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チェダゼミナールコミュの経済原論?(一年後期)

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経済原論(政治・経済学)04EE769 与田 光将
?人間性理解について、ベンサムの功利主義とマスローの人間性の心理学の差異を示し、批評しなさい。

ベンサムの功利主義とは、快を求め苦を避ける人間本性を善導して、「最大多数の最大幸福」を実現することが道徳・立法・経済などの理想であるとしたものである。

ベンサムは快楽の量を重んじ、同じく功利主義であるJ・Sミルは質を重んじた。

ベンサムは、快が唯一の善、苦が唯一の悪であるとし、味覚や嗅覚や触覚の快、財産を獲得する快、他の人々の善意を獲得していることを知る快、権力の快、自分が気にかけている人々の快を想像する快などを挙げた。

ベンサムはまた心理的快楽主義者でもあった。

快楽主義(hedonism)とは、人生の目的価値の標準を快楽に置き、道徳は快楽を実現するための手段とする立場を言う。

すなわち、快と苦がわれわれのなすことを決定づけるとした。

またベンサムは心理的快楽主義を主張したが、(通常の意味での、自己の利益のみを追求し他人を顧みない)利己主義を主張していたわけではない。

それは、公衆の幸福を意味する「最大多数の最大幸福」という説明からも分かる。

一方マスローの人間性の心理学であるが、多くの心理学者が人間の行動原理について,苦痛からの逃避・欠乏の充足のような暗い側面を強調した(ベンサムも例外ではない)のに対し,幸福や喜びの追求のような明るい側面を強調する。

彼によれば,人間は遺伝的に決定された要求・能力・可能性をもつ。

これらのかくれた本性は訓練や教育によって手なずけられるべきものではなく,成長に伴いそれらがおのずと“自己実現”されるとき,健康な人格が生まれるとした。

また,この実現が環境によって妨げられることが精神病理的症状を生むとも定義した。

具体的には,人間の生得的な要求は強さ・優先性に関して階層をなし,それは,飢えや渇きのような生理的要求,安全への要求,所属と愛への要求,自尊への要求,自己実現への要求,知識のような認知への要求,美への要求の順である。

ある段階の要求が満足されたときに,はじめて次の段階の要求が人間の行動原理となるとされる。

つまり、人間の持つ欲求は、生理的欲求−安全への欲求−社会的欲求−自我欲求−自己実現欲求といった形で低次元の欲求から高次元の欲求へと5つの階層をなしており、低次元の欲求が満たされてはじめて高次元の欲求へと移行するというものだ。

生理的欲求とは、いわゆる人間の三大欲求と言われる食欲・性欲・睡眠欲を表す。

安全への欲求とは、自分や家族を危険から守りたいという欲求、社会的欲求とは、仲間はずれにされたくない、人から愛されたいという欲求、自我欲求(または自律欲求)とは、自分の能力に自信を持ち、また他人からも認められたい、尊敬されたいという欲求を言う。

そして最高位の自己実現欲求(または自己発現欲求)とは、自分の潜在的能力を顕在化させたいという欲求で、この欲求は無限大(満たされることはない)とされている。

さて、マスローによると、自我欲求である四段階までは人間の基本的欲求として1つにまとめられている。

生理的欲求をはじめとする本能的な部分はもちろん、人間であるがゆえに、社会生活の中で当たり前に萌芽する(してしまう)欲求であると考えられる。

これらに対し、自己実現欲求は、社会生活を超越した境地とも言える。

社会的評価、相対的評価よりも自己評価の域に入り、自分の潜在能力の限界への挑戦がはじまる。

自分に何ができるのか、どこまでできるのかといった欲求である。

ベンサムとマスローの心理学を一通り述べたので、ここからは差異について述べよう。まず、生きる意味の定義づけが違う。

ベンサムの功利主義は、その名の通り効用・満足を得るために行動を起こす。

それに対しマスローの心理学は、彼の言葉を借りれば自己実現に向けて行動を起こす。

次に仕事に対する考え方にも差異が生じている。

功利主義者にとって仕事とはお金を稼ぐためでしかない。

つまり心理的にはお金を稼ぐために仕方なく仕事をするという負の効用が発生していることになる。

それに対しマスローの心理学は、仕事は精神的に正の効用をもたらす。

仕事を通じて自分の潜在能力を発揮して、社会に貢献することを生きる喜びにしている。

お金や周りの評価はその後付でしかない。

ここではあえてどっちの心理学に賛成だとか反対だとか批評するつもりはない。

しかし、ひとつだけ言わせてもらえば、マスローのヒエラルキーにひとつ抜けているものがあると思う。

それは、生理的欲求の部分に「遊ぶ欲求」が欠落していることだ。

ホイジンガーの「ホモ・ルーデンス」の言葉にもあるように、人間は自己実現云々よりまず、遊ぶことが不可欠であると思う。遊びの定義にもいろいろあるし、遊ばなくても死ぬわけではない。

しかし、この「ホモ・ルーデンス」とはよく言ったもので、少なくとも自分の中では遊ぶことは生理的欲求に極めて近い。

疑問点としては、マスローのヒエラルキーの最上部まで行ったときの心境とはどのようなものなのだろうかということ。

また、経済的にも精神的にもwell beingの人は世界中でどれだけいるのだろうかということである。

近年のヒューマニストの中でも名高いガンジーやマザー・テレサなどは精神的にはとても健康であったといえるであろう。

意外にもベンサムは1832年に没するまで独身を貫き、功利主義者という名にふさわしくない(?)質素な生活を送ったとされている。

彼にとっての快楽の源泉は、書を読み音楽を聴くといった精神的営みのことだったのだ。

そこでは俗人にとっての快楽である酒池肉林などとは、およそ縁遠かったのだろう。

少なくとも、ベンサムはもともと家が裕福であったがゆえに、生まれてから死ぬまでの80年間以上自分の好きな研究や趣味に没頭することが出来たことは、経済的にも精神的にもwell beingだったといえる。

?物質的富の増進と人間生活の発展に注目しながら、欲望(wants)に基づく功利主義(主流派)経済学と、必要(needs)に基づくヒューマニズム経済学の差異を示し、それぞれに対する君の考えを述べなさい。

欲望(wants)と必要(needs)を市場で置き換えるなら、欲望はハレ市場、つまり非日常を売る市場と置き換えることが出来るのではないだろうか。

非日常とは、ここ一番の特別の日のことを指す。

結婚式や入学式だけでなく、お葬式もハレの日に入る。

つまり総称してレント(過剰利益)を得ることのできる市場といえるのではないだろうか。

これには、大別すると三つからなる。

コレクション市場(好きなモノ)芸術市場(好きなコト)恋愛市場(好きなヒト)である。

それに対し、必要はケ(褻)市場、つまり日常を売る仕事である。生活必需品などがこれに該当する。  

今の日本の市場は、ハレ市場とケ市場への二極化が急激に進んでいる。

そのおかげで二つの市場の中間に位置づけられる総合市場が不振になっている。

総合スーパー、総合商社、総合週刊誌などがそうである。

前置きはこれくらいにして、歴史的考察に入る。

15世紀くらいまでの世界の産業技術をみて比べると、欧州各国よりむしろ中国のほうが世界を凌駕していたらしい。

確かに中国には羅針盤や火薬などがあったのでそれもうなずけるところだ。

しかし、欧州各国のほうが物質的富の追及に対して貪欲であったし、中国ではむしろ道徳的に「悪」とされた。

欧州各国では後に重商主義経済へと突入し、各々の君主が国富増進を是認し、その後大衆化され、産業革命へとつながっていく。

つまり、アダム・スミスの言うところの「平等だけど、皆貧しい」世の中から「平等じゃないが、全体としては豊か」へのパラダイムシフトが起こったのだろう。

この言葉の真偽はともかくとして、このシフトにより主流となった経済学は、今日においても主流である。

そこには、価値の問題の考察を拒絶し、経済学をあくまで客観的立場から述べるものとなっているし、「経済システムとは何か、どう働くのか」といった議論に終始している。

誤解を恐れずに言えば、近代経済学者達は、ピースミール・エンジニアとしての(数式、データ等を使って部分工学的に経済を分析する)仕事を遂行しているに過ぎないのである。

また彼らは基本的に福祉政策をも有害としている点に特徴がある。

それに対してヒューマニズム経済学は、人間の価値観を基軸として論議されている。

主流派経済学者達はそれを「政治学」の分野であって、経済学のそれではないと批判している。

つまり彼らは、経済学を社会科学としてではなく、自然科学や工学に極めて近い存在として捉えているのである。

また、主流派経済学が中心にすえた概念はwants(欲望)であるが、ヒューマニズム経済学のそれはneeds(必要)である。

欲望には際限がないが、必要には際限があり、かつ自然な欲求である。

確かに欲望には上を向けばきりがない。

自分の経験上から言わせてもらえば、お金のないときはとにかく欲しいものがいっぱいあったし、今でも欲しいものは欲を出せばいっぱいある。

しかし、際限のないものを目標にしてもゴールがないのだから目指す意味もないことになる。

欲望を満たすことも大事だが、際限のないものに踊らされてはいけない。

ありきたりな説明にはなるが、やはり人間に生まれたからには人間らしく生きるべきであろう。

人間らしく生きるために、最低限度必要なモノ・サービスを消費することは当然であるが、そのほかのものは、身の丈にあった経済活動をすればいいと思う。

また、物質的富を得た代償として自然破壊・経済格差問題・精神的貧困などが挙げられる。

基本的に世の中の現象はゼロ・サム・ゲームの構図になっており、プラス・サム・ゲームはありえない。

プラス・サム・ゲームになりうるものの例は、リカードゥの比較生産費説による貿易などである。

主流派経済学派曰く「もしいく人かの人々がもっと裕福になる一方で、誰も貧しくならないならば、経済政策は最適」と述べている。

が、先進国の経済発展も、後進国の犠牲や自然破壊を後ろ盾にした経済発展に過ぎないのである。

北欧学派(スウェーデン学派)の代表者であるK・G・ミュルダールは、黒人問題や発展途上国問題など不平等の是正に尽力した人物であるが、次のようなことを彼は述べている。

「先進国に住む豊かな人々は、国の内外にある貧困と、貧者の苦しみを見ようとしない。」と。

具体的には97年12月の地球温暖化防止京都会議においても顕著である。発展途上国の全部または一部が温室効果ガスの抑制・削減を約束しない限り削減義務を引き受けない、と米国が主張したのがこれにあたる。

豊かな人々が不快感を催す事実を見えにくくするための装置、すなわち心理的かつイデオロギー的障壁がどこの国にも存在すると彼は説いた。

つまりそれは、臭いものにはフタをするとか、見て見ぬ振りをするという発想のことである。

また精神的貧困を最も如実に表している統計は、先進国での自殺率の高さである。

いずれにせよ、経済システムの議論に終始するよりも、人間としていかに生きるべきかを模索することのほうがプライオリティーが高いと思われる。

?ヒューマニズム経済学の政策論の要点を示し、批評しなさい。

ヒューマニズム経済学の源流をたどっていくと、紀元前のギリシャまで遡る。

経済学(economy)の語源もギリシャ語のoekonomia(家政の法)からきている。

ヒューマニズムとは今日では人道主義などと解釈されているが、厳密に言うと本来の定義は人文主義というらしい。

さて、その政策論であるが、経済学というよりも政治・経済学といったほうが正確で、経済現象を政治現象や社会構造との関連に重点をおいて議論がなされている。

古代ギリシャの都市のことをポリスと呼ぶが、厳密には政治的共同体としての都市である。

この科学の目標とするところは、富を蓄積したり、あるいは最強の軍隊を持つことではなく、単によき生活と市民の幸福を可能にすることにあった。

ヒューマニスト経済学は貨幣的富より、むしろ生命を生かすという諸価値(vital values)に専念する。

また、近代のヒューマニズム経済学に着目すれば、シスモンディの経済学が挙げられる。

彼は、始めはアダム・スミスの自由主義学説の支持者であった。

しかし、産業革命後のイングランドを訪れた後、資本主義の矛盾を知ることとなる。

それは、生産が増進する一方で、その享受が減退しつつあるということである。

具体的には、資本主義は生産の無制限な発展と同時に小生産者と労働者の破滅と窮乏を招き、消費が生産に対し過少になるという「過少消費説」を唱えた。

そこから、産業社会に対抗する人間と自然との共生型の社会を目指す思想を打ち立てることとなる。

これがいわゆるオルターナティヴな再建と呼ばれるものだ。

彼は、自由放任によって新たに生み出された悲惨な一族である産業労働者を擁護する立場をとった。

具体的には労働時間の短縮や、児童労働の廃止、累進課税制度による富の再分配などである。

これらを実現するために、自由競争の制限や、労働者の保障制度充実などを政府の見える手によって擁護すべきだと主張した。

つまり彼の思想の根幹にあったものは、少数の権力者ではなく大多数の市民の幸福こそが、社会進歩に貢献するということだろう。

 経済学とは本来、経国(世)済民の言葉の通り、国を治め、国民を救うためのものである。

つまり経済学の目的は、シスモンディも言うとおり人間であって、富ではないのである。 

フランスの社会経済学者ジャン・ボードリヤールは十数年前来日してこのように述べた。

「日本という国が豊かなのは、日本人が貧しいからだという逆説が成り立つように思える。」と。

つまり、日本人は物質的富を得た代償として、精神的富を捨てたといいたいのだろう。

それに関して個人差はあるのだが、統計が物語るように基本的に真実であるから彼の説には否定はしない。

経済学は社会科学分野の中で良くも悪くも、自然科学分野に近い学問だと見られている。

そのために、社会科学の中で経済学だけに、「ノーベル賞」が授与されるという栄誉に輝いている。

つまり経済学には、物理や化学と同じように、さまざまな「法則」が確立され、それにもとづいて社会の現象がさまざまな角度から分析され、過去の出来事の原因を解明し、その結果を将来のために役立てようとする考え方が確立できる。

そのため経済学者や研究者は「社会の病理学者」とよばれ、社会に巣食う病の原因を見つけ出し、それを退治し、そして社会に安寧をもたらす仕事をするヒトだとも、考えられている。

それゆえ、血を流さずに病気を完治させる治療法の開発こそが、いまどきの経済学者に課せられた最大の課題であるし、学士課程であるの自分の命題でもある。

江戸末期から明治初期に日本を訪れた外国人が、共通して書き残していることがある。

それは庶民が自由を享受し、その表情には幸福感があふれていたということだ。

江戸時代の農民達はそれこそ経済学的に言えば、搾取される側でお金などほとんど持っていなかっただろう。

それでも幸福感があふれていたということは、日本にもヒューマニズム経済学の思想が根付いていた証拠であろう。
 2005年1月17日

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