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荘子コミュの3、道の枢(とぼそ) (2)天より照らす

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3、道の枢(とぼそ) (2)天より照らす         
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物無非彼              物は彼にあらざるは無く、
物無非是              物は是にあらざるは無し。
自彼則不見             自ずと彼は、すなわち見ず、
自知則知之             自ずと知は、すなわち知りゆく。
故曰 彼出於是          故に曰く、「彼は是より出で、
是亦因彼              是はまた彼による」
彼是方生之説也          彼是方生の説なり。
雖然方生方死           然りといえども、方生は方死でもあり、
方死方生              方死は方生でもある。
方可方不可             方可は方不可であり、
方不可方可             方不可は方可でもある。
因是因非              是に因るは非に因り、
因非因是              非に因るは是に因る。
是以聖人不由而照之于天    是を以って、聖人はよらずして天より照らしゆく。
亦因是也              また是に因るなり。
是亦彼也              是また彼なり。
彼亦是也              彼また是なり。
彼亦一是非             彼また一是非、
此亦一是非             此れまた一是非。
果且有彼是乎哉          果たしてかつ彼是ありや、
果且無彼是乎哉          果たしてかつ彼是なしや。
彼是莫得其偶           彼是その偶を得るなし。
謂之道枢              これを道の枢(とぼそ)と謂う。
枢始得其環中           枢にして始めてその環の中を得る。
以応無窮              以って無と窮に応ず。
是亦一無窮            是また一無窮、
非亦一無窮            非また一無窮。
故曰莫若以明           故に曰く、「明を以ってするに若(し)くなし。」
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▽(金谷治 訳)
………………………………………………………………………………………………………………
物は彼(あれ)でないものはないし、また物は此(これ)でないものもない。
〔此方からすればすべてが彼(あれ)、彼方からすればすべてが此(これ)である。〕
自分で自分を彼(あれ)とすることは分からないが、
自分で自分を此(これ)としてわきまえることは分るものである。
だから「彼(あれ)は此(これ)から出るし、此もまた彼によってあらわれる、」という。
彼(あれ)と此(これ)とは〔あの恵施の説く〕方生(ほうせい)の説
(──ちょうど一しょに生まれるという説)である。
けれども、〔恵施も説くように〕ちょうど生まれることはちょうど死ぬことであり、
死ぬことははまたそのまま生まれることである。
〔判断についても同じことで、〕可(よ)しとすることはそのまま可くないとすることであり、
可くないとすることはまたそのまま可しとすることである。
善しとしたことに身をまかせて悪しとしたことにまかせたことになり、
悪しとしたことに身をまかせて善しとしたことにまかせたことになる。
〔善し悪しの区別も相対的なものだから。〕
そこで、聖人はそんな方法にはよらないで、それを自然の照明にゆだねる。
そしてひたすらそこに身をまかせていく。
〔そこでは〕此(これ)もまた彼(あれ)であり、彼もまた此である。
そして彼にも善し悪しの判断があり、此にも善し悪しの判断がある。
果たして彼(あれ)と此(これ)とがないことになるのか。
〔もちろん彼と此の対立はないことになる。このように、〕
彼と此とがその対立をなくしてしまった(──対立を超えた絶対の)境地、
それを道枢(どうすう)──道の枢(とぼそ)──という。
枢(とぼそ)であってこそ環(わ)の中心にいて窮まりない変転に対処できる。
善しとすることも一つの窮まりない変転であり、
悪しとすることも一つの窮まりない変転である。
だから、〔善し悪しをたてるのは〕「真の明智を用いる立場に及ばない」といったのだ。
………………………………………………………………………………………………………………


▽(岸陽子 訳)
………………………………………………………………………………………………………………
すべての存在は、「あれ」と「これ」に区分される。
しかしながら、あれの側からいえば、これは「あれ」であり、あれは「これ」である。
つまり「あれ」なる概念は「これ」なる概念との対比においてはじめて成立し、
「これ」なる概念は「あれ」なる概念との対比においてはじめて成立するというのが、
彼我(ひが)相対の説である。
だが、相対的なものは「あれ」と「これ」に限ったわけではない。
たとえば、生と死、可と不可、是(ぜ)と非との関係もまた然り、
すべての物事は相互に依存しあうと同時に、相互に排斥しあう関係にある。
だからこそ聖人は、あれかこれかと選択する立場をとらず、
生々変化する自然をそのまま受容しようとする。
これまたひとつの立場に判断に相違ないが、この立場からするならば、
「これ」は同時に「あれ」であり、「あれ」は同時に「これ」である。
「あれ」は是(ぜ)であるとともに非でもあり、
「これ」もまた是であるとともに非でもある。
つまり、「あれ」と「これ」との区別は存在しなくなるのである。
このように、自他の区別を失うことにより個別存在でなくなること、
それが「道枢(どうすう)」である。
「道」を体得した者は、扉が枢(とぼそ)を中心にして無限に廻転するように、
無窮に変化しつつ無窮の変化に対応してゆくことができるのだ。
この「道枢」の境地においてこそ、是と非の対立はあるがままに肯定される。
「明」によるとは、このことである。
………………………………………………………………………………………………………………


▽(吹黄 訳)
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物(そのもの)に彼(あちら)でないようなものはなく、
物(そのもの)に是(こちら)でないようなものはない。
自分から彼(あちら)とすることは、つまりは見ないということで、
自分から知ろうとすることだけは、つまりは知りゆくということだ。
だから、こういうふうに言われているのだ。
「彼(あちら)とは、是(こちら)があるところから、生まれたもので、
是(こちら)とは、同時に、彼(あちら)に起因しているものだ」と。
「彼(あちら)と是(こちら)は相対的に同時に生まれる」という説だ。
そうだとしても、(彼是が)相対的に同時に生まれるなら、相対的に同時に死ぬことでもあり、
相対的に同時に死ぬということは、相対的に同時に生まれるということになる。
相対的に同時に認めるということは、相対的に同時に認めないということであり、
相対的に同時に認めないということは、相対的に同時に認めるということになる。
是(肯定)の上に則っているということは、非(否定)の上に則っていることであり、
非(否定)の上に則っているということは、是(肯定)の上に則っていることになる。
(ところが)聖人は「是」を以(もち)いても、
(そういった直線的対比概念の)出どころ(てだて)に由(よ)るのではなく、
天より(円を描くようにまんべんなく)照らすがままにまかせてゆくのだ。
また、是(こちら)に因る(是の上に則る)にしても同じだ。
是(こちら)はまた彼(あちら)でもあり、
彼(あちら)はまた是(こちら)でもある。
彼(あちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってあり、
此(こちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってある。
果たして、さらに彼是(の区別)があるだろうか。
果たして、さらに彼是(の区別)などないのだろうか。
彼(あちら)と是(こちら)はその偶 (つい)を得ることがなくなる。
このことを道の枢(とぼそ)(回転の軸)と言う。
枢となってその環の中心を得てはじめて、
無(無限)と窮(有限)とに応じることができる。
是にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってあり、
非にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってある。
故に、「明かりを用いるに匹敵するものはない」というのだ。
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コメント(25)

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┃▼ 物無非彼 物無非是 自彼則不見 自知則知之 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
物(そのもの)に彼(あちら)でないようなものはなく、
物(そのもの)に是(こちら)でないようなものはない。
自分から彼(あちら)とすることは、つまりは見ないということで、
自分から知ろうとすることだけは、つまりは知りゆくということだ。
………………………………………………………………………………………………………………

*【彼】は、「彳(いく)+皮(離れる、向こうに押しやる)」で、
 もとは、「こちらから向こうに押しやること」「別れ去る」の意でしたが、
 転じて、「向こう、あちら」の意となり、遠称代名詞となったものです。

*【自】は、人の鼻を描いた象形文字。
 ⇒「私が」というとき、鼻を指さすので、「自分」の意に転用。
 また、起点をあらわす「…からおこる、…から始まる」という意を含みます。

*【知】は「矢+口」で、「矢のようにまっすぐに物事の本質をいい当てること」

*【之】は、足の先が線から出て進みいくさまを描いた象形。
 「進みいく足の動作」→「ゆく」の意。⇒「これ」の意は音を利用した当て字。

◆【自】は、「(彼の)立場にたつと」「(あちら)側からすると」とか、
 「自分で自分を(彼とすると)」として、そうなると「(こちらは)見えない」
 など、釈然としません。

◆【之】は「これ」と読んで、「自分で自分をこれとしてなら分る」とか、
 「自分側からは、これとしているものは分る」など、やはり判然としません。

◇ここでは、【自】は「<わたし>というものから」という意味、
 【之】は「(進んで)いく」という意味が重要なポイントとなりそうです。

◇「物の世界」そのものには、「彼・是」という区別・排斥・対立は存在しない‥
 ところが、「自(わたし)の世界」の中では、「彼・是」が存在してしまう‥
 と言っているのではないでしょうか。
 つまり、「彼・是」は、【物】にあるのではなく、【自】にこそある‥と。
 では、どうしてそのようなことになるのでしょうか?

◇それは<自:わたし>が「物の世界(全体)」のある部分に対して、
 「見ていない」「見えない」「見ようとしない」‥
 「(ないから)見えるはずがない」「見たいとも思わない」‥などとして、
 その結果、そういったものが(排斥する)「彼(あちら)」というものをつくる・・・
 それこそが「彼」の正体だから・・・と言っているのではないでしょうか。

◇それに対し、<自:わたし>が「物の世界(全体)」のある部分に対して、
 「知っている」「知りたい」‥などとしているところだけに目を向けて、
 つまりは、「知るようになる」「知るに至る」ことになる・・・
 それこそが「知」の正体だから・・・と言っているのではないでしょうか。

◇まとめて、簡単な図式にしてみると、
 「彼(かれ)」≒「排斥」≒「不見」 ⇒「非(誤)」≒「不足・欠損」
 「是(これ)」≒「同化」≒「知之」 ⇒「是(正)」≒「満足・十分」
 ・・・こんな感じになるのかもしれません。
【物無非彼 物無非是】
物(そのもの)に彼(あちら)でないようなものはなく、
物(そのもの)に是(こちら)でないようなものはない。

──世界そのものには、排斥するような「あっち」もなければ、
固守するような「こっち」もない…と言っているのでしょう。

それはそうとしたとしても、それでも、
人の認識は「あっち」と「こっち」があるじゃないかと、
いまなお、納得ができないでいるのかもしれません。

「あっち」と「こっち」はやっぱり存在すると言えるのでしょうか。
それは、「世界」や「物」が、そうあるからではなく、
それを見て、認識する<わたし>がいるからではないでしょうか。

【自彼則不見 自知則知之】
自分から彼(あちら)とすることは、つまりは見ないということで、
自分から知ろうとすることだけは、つまりは知りゆくということだ。

──「あっちにいけ!」といって、拒絶、排斥するのは、他ならぬ<わたし>なのです。

「それは嫌い」「望むものと違う」「おかしい!」…
そんな思いを胸に、「見たくない」「見る必要のないものだ!」などとしているのです。
そうして、意識の「窓」をピシャリと締め切ることがあるのかもしれません。

反対に、「これが好き」「憧れ焦がれる」「都合がいい」…
そういうものを手に入れたい、もっと「知りたい」と思うことだけは「見ていたい」と、
それに目を凝らすが故に、「知っていること」にもなりうるのでしょう。
その時ばかりは、心の「窓」を開けているのかもしれません。
けれども、それを逃さないように、またすぐに閉じるのかもしれませんが…。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 故曰 彼出於是 是亦因彼  ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛
だから、こういうふうに言われているのだ。
「彼(あちら)とは、是(こちら)があるところから、生まれたもので、
是(こちら)とは、同時に、彼(あちら)に起因しているものだ」と。
………………………………………………………………………………………………………………

*【於】は「はた+二印(重なって止まる)」で、「じっとつかえて止まること」。

*【因】は「囗(ふとん)+ 印(乗せた物)or大(ひと)」で、
 「下地をふまえて、その上に乗ること」を示しています。

◇【故曰 彼出於是 是亦因彼】は、通説と大差がありません。

◇ここは、本来全き<一>なるものが、どのようにして分離してしまうかに言及しているのでしょう。
 「彼(A´)」が生まれ出るのは、「是(A)」があるからに他ならず、
 「是(A)」の存在は、同時に「彼(A´)」に起因しているものだ、と言われている。
 …ということでしょう。 

┏━━━━━━━━━┓
┃▼ 彼是方生之説也 ┃
┗━━━━━━━━━┛
「彼(あちら)と是(こちら)は相対的に同時に生まれる」という説だ。
………………………………………………………………………………………………………………

*【方】は、左右に柄の張り出たすきを描いた象形文字。
 「←→」のように左右に直線状に伸びる意を含みます。
 また、「方向」「筋道」のことから、「方法」の意が生じたものです。

◆通説では【方】を「ならぶ」とか「まさに」とか読んでいますが、
 そのニュアンスが微妙に違うように思います。

◆これは、恵施の説とされています。
 『天下篇』に同様のものが書かれているからのようです。

◇ここでは、日本語にするのが難しいので、「相対的に同時に」と訳しておきました。
 しかし【方】の「対立の形で直線状に伸びる」という概念を押さえておくのがポイントになりそうです。
トップの文章を読んで

素晴らしいですね。仏教の奥義と同じことが言われているように思います。
>>[4]

コメント、ありがとうございます。

その通りだと思います。
切り口が違っていても、指し示す境地は同じなのかもしれませんね。

荘子にしても、仏典にしても、人間にとってその内容が「真理」であるならば、
時空を超えてもなお色あせることないもののように思います。

また、意見、異論、感想などありましたら、
是非、コメントください。
◆通説では、次のようになっています。

だから「彼(あれ)は此(これ)から出てくるし、此もまた彼によってあにわれる、」という。
彼と此とは〔あの恵施も説くように〕方生の説(──ちょうど一しょに生まれるという説)である。

◇新解釈では、次のようになります。

だから、こういうふうに言われているのだ。
「彼(あちら)とは、是(こちら)があるところから、生まれたもので、
是(こちら)とは、同時に、彼(あちら)に起因しているものだ」と。
「彼(あちら)と是(こちら)は相対的に同時に生まれる」という説だ。


☆人間が世界を認識するには、部分を切り取ることになり、<一>なる世界の分離が起きます。
その時、「彼⇔是」と二元対立する概念が生じますが、実はそれらは相互依存するような関係である…
というのが一般的な(or恵施の)説だと言えるようです。


【故曰 彼出於是 是亦因彼】
〔だから、こういうふうに言われているのだ。
「彼(あちら)とは、是(こちら)があるところから、生まれたもので、
是(こちら)とは、同時に、彼(あちら)に起因しているものだ」と。〕

──ここでは、一般論(あるいは、恵施の説)としての説明がなされています。

人と人との間には、境界線がすでに存在しているように思うものです。
人と世界との間にも、その区切りが明確にあるように思うものです。

たとえば・・・
人にとって外界を認識するためには、空間の「是(ここ)」を切り取ることは必要なのかもしれません。
そうであるなら、当然のようにして「彼(あそこ)」が生じてくることも納得いくことです。

このようにして、「彼(あちら)」という概念は、「是(こちら)」が想定されてこそ、生まれ出るものだ…
ということになるのかもしれません。

また、たとえば・・・
人にとって外界を認識するためには、時間の「是(今)」を限定することは当然なのかもしれません。
そうすることは、同時に「彼(過去)」という概念に因るところがあると言えるかもしれません。

このようにして、「是(こちら)」とは、「彼(あちら)」があることに起因しているものだ…
ということになるのかもしれません。

【彼是方生之説也】
〔「彼(あちら)と是(こちら)は相対的に同時に生まれる」という説だ。〕

──以上のような把握の仕方を、「彼是方生の説」ということができるようです。

【方】という漢字の意味するところを正確に日本語で表現するのは難しいところです。
訳の上では、「相対的に同時に」としましたが、ここはもっと奥の深い意味がありそうです。
それは後から出てくる【于】という漢字に含まれている意味の「円(曲線)を描くように」という
ニュアンスとはまるで違う「直線的に相対する」という認識の仕方だと覚えておく必要がありそうです。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 雖然 方生方死 方死方生 方可方不可 方不可方可 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
そうだとしても、(彼是が)相対的に同時に生まれるなら、相対的に同時に死ぬことでもあり、
相対的に同時に死ぬということは、相対的に同時に生まれるということになる。
相対的に同時に認めるということは、相対的に同時に認めないということであり、
相対的に同時に認めないということは、相対的に同時に認めるということになる。
………………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、それはどんなことでも言えるとして、ただ並列的にとらえています。

◇単純に並列関係で羅列しただけでしょうか?、
 私はもう少し踏み込んで、順を追ってその循環に終わりがないことを説いていると思えます。
 簡単な図式で表すなら、次のような構図になるのではないかと思います。

 「彼」 ⇔ 「是」   「彼」 ⇔ 「是」  「彼」 ⇔ 「是」   「彼」 ⇔ 「是」
  ↑     ↑     ↑     ↑   ↑     ↑    ↑     ↑
  └─┬─┘    └─┬─┘   └─┬─┘    └─┬─┘  
    「生」    ⇔    「死」        「生」    ⇔    「死」
    ↑           ↑          ↑          ↑   
    └───┬───┘         └───┬───┘
         「可」         ⇔       「不可」

◇このように考えられるため、結局、何事かをものがたっているようでいて、
 何事をもものがたっていることにはならない説になってしまう…と言っていると取れます。

┏━━━━━━━━━━━┓     
┃▼ 因是因非 因非因是 ┃
┗━━━━━━━━━━━┛
是(肯定)の上に則っているということは、非(否定)の上に則っていることであり、
非(否定)の上に則っているということは、是(肯定)の上に則っていることになる。
………………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【因是因非 因非因是】の【是】という字は同じですが、対語が【非】のため、今度は「善し」(対語は「悪し」)と訳されています。

◇私は前の時と同じく「肯定」(対語は「否定」)という意味だと取りました。
 何かを「肯定」すると、それは「境界線」を設けることになり、そうなると、当然、
 そこからあぶれるその部分は「否定する」ことになる…と言っているのでしょう。
 逆もまた真なりで、これまた無限循環となり意味をなさない説になると言っているのでしょう。
◆通説では、次のようになっています。

けれども、〔恵施も説くように〕ちょうど生まれることはちょうど死ぬことであり、
死ぬことはまたそのまま生まれることでである。
〔判断についても同じことで〕可(よ)しとすることはそのまま可くないとすることであり、
可くないとすることはまたそのまま可しとすることである。
善しとしたことに身をまかせて悪(あ)しとしたことにまかせることになり、
悪しとしたことに身をまかせて善しとしたことにまかせることになる。
〔善し悪しの区別も相対的なものだから。〕

◇新解釈では、次のようになります。

そうだとしても、(彼是が)相対的に同時に生まれるなら、相対的に同時に死ぬことでもあり、
相対的に同時に死ぬということは、相対的に同時に生まれるということになる。
相対的に同時に認めるということは、相対的に同時に認めないということであり、
相対的に同時に認めないということは、相対的に同時に認めるということになる。
是(肯定)の上に則っているということは、非(否定)の上に則っていることであり、
非(否定)の上に則っているということは、是(肯定)の上に則っていることになる。


☆通常の人間の認識の仕方の一種の限界点(欠点・矛盾)を指し示しているようです。


【雖然方生方死 方死方生 方可方不可 方不可方可】
〔そうだとしても、(彼是が)相対的に生まれるなら、互いに死ぬことでもあり、
相対的に同時に死ぬということは、相対的に同時に生まれるということになる。
相対的に同時に認めるということは、相対的に同時に認めないということであり、
相対的に同時に認めないということは、相対的に同時に認めるということになる。〕

──いずれにしても、【方】という概念を日本語に置きかえて掌握するのは難しいようです。
ですから、訳に直接反映されていなくても、「直線的に対立する方向性をもったもの」ということを念頭においた上で、「相対的に同時に」と訳しましたが、その関係は対立関係でありながらも依存関係でもあるということを展開している個所だと思います。

この「直線的対比(相対性)」を通してのみ世界を認識しようとしても、
それは、フラクタル的な構造だということになりそうです。
次々に同じような「方」の関係性が生じ、それを拠り所としても、世界を掌握することはできない…
ということを言っているのだと思います。

【因是因非 因非因是】
〔是(肯定)の上に則っているということは、非(否定)の上に則っていることであり、
非(否定)の上に則っているということは、是(肯定)の上に則っていることになる。〕

──「肯定」と「否定」もやはり同じような関係性がある…と言っているようです。
どこまでいっても、終わりのない世界の中で。

我々の認識作用は、確定しているようでいて、実際何をもって「知」と言えるのかわかりません。
「知」・・・それは、この途方もない対立的な矛盾(?)を孕んでいるとするなら、
何をもって、人はそれを「知った」と言えるのでしょうね。
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 是以聖人不由而照之于天 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
(ところが)聖人は「是」を以(もち)いても、
(そういった直線的対比概念の)出どころ(てだて)に由(よ)るのではなく、
天より(円を描くようにまんべんなく)照らすがままにまかせてゆくのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

◆【以是】は、通説では「ここをもって」ということで、「そこで」と訳し、
 彼是、是非の「是(これ)(肯定)」ではなく、「以上のようなこと」としています。

◇ここの【是】のニュアンスをつかむのは微妙なところだと感じています。
 私は、これは文全体を示しているのではなく、あくまでも(聖人であっても)「これ」や「肯定する」
 という表現方法を用いるのではあるが…という意味だと取りました。
 なぜなら、(聖人であろうと)人である以上、<わたし>を通して知覚認識していくしかないからです。
 その「道具」としては【是】を「用いる(以)」のだが、それは通常の使い方ではない…
 ということを次に説明しているのだと思います。

*【聖】は、「耳+呈(まっすぐ述べる、さし出す)」で、
 「耳がまっすぐに通ること」「わかりがよい、さとい」などの意となります。

*【照】は「火+昭(あきらか)」で、「すみからすみまで光がなでるさま」。
 〔召:口+刀(刃の曲線のようにまねきよせること)〕
 〔昭:日+召(半円を描いて、右から左へと光がなでること)〕

*【于】は指事で、「息がのどにつかえてわあ、ああと漏れ出るさま」を示します。
 「直進せずに曲がる」意を含みます。
 感嘆詞(ああ)、助詞(間拍子など)、前置詞(〜に対して、〜より)として
 使われますが、動詞「ゆく、いく」の意味もあります。

*【天】は、「(大の字に立つ)人+ー印」の指示文字。
 「人間の頭の上部の高く平らな部分」を示したもの。

◆【聖人不由】は、通説では「聖人はそんな方法によらないで」としています。

◇ここでの【聖人】は、「(本当の意味での)賢者」「さとい人」に近い感覚の人を指し、
 儒家でいう「最高の人格者 」「天子」や、仏教やキリスト教でいう「聖者」といったような、
 余計なイメージを付加することないニュアンスだと思います。

◇【不由】で、一般的に述べてきたそんな「方(直線的対比概念)的なもの」に「由るのではなく」…
 という意味だと受け取りました。

◆【而照之于天】は、通説では「それを自然の照明にゆだねる」としています。

◇私は、ここの文字一つ一つにもっと深い意味がこめられているように感じています。
 【之】は「これ」という意味ではなく、動詞の「…してゆく」意として使っていると解釈しました。
 【照之】で、「照らしてゆく」として、時間経過とともにその曲線的な動きが見て取れそうだからです。
 それは、前述の俗人のような「直線的な対比概念」とは全く違うものだと言わんばかりに聞こえます。
 【照】ばかりでなく、【于】にも「直進せずに曲がる」意を含んでいることに注目したいと思います。
 一応ここでは、【于】は前置詞(〜に対して、〜より)として解釈した方がいいと判断して、
 【照之于天】を「天より照らしてゆく」と訳しましたが、そこには【方】の「直線的対比」ではなく、
 「曲線的(円的)とらえ方」というニュアンスが隠されているのだと思っています。
 そこで「天より(円を描くようにまんべんなく)照らすがままにまかせてゆく」と訳しました。
◆通説では、次のようになっています。

そこで、聖人はそんな方法にはよらないで、それを自然の照明にゆだねる。

◇新解釈では、次のようになります。

(ところが)聖人は「是」を以(もち)いても、
(そういった直線的対比概念の)出どころ(てだて)に由(よ)るのではなく、
天より(円を描くようにまんべんなく)照らすがままにまかせてゆくのだ。


☆【方】と【于】という、漢字自体がもっているニュアンスの違いを感じながら、
ここは少し言葉を補足した説明を加えた訳となりました。


【是以聖人】〔聖人は「是(これ・ぜ)」を以(もち)いても、〕

──通説のように、【是以】は「前文の説明を以ってして(→そこで)」という意ではないと思います。

凡人であろうと、聖人であろうと、「今・ここ」の「肯定」による知覚作用は、同じだと思います。
何をか「知りゆく」ためには、誰であろうと「是を以いる」ということ以外には方法はないのだと…。
ただ凡人が想定している「是」の概念と、聖人のその概念とはまったく違うもののようです。

【不由】〔(そういった直線的対比の概念の)出どころ(てだて)に由(よ)るのではなく、〕

──「是」の概念は、「彼」や「非」という、相容れない直線的対比する概念に由来するものですが、
聖人の以ってする「是」の概念というのは、そういったことに由来するものではない…と言っています。
では、いったいどのように「是を以ってしている」のか、次の言葉にヒントがありそうです。

【而照之于天】〔天が(円を描くようにまんべんなく)照らすがままにまかせてゆくのだ。〕

──宇宙を想定してみましょう。
天の仕組みは、太陽によって地球の半分だけ照らされ、
残りの半分は必ず、影(闇)ということになります。
こういった仕組みの、その時のそこだけを捕まえて、絶対視するのが、いわば直線的対比の概念です。
けれども、それは時間とともに、その場所を変えていきます。
瞬間は二元的でも、一日をトータルすれば、光と闇は巡って、一元的にとらえることができるのです。
こうした見地が、いわば曲線的な円を描くようにまんべんなく見渡していくという概念かもしれません。

自分の内部においても同じことが言えるようです。
「天が(円を描くようにまんべんなく)照らすがままにまかせてゆく」とは、
<わたし>という、時には相反するような様々な様相を呈する者をも、「対立するもの」だとは見なさず、照らし出されたものを、全体の「部分」としての<わたし>と「知り」、次々に繋げていくようなことで、
概念論でいえば、それはまるで「メビウスの輪」のようなことを想像してしまいます。
つまり、「直線的」ではなく、「曲線的」に「円を描くかのように」知覚していくと言えるかもしれませんね。
┏━━━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 亦因是也 是亦彼也 彼亦是也┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━┛
また、是(こちら)に因る(是の上に則る)にしても同じだ。
是(こちら)はまた彼(あちら)でもあり、
彼(あちら)はまた是(こちら)でもある。
………………………………………………………………………………………………………………

*【亦】は、大の字に立った人間の左右のわきの下を、ヽ印で示したもの。
 「同じ物事がもう一つある」の意を含みます。

◆通説では、最初の【亦】は、「また〜も」という意味では解せないと、この場合に限り
 「ひたすら」の意として、【亦因是也】を「ひたすらそこに身をまかせていく」と訳しています。

◇この最初の【亦】は、「是以」=「亦」=「因是」ではないでしょうか。
 空間的にある特定の「是」を指し示す時のことを「是以」とし、
 時間的にある特定の「是」を意味する時のことを「因是」としている‥
 ・・・といったふうにとればいいのではないでしょうか?

◇つまり、聖人は、空間的にある特定のものを指し示すのに「是」を使っても、
 言葉(概念)の定義に基づいてではなく、(天と<わたし>の位置関係によって
 生じる「昼」のようにして)照らされている所のままに話をするにすぎない。
 それと同様に【亦】、時間的にある特定のこととして「是」に起因して行っても、
 概念的な理由付けに基づいてではなく、その時の現象として照らされ、
 明るみに出た事をただ為しているにすぎない・・・といった感じでしょうか。

◇時空を隔てている「彼方のもの」も、その地点(時点)に到達した時には
 「是」以外の何ものでもないわけですよね。「到達する」とは
 「そこに光が当てられ、知りゆく」ということにもなるでしょう。

◇【是亦彼也 彼亦是也】は、通説と同じような訳になりますが、
 「是は、また彼ともなるものであり、彼は、また是ともなるものだ」‥
 といったニュアンスに近いものでしょうか。
◆通説では、次のようになっています。

そしてひたすらそこに身をまかせていく。
〔そこでは〕此(これ)も彼(あれ)であり、彼もまた此である。

◇新解釈では、次のようになります。

また、是(こちら)に因る(是の上に則る)にしても同じだ。
是(こちら)はまた彼(あちら)でもあり、
彼(あちら)はまた是(こちら)でもある。


☆聖人は、「是を以ってする」のと同様に、「是に因る」にしても、
凡人のような概念の上に成り立つ境地とは違う…と説明を加えているところでしょう。


【亦因是也】〔また、是(こちら)に因る(是の上に則る)にしても同じだ。〕

──聖人は、「是を以ってする」のと同じく「是に因る」にしても、
凡人のもつ二元的な概念に因ることなく、一元的なものに因る境地にいる…と言っているのでしょう。

「道」があるとするならば、それは「今(是)」のたったそれだけの実感で十分なのかもしれません。
それは「過去や未来(彼)」を想定して、対比され分断された認識ではなく、
常に「今」の連続でしかないといったような概念に近いものなのでしょうか…。

【是亦彼也 彼亦是也】
〔是(こちら)はまた彼(あちら)でもあり、彼(あちら)はまた是(こちら)でもある。〕

──それはこんなふうに喩えることができるかもしれません。
瞬間瞬間に出される「今(是)」の音は、「他(彼)」の音から分断された特定のものです。
音は刹那のきらめきのようです。
「さっき(彼)」の音はなく、あるのは「今(是)」の音だけです。

聖人の出す音は、常に「今(是)」に因って成り立っているにも関わらず、
凡人のような断片的なものでも、雑音でもない、音楽のようなものだと言えるかもしれません。
二元的に対比、分断する意識のない、一元的な境地においては、
「是(こちら)」と「彼(あちら)」の違いによって、分離する概念が消え失せるのでしょう。
瞬間的な「是」の単音は、あたかも紡がれた見えない糸で織りなされるシンフォニーのようになって、
全体(一なるもの)を維持しつつ、自ずと「彼」ともなる…と言っているのかもしれません。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 彼亦一是非 此亦一是非 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
彼(あちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってあり、
此(こちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってある。
………………………………………………………………………………………………………………

◆通説では、【彼亦一是非 此亦一是非】の【此】は、【是】(こちら)と同じと見なされています。
 「彼(あれ)にも善し悪しの判断があり、此(これ)にも善し悪しの判断がある」となっていて、
 【一】の意味は解釈されていません。

◇【此】は通説と同じく「こちら(これ)」を意味し、
 【是非】の【是】(肯定)の意味と区別するためにおそらくそうしたのでしょう。
 【一】の意味がここでは重要になってくるのではないかと考えます。
 通説では「善し悪しの<判断がある>」としているようですが、【是非】は「善し悪し」だとしても、
 ここの大意は「彼」であれ「此」であれ「善し悪しの<判断がなくなる>」ということを意味している
 からこそ【一】となってあると言っているのではないでしょうか。

◇通常【彼】とするものには【非】(否定)しているものという暗黙の了解があり、
 【此】とするものは【是】(肯定)としているものです。
 しかし、それは俗人(凡人)の見地というもので、聖人の見地は違っていて、
 【彼】とするものにも、【是】(肯定)と【非】(否定)が対立することなく【一】なるものとしてあり、
 【此】とするものにも、【是】(肯定)と【非】(否定)が対立することなく【一】なるものとしてある
 …と言っているのではないかと思っています。

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃▼ 果且有彼是乎哉 果且無彼是乎哉 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
果たして、さらに彼是(の区別)があるだろうか。
果たして、さらに彼是(の区別)などないのだろうか。
………………………………………………………………………………………………………………

◆通説では【且】は強意の助詞で、意味をもたないとされています。

◇本当に【且】に意味はないのでしょうか?
 【彼】とするものも【此】とするものにも、【是】と【非】が対立することなく【一】なるものとして
 あるということを「さらに突きつめて考えてみたら」ということになるのではないかと思っています。
 つまりは、「果たして、さらに彼是(の区別)があるだろうか。」
 「果たして、さらに彼是(の区別)などないのだろうか。」といって問いかけながら、
 「さらなるものを想定したなら、結局は区別はなくならざるを得なくなるのではないだろうか」…
 とほのめかしているのではないかと思います。
◆通説では、次のようになっています。

そして彼(あれ)にも善し悪しの判断があり、此(これ)にも善し悪しの判断がある。
果たして彼(あれ)と此(これ)とがあることになるのか。
果たして彼(あれ)と此(これ)とがないことになるのか。
〔もちろん彼(あれ)と此(これ)との対立はないことになる。〕

◇新解釈では、次のようになります。

彼(あちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってあり、
此(こちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってある。
果たして、さらに彼是(の区別)があるだろうか。
果たして、さらに彼是(の区別)などないのだろうか。


☆【一】の意味するところをつかむのが難しい個所です。


【彼亦一是非 此亦一是非】
〔彼(あちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってあり、
此(こちら)とするものにも、また是(肯定)と非(否定)が一つになってある。〕

──俗に、「是」と「非」は対比する概念として「二分する判断」とされています。
「好き」⇔「嫌い」
「喜び」⇔「苦しみ」
「善」⇔「悪」・・・
これらは、一般的には皆「肯定」⇔「否定」と関連付けられます。

それは一枚の紙に喩えると、「表」と「裏」がまさに反対に位置していて、二次元的な感覚では、
「表」は決して「裏」と出会うことはない・・・という概念のようだと言えるのかもしれません。

通説では、「一枚の紙には表もあれば、裏もある」という感じのところまでの認識のように思えます。

ところが、ここで荘子が言いたい「一」の概念は、もうちょっと深いものではないでしょうか。
つまり、この喩えを三次元的な感覚でとらえるなら、メビウスの輪のようにして、
「表と裏が<一>としてある」…といったような認識ではないかと思ったりもします。

例えば、「嫌い」「苦しみ」「悪」などはいけない…と「彼(あちら)」に押しやってしまい、
意識の焦点から外して、「非(否定)」としてしまいそうですが、そこには、「是非が一つ」になってあり、
「好き」「喜び」「善」などはいい…と「此(こちら)」に引きつけてしまい、意識の焦点を集めるが故に固執するほどに「是(肯定)」としてしまいそうですが、そこには、「是非が一つ」になってある…
といった見地を述べているのではないでしょうか。

つまり、全ては対立関係にあるのではなく、「是」と「非」は「一つとしてある」と言っているのです。
「好き」∞「嫌い」
「喜び」∞「苦しみ」
「善」∞「悪」・・・
これらは皆、「肯定」∞「否定」となる、巡りくる関係となって「一となる」と言っているようです。

【果且有彼是乎哉 果且無彼是乎哉】
〔果たして、さらに彼是(の区別)があるだろうか。
果たして、さらに彼是(の区別)などないのだろうか。〕

──「彼(排斥して否定しているもの)」にも、実は「是(肯定)」も「非(否定)」も一つとしてあり、
「是(同化して肯定しているもの」にも、実は「是(肯定)」も「非(否定)」も一つとしてあるなら、
その見地(境地)から更にものごとを把握しようとする時、この論法を取り入れたならば、
「彼是(の区別)」が「ある」のか「ない」のか、我々にどうなるのか問いかけています。
とはいえ、答えは一目瞭然となって、その実は「彼是(の区別)がない」…と言わんばかりです。
┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 彼是莫得其偶 ┃
┗━━━━━━━━┛
彼(あちら)と是(こちら)はその偶(つい)を得ることがなくなる。
………………………………………………………………………………………………………………

*【偶】は「人+禺(人まね猿)」で、「人に似た姿」→「人形」の意。
 ⇒「本物と並んで対をなすこと」

◆【彼是莫得其偶】は、通説では「彼と此とがその対立をなくしてしまった」と訳されています。

◇単純に言えば、【偶】を「対」として訳すこともできますが、私はこの字にもう少し深みを感じます。
 というのも、この字は「偶像」以外にも「偶然」「偶発」などという熟語を作れるからです。
 つまり、単に「彼是の対立」にわずらわされなくなることを意味しているばかりでなく、
 こうしたすべてのことを「天より照らした明かりにより全体の流れをして観る」ことによって、
 自分の中で「偶然」「偶発」に起きていた、様々な諸相の「どうしようもない」としていたことが
 なくなり、そこから脱却する(要するに「必然」だと納得するようになる)…
 といったことをも示唆しているのではないかという含みさえも感じるからです。

┏━━━━━━┓             
┃▼ 謂之道枢 ┃
┗━━━━━━┛
このことを道の枢(とぼそ)(回転の軸)と言う。
………………………………………………………………………………………………………………

*【枢(樞)】は「木+區(囲いと三つのもの→細々と入り組んださま)」で、
 「細工をして穴にはめこんだとびらの回転軸」を表しています。
 「穴にはめこむ」「とびらの回転軸」→「中心となる重要なもの」などの意。

◆通説では【道枢(どうすう)】として、「道の要諦」、「絶対的立場」といった、
 いわば特別な「さとりのような境地」…といったニュアンスでとらえているようです。

◇「喩え」とはどういうものか…とても微妙なところですが、
 展開される話の中に、(「さとり」や「絶対的」といった飛躍した概念を用いないで)
 まさに「明るく道理が見えるようになるもの」かどうかが問題ではないでしょうか。

◇【枢】は、「移り変わり対立する諸相」がなぜ現われてくるのかのからくりを解く鍵になる言葉で、
 偶然ではなく必然的にとらえられる、道の「回転軸(中心・不動点)」のようなものだと言える…
 と言っているのではないでしょうか。
◆通説では、次のようになっています。

〔このように〕彼(あれ)と此(これ)との対立をなくしてしまった(──対立を超えた絶対の)境地、
それを道枢(どうすう)──道の枢(とぼそ)──という。

◇新解釈では、次のようになります。

彼(あちら)と是(こちら)はその偶(つい)を得ることがなくなる。
このことを道の枢(とぼそ)(回転の軸)と言う。


☆固定的で直線的な対立関係にあるような偶(つい)を得ることがなくなるという、
この状態を、「道」に於ける「枢(回転の軸)」と譬えることができる…と言っているようです。


【彼是莫得其偶】
〔彼(あちら)と是(こちら)はその偶(つい)を得ることがなくなる。〕

──視覚の世界の中で、ストロボ効果によって、ものごとをコマ送り的に見ていたり、
脳が見えない合間を想像するがために、錯覚したりする現象も起きることがありますが、
(Wikipediaを参照してみてください↓ ストロボ効果の画像はただの一例にすぎませんが…)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9C%E5%8A%B9%E6%9E%9C
これに似たようなことが意識の世界の中でも起きていると言えるかもしれません。

分断された「部分」を取りあげたなら、「彼是」の違いがあるような認識しかできないことでも、
連続した「全体」を掌握し、「彼是」は「一」だと知ったならば、「偶」を得ることがなくなります。

【謂之道枢】
〔このことを道の枢(とぼそ)(回転の軸)と言う。〕

──「道の枢」…この言葉は重要なキーワードですね。
論理を述べながらも、視覚的なイメージで補足しながらの「道」の片鱗をほのめかしているようです。

「彼」と「是」とが直線的な対比を示すのではなく、輪を描くように回転している<一>と知ることを、
「道の枢」と言うことができる…ということでしょう。

譬えで言うならば、北風になったり、南風になったりするのは、実は「二つ」の対立する現象ではない、
「一つ」の台風の周辺部に於いて起こることだと理解するのは、無風の中心部(軸)を知っている時です。

つまり、周辺部の<わたし>を感じつつ、同時に「不動の中心軸」にいる<わたし>を得るということ、
それは周辺部の「結果」に対して、無意識だった一つの「原因」にたどり着いき、
因果関係をとらえることができるということにもなるのかもしれません。
まったくこの一節も、仏教を想起させられずにいられない。特にナーガールジュナ論師の『中論』を思わせられる。素晴らしい一節だと思います。
>>[20]

『中論』のどのような描写が、この一節と通ずるように思えたのでしょうか?
┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 枢始得其環中 ┃
┗━━━━━━━━┛
枢となってその環の中心を得てはじめて、
………………………………………………………………………………………………………………

*【環】は、「玉+[目+袁](目をぐるりとまわす)」で、
 「まるくとりまいた形の玉」を表わしています。
 「わ」「ぐるとりまわる・めぐらす」「もとにもどる」などの意。

◆通説では、【枢始得其環中】は「枢(対立を超えた絶対の境地)であってこそ、環の中心にいて」と、
 先に特別な境地に至ったなら環の中心にいることができる…
 といったような経緯のような形で解釈されているようです。

◇しかし、私は「枢になる」=「環の中心を得る」ことだと言っているのだと思っています。
 つまり「枢となって<はじめて>環の中心を得る」ということではなく、
 「枢となってその環の中心を得て<はじめて>」と、次の言葉につながる言い回しだと取りました。

◇やはりここでも、「直線的」概念から「曲線 (円・球) 的」概念に意識が変換されることを説いています。
 そこが「道(タオ)」を理解する(感じる)上で重要なポイントとなっているようです。
 【環】は、単にそのまるい形態のことを指し示しているばかりでなく、
 常に「回転」という活動、運動をしている「動点」の移り変わり(つまり「曲線」)とも言えるでしょう。
 それは、「様々に変化していく様相」を指しているのに対して、【中】はその「中心」「軸」ということで、
 「不動点」(動かぬ原因のようなもの)と言えるでしょう。
 その両方の仕組みの「全体像」をとらえた上での【枢】(回転の軸)となるということは、
 <わたし>の中に、いくつもにも変化する<わたし>から離れたところに、
 不動なる<わたし>の存在をもったことにもなるということになるのではないでしょうか。

┏━━━━━━┓             
┃▼ 以応無窮 ┃
┗━━━━━━┛
無(無限)と窮(有限)とに応じることができる。
………………………………………………………………………………………………………………

*【応(應)】は「心+〔广(おおい)+人+隹(とり)〕」で、
 「人が胸に鳥を受け止めたさま」→「心でしっかりと受け止めること」
 「先方から来るものを受け止める」意を含んでいます。

*【無】の原字は「亡(ない)+舞の略体(両手に飾りを持って舞うさま)」です。

*【窮】は「穴(あな)+躬(かがむ・曲げる)」で、
 「曲がりくねって先がつかえた穴」のことです。

◆通説では【無窮】は「窮まることのない変転」として、一単語とされています。

◇果たして、その【環中】=【無窮】とだけ言っているのでしょうか?
 この一語だけならその可能性もありますが、続く後の文では【一無窮】という表現があります。
 そこから考えてみたら、実はここでは、【無】と【窮】と二つのことを指していると考えられ、
 つまり、「無限=無」と「有限=窮」と言っているのではないかと考えられます。

◇聖人といえども、人間としての表現となると、「是以」「因是」となるわけです。
 「是」はあくまで「有限」のものであり、「是」におけるその瞬間は、
 一つの方向性‥上か下か右か左かといった、いわば部分的「仮の形」をとります。

◇けれども、「枢:回転の軸」を得ることは「全体」(の構造)をとらえることにもなります。
 つまりは、「中心」から生み出される数々の「周辺」の一つ一つは「有限・窮」であるとしても、
 その「中心」自体が「無限」である限り、「全体」としても「無限」ということにもなります。

◇そうして始めて、その両方に「応じる」ことができる、と言っているのだと思います。
 【応】の字義も深いですね。「論争」などを生み出す「主張」のようなものではなく、
 「心でしっかりと受け止めた後の反応」というかたちで、【無】と【窮】とに「応じる」…
 という態度をとるというのですから…。
◆通説では、次のようになっています。

枢(とぼそ)であってこそ環(わ)の中心にいて窮まりない変転に対処できる。

◇新解釈では、次のようになります。

枢となってその環の中心を得てはじめて、
無(無限)と窮(有限)とに応じることができる。


☆【無窮】を一単語とみなすか、【無】と【窮】と分けてみなすかがポイントかもしれません。


【枢始得其環中】〔枢となってその環の中心を得てはじめて、〕
        
──「枢」(回転の軸)…それは、何も行為しなげば知覚できず、「ない」に等しいものかもしれません。
しかし、人は何らかの行為や行動や状態を「周辺」に作り出していくことになるのです。
普通の状態では、ストロボのフラッシュがあてられた時にのみ知覚するランダムなもののように感じます。
しかし、その「周辺」の存在が「環」のようにして存在するということを理解する時、
その「中心」の存在を意識的に「知る」ことになれるのです。
その「周辺」は、「存在」したかと思えば、すぐに姿を変える「有限」のものですが、
それは「部分」の集合によってできていていると知ることは、同時に「中心」の存在を知ることで、
そういうことに気付いていくことが「道を歩む」ということになるのかもしれません。

【以応無窮】〔無(無限)と窮(有限)とに応じることができる。〕

──そうしてはじめて「軸」を得た「意識」は、
<わたし>の行為はランダムに発生するのではなく、原因をもった軌道を描くものだと知るでしょう。
つまり、そうした「枢」を得た意識は、「無(尽きないもの)」にも「窮(尽きるもの)」にも応じることができるようになると言っているのではないでしょうか。

それは音楽のようなものだとすれば、音は現われては、消えていきますが、だからこそ、次の風を迎え入れて、新しい音が誕生するようなものです。誕生するには「原因」となるものがどこかにあるのです。それは「自らおのれに風を吹き込むようにさせている」無限のものがあるのかもしれませんが、この世にその音と旋律を生むのには、その母体となるような有限の物も必要だということになるのかもしれませんね。
「枢」という境地に立てる時、はじめてその無限と有限に応えていくことができる…
と言っているのではないでしょうか。
┏━━━━━━━━━━━━━┓             
┃▼ 是亦一無窮 非亦一無窮 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
是にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってあり、
非にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってある。
………………………………………………………………………………………………………………

◆【是亦一無窮 非亦一無窮】(※)は、通説では「善しも悪しも一つの窮まりない変転である」、
 あるいは「是と非の対立はあるがままに肯定される」…などと意訳を交えています。

◇私は前の流れからして、次のような図式のようなことを語っているのではないかと思っています。

       「是」       ∞      「彼」 …(是亦彼也 彼亦是也)
    ┌──┴──┐      ┌──┴──┐ 
    ↓        ↓      ↓        ↓       
   「是」  ∞  「非」     「是」  ∞  「非」 …(彼亦一是非 此亦一是非)    
  ┌┴─┐  ┌┴─┐  ┌┴─┐   ┌┴─┐    
  ↓   ↓  ↓   ↓  ↓   ↓   ↓   ↓    
 「無」∞「窮」 「無」∞「窮」 「無」∞「窮」  「無」∞「窮」 …(※)

◇ここでの【是】【非】は、「善し」「悪し」というよりは、
 「肯定すること」「否定すること」という意味だと思っています。

┏━━━━━━━━┓             
┃▼ 故曰莫若以明 ┃
┗━━━━━━━━┛
故に、「明かりを用いるに匹敵するものはない」というのだ。
………………………………………………………………………………………………………………

◆【故曰莫若以明】は、通説では「だから、(善し悪しを立てるのは)<明智を用いる立場には及ばない>
 といったのだ」としています。

◇私は、【故曰】は比較しての「だから」という理由ではないような気がします。
 【以明】は比較できるような方法論ではなく、もっと自然にして唯一無二な発想の視点をもった境地で、
 「【故】に、<匹敵するものがない>というのだ」と語っているのではないかと思っています。
◆通説では、次のようになっています。

善しとすることも一つの窮まりない変転であり、
悪しとすることも一つの窮まりない変転である。
だから、〔善し悪しを立てるのは〕「真の明智を用いる立場に及ばない」といったのだ。

◇新解釈では、次のようになります。

是にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってあり、
非にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってある。
故に、「明かりを用いるに匹敵するものはない」というのだ。


☆【明】は「真の明智」といった特別なものではなく、「明かり」という普通の概念だと思います。


【是亦一無窮 非亦一無窮】
〔是にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってあり、
非にもまた無(無限)と窮(有限)が一つとなってある。〕

──暗中模索する中で、何かを「肯定すること」にしがみつくようにして信じて主張したり、
「否定すること」を非難して敬遠したりすることに明け暮れているようでは、
「是非論」によって自己が分裂していることから脱却することはできないままで、
それではどこかで行き詰る「窮(有限)」の世界にのみとどまることになるのかもしれません。

天から照らして物事をとらえられる道の枢を得た境地からすると、無限と有限に応じられるのです。
それというのも、「是(肯定していること)」が無限で尽きることがなくなるのは、実は有限で尽きてしまうものと、<一>なるものとして存在していると見て取れるからだ…ということで、
同様に、「非(否定していること)」も無限と有限が<一>なるものとして存在していると見て取れるからだ…ということになりそうです。

【故曰莫若以明】〔故に、「明かりを用いるに匹敵するものはない」というのだ。〕

──「明」・・・それは、「真の明智」などといった特殊な境地を表しているのではなく、
意識の中の暗闇に「明かり」を以ってすれば、対極のものも<一>に通じるものだという、
自ら物事の「道理」を貫き通して観る「意識的な眼」を持つことだということを示唆していて、
だからこそ、「それに匹敵するものがない」と言えるのだ…ということになるのではないでしょうか。

ただし、「明」は特別、特殊な概念ではないものの、
実践的な面においては、簡単なことのようでも、実は非常に難しいことなのかもしれません。
どこか「外」から得る「指標」によって、暗闇のままに、それを信じて自分の進むべき「道」を決めるのではなく、自分の「内」に光を当てた「明かり」によって、確実な「道」の一歩を踏むことだからです。

「明」」…すなわち自分の「内」に光を当てることというのは、
自分で自身を(天の立場から)観照できるような「意識の覚醒」の連続する状態なのかもしれません。
周辺部で起こる「有限」の結果の世界の断片を、その中心のの原因とをつないでいくような、
「無限」に続く「見えない糸」を「意識の眼」で自ら見出していく…といった感じでしょうか…。

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