
┗━━━━━━━━━┛
舟をある方向にむけて河を渡っているとき、
(流れにそって進む)からっぽの船がやって来て、こちらの舟に接触した場合、
…………………………………………………………………………………………………………

*【方】は、左右に柄の張り出たすきを描いたもので、←→のように左右に直線状に伸び
 る意を含み、東←→西、南←→北のような方向の意となります。また「方向や筋道のこ
 と」の意。

*【舟】は、その形を表した象形文字です。

*【済】は、「水+斉(原字は、物がでこぼこなくそろったさま)」で、「川の水量を過
 不足なく調整すること」。「すくう」「なす」「わたる・わたす」などの意。

*【船】は、「舟+[八(水が流れる)+口(あな)]」で、「水流にしたがって進むふ
 ね」。(今では、小型のふねを「舟」、やや大きいふねを「船」としますが、もともと
 は大さには関係なく「流れに沿って進むふね」の意でした。)

◆【方】を「ならべる」という意味にするのはこの文章に限っての定説になっています。
 通説では【舟を方(なら)べて河わ済(わた)るに、虚船(きょせん)来たりて舟に触るるあ
 らば】は、「舟を並べて川を渡っているとき、空舟(からぶね)がやって来てこちらの舟
 に接触したとしますと、」としています。

◇【方】を「ならべる」とする必然性を感じません。新解釈では、「ある方向にむけて」
 といった意味としました。
 【舟を方じて河を済(わた)るに、虚船の来たりて舟に触るるあらば、】は「舟をある方
 向にむけて河を渡っているとき、(流れにそって進む)からっぽの船がやって来て、こち
 らの舟に接触した場合、」としました。

┏━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 雖有惼心之人不怒 ┃【惼(へん)心ある人と雖(いえど)も怒らず。】
┗━━━━━━━━━━━┛
どんなに薄っぺらな心で短気の人であっても怒らないだろう。
…………………………………………………………………………………………………………

*【惼】は、「心+扁(薄い物)」で、「心が薄く軽くて、落ち着きのないこと。」「気が
 短いせっかち。」

◆通説では【惼(へん)心あるの人と雖(いえど)も怒(いか)らず。】は、「どんな怒りっぽ
 い人でも〔あきらめて〕腹をたてることはないでしょう。」としています。

◇【惼(へん)心ある人と雖(いえど)も怒(おこ)らず。】は、「どんなに薄っぺらな心で短
 気の人でも怒らないだろう。」としました。
●通説では、次のようになっています。

舟を並べて川を渡っているとき、空舟(からぶね)がやって来てこちらの舟に接触したとしますと、どんな怒りっぽい人でも〔あきらめて〕腹をたてることはないでしょう。

〇新解釈では、次のようになります。

舟をある方向にむけて河を渡っているとき、
(流れにそって進む)からっぽの船がやって来て、こちらの舟に接触した場合、
どんなに薄っぺらな心で短気の人であっても怒らないだろう。


【方舟而済於河】【舟を方じて河を済(わた)るに、】
【有虚船来触舟】【虚船の来たりて舟に触るるあらば、】
〔舟をある方向にむけて河を渡っているとき、〕
〔(流れにそって進む)からっぽの船がやって来て、こちらの舟に接触した場合、〕

──ここでは、舟は河を渡るのに、目的をもってある「方向」に向かっていたものだと思います。おそらく対岸に向かっていたのでしょう。

そんな時、別の船と接触したら、動揺するでしょう。でもその船はただ流れにしたがって進んできただけのからっぽの船、つまりその中には誰も乗っていなかった場合、どうするでしょうか。

【雖有惼心之人不怒】【惼(へん)心ある人と雖(いえど)も怒らず。】
〔どんなに薄っぺらな心で短気の人であっても怒らないだろう。〕

──そんな場合、誰でもちょっと不機嫌になるかもしれません。でも、舵をとっている相手がいないのですから、どんなに薄っぺらな心で短気の人であっても怒ることはないでしょう。ちょっとした不運だったとして、あきらめざるをえないでしょう。
┏━━━━━━━━━┓
┃▼ 有一人在其上 ┃【一人、其の上に在るにあれば、】
┃  則呼張歙之  ┃【則ち呼びてこれに張歙(ちょうきゅう)せしむ。】
┗━━━━━━━━━┛
(ところが)一人でもその上にいるとなると、
呼びつけて、これにいきりたって意見を主張するものだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【張】は、「弓+長(チョウ/音符)」。「意見を展開させる(主張)。」などの意。

*【歙】は、翕は「羽+合」で、羽をあわせていっせいに飛ぶ構えをすること。「歙」は
 「欠(からだをかがめる)+翕」で、「からだをかがめて息をすいこむこと」。また、
 翕の原義をあらわし、「いっせいにおきたつこと」。

◆通説では、【一人の其の上に在るあれば、則ち呼びてこれに張歙(ちょうきゅう)せし
 む。】は「ところが一人でも舟の上に乗っていたとなると、あちらへ向けろこちらを向
 けろと声をはりあげる。」としています。

◇【一人、其の上に在るにあれば、則ち呼びてこれに張歙(ちょうきゅう)せしむ。】は、
 「(ところが)一人でもその上にいるとなると、呼びつけて、これにいきりたって意見を
 主張するものだ。」としました。

┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 一呼而不聞 再呼而不聞 ┃【一たび呼びて聞かず、再び呼びて聞かず、】
┃  於是三呼邪       ┃【是に於いて三たび呼ばんか、】
┃  則必以悪声随之     ┃【則ち必ず悪声を以ってこれに随わん。】
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
一度呼びかけても聞かず、再度呼びかけても聞かず、
ここで、三度目の呼びかけともなると、
必ずや悪態をついた声でもってそれ相応の感情が付随してゆくものだ。
…………………………………………………………………………………………………………

◆通説では【一たび呼びて聞かれず、再び呼びて聞かれず、是に於いて三たび呼ばんか、
 則ち必ず悪声を以てこれに随わん。】は「一度呼びかけてとどかず、二度呼びかけても
 とどかない、そこで三度めということにもなれば、必ず罵(ののし)りのことばがいっし
 ょに飛んでいきます。」と訳しています。

◇【一たび呼びて聞かず、再び呼びて聞かず、是に於いて三たび呼ばんか、則ち必ず悪声
 を以ってこれに随わん。】は「一度呼びかけても聞かず、再度呼びかけても聞かず、こ
 こで、三度目の呼びかけともなると、必ずや悪態をついた声でもってそれ相応の感情が
 付随してゆくものだ。」としました。
●通説では、次のようになっています。

ところが一人でも舟の上に乗っていたとなると、あちらへ向けろこちらを向けろと声をはりあげる。一度呼びかけてとどかず、二度呼びかけてもとどかない、そこで三度めということにもなれば、必ず罵(ののし)りのことばがいっしょに飛んでいきます。

〇新解釈では、次のようになります。

(ところが)一人でもその上にいるとなると、呼びつけて、これにいきりたって意見を主張するものだ。一度呼びかけても聞かず、再度呼びかけても聞かず、ここで、三度目の呼びかけともなると、必ずや悪態をついた声でもってそれ相応の感情が付随してゆくものだ。


【有一人在其上】【一人、其の上に在るにあれば、】
【則呼張歙之】【則ち呼びてこれに張歙(ちょうきゅう)せしむ。】
〔 (ところが)一人でもその上にいるとなると、〕
〔呼びつけて、これにいきりたって意見を主張するものだ。〕

──ところが、その船の上にだれか一人でもいたとなると話はかわってきます。短気な人だけではなく、普通の人でも、どんな時も、トラブルがあったときには、自分ではなく相手に責任があると思うものです。

腹の中にある不機嫌さがいっせいに表面化して、いきりたって相手を呼びつけるでしょう。そうして、「どこを見てたのか」とか「なぜ舵をきって避けなかったのか」とか「謝罪するのが当然だろう」とか、いろいろな意見の主張をし始めることになるでしょう。

【一呼而不聞 再呼而不聞】【一たび呼びて聞かず、再び呼びて聞かず、】
【於是三呼邪】【是に於いて三たび呼ばんか、】
【則必以悪声随之】【則ち必ず悪声を以ってこれに随わん。】
〔一度呼びかけても聞かず、再度呼びかけても聞かず、〕
〔ここで、三度目の呼びかけともなると、必ずや悪態をついた声でもってそれ相応の感情が付随してゆくものだ。〕

──しかし、相手も同じように考えるものです。一度や、二度、何を言っても、責任は互いに相手にあると思っているのですから、素直に、自分の方に非があったなどとはなかなか認めないものです。よって、相手の言い分に聞く耳をもたないのです。

一、二度は呼びつけていても、まだどこかで理性が働いていて、「注意」の範疇にあったものでも、三度目ともなると、理性などどこにやら、怒りがピークに達して、口汚い悪態をついた声のトーンになって、その言葉ともに惰性で、感情に乗っ取られた「罵倒」に変わっていくことになる…と言っているようです。
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┃▼ 向也不怒 而今也怒 ┃【向(さき)には怒らずして今や怒るは、】 
┃  向也虚 而今也實  ┃【向(さき)は虚にして今や実なればなり。】
┗━━━━━━━━━━━━┛
さきの場合は怒らなかったのに、今の場合は怒るのは、
さきの場合は<虚(からっぽ)>であったのに、今の場合は<実(中にいる)>だからだ。
…………………………………………………………………………………………………………

*【實】は「宀(やね)+周(いっぱい)+貝(たから)」で、「家の中に財宝をいっぱい
 満たす意」。「中身がいっぱいで欠け目がないこと」。

◆【向(さき)には怒らずして今や怒るは、向(さき)は虚にして今や実なればなり。】は、通
 説では、「前の場合には腹をたてなかったのに、こちらで怒るのは、前の場合は空舟で
 虚であったのが、こちらでは人が乗っていて実であったからです。」としています。

◇【向(さき)には怒らずして今や怒るは、向(さき)は虚にして今や実なればなり。、】は、
 「さきの場合は怒らなかったのに、今の場合は怒るのは、さきの場合は<虚(からっぽ)
 >であったのに、今の場合は<実(中にいる)>だからだ。」としました。

┏━━━━━━━━━━┓
┃▼ 人能虚己以遊世 ┃【人能く己を虚にして以て世に遊べば、】
┃  其孰能害之   ┃【其れ孰(たれ)か能くこれを害せん。】
┗━━━━━━━━━━┛
人の場合も己を<虚(からっぽ)>にして世界を遊ぶならば、
だれもそれを害することはできないだろう。
…………………………………………………………………………………………………………

*【孰】は、たれ。名を知らない人や不定の人をさすことば。「だれ」。

*【害】は、「かぶせる物+口or古(あたま)」で「かぶせてじゃまをし進行をとめること」
 を示します。

◆通説では、【人能く己(おの)れを虚にして以て世に遊べば、其れ孰(たれ)か能くこれを害
 せん。】は「人の世渡りも〔同じことで、〕己れを虚(むな)しくして無心の境地でのびの
 びと世を過ごすなら、だれもそれを害することはできいものです。」としています。

◇【遊世】は通説のように単に世渡りのようなことを言っているのではなく、あくまでも
 境地として「(おのれを虚にして)世界を遊ぶ」と言っているところがミソだと思います。
 【人能く己を虚にして以って世に遊べば、其れ孰(たれ)か能くこれを害せん。】は、「人
 の場合も己を<虚(からっぽ)>にして世界を遊ぶならば、だれもそれを害することはで
 きないだろう。」としました。
●通説では、次のようになっています。

前の場合には腹をたてなかったのに、こちらで怒るのは、前の場合は空舟で虚であったのが、こちらでは人が乗っていて実であったからです。人の世渡りも〔同じことで、〕己れを虚(むな)しくして無心の境地でのびのびと世を過ごすなら、だれもそれを害することはできいものです。

〇新解釈では、次のようになります。

さきの場合は怒らなかったのに、今の場合は怒るのは、さきの場合は<虚(からっぽ)>であったのに、今の場合は<実(中にいる)>だからだ。
人の場合も己を<虚(からっぽ)>にして世界を遊ぶならば、だれもそれを害することはできないだろう。


【向也不怒 而今也怒】【向(さき)には怒らずして今や怒るは、】
【向也虚 而今也實】【向(さき)は虚にして今や実なればなり。】
〔さきの場合は怒らなかったのに、今の場合は怒るのは、〕
〔さきの場合は<虚(からっぽ)>であったのに、今の場合は<実(中にいる)>だからだ。〕

──さきの場合も今の場合も「舟に船が接触した」という事実は何も変わらないのに、中に人がいるかいないかで、人の感情と態度はこうも変わるものです。

さきの場合は誰もいない<からっぽ>なのですから、責任を問われる者は存在しません。しいて言うなら自分しかありません。だから怒らないのです。しかし、今の場合は<実(人がいる)>のですから、責任が相手側にあるものだとして、怒ることになるのです。

【人能虚己以遊世】
〔人の場合も己を<虚(からっぽ)>にして世界を遊ぶならば、〕

──処世術のハウツウのようにして、「己を虚しく無心にする」といっても簡単にできることではありません。

「至人は己なく」と言っていたような境地にまで達しないと、世間の衝突を経験しても超然としていられません。「己を<虚>にする」というのは、簡単なことのようで難しいものです。

そうして「世界を遊ぶ」というのも何度か出てくる荘子ならではの表現です。なんだか、ただの「遊び人(なまけもの)」のような印象をあたえてしまうせいでしょうか、通説などでは、「のびのびと世を過ごす」と意訳されています。

しかし、この「遊ぶ」という心意気は、貴重なものでもあると思います。激しい議論ではなく、禅問答のようなやりとりの中には「遊び」があります。話も説教のようなものでなく、寓話、逸話といったかたちに「遊び」があります。行為の中にも、無作為で自然のままであると「遊び」が生じます。どんなに大変なことをしていても、それを楽しんでいられたら、そこに「遊び」が生まれます。このようなことも含めて、「世界を遊ぶ」と言えるでしょう。

【其孰能害之】【其れ孰(たれ)か能くこれを害せん。】
〔だれもそれを害することはできないだろう。〕

──船の場合は、中に人がいないことを確認できますが、人の場合は、その内部が<虚>であるか<実>であるか、なかなか見分けがつきません。例えは己が<虚>の人間が、遊覧船にのって特に舵をとらず、河の流れに従って楽しみながら進んでいる時、目的をもってある方向を目指す舟に接触した場合、相手は怒るでしょう。しかし、その怒りは「のれんに腕押し」状態、いや「のれん」さえない<虚>を腕押ししているのですから、相手も調子が狂って怒りもすぐおさまるかもしれません。当人はまったく滑稽な行為に思えて、笑ってやり過ごすだけかもしれません。あるいは、相手の心を沈めるために、軽やかに「すみませんね」とあやまってその場をやり過ごすかもしれません。

議論ではなく禅問答のような場合、やりこめられた者であってもまず怒ることはないでしょう。また、説教ではなく、寓話や逸話を聞いて、黙らされてしまった者であっても、怒ることはないでしょう。

このように、世界を遊ぷ己が<虚>の人間の怒られる確率は低くなるかもしれませんが、表面上の世間ともあらゆる衝突がなくなるというわけではありません。世間では遊覧船の例のような接触もあるのです。

荘子が言っているのは、「己を<虚>にしている者」をだれも「怒ることがなくなるだろう」ではなく、「害することはできないだろう」です。たとえ相手が怒ろうが非難しようが、怒られ非難される対象がありませんので、心の中を害されることはないと言っているのです。

「己が虚(からっぽ)の人」は、たとえ他人からどんなに怒られても、それにつられて自分から怒ることもなくなっていることでしょう。そのため心の衝突は起きないのです。己というプライドがないため害されたと思えることがないのです。そんな人間の遊び心を他人がどうして害することができるでしょうか。

まさに、「己を<虚(からっぽ)>にして世界を遊ぶならば、だれもそれを害することはできないだろう。」ということになるでしょう。

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