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チェダゼミナールコミュの日本史(三年前期)

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教師 教師に一番大切なのは、教養云々ではなくまず健康であることである。
文科省が規定する優秀な教師とは指導力のある教師のことであり、教養がある教師とは意味合いが違う。教師の大敵はなんと言ってもうつ病であろう。なぜならまじめな人ほどうつ病に陥りやすいからである。

政令指定都市 は全部で14箇所。東京 横浜 大阪 神戸 名古屋 京都 札幌 福岡 仙台 さいたま 千葉 川崎 広島 北九州

少人数クラス が実現すれば、教員の採用枠も広がる。

私立学校 独自の採用試験は行わない。組織化されている。

社会科教師の特殊性 社会科教師は30歳までに恋愛したことが無い人は使い物にならない。

90年代の日本 〜国際大学、〜情報大学が増えた。また環境学部もたくさん創設され、情報、国際化、環境に興味・関心が移った時代が90年代である。これらの大学は今現在はFランク大学がほとんどであるが、これからの研究成果、教育成果如何でランクも上昇していくものと思われる。

社会に出たときの日本語の違い 「お願い」とは「命令」と同義語であり、「配慮」→「留意事項」→「絶対に守れ」ということである。お願いとは「お願いだからやってください」という意味合いではなく、「絶対にやれ」という意味合いである。

夜間高校 はなくなりつつある。

明六社(めいろくしゃ)は、明治時代初期に設立された日本最初の近代的学術団体。1873年(明治6年)7月にアメリカから帰国した森有礼(もりありのり)が、福沢諭吉・加藤弘之・中村正直・西周(にしあまね)・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らとともに同年秋に啓蒙活動を目的として結成。会合は毎月1日と16日に開かれた。会員には旧幕府官僚で、開成所の関係者が多かった。1874年(明治7年)3月から機関誌「明六雑誌」を発行、開化期の啓蒙に指導的役割を果たしたが、1875年(明治8年)、政府の讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例が施行されたことで機関誌の発行は43号で中絶・廃刊に追い込まれ事実上解散となった。その後、明六社は明六会となり、帝国学士院に発展していった。

森 有礼(もり ありのり、1847年8月23日(弘化4年7月13日) − 1889年(明治22年)2月12日)は、幕末期の薩摩藩の藩士。明治時代の政治家で、初代の文部大臣、明治の六大教育家。子爵。
名は助五郎、金之丞。薩摩藩士の五男として生まれた。1865年、イギリスに留学し、その後アメリカにも留学する。このとき、キリスト教に深い関心を示した。明治維新後に帰国すると福沢諭吉、西周、西村茂樹らと共に明六社を結成する。1875年、東京銀座尾張町に私塾商法講習所(一橋大学の前身)を開設。1885年、第一次伊藤博文内閣の下で文部大臣に就任し、学校制度の確立に尽力した。しかし1889年の大日本帝国憲法発布式典の当日、国粋主義者・西野文太郎により暗殺されてしまった。享年43。英語の国語化を提唱したことでも有名。仏文学者・哲学者の森有正(1911〜1976)は、有礼の孫にあたる。

応仁の乱(おうにんのらん、1467年(応仁元) - 1477年(文明9))は、室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱。幕府管領の細川勝元と、山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し、戦国時代に突入した。応仁文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
将軍義政と義視
室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満・足利義持の代に、将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしき、1441年に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権内のパワーバランスにほころびが見え始める。7代将軍に義教の嫡子足利義勝が9歳で将軍職を継いだが、僅か一年足らずのうちに急逝し、義教の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され、8歳で将軍職を継承した。義政は、母日野重子や愛妾今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて育ち気まぐれな文化人に成長した。義政は、守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。
義政は打続く土一揆や政治的混乱に倦んで、将軍を引退して隠遁生活への移行を夢見るようになっていた。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立つ。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考慮して将軍職就任の要請を固辞し続けた。1464年(寛正5年11月26日)、義尋は、義政が『今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない』と起請文までしたため、再三、将軍職就任を説得したことから、意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移ることにした。
文正の政変
1466(文正元)7月、突然、義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。義廉と縁戚関係にあった宗全は、一色義直や土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから、義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき、政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。
勝元と宗全の対立
嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが、1458年、娘婿の勝元が宗全の勢力削減を図って赤松政則を加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていた。文正の政変で協力した二人であったが、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する二人でもあった。1465年(寛正6)11月23日、義政と富子との間に足利義尚(はじめ義煕)が誕生すると、実子義尚の将軍職擁立を切望する富子は、宗全に接近し義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍する。当然、宗全は義視の後見人である勝元と対立し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分化させて、その衝突は避けられないものとなった。
御霊合戦
このころ、管領職にあった勝元派の畠山政長と宗全派の畠山義就との間にあった家督継承権をめぐる闘争が激化し、さらに義政の気紛れが両派の対立に油を注いだ。1455年(康正元)のころ畠山家総領であった義就は、勝元の策謀によって義政から追放され、従兄弟である政長が替わって畠山家総領を継承した。その後、義就が宗全を頼って復権を願い出ていたところ、1467年(応仁元年)正月2日、宗全に懐柔された義政が、政長や勝元に断ることなく、将軍邸の花の御所(室町第)に義就を招いてこれを赦免した。義政は政長へ追い討ちをかけるように、正月恒例の管領邸への『お成り』を中止して、同年正月5日に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席した。そこで義政は、義就の畠山家総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。政長は反発して管領を辞任、後任は山名派の斯波義廉が就任した。勝元は義政から義就追討令を出させようとするが、義政夫人の日野富子が事情を察知して宗全に情報を漏らして失敗する。政局を有利に運んだ宗全は、自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と花の御所を囲み、義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放を認めなかったものの、諸大名が一方に加担しないことを条件に、義就による政長への攻撃を認めた。義政から廃嫡され賊軍扱いされた政長は勝元に援軍を求めたが、勝元は後日の反撃を期してこれを断った。正月17日、政長は無防備であった自邸に火を放つと、兵を率いて上御霊社(京都市上京区)に陣を敷いた。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全は後土御門天皇や後花園上皇らを室町亭に避難させ、義就に加勢する。勝元は義政の命を守って沈黙。御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置していた。義就は釈迦堂から出兵し、加勢した斯波義廉、山名政豊、朝倉孝景らもそれぞれ攻撃。戦いは夕刻まで続き、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装い逃走、勝元邸に匿われたと言われる。御霊合戦は畠山の私闘、宗全のクーデターに終わる。
東西軍の激突
御霊合戦ののち、、細川勝元は領地の四国9カ国から兵を終結させ、細川派の大名では赤松政則が播磨で山名領へ侵攻して守護職を奪還した。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固める。5月には武田信賢、細川成之らが若狭の一色氏の領地へ侵攻、都でも一色義直の邸や西軍諸将の屋敷を襲撃、斯波義敏は尾張から遠江へ侵攻する。4月には足利義視が調停を試みている。5月、勝元は北陸に落ちていた政長を含む全国の同盟者に呼びかけ、花の御所を制し、戦火から保護するという名目で将軍らを確保、天皇、上皇を室町亭に迎える。勝元は今出川邸の自邸に本陣を置き、6月には義政に要請して牙旗を授与され、官軍の体裁を整えた。宗全は5月に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置く。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は、『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるとも指摘されている。京都に集結した諸将は、北陸から信越、東海、九州の筑前、豊後、豊前が大半であったが、「東軍」には細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、地理的には優位を占めていた。逆に「西軍」は山名氏始めとしてこうした細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していた。中には義政側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行き的に参加したものも多く、その統率には不安が残されていた。一方関東地方や東北、九州南部などの地域においては、既に中央の統制下から離れた状態のまま、各地域内部において有力武家間の大規模な紛争が発生しており、この戦いとは全く無関係に戦乱状態に突入していた(関東については享徳の乱を参照のこと)。
戦況の変遷と膠着化
当初、東軍が義政の支持を受けて「官軍」と号し、内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と義政を確保したこと、細川氏及びその支持者の領国が畿内周辺に集中していた事が幸いして戦いを有利に進めたが、 6月には細川領丹波国を制圧した山名兵8万が上洛、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7カ国の軍勢をはじめ、水軍を率いて入京、西軍が勢力を回復する。相国寺の戦いは激戦で両軍に多くの死傷者が出たものの勝敗を決することは出来なかった。応仁元年8月29日、突然、義視が東軍を出奔して伊勢国の北畠教具の元に身をおく。義視出奔の原因は、武衛騒動で追放されていた宿敵伊勢貞親が幕府に復権したことが一因とされるが、このころ義政や後見人の勝元が自らの廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたが主な原因であろう。約束どおり将軍職位譲を行わない義政、義視将軍就任のために積極的に動かない後見人勝元、富子に見守られ僧門に入ることもなく成長して行く義尚。義視は、義尚誕生のときから幕府に身の置き場所をなくしていたのである。その後、しばらく伊勢国に滞在した義視は、勝元や義政に説得されて東軍に帰陣するが、再度出奔して比叡山にのぼった。義尚擁立に転じた勝元が、穏便な形をとって義視を御所から事実上追放したのである。応仁元年11月23日、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎えいれると”新将軍”に奉り幕府の体裁を整え東軍に対抗した。更に西軍は北畠氏を通じて後南朝勢力にも協力を呼びかけた。対立構図のねじれ、自己の利に従って離散集合をくり返す諸勢力。このような状況下で、身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東西両軍の戦いは膠着状態に陥っていった。その中で東軍配下の足軽骨皮道賢が後方攪乱などのゲリラ戦を試みたが、所詮、盗賊や凶悪人を多く含んだ集団で戦局を打開することは出来なかった。1469年(文明元年)になると、大内氏の重臣で文武両道の名将として知られた益田兼堯が石見国で離反、九州の大友親繁・少弐頼忠とともに大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、この動きは鎮圧されたものの、1471年(文明3年)には守護代でありながら西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政自らの越前守護職補任をうけて東軍側に寝返ったのである。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸守護大名は京都での戦いに専念できなくなった。こうして東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。1473年(文明5年)になると、3月18日に宗全が、5月11日に勝元が相次いで死去し、12月19日には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。1474年(文明6年)4月3日に、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたものの、1477年(文明9年)11月11日に大内政弘が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し京都での戦闘は収束した。11月20日に、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され10年に及ぶ「応仁の乱」の幕が降ろされた。だが、延べ数十万の兵士を都に集結させて11年にもわたり戦闘が続いたにも関わらず、主だった将が戦死することもなく、ただ惰性的に争いを続けてきた挙句に守護大名たちが獲得を目指していた「幕府権力」そのものが権威を失墜させてしまい、結果的に獲得するものは何もなかったのである。
社会の変化
応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように、真の実力者の身分上昇をもたらした。時代は下克上が全国に拡散されて戦国時代に向かうことになる。残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も山城国で政長と義就は戦いを継続したが、度重なる戦乱に対して民衆は国人を中心にして団結すると、勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に排除した。それは旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。
旧勢力の没落と新興勢力の台頭
室町時代をつらぬくキーワードは、「旧勢力の没落と新興勢力の台頭」である。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食され没落の一途をたどっていた。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は、3代将軍足利義満と6代将軍足利義教のときを除いて、成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。
こうした環境は、当時、長子による家督権継承が完全に確立されていなかったことも相まって、しばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。
守護大名 軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期〜16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。
概要
鎌倉時代における守護の権能は、御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていた。
室町幕府が成立すると、鎌倉幕府の守護制度を継承した。当初、守護の職権については、鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、国内統治を一層安定させるため、1346年(貞和2)、幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。刈田狼藉とは土地の所有を主張するために田の稲を刈り取る実力行使であり、武士間の所領紛争に伴って発生した。使節遵行とは幕府の判決内容を現地で強制執行することである。これらの検断権を獲得したことにより、守護は、国内の武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利の2つを獲得することとなった。また、当初は現地の有力武士が任じられる事が多かった守護の人選も次第に足利将軍家の一族や譜代、功臣の世襲へと変更されていく。1352年(文和1)、観応の擾乱における軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領から年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。当初は、戦乱の激しい3国(近江・美濃・尾張)に限定して半済が認められていたが、守護たちは半済の実施を幕府へ競って要望し、半済は次第に恒久化され、各地に拡がっていく。1368年(応安1)に出された応安の半済令は、従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の請け負い契約を結び、実質的に荘園への支配を強める守護請(しゅごうけ)も行うようになった。この守護請によって、守護は土地自体を支配する権利、すなわち下地進止権(したじしんしけん)を獲得していくのである。
また、朝廷や幕府が臨時的な事業(御所造営など)のため、田の面積に応じて賦課した段銭や、家屋ごとに賦課した棟別銭の徴収は、守護が行うこととされた。守護はこの徴収権を利用して、独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済的権能をますます強めていったのである。守護は以上のように強化された権限を背景に、それまで国司が管轄していた国衙の組織を吸収し、国衙の在庁官人を被官(家臣)として組み込むと同時に、国衙領や在庁官人の所領を併合して、守護直轄の守護領(しゅごりょう)を形成した。また並行して、守護は強い経済力をもって、上記の在庁官人の他、国内の地頭・名主といった有力者(当時、国人と呼ばれた)を被官(家臣)にしていった。この動きを被官化というが、こうして守護は、土地の面でも人的面でも、国内に領域的かつ均一な影響力(一円支配)を強めていった。
こうした室町期の守護のあり方は、軍事・警察的権能のみを有した鎌倉期守護のそれと大きく異なることから、室町期守護を指して守護大名と称して区別する。また、守護大名による国内の支配体制を守護領国制という。ただし、守護大名による領国支配は、後世の戦国領国制と比べると、必ずしも徹底したものではなく、畿内を中心に、国人層が守護の被官となることを拒否した例も、実際には多く見られる。また、幕府も朝廷や寺社との対立をしてまで、荘園制度の解体や守護の権力強化は望ましいとは考えておらず、有力守護大名に対して度々掣肘を加えている。室町中期までに、幕府における守護大名の権能が肥大化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈するようになる。当時の有力な守護大名には、足利将軍家の一族である斯波氏・畠山氏・細川氏をはじめ、外様勢力である山名氏・大内氏・赤松氏など数ヶ国を支配する者がいた。これら有力守護は、幕府に出仕するため継続して在京することが多く、領国を離れる場合や、多くの分国を抱える場合などに、守護の代官として国人や直属家臣の中から守護代を置いた。さらに守護代も小守護代を置いて、二重三重の支配構造を形成していった。
応仁の乱の前後から、守護大名同士の紛争が目立って増加した。それに歩調を合わせるように、国人層の独立志向(国人一揆など)が顕著に現れていった。これらの動きは、一方では守護大名の権威の低下を招いたが、一方では守護大名による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護大名は、守護代・国人などにその地位を奪われて没落し、逆に国人支配の強化に成功した守護大名は、領国支配を一層強めていった。こうして、室町期の守護のうち領国支配の強化に成功した守護や、守護に取って代わった守護代・国人は、戦国大名へと変質・成長していった。戦国時代は、下位の者が上位者に取って代わる下剋上の時代とされているが、かなりの守護大名が戦国大名への転身を遂げたのである。]
守護大名の一覧
• 興福寺 - 大和
• 畠山氏 - 河内・能登・越中・紀伊
• 細川氏 - 和泉・摂津・丹波・備中・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
• 赤松氏 - 摂津・播磨・美作・備前
• 仁木氏 - 伊賀
• 山名氏 - 丹後・但馬・因幡・伯耆・石見・備後
• 一色氏 - 伊勢・三河・若狭・丹後
• 北畠氏 - 伊勢
• 土岐氏 - 美濃・伊勢
• 斯波氏 - 尾張・遠江・越前
• 今川氏 - 遠江・駿河
• 武田氏 - 甲斐
• 小笠原氏 - 信濃
• 山内上杉氏 - 伊豆・武蔵・上野・越後
• 扇谷上杉氏 - 相模
• 千葉氏 - 下総
• 佐竹氏 - 常陸
• 六角氏 - 近江南部
• 京極氏 - 近江北部・飛騨・出雲・隠岐
• 宇都宮氏 - 下野
• 結城氏 - 下野
• 若狭武田氏 - 若狭
• 富樫氏 - 加賀
• 大内氏 - 石見・安芸・周防・長門・筑前・豊前
• 安芸武田氏 - 安芸
• 河野氏 - 伊予
• 大友氏 - 豊後
• 少弐氏 - 筑前・肥前
• 渋川氏 - 肥前
• 九州千葉氏 - 肥前
• 菊池氏 - 肥後
• 島津氏 - 日向・大隅・薩摩
• 宗氏 - 対馬


戦国大名 日本の戦国時代に「数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した」大名を指す。守護大名や近世大名と違い、公式に任命されるような類のでもないため、厳密な定義は難しく、誰をもって戦国大名と呼ぶべきなのかも議論がある。ただ戦国時代に事実上独立していた武家勢力の棟梁を指す語と思われる。この「戦国大名」は、室町時代の守護大名と比べると、中央権力と一線を画して領国の集権化、特に家臣の統制が強化され、知行に応じて軍役を課す貫高制が確立した。独自に家臣や領民の争いを調停する分国法を制定するものもあった。このような戦国大名による独自性の高い強固な領国支配体制を大名領国制という。これは守護大名の守護領国制がより集権性を高めて発展した支配形態とされる。
戦国大名の出自を概観すると、今川氏、武田氏のように守護大名から、朝倉氏、長尾氏のように守護代から、織田氏のように守護代の有力家臣から戦国大名に成長した者が多数を占めたが、毛利氏、田村氏、龍造寺氏のような国人層から出た者も多く、また後北条氏、斎藤氏のような幕府吏僚や浪人を出自とする者も少なからずいた。また珍しい例としては、北畠氏のように国司から戦国大名化した家もある。
戦国大名は、支配の正統性を確立し、近隣大名を凌駕するために、幕府から守護への補任を受ける者が多かった。このことから戦国大名を戦国期守護という概念で理解する見解もある。 戦国大名は支配正統性の確立・近隣への優越という動機に基づいて、朝廷へ多額の貢納を行う見返りに官位(武家官位)を獲得する戦国大名も多数存在した。これにより衰亡寸前だった天皇の権威が再認識されることとなり、天皇は戦国末期〜安土桃山期の天下統一に少なからぬ役割を果たした。戦国大名による領国化が著しく進展し、国内は分権的な様相を呈していたが、織田信長が横死した本能寺の変後、毛利輝元と上杉景勝が豊臣秀吉の傘下に入り、徳川家康も後に従い、四国の長宗我部元親や九州の島津義久なども秀吉に降伏。最後に小田原の後北条氏も滅ぼされたため、一応ここに豊臣家による天下統一を見た。以降は秀吉を中心とした中央集権化へ向かい、これをもって独立した存在たる「戦国大名」は終わりを告げたはずであったが、秀吉は完全に「戦国大名」を消し去ることはできなかった。なぜなら豊臣政権は毛利氏・上杉氏・徳川氏などの妥協の上に成り立っていた政権であり、以前、こうした大名達の独立性が強かったためである。しかしその後、豊臣秀吉の死・関が原の戦い・大阪の陣をへて、徳川家康の優位が決定的になってくると、家康は自らの権威と武力を背景に幕藩体制を構築し、諸大名を厳しく監督するようになった。こうして独立した存在である戦国大名は消滅して、ついに幕府のもとの近世大名へと移行していくのである。
東北・北海道
(蝦夷地、陸奥、出羽)
• 蠣崎氏→松前氏 津軽氏(大浦氏) 浪岡氏 南部氏 葛西氏 大崎氏 伊達氏 二本松畠山氏 蘆名氏 大宝寺氏 相馬氏 田村氏 白河結城氏 安東氏 戸沢氏 小野寺氏 最上氏 岩城氏 石川氏 二階堂氏
• 関東
(相模、武蔵、上野、下野、常陸、下総、上総、安房)
• 後北条氏 三浦氏 扇谷上杉家 山内上杉家 上野長野氏 宇都宮氏 那須氏 佐竹氏 小田氏 結城氏 千葉氏 里見氏 上総武田氏
中部
(甲斐、信濃、駿河、遠江、三河、尾張、美濃、越後、越中、能登、飛騨、越前)
• 武田氏 諏訪氏 小笠原氏 村上氏 真田氏 今川氏 松平氏・徳川氏 織田氏 斯波氏 土岐氏 斎藤氏 長尾氏・上杉氏 椎名氏 神保氏 畠山氏 姉小路氏(三木氏) 朝倉氏
畿内・近畿
(若狭、近江、山城、伊勢、志摩、伊賀、大和、摂津、河内、和泉、紀伊、播磨、丹波、丹後)
•  若狭武田氏  浅井氏  六角氏  京極氏  北畠氏  松永氏  細川氏  三好氏  赤松氏  別所氏  波多野氏  赤井氏  一色氏  畠山氏  筒井氏  足利氏
中国・四国
(但馬、因幡、備中、備前、備後、美作、安芸、出雲、石見、長門、周防、土佐、阿波、讃岐、伊予)
• 赤松氏 安芸氏 尼子氏 土佐一条氏 宇喜多氏 浦上氏 大内氏 吉川氏 河野氏 小早川氏 伊予西園寺氏 陶氏 長宗我部氏 香宗我部氏 伊予宇都宮氏 十河氏 三村氏 毛利氏 本山氏 山名氏
九州
(対馬、豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)
• 宗像氏 宗氏 城井氏 大友氏 秋月氏 少弐氏 菊池氏 龍造寺氏 蒲池氏 有馬氏 松浦氏 阿蘇氏 相良氏 伊東氏 肝付氏 島津氏 大村氏 立花氏
戦国大名と抗争した戦国時代の勢力
• 一向宗(浄土真宗本願寺派)比叡山(延暦寺) 雑賀衆 根来衆(根来寺)堀越公方(足利氏) 古河公方(足利氏) 堺衆

上杉禅秀の乱 室町時代の1416年(応永23)に関東地方で起こった戦乱。前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。
経緯
鎌倉府は南北朝時代に足利(室町)幕府が関東統治のために設置した機関で、鎌倉公方は関東管領によって補佐され、管領職は上杉氏による世襲状態であった。1409年(応永16)に第三代足利満兼が死去すると満兼の子の持氏が新公方となった。前年まで関東管領であった犬懸上杉氏の上杉氏憲は前年に鎌倉公方と対立して辞職し、後任の管領に犬懸上杉氏と対立関係にあった山内上杉氏の上杉憲基が管領職に付くと、持氏の叔父にあたる足利満隆、満隆の養子で持氏の弟である足利持仲らと接近し、氏憲の婿にあたる岩松満純、千葉氏、宇都宮氏、小田氏、武田氏や地方の国人衆なども加えて1416年に持氏に対して反乱する。氏憲らは持氏を鎌倉からは追うが、今川範政を頼り駿河へ逃れた持氏は幕府の援助を受け、乱は翌17年に氏憲や満隆、持仲らが鎌倉雪ノ下で自害した事で収束した。また、乱で敗北した事により犬懸上杉氏は滅亡した。室町幕府では乱に際して4代将軍の足利義持は持氏を支援するが、一方では義持の弟の足利義嗣が出奔する事件が起こり、義嗣は捕縛されて幽閉されるが、幕府内で上杉氏憲と内通してたと疑惑を持たれるものの名前があがるなど波紋が広がる。鎌倉公方は氏憲の残党狩りや反対勢力の粛清などを行うと同時に自立的行動を取りはじめ、守護任命などを巡り幕府は関東公方を警戒し、また関東管領との意見対立も続き、関東地方での騒乱は1438年(永享10)の永享の乱、1440年(永享12)の結城合戦などに引き継がれた。

永享の乱 室町時代の1437年(永享9年)に関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に際して室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件である。
経緯
室町幕府は南北朝時代に関東統治のため設置した鎌倉府の鎌倉公方と対立関係にあり、鎌倉公方を補佐する関東管領に補佐されるが、4代将軍足利義持時代の1416年(応永23年)には前関東管領の上杉氏憲(禅秀)が4代鎌倉公方足利持氏に対して挙兵する上杉禅秀の乱が起こる。乱は幕府との協力で鎮圧されるが、戦後には持氏は残党狩りにおいて幕府の支援する佐竹氏を討伐するなど自立的行動が目立つようになり、幕府と鎌倉府は対立関係となる。1429年に元号が「正長」から「永享」に改元されたが、将軍職をも望む鎌倉公方の足利持氏は正長の元号を用い続け、幕府に対する不服従の態度を取り続けていた。1435年(永享7年)に持氏は軍事行動をはじめ、1419年(応永26)に関東管領に就任した上杉憲実は持氏を制止するが、持氏と険悪な関係となり、1437年(永享9)に持氏が憲実を暗殺するという噂が流れると、憲実は鎌倉から相模国藤沢へ逃れる。両者は持氏の妥協により和解するが、1438年(永享10年)6月、持氏が嫡子の賢王丸の元服を幕府に無断で行うと再び対立し、同年8月、分国であった上野国(群馬県)平井城に逃れる。持氏は憲実追討のため一色直兼に軍を与えて差し向け、自身も武蔵国府中高安寺(東京都府中市)に陣を構える。憲実は幕府に救援を請う。幕府では6代将軍義教が篠川御所の足利満直や駿河国の守護今川範忠に憲実の救援を命じ、さらに上杉持房、上杉教朝(彼らは禅秀の子でもある)ら幕軍を派遣する。このときに義教は朝廷権威を利用し、後花園天皇に対して3代将軍足利義満時代以来であった治罰綸旨と錦御旗の要請を行う。9月27日、今川勢は持氏方の軍勢を撃破して足柄山を越え、上杉持房も箱根の陣を破る。10月4日、憲実も平井城を出陣して、一色軍を破った。更に、鎌倉の留守を守っていた三浦時高が守備を放棄して退き、寝返って鎌倉へ攻め込んだ。劣勢に陥り、兵の多くが逃亡した持氏は相模国海老名まで退き、更に鎌倉へ落ちようとした。持氏一行は途中で憲実の家宰長尾景仲の軍と出会い、持氏は幕府への恭順を誓い、ともに鎌倉の永安寺に入った。11月4日、持氏は称名寺に入り出家する。一色直兼以下の持氏の近臣たちは、称名寺で幕府軍に攻められ自害した。持氏は永安寺に移され、幕府軍により幽閉された。憲実は持氏の助命と持氏の嫡子義久の関東公方就任を嘆願するが、義教は許さず討伐を命じた。1439年(永享11年)2月10日、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏、稲村御所の足利満貞らは自害し、義久は鎌倉報国寺において自害した。
憲実は戦後に出家し、政務を引退している。翌1440年(永享12年)には結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵する結城合戦が起こる。乱の様子は『永享記』に記されている。

足利学校 平安時代初期、もしくは鎌倉時代に創設されたと伝えられる中世の高等教育機関。室町時代から戦国時代にかけて、関東における事実上の最高学府であった。下野国足利荘五箇郷村(現栃木県足利市)にあったが、明治初期にはほとんど建物があるだけになっており、明治5年(1872年)に廃校になった。以来孔子廟などわずかな建物を残すのみであったが、1990年に方丈や庭園が復元され、公開された。今日では足利市の生涯学習のよすがとして、足利市教育委員会によって管理されている。
歴史
足利学校の創建年代については諸説あり、長らく論争となっている(本項の論争の節を参照)。
室町時代の前期には衰退していたが、1432年(永享4年)、上杉憲実が足利の領主になって自ら再興に尽力し,鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(しょうしゅと読み、校長のこと)に招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を盛り上げた。その成果あって北は奥羽,南は琉球にいたる全国から来学徒があり,代々の庠主も全国各地の出身者に引き継がれていった。教育の中心は儒学であったが、易学においても非常に高名であり、また兵学、医学も教えた。戦国時代には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあったという。学費は無料、学生は入学すると同時に僧籍に入った。学寮はなく、近在の民家に寄宿し、学校の敷地内で自分たちが食べるための菜園を営んでいた。構内には、菜園の他に薬草園も作られていた。享禄年間(1530年頃)には火災で一時的に衰微したが、第7代庠主、九華が後北条氏の保護を受けて足利学校を再興し、学生数は3000人と記録される盛況を迎えた。この頃の足利学校の様子を、キリスト教の宣教師フランシスコ・サビエルは「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記し、足利学校は海外にまでその名が伝えられた。ザビエルによれば、国内に11ある大学及びアカデミーの中で、最大のものが、足利学校アカデミーである。学校自体は、寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像がある。本堂の他に別途、孔子廟が設けられている、という。しかし1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、後北条氏と足利長尾氏が滅び、足利学校は庇護者を失うことになった。学校の財源であった所領が奪われ、古典籍を愛した豊臣秀次によって蔵書の一部が京都に持ち出されるなど、この時期の足利学校は困難に直面した。しかし当時の第9代庠主三要は関東の新領主である徳川家康に近侍して信任を受け、家康の保護を得て足利学校は再び復興した。江戸時代に入ると、足利学校100石の所領を寄進され、毎年の初めにその年の吉凶を占った年筮(ねんぜい)を幕府に提出することになった。また、たびたび異動があった足利の領主たちによっても保護を受け、足利近郊の人々が学ぶ郷学として、江戸時代前期から中期に二度目の繁栄を迎えた。しかし江戸時代には京都から関東に伝えられた朱子学の官学化によって易学中心の足利学校の学問は時代遅れになり、また平和の時代が続いたことで易学、兵学などの実践的な学問が好まれなくなったために、足利学校は衰微していった。学問の中心としての性格ははやくに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典籍を所蔵する文庫として足利学校に注目していたのみであった。明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。廃校後、方丈などがあった敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去された。また、栃木県は足利学校の蔵書の一部を県に払い下げようとしたので、足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕したが、旧足利藩士田崎草雲らの活動により、蔵書は地元に返還され、孔子廟を含む旧足利学校の西半分とともに県から地元に返還された。地元足利町は1903年、足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立し、足利学校の旧蔵書を保存するとともに一般の図書を収集して公開した。また1921年、足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は国の指定史跡となり、保存がはかられることになった。1980年代になり、小学校の移転、遺蹟図書館の一般図書の県立足利図書館への移管が行われ、史跡の保存整備事業が始められた。そして1990年に建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期のもっとも栄えた時分の様子が再現された。
論争
足利学校の成立や、初期の体制については記録が残っておらず、しばしば論争になった。創設時期をもっとも古くとる説では、伝承によればかつて足利学校は下野国の国学であった、という。明治期にこの説を唱えた川上廣樹によれば、当初、都賀郡の国府に併設されていたが、足利家が将軍家となると、ゆかりの地に国学を移設したのだという。これに対し、国府と国学の位置が離れすぎており、当時移設したという記録もないという反論が出された。川上説は現在はあまり信じられていない。なお、国学起源説では、15世紀に編纂されたといわれる『鎌倉大草紙』の記述により、足利市昌平町の現在地に移転したのは、1467年であるとしている。近年、前澤輝政は、下毛野国(のちの下野国)が作られた際、国府は現在の足利市伊勢南町付近に置かれたとし、このときに国府に併設して国学がおかれ、これが足利学校の由来で、創立は8世紀であるとの新しい国学起源説を明らかにしている。前澤は自説の論拠として、現在使われていない古い地名で、足利市伊勢町・伊勢南町の境界付近が「国府野」「学校地先」と呼ばれていたことと、「國」などと刻印された瓦がここで出土したこと、江戸時代まで、この地が学校領であったことが古地図で確認できることなどを挙げている。ただし、前澤は、国府と国学は都賀郡(現在の栃木市方面)に移転したが、何故、足利の国学が廃絶せずに残ったのかについては理由を述べていない。また、足利に国府が置かれたかもしれないというのも、文献などによる有力な証拠がなく、今のところ仮説に過ぎないことに注意する必要がある。古くからの国学起源説の論拠として挙げられるものに、「野之国学」と記された足利学校の蔵書印の存在がある。この印影は江戸期の一部の蔵書にしか使われておらず、印そのものも紛失していることから、後代の偽造であるとされてきた。これに対しては、川上と後述する前澤輝政は、この印は現在の足利市伊勢町付近から出土した、という記述を近藤正斎が『右文故事』(1817年)中に残しており、本物である可能性も捨てきれない、と主張している。しかし、これに対しては既に、印が偽造されたあとにそれらしい伝説が作られたのではないかという反論が既に明治にされている。別に有力視されている説は、『鎌倉大草紙』に基づき、小野篁によって839年(または842年)ごろに創設されたというものである。ただし、篁が下野国に関連する役職に就いたことはなく、また、設立年とされる年には流刑になっていることから、この説には信憑性がないという主張が強い。このほか、12世紀末に足利義兼によって設立されたという説がある。この説は、『高野春秋編年輯録』巻七(1719年)に、12世紀末の文治年間ごろ、足利義兼が足利に寺(現在の鑁阿寺)と学校を持っていた、という記述があることを根拠にしている。ただし、現存するにもかかわらず、鑁阿寺側には該当する記録が残っていない。なお、国学起源説、小野篁創設説の場合でも、足利義兼は復興させた人物であるとみなすことがある。極端な主張では、足利学校は上杉憲実が開設したもので、1432年以前には存在しなかったという説もある。これは、水戸藩が編纂した『大日本史』の記述を元にしている。ただし、厳密に読んでいくと、上杉以前の時代に足利に学校があったことを意味する記述も大日本史中に存在することに注意する必要がある。

享徳の乱 室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった関東地方における内乱。鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺 した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方方が争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。
前史
観応の擾乱を受けて足利尊氏が設置した鎌倉府は、尊氏の子である基氏の子孫が世襲した鎌倉公方(元はこちらを関東管領と言った)を筆頭に上杉氏が代々務めた関東管領が補佐する体制であったが、次第に鎌倉公方は幕府と対立し、関東管領とも対立していた。これを打開するため、足利義教は前関東管領上杉憲実を討伐しようと永享の乱を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を攻め滅ぼした。
その後、義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を奉じて挙兵する結城合戦が起こるが、これも鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治がなされた。しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は 関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。
発端
再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任し、成氏を補佐し始めたが、成氏は父持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めた。当然、憲忠は彼ら持氏派(反上杉派)に反発した。関東管領を務めた山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏等の進出を阻止するため、1450年(宝徳2年)関東公方成氏を攻めた(江の島合戦)。この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより関東公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。鎌倉を辞していた憲忠は間もなく許され鎌倉に戻ったが、成氏により景仲方の武士の所領が没収されたことを契機に、成氏と景仲ら憲忠家臣団との対立は所領問題に発展した。1455年1月15日(享徳3年12月27日)、景仲が領国である下野国に行って留守の隙を狙った成氏は、憲忠を屋敷に招くとこれを謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が山内上杉邸を襲撃した。憲忠の後を継いだ弟房顕は上野国平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した。
古河公方
顕房、景仲らは、武蔵国分倍河原の戦いで成氏軍の前に大敗を喫して武蔵を追われ常陸国小栗に逃走したが、事前に憲忠謀殺を幕府へ報じ、成氏征討を要請していた。成氏討伐を決定した幕府は駿河国守護今川範忠に出陣を命じたが間に合わず、小栗城は成氏により落とされた。成氏は宇都宮氏を降すなど各地を転戦していたが、留守にしていた本拠鎌倉を今川範忠により占拠され、下総国古河に入った。成氏は以後古河御所を本拠地とし古河公方と呼ばれた。1456年(康正2年)、顕房は武蔵国に入り成氏と交戦を続けた。
堀越公方
1458年(長禄2年)、将軍義政は成氏への対抗策として、前年に還俗させた弟の政知を正式な鎌倉公方として関東に送った。政知には山内上杉家の他、渋川義鏡などが付けられていたが、実権は全て幕府に握られており、関東地方在住の武士たちの支持・協力も得る事ができなかった。そのため、鎌倉に入ることが出来ず、手前の伊豆国の堀越に入り、堀越公方と称した。一方顕房は1459年(長禄3年)、太田庄の戦いにおいて大敗を喫し、1466年(寛正7年)には陣没。後は上杉顕定が継いだ。1471年(文明3年)、成氏方の千葉氏、小山氏、結城氏らが伊豆へ侵攻し、政知は三島で敗退した。顕定ら上杉方は成氏方の主力が伊豆に出陣している留守を狙い、古河に出陣。下野国内の諸城を降した。この間、成氏は幕府主導の改元に従わず、享徳の年号を使い続けた。
和解
1476年(文明8年)上杉家有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事になれなかった不満のため、離反。危機感を抱いた顕定は1478年(文明10年)、成氏と和睦。翌1479年(文明11年)、成氏は幕府とも和議を申し出、1482年(文明14年)に至り、ようやく幕府と成氏との和睦が成立した(「都鄙合体(とひがったい)」)。これによって成氏が引き続き関東を統治する一方で、伊豆国の支配権については政知に譲ることになった。成氏による反幕府的行動は停止されたが、配下の諸将を多く持つ古河の成氏と、幕府公認の公方として権限を持ちながら関東に入れない堀越の政知の2人の公方が並存する状態が続くこととなった。

応仁の乱 室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱。幕府管領の細川勝元と、山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し、戦国時代に突入した。応仁文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
将軍義政と義視
室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満・足利義持の代に、将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしき、1441年に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権内のパワーバランスにほころびが見え始める。7代将軍に義教の嫡子足利義勝が9歳で将軍職を継いだが、僅か一年足らずのうちに急逝し、義教の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され、8歳で将軍職を継承した。義政は、母日野重子や愛妾今参局らに囲まれ、家宰の伊勢貞親や季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて育ち気まぐれな文化人に成長した。義政は、守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し、幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。
義政は打続く土一揆や政治的混乱に倦んで、将軍を引退して隠遁生活への移行を夢見るようになっていた。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に、将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立つ。禅譲を持ちかけられた義尋は、まだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考慮して将軍職就任の要請を固辞し続けた。1464年(寛正5年11月26日)、義尋は、義政が『今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない』と起請文までしたため、再三、将軍職就任を説得したことから、意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移ることにした。
文正の政変
1466(文正元)7月、突然、義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。義廉と縁戚関係にあった宗全は、一色義直や土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから、義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき、政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。
勝元と宗全の対立
嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが、1458年、娘婿の勝元が宗全の勢力削減を図って赤松政則を加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていた。文正の政変で協力した二人であったが、それぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する二人でもあった。1465年(寛正6)11月23日、義政と富子との間に足利義尚(はじめ義煕)が誕生すると、実子義尚の将軍職擁立を切望する富子は、宗全に接近し義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍する。当然、宗全は義視の後見人である勝元と対立し、将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分化させて、その衝突は避けられないものとなった。
御霊合戦
このころ、管領職にあった勝元派の畠山政長と宗全派の畠山義就との間にあった家督継承権をめぐる闘争が激化し、さらに義政の気紛れが両派の対立に油を注いだ。1455年(康正元)のころ畠山家総領であった義就は、勝元の策謀によって義政から追放され、従兄弟である政長が替わって畠山家総領を継承した。その後、義就が宗全を頼って復権を願い出ていたところ、1467年(応仁元年)正月2日、宗全に懐柔された義政が、政長や勝元に断ることなく、将軍邸の花の御所(室町第)に義就を招いてこれを赦免した。義政は政長へ追い討ちをかけるように、正月恒例の管領邸への『お成り』を中止して、同年正月5日に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席した。そこで義政は、義就の畠山家総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。政長は反発して管領を辞任、後任は山名派の斯波義廉が就任した。勝元は義政から義就追討令を出させようとするが、義政夫人の日野富子が事情を察知して宗全に情報を漏らして失敗する。政局を有利に運んだ宗全は、自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と花の御所を囲み、義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放を認めなかったものの、諸大名が一方に加担しないことを条件に、義就による政長への攻撃を認めた。義政から廃嫡され賊軍扱いされた政長は勝元に援軍を求めたが、勝元は後日の反撃を期してこれを断った。正月17日、政長は無防備であった自邸に火を放つと、兵を率いて上御霊社(京都市上京区)に陣を敷いた。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全は後土御門天皇や後花園上皇らを室町亭に避難させ、義就に加勢する。勝元は義政の命を守って沈黙。御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置していた。義就は釈迦堂から出兵し、加勢した斯波義廉、山名政豊、朝倉孝景らもそれぞれ攻撃。戦いは夕刻まで続き、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装い逃走、勝元邸に匿われたと言われる。御霊合戦は畠山の私闘、宗全のクーデターに終わる。
東西軍の激突
御霊合戦ののち、、細川勝元は領地の四国9カ国から兵を終結させ、細川派の大名では赤松政則が播磨で山名領へ侵攻して守護職を奪還した。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固める。5月には武田信賢、細川成之らが若狭の一色氏の領地へ侵攻、都でも一色義直の邸や西軍諸将の屋敷を襲撃、斯波義敏は尾張から遠江へ侵攻する。4月には足利義視が調停を試みている。5月、勝元は北陸に落ちていた政長を含む全国の同盟者に呼びかけ、花の御所を制し、戦火から保護するという名目で将軍らを確保、天皇、上皇を室町亭に迎える。勝元は今出川邸の自邸に本陣を置き、6月には義政に要請して牙旗を授与され、官軍の体裁を整えた。宗全は5月に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置く。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は、『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるとも指摘されている。京都に集結した諸将は、北陸から信越、東海、九州の筑前、豊後、豊前が大半であったが、「東軍」には細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、地理的には優位を占めていた。逆に「西軍」は山名氏始めとしてこうした細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していた。中には義政側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行き的に参加したものも多く、その統率には不安が残されていた。一方関東地方や東北、九州南部などの地域においては、既に中央の統制下から離れた状態のまま、各地域内部において有力武家間の大規模な紛争が発生しており、この戦いとは全く無関係に戦乱状態に突入していた(関東については享徳の乱を参照のこと)。
戦況の変遷と膠着化
当初、東軍が義政の支持を受けて「官軍」と号し、内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と義政を確保したこと、細川氏及びその支持者の領国が畿内周辺に集中していた事が幸いして戦いを有利に進めたが、 6月には細川領丹波国を制圧した山名兵8万が上洛、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7カ国の軍勢をはじめ、水軍を率いて入京、西軍が勢力を回復する。相国寺の戦いは激戦で両軍に多くの死傷者が出たものの勝敗を決することは出来なかった。応仁元年8月29日、突然、義視が東軍を出奔して伊勢国の北畠教具の元に身をおく。義視出奔の原因は、武衛騒動で追放されていた宿敵伊勢貞親が幕府に復権したことが一因とされるが、このころ義政や後見人の勝元が自らの廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたが主な原因であろう。約束どおり将軍職位譲を行わない義政、義視将軍就任のために積極的に動かない後見人勝元、富子に見守られ僧門に入ることもなく成長して行く義尚。義視は、義尚誕生のときから幕府に身の置き場所をなくしていたのである。その後、しばらく伊勢国に滞在した義視は、勝元や義政に説得されて東軍に帰陣するが、再度出奔して比叡山にのぼった。義尚擁立に転じた勝元が、穏便な形をとって義視を御所から事実上追放したのである。応仁元年11月23日、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎えいれると”新将軍”に奉り幕府の体裁を整え東軍に対抗した。更に西軍は北畠氏を通じて後南朝勢力にも協力を呼びかけた。対立構図のねじれ、自己の利に従って離散集合をくり返す諸勢力。このような状況下で、身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東西両軍の戦いは膠着状態に陥っていった。その中で東軍配下の足軽骨皮道賢が後方攪乱などのゲリラ戦を試みたが、所詮、盗賊や凶悪人を多く含んだ集団で戦局を打開することは出来なかった。1469年(文明元年)になると、大内氏の重臣で文武両道の名将として知られた益田兼堯が石見国で離反、九州の大友親繁・少弐頼忠とともに大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、この動きは鎮圧されたものの、1471年(文明3年)には守護代でありながら西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政自らの越前守護職補任をうけて東軍側に寝返ったのである。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸守護大名は京都での戦いに専念できなくなった。こうして東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。
1473年(文明5年)になると、3月18日に宗全が、5月11日に勝元が相次いで死去し、12月19日には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。1474年(文明6年)4月3日に、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたものの、1477年(文明9年)11月11日に大内政弘が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し京都での戦闘は収束した。11月20日に、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され10年に及ぶ「応仁の乱」の幕が降ろされた。だが、延べ数十万の兵士を都に集結させて11年にもわたり戦闘が続いたにも関わらず、主だった将が戦死することもなく、ただ惰性的に争いを続けてきた挙句に守護大名たちが獲得を目指していた「幕府権力」そのものが権威を失墜させてしまい、結果的に獲得するものは何もなかったのである。
社会の変化
応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように、真の実力者の身分上昇をもたらした。時代は下克上が全国に拡散されて戦国時代に向かうことになる。残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も山城国で政長と義就は戦いを継続したが、度重なる戦乱に対して民衆は国人を中心にして団結すると、勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に排除した。それは旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。
旧勢力の没落と新興勢力の台頭
室町時代をつらぬくキーワードは、「旧勢力の没落と新興勢力の台頭」である。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食され没落の一途をたどっていた。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は、3代将軍足利義満と6代将軍足利義教のときを除いて、成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。
こうした環境は、当時、長子による家督権継承が完全に確立されていなかったことも相まって、しばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。男子長子による家督相続は、豊臣秀吉の天下統一以降に制度化したもので、江戸幕藩体制の中で確立し旧民法で法制化され戦後の民法改正まで継続したものである。楽市・楽座(らくいち・らくざ)は、日本の近世、16世紀から17世紀にかけて織田信長、豊臣秀吉の織豊政権や各地の戦国大名などにより城下町などの支配地の市場で行われた経済政策である。楽市令。破座。「楽」とは規制が緩和されて自由な状態となった意味。
既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して、自由取引市場をつくり、座を解散させるもの。中世の経済的利益が、座・株仲間によって独占され既得権化していたが、戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図った。欠点としてはこの時期問屋業者が増え、店自体の売上が均一化し、多くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった所があげられる。それらの欠点は豊臣秀吉時代の末期には露呈化された。各地の大名によって城下町等に布告されたが、1549年(天文18年)近江国の六角定頼が、居城である観音寺城の城下町石寺に楽市令を布いたのが初見。なかでも織田信長は、自分自身が美濃国・加納、近江国・安土、近江国・金森に楽市・楽座令を布いただけでなく支配下の諸大名に伝達され、各城下町で実施された。地方都市においては未だに継続している朝市や昼市、地名に市の名を残す十日市などはその名残りである。

ルイス・フロイス(Luis Frois, 天文元年(1532年) - 慶長2年5月24日(1597年7月8日))はリスボン生まれのポルトガル人。イエズス会員でカトリック教会の司祭、宣教師。「日本史」を執筆。

生涯
1532年に誕生。 1548年、16歳でイエズス会に入会した。同年、当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価され、各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。
1563年、31才で横瀬浦(現在の長崎県西海市北部の港)に上陸して念願だった日本での布教活動を開始。日本語を学んだ後、1564年に平戸から京都に向かった。1565年1月31日、京都入りを果たしたが、保護者と頼んだ将軍足利義輝と幕府権力の脆弱性に失望。三好党らによる戦乱などで困難を窮めながらも京都地区の布教責任者として奮闘した。1569年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の1つになっている。)その後は九州において活躍していたが、1580年巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年、時の総長の命令として、宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後、彼はこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後に『日本史』とよばれることになる。信長の対イエズス会政策を継承していた豊臣秀吉は、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年6月19日、伴天連追放令を出すに至ったため、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち長崎に落ち着いた。1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、5月24日没した。享年65。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。
著作
早くから文筆の才を注目されていたフロイスは毎年の『イエズス会日本通信』や『日欧文化比較論』を含め多くの著作を残しているが特に有名なものはなんといっても『日本史』(Historia de Iapan)である。この本は1549年のサビエルの来日に始まり、1593年の記述でおわっている。『日本史』はイエズス会の日本宣教の記録であるが、同時代史として、フロイス自身の目で見た京都や堺、九州の諸都市の様子から、信長、秀吉など多くの戦国の武将たちの客観的かつ詳細な記述、各地の戦乱の詳細な記録などを含み、戦国時代の様子を知る貴重な資料となっている。またローマ字で表記されているため、当時の氏名や地名の読みなどもここから明らかになっている。『日本史』の存在は古くから知られていたが、著作そのものは長きにわたって行方不明であった。その後の調査で写本がスペイン・ポルトガルで散逸したこと、原稿はマカオで焼失したことがわかり、19世紀になって各地で写本が発見され、不完全ではあるもののフロイスのこの大作が復元された。
『日本史』の構成
『日本史』は以下のような構成によって成り立っていたことが研究によってわかっている。
• 序文  日本六十六国誌 (未発見) 日本総論 (目次のみ現存) 第一部(1549年〜1578年の記録) 第二部(1578年〜1589年の記録) 第三部(1590年〜1593年の記録)

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼らの持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた(これをキリシタン版という)。
目的
ヴァリニャーノは自身の手紙の中で、使節の目的をこう説明している。第一はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、布教に役立てたいということであった。
使節団の構成
使節の少年たちはセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。
• 使節
o 伊東マンショ(正使) 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
o 千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代。純忠の甥。後に棄教。
o 中浦ジュリアン(副使) 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。
o 原マルティノ(副使) 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
• 随員
o ジョルジェ・ロヨラ修道士  使節の教育係、日本人
o コンスタンチノ・ドゥラード 印刷技術習得要員、日本人
o アゴスチーノ  印刷技術習得要員、日本人
o アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 ローマへ随行するつもりだったが、職務によってゴアにとどまる。
o ヌーノ・ロドリゲス神父 ヴァリニャーノの後をついで一行に従う。
o ディオゴ・メスキータ神父  通訳、イエズス会員
o ロレンソ・メシア神父
o オリヴィエーロ修道士
関係年譜
• 1582年2月 長崎港を出港。
• 1582年3月 マカオ着。風を待つ。
• 1583年11月 マラッカ・コチンをへてゴア着。
• 1584年8月11日 ポルトガルの首都リスボンに到着。
•   〃   リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿(フェリペ2世の甥)の王宮に招かれる。
• 1584年11月 スペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世の歓待を受ける。
• 1585年3月 フィレンツェに到着。メディチ家による舞踏会に参加。
• 1585年3月 ローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
• 1585年4月 グレゴリオ13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式に出席。
• 1585年6月 ローマを出発。以後ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどの諸都市を訪問。
• 1586年4月 リスボンを出発。帰路につく。
• 1587年5月 インドのゴアに到着。ヴァリニャーノに再会。
          コレジオにおいて原マルティノの演説が行われる。長崎で大村純忠死去。
• 1587年6月 豊後において大友宗麟死去。
• 1587年7月 豊臣秀吉によるバテレン追放令発布。
• 1590年7月 使節団帰国。長崎に帰港。
• 1591年3月 聚楽第において豊臣秀吉を前に、西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏する。
使節団が持ち帰った西洋の文物
• 活版印刷機
• 西洋楽器
• 海図

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名今川義元に対し、尾張の大名織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を壊走させた、歴史上最も華々しい逆転劇と言われた非常に有名な戦いである。西に勢力を拡大し続けてきた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内制覇に向かって急成長していったことで、戦国時代の重要な転機となった。
合戦の経過
合戦以前の情勢
桶狭間の戦いの以前、織田氏と今川氏は、信長の父織田信秀の時代から三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきた。西三河を支配していた戦国大名松平氏が若い当主の相次ぐ変死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、天文11年(1542年)の第一回の小豆坂の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。しかし、天文17年(1548年)の第二回の小豆坂の戦いでは今川方が勝利を収め、この戦いの後、織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退、尾張国内の鳴海城(愛知県名古屋市緑区)、大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ち、情勢は今川方が優勢であった。しかし、織田氏は次第に逆襲に転じ、これらのうちもっとも織田領に食い込んだ鳴海城の周囲を取り巻くように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築き、鳴海城を圧迫した。鳴海城の南にある大高城も織田氏の築いた丸根砦、鷲津砦によって鳴海城、沓掛城との連絡を遮断され、孤立していた。
合戦までの経過
この情勢のもと永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日夜、松平元康(のちの徳川家康)が率いる三河衆を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。
翌19日早朝3時頃、元康と朝比奈泰朝は織田方の丸根砦、鷲津砦に一斉に攻撃を開始する。一方、前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長は、今川軍の攻撃開始の報を得て明け方の午前4時頃に居城清洲城を進発。わずかな従者のみを連れて出た信長は朝8時頃熱田に到着、軍勢を集結させて熱田社に戦勝祈願を行った。午前10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に入っておよそ4,000人といわれる軍勢を整えた。この間に今川軍先鋒の猛攻を受けた丸根、鷲津の両砦は陥落、大高城周辺の制圧を完了した今川方は、今川義元が率いる本隊が沓掛城を進発し、大高城の方面に向かって西に進んだ。一方の信長は11時から12時頃、善照寺砦より出撃、鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した。
桶狭間の合戦
13時頃、突如豪雨が降り、視界が悪くなった。通説では、この雨に乗じて迂回行動を行ったとされているが、現在ではそれに否定的な見解が主流である(これについては後で詳しく論じる)。
雨がやんだ直後、織田軍は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始した。全軍で2万5000を数えた今川軍も、本隊はそれほど大きな兵力をもっていなかったため、4000人が一団となって突撃してきた織田軍の猛攻によって混乱し、劣勢を悟った義元は退却を命じた。しかし、双方の大将が徒歩立ちになって刀槍をふるう乱戦となり、ついには今川義元の旗本部隊に織田信長の旗本部隊が突入した。
義元は信長の馬廻の1人、服部小平太に斬りかかられるものの、逆に服部を斬って負傷させた。しかし、服部との格闘の間に迫ってきた新手の毛利新助と乱戦になり、ついに毛利によって討ち取られた。討ち取られた時、義元は毛利新助の人差し指を噛み切るほど抵抗したといわれている。義元の戦死によって今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田方の大勝に終わった。
合戦後の情勢
主将今川義元と多くの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって退却していった。大高城を守っていた松平元康も合戦直後に大高を捨て、岡崎城近くの大樹寺(松平家菩提寺)に入った。ところが岡崎城を守っていた今川氏の城代までも城を捨てて駿河に去ってしまったため、元康は岡崎城に入城した。尾張・三河国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日に沓掛城を攻略するなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし、鳴海城は城将岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級(しゅきゅう、討ち取った大将の首のこと)と引き換えに開城、義元の首を携えて駿河に帰国した。一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたことにより、岡崎の元康は今川氏から半ば自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と松平元康の角逐の場となった。しかし元康は、義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由(勿論これは口実であって、氏真は当主の死で混乱する今川家中の安定化に力を注ぐ事を重視し、逆に元康は氏真体制が固まる前の自立を図った)に今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させてゆくことになる。
合戦の実態をめぐる議論
桶狭間の戦いの経緯はこれまで説明したきた通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいる。
義元の尾張侵攻の理由
長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。しかしながら、義元は今川氏を継承してから長らく三河、尾張で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げており、尾張をほとんど制圧していない状況で一挙に上洛を目指すという、冒険的決断をしたとするには難がある。確かに、後に足利義昭を奉じて上洛する織田信長や、次いで京都に入って信長に代わって中央権力を掌握しようとした武田信玄らの例はあるが、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。仮に、信長や信玄が上洛の名分に利用したように、将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と、義元の従来の領土拡大の方針からみて、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。実際、義元が1559年に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。既に合戦以前の情勢の節で述べたように、当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいる優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の二城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしても、せいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている。
合戦場と奇襲の問題
桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において、議論となっている問題がある。いずれの説も根拠とされる歴史書である『信長公記』または『信長記』に基づいたものであるが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には信長の家臣太田牛一が書いたことから信長公記の信頼性が高いとされる。
合戦場
「どこで」、すなわち合戦の行われた戦場については、一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に近代以降、「桶狭間の戦い」という名称が歴史学上で定着し、文部省の学校教育を通じて全国的に人口に膾炙している。『信長公記』は、今川義元は桶狭間山という場所(場所については後述)に本陣を構えたと記録されている。「桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市緑区の有松町(旧知多郡有松町)に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」は東海道からやや離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと、合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て、今川方の最前線である大高城に至る。一方、『信長記』には田楽坪(または田楽狭間)と記されており、今川義元はこの場所で討たれたという。田楽坪も大部分が現在の愛知県豊明市にあたる深田(窪地)であり、江戸時代の東海道に近い。
合戦地の場所については、東海道のすぐ傍にある豊明市内の「桶狭間古戦場伝説地」が観光地として著名である。この場所は『信長記』の伝える合戦地である田楽坪に近く、またここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られている(『守貞漫稿』)。同地は陸軍参謀本部の『日本戦史』など明治以降の諸書の戦史が合戦地と採用しているように広く定着しており、1937年(昭和12年)に国指定史跡となっている。ただ、合戦当時の東海道は江戸時代よりも北を走っていたとされ、この場所は後世の東海道に近すぎ、当時の幹線からも大高城からも離れているため、合戦地としては不自然とみる向きもある。また、東海道側の義元の墓も江戸時代に知られるようになったものなので、後世に観光名所としてつくられたものだという意見もある。また、『信長公記』において今川義元の本陣が置かれていたとされる「桶狭間山」は、18世紀前半(延享2年)の大脇村(現豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、18世紀後半(天明元年)の落合村(現豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市の桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。一方、豊明伝承地から西の丘陵地帯に入ったところにある名古屋市緑区内の「桶狭間」には、今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」(ただし、現在の松は伊勢湾台風で古木が倒壊したため、新たに植え替えたものである)や、桶狭間古戦場公園という名前の公園がある。桶狭間古戦場公園は豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」のように古くからの観光名所ではなく、1988年(昭和63年)の土地区画整理事業に伴って整備された都市公園であるが、園内には今川義元戦死地の碑、馬繋ぎの塚、首洗いの泉などがあって、こちらも桶狭間の戦いの合戦地を主張している。また近年には、『信長公記』にいう「桶狭間山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説も見られる。両地は江戸時代以来、行政上、別々の村、町、市に分断されて続けてきたため、合戦地の本家争いが続いている。特に知名度に勝る豊明市側は桶狭間の合戦ゆかりの町としての自覚が強く、毎年6月に鎧武者の格好で当時の合戦の模様を再現して見せる行事(現在の桶狭間古戦場祭り)が行われたり、愛知県が同市に設定したマスコットが織田信長と今川義元のイラストであったりする。
奇襲
「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の2つの説にまとめることができる。
1. 「迂回攻撃説」
善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
2. 「正面攻撃説」
善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍。折からの豪雨で視界がきかないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。「迂回攻撃説」は江戸時代初期の作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」は現在では否定的または俗説とする見解が見られる。「迂回攻撃説」では、前提として、今川軍が丸根、鷲津の勝利に奢って油断していたとされる。「正面攻撃説」を取る人も、信長があらかじめ情報をよく収集して(後述)、今川軍が油断しているところを義元の首のみを狙って一挙にしかけたのだというような見解を述べることがある。例えば、『信長公記』には、「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」(今川義元は塗輿を捨てて逃げた)という記述があるが、総大将の目印となる塗輿が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲をまったく予期していなかったのだ、という見方がされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入し撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても、合戦に慣れた当時の武将たちの1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくい、という反論もある。例えば大久保彦左衛門の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたという事も書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長があらかじめよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、『信長記』等における、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田出羽守(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正と同一視される)が勲功第一とされたという逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば、信長があらかじめ情報を収集していたという見解にも無理があることになる。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元

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