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ありがとう。 ごめんね。コミュの美容師だった母へ

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先週の木曜・・・母が亡くなりました。
肺癌でした。

7年前に初期の肺癌で一度手術をしたものが再発。
それが分かったのはちょうど去年の8月だった。
まさかの再発。誰もそんなコト予想もしてなかった。
癌は初期のものだし完治したものだと思ってた。
定期的に検査にも行ってたし。母も元気に過ごしてた。
それが、いつの頃か、腰が痛い。歩きにくい。
そんな痛みを訴えだし、横になることが多くなった。
母は整形外科や整体、色んなところに通って治そうとしてた。
それでも治らない・・・・周りに勧められてようやくちゃんと検査を
してみたところ、再発からくる骨への転移だった。

病状は思ったより進行していたみたいで、癌を手術で取り除いて・・・
という段階ではなくなっていて、進行をおさえてどれだけ現状を
維持できるかの状態だった。
それでも今できるイチバンいい治療方法をとり、一時的には
仕事に復帰できるほどにまで回復した。
あれだけ訴えてた腰の痛みもなくなった。
杖をついてたいたのが嘘のように歩けるようになった。
一緒にハワイにも旅行をした、上海にも行った。

3月から抗がん剤の点滴が始まった。
話には聞いていたが、髪が抜け出し、嘔吐。
食べては吐き、食べては吐き・・・の繰り返しだった。
見ているほうが辛かった。美容師だった母はそれでも頑張って仕事もした。
家のこともやってくれた。毎日弁当も作ってくれた。

5月のいつの頃からか、食事を取りながらコクリコクリと眠るコトが
多くなったり、携帯の使い方が分からない、言動がおかしく
なることがあった。あれだけおしゃべりだったのに口数も減った。
病院で検査をしてもらったところ、脳への転移だった。
信じたくなかった。確実に近づいてくる死へ向き合うことができなかった。
治療も抗がん剤から放射線治療へ変わった。
毎日のコトなので医師に入院を勧められた。
でも新居へ引っ越したばかりで、少しでも母に家にいてほしくて
家族は通院を選んだ。
毎日毎日たった10分程度の放射線治療のために通院した。
病状が少しずつ進んでいく母。だんだん平衡感覚がなくなり、
歩けなくなる母。喋ることがほとんどなくなった母。
途中からは車椅子での通院になった。
それでもこっちの言うことは母には聞こえてるので話はできないケド、
「分かったら手を握って」と言えば握り返してくれる。
それで意思疎通をはかっていた。

そんな生活が2ヶ月続いたある日、往診に来てもらった医師から
もういつ何が起きてもおかしくない状況なので入院した方がいい。
そう言われた。その時には口から水分を取ることもできなくなっていて、
点滴ですべての栄養を取っている。そんな状態だった。
急遽、病院に連絡を取り入院をすることになった。
ちょうど七夕の日だった。

そうして始まった入院生活。
妹と交代で病院に寝泊りする日々。
昼間は病室で母の手足を拭いたり話しかけたり、そんな毎日だった。
入院して2週間近くが過ぎたあたり、話しかけたら、母が目を
こっちに向けてくれるようになった。
しっかり目を開いて、話はできないがそれに答えるかのように
息を荒げてくれた。すごく嬉しかった。
今思えば、最期に頑張ってくれたんだな・・・と思う。
病院に通うのが当たり前になり、これが日常になっていた。
永遠に続いて欲しいような、欲しくないような複雑な気持だった。

妹がいつものように朝、病院から帰って来て
母の血圧が急に下がったと言った。
朝食を取り終えた父が急いで病院にいった。
事の重大さが分からない私はいつものように過ごしていた。
父から「急いで病院に来い」との連絡。
行ってみたところ、母はきっと今日明日がヤマだろうとのこと。
母がいつも言ってた「潮が引くときに人が死ぬんよ」。
なので干潮の時刻を調べたりして時間が過ぎた。
本当にそうだった。。
途中何度も医師が来て最期の宣告をしよう時計を見ている中、
妹と二人で母に呼びかけた。その度に止まりそうになってた
母の心音が持ち返した。人間最期まで聴力は残るって言うけど
本当だね。きっと母にも声は聞こえてたはず。
その呼びかけもむなしく、母は夕方、逝ってしまった。
泣いた。生まれて初めてあそこまで声をあげて泣いた。
涙が止まらなかった。母がいなくなることなんて考えてなかった。
でもそんな悲しみにくれるヒマもなく、お通夜、葬儀の段取り。
事務的な手続きに追われた。

1ヶ月ぶりに家に帰ってきた母に化粧をしてあげた。
本当におだやかなだった。眠っているようにしか見えなかった。
ただ冷たかった・・・
翌日がお通夜で、準備、来てくれた人への挨拶で終わった。
たくさんの人が来てくれた。
私の友達もどこから聞いたのか来てくれた。嬉しかった。
葬儀も盛大で。本当にたくさんの人が来てくれた中、行われた。
にぎやかなのが好きな母にはぴったりだった。

そうして悲しむ間もなく次は後片付けに追われ・・・・
昨日、無事初七日まで終えることができた。
そこで出る母の話も、本当に笑顔が似合う人だったね。
明るい人だったね。そんな話ばかりだった。
通夜〜葬儀、片付けまで通して身内には本当に助けられた。
ほぼ段取り、準備などは叔母がしてくれたし、
その後の身体の心配など気にかけてくれた。
なんだかんだで最終的には身内なんだなと痛感した。

だんだん日常に戻っていく。ただ、母がいないだけ。
とても不思議な感覚だった。
病院にいけば母がいるような気がするし、
「ただいまー」ってドアを開けて帰ってきそうな気がする。
でも、もう母を話をすることはできない。
妹の携帯の伝言メモに母の声が残っていた。
「気をつけて帰っておいで。待ってるよ〜」
そう言う母の声はいつも通りだった。

新しい家になったら着付け教室ねって言ってたのにできんかったね。
庭でお茶しようね!って言ってたのに庭の完成さえ見れんかったね。
お茶もできんかったね。花もいっぱい植えるって言ってたのに。
これから親孝行するときだったのに、何もできんでごめんね。
もっと色んな話を聞いてあげればよかったね。
おばあちゃんになっても美容師を続けるのが夢だって言ってた
のに、叶えられんかったね。
言い出したらキリがない。

でも最期に病院で言えたね。
「生んでくれてありがとう。母の娘でよかったよ」
って。

長い文章読んでくれてありがとうございます。

コメント(18)

こんな大切なお話を聴かせてくださってありがとうございます。
どうかあなたの傍にお母さんが微笑んでおられますように。
応援しています。

口下手ですみません。
はじめまして!
はじめましてなのにいきなりコメント書いちゃってすみません
おれは病院で放射線の仕事をしています。
人の命って重いって改めて思いました。
医療というものより色んなことが嫌にっていましたが、もう少し頑張ろうと思った。
かほさんありがとう。
最後に大切なこと伝えられてよかったですね…
ほんとにお母さんうれしかったと幸せだったと思います!!!
もっともっと幸せに毎日を過ごしてください(*u∀u*p愛q)owO
それがまたきっとお母さんの幸せでもあると思います!!!
お父さんとの時間も大切に。。これからもがんばってください!!!
僕の母も脳の病気で死にました。
でも僕はなかなか母の病気に向き合えなかった。
病気の母の助けになれなかった。
目をそらして逃げていた。

今ではそのころの自分をとても恥じています。
かほさんは自分にできることを精一杯したのですね。
母の闘病生活を助けて、ありがとうも言えた。
僕にはそんなかよさんがまぶしいです。
家族が協力し合って、大好きなおかあさんのために、おかあさんができるだけ在宅で生活できたことは、おかあさんにとってすごく良かったんじゃないかなって思います。。きっとすごく感謝しているんじゃないかな、おかあさん★☆
そしてお母さんはほんとに最後まで精一杯、生きた方なんだなって思いました。
私は今、看護師になるために勉強しています。将来はがんセンターで働きたいと思っています。
病と闘う家族を精一杯のチカラで支えていきたいと思いました。
私も祖母を同じ病気で去年亡くしました。
読んでいてそのときの情景が目に浮かび、涙が止まりません。
母親がいなくなるなんて今は考えられないです。
でもいつか来ると思うと、ちゃんと言うことを聞いて
おかなくちゃと思います。
辛いですけど、がんばってくださいね。
天国できっと見ていてくれます^^
うまくいえないけど、頑張ってください。
私もお母さんお父さんが大好きなので、これからいっぱいいっぱい親孝行しようと思います。
お母さんきっと天国から見てますよ。
大丈夫。お母さんは遠くに行ったんじゃない。
毎日一番近くにいますよ。
頑張ってください。
泣けました。。。
お母さんの大切さがやっとわかった気がします

今はツライかもしれないけど
お母さんはかほさんの事見てると思います!

いつまでもお母さんのような笑顔で
いて下さい♡
同じく涙がでました。。。
お母さんってやっぱり大切な存在で、何かお父さんにはないものをもっているのだとつくづく感じます。
家族ひとりひとりがもちろん大事ですけど、なにかお母さんには特別なものがみんなあるように感じます。

ホントにいままで近くにいる人がいなくなってしまう辛さは、頑張れなんて声をかけられないくらいです。
でも、お母さんは絶対にかほさんを見ていてくれているはずです☆

どうか、お母さんのぶんも笑顔で☆☆
病院で 勤めています

日々 仕事におわれ
そうゆうことすら 業務的になりがちですが 今、休憩室で 涙が とまりません
始めのころは 死 がうけいれられなく 厳しかった日もありました

今は 病気と戦っている 方々 が すこしでも ホ。ジティブに 笑顔をもっていただけるよう 努力しています

これからも いろいろあるでしょうが 前向きにがんばっていきたいです
私も高校生のときに父が他界しました。
今でも、父が息を引き取る寸前のことを思い出すと涙がでます。
私たちが声を掛けると必死に体を動かして起きよう、生きようとしていました。でも、だんだん体力もなくなってきて徐々に心拍数も下がり…。
親が先に亡くなるのは世の常だとしても、かなり辛い体験ですよね。

きっと今は、悲しいのにいろんな事務的作業が多く、大変な時期かと思います。
でも、生きなければいけない。亡くなった人の分までがんばらなければいけない…んですよね。

生活が落ち着いてきたら、是非お庭にお母様の好きなお花を植えてあげてくださいね。
お母様はずっと側で見ててくださってますから…。
■コメントくれた皆様へ■
たくさんのコメントありがとうございます。1つ1つ読ませていただきました。
この文章を書いたのは自分の中で整理をつけるためでもあありました。
やっぱり書きながら涙が出てくることもありました。
でもこうやってつたないながらも1つの文章にしてみると
少し整理ができたように思います。
病気が分かった後、職種上、とても多忙な父が時間を作り、
ツテをたどって東京の癌センターにレントゲン写真を持って
行ったりもしました。私も入院まではいつも母の通院についていってました。
だいぶ落ち着いた今、あの生活が遠い日のことのような、
つい昨日のことのようなそんな感覚になります。
もう、今からは母は病院に行かなくてもずっと家にいてくれます。
たくさん庭に花も植えようと思います。
本当に皆様の意見に勇気付けられました。ありがとうございます。

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