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熊谷次郎直実コミュの熊谷次郎直実/法力房蓮生法師のプロフィール(経歴)

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直実は熊谷直貞の第三子(第二子ともいう)として
永治元年(1141)に生まれた(幼名:弓矢丸)。
二歳のとき父直貞が亡くなったので、叔父の久下直光
(重光説もあり)のもとで育てられ、十五歳で元服
して熊谷氏五代当主となる。
その翌年、京都で起こった保元の乱、続いて平治の乱
に源義朝に味方して加わったが、敗れて熊谷に戻る。

それから約二十年たった治承四年(1180)に源頼朝が
兵をあげる。
頼朝は最初は敗れたが再び兵をあげ、ついに富士川の
戦いで平氏軍を破る。
それまで平氏方についていた直実はこのころから
源頼朝の家来となり、その後の常陸国の佐竹氏との
戦いには一族を率いて加わり、大活躍をした。
喜んだ頼朝から「日本一の剛の者」と
褒め称えられた。
さらにその後、京都の宇治川の戦いでも武功を
あげたが、一ノ谷の戦いで平敦盛を討ってからは
あまり活躍をしなくなり、ついには武士を捨て、
仏門に入ってしまう。
その名も「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」
と改め浄土宗で有名な法然上人の弟子となる。

僧になった直実(蓮生)は法然のもとで修業に励み、
また京都粟生の光明寺など寺を興したりして、仏の道
一筋の生活を送る。
数年後一度熊谷に戻った折、熊谷館の片隅に念仏を
唱える草庵を建てたが、これが現在の
熊谷寺(ゆうこくじ)の始まりである。

やがて身体の衰えを感じた蓮生は故郷熊谷へ戻り、
自分の死を人々に予告した。
承元元年(1207)九月四日村岡の地で、人々の見守る中
予告通り大往生を遂げる。
(直実の死んだ日と場所は幾つかの説あり)

「私たちの郷土・熊谷の歴史」より引用

コメント(2)

自分は青森出身で昔からの言い伝えで、熊谷次郎直実の末裔が津軽地方に来て今でも熊谷の名前がたくさんいて、私も熊谷の名前です!

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