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チェダゼミナールコミュの? 織豊政権 〜安土・桃山時代〜 P147~ 資料134〜

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【ヨーロッパ人の東アジア進出】
 東ローマ帝国を滅亡させ、地中海沿岸に広大な帝国を築いた1( オスマン帝国 )はイスラム帝国であった。キリスト教圏である西ヨーロッパ諸国は、アジア(インド)への道を閉ざされた形となった<キリスト教徒とイスラム教徒は仲が悪いから>。しかし、イタリアの天文学者トスカネリが地球球体説を唱え、「西へ進めばインドに到達できる」と断言した。これを信じたイタリア人探検家2( コロンブス )は、スペイン女王イザベル1世の援助を受けて、大航海に乗り出した。またバスコ・ダ・ガマは、喜望峰経由でのインド航路を開拓した。さらにマゼランは世界で初めて世界一周を達成した。彼らが活躍した時代を3( 大航海時代 )という。ヨーロッパ人は、マルコポーロの著した東方見聞録で中国の東に黄金の国4( ジパング )があるということを知っていた。ただし、日本で金がザクザク取れた時代は平安時代であり、中尊寺金色堂がそれを象徴している。ともかく、ヨーロッパ人はアジアへの憧れがあった。スペイン・ポルトガル人を筆頭にヨーロッパ人がアジアへやってくるようになった。





【南蛮貿易とキリスト教】
 日本に初めて来たヨーロッパ人は5( ポルトガル人 )で、1543年のことである。中国を目指していた彼らは途中で遭難し、6( 種子島 )に漂着した。そのとき彼が持っていた7( 鉄砲 )は、瞬く間に日本に普及し、戦国時代の戦闘スタイルを一変させた。以後、日本はスペイン・ポルトガル人と積極的に貿易を行なうようになった。この貿易を8( 南蛮貿易 )という。この貿易での輸入品は鉄砲・火薬、そして中国の生糸である。なぜ中国産が南蛮貿易に!?と思うかもしれないが、南蛮貿易は中継貿易でもあるためだ。日本の輸出品は9( 銀 )である。日本は金は取りつくしたが、銀は豊富にあった。
 スペイン・ポルトガル(南蛮人)のアジア進出は布教が主目的である。スペイン・ポルトガル・イタリアなどはローマ法王を頂点とする10( カトリック )である。しかし、当時のヨーロッパではカトリックが廃れ始め、新たにプロテスタントと呼ばれる新教が登場した。これに対抗するために「カトリックを海外に広めてカトリック勢力を取り戻そう」となった。そんな中、日本にカトリックを広めるため、イエズス会の11( フランシスコ・ザビエル )が12( 鹿児島 )に到着。その後、相次いで宣教師が来日し、13( 南蛮寺 )<教会堂>や14( コレジオ )<宣教師の養成学校>、15( セミナリオ )<神学校>などが作られた。宣教師は特に九州に来航し、九州の大名の中にはキリスト教に改宗する16( キリシタン大名 )もいた。代表的なキリシタン大名は豊後の17( 大友義鎮 )<よししげ>、肥前の18( 有馬晴信 )、同じく肥前の19( 大村純忠 )などがいる。この三大名は、宣教師20( ヴァリニャーニ )のすすめで、1582年、少年使節をローマ教皇のもとに派遣した。これを21( 天正遣欧使節 )という。派遣されたのは伊藤マンチョ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの4名である。一行はローマ教皇グレゴリウス13世に謁見してローマ市民権を与えられた。





【織田信長の統一事業】
 先ほど、鉄砲は瞬く間に日本に広がったと述べたが、これをいち早く取り入れたのが22( 織田信長 )である。彼は「大うつけ」と呼ばれ、幼い頃から奇行が目立ち、変人扱いされていた。しかし、彼は大の新しいもの好きであり南蛮人からもたらされた鉄砲やキリスト教をすぐに取り入れた。またポルトガル人宣教師23( ルイス・フロイス )と懇意にした。変わり者だったが故に人が取り入れないようなものをどんどん取り入れたのだ。信長は今の愛知県<テレビ中京のノブナガをご存知だろうか!?>24( 尾張 )生まれの小大名<しかも元々は守護代>に過ぎなかった。そんな彼のデビュー戦は26歳の時、1560年の25( 桶狭間の戦い )である。この戦いは、信長にとって唯一の「勝つか負けるか分からないけど勝負(博打)に出た戦」である。相手方は26( 今川義元 )といって、当時天下人に最も近い男と目されていた大大名である。領地は駿河・遠江・三河(愛知・静岡)である。今川軍の中には若き松平元康(のちの徳川家康・今川義元の人質)の姿もあった。しかし、この戦いは奇跡的に信長の勝利に終わり、華々しいデビュー戦を飾った。見事賭けに勝った信長は、運を切り開いて大きく飛躍することになる。駿府<静岡市>の義元のもとで人質生活を過ごしていた松平元康は、義元が負けたことで今川家から脱し、1564年には三河を統一した。その後、名を徳川家康と改姓し、信長の重臣となる。さらに今川家の旧領のうち、駿河は武田家に、遠江は徳川家のものになった。2カ国の大名となった家康は浜名湖のほとり、引間と呼ばれていた場所を27( 浜松 )と改名し、ここに城を築いて新たな本拠地とした。家康の生まれは愛知の岡崎で、岡崎城が初期の本拠地であった。
 次に信長は尾張の北に位置する美濃<岐阜>を攻略した。美濃は斉藤氏が統治しており、信長の妻は斉藤道三の娘・帰蝶(きちょう)である。1567年、28( 稲葉山城の戦い )で斉藤道三の孫、竜興(たつおき)を追放した。そして稲葉山城を29( 岐阜城 )と改名し、ここに拠点を移した。この頃から信長は「武力をもって天下を統一する」意志を示した30( 天下布武 )<天下に武を布(あまね)くす>印を使うようになった。
 次に信長がとった行動は、京都に入京するための口実作りである。単に京都に攻め入ると単なる侵略者とみなされるため、その理由が欲しかった。そこで信長は、13代将軍足利義輝<後に暗殺される>の弟で、本来は時期将軍候補だったのに京から追いやられていた31( 足利義昭 )に目をつける。信長は彼を担ぎ出し、京に入り義昭を15代将軍に据えた。1568年のことである。義昭は将軍だったが、信長がいなければ将軍になれなかったため、権力はない。実権は信長が握っていた。
 そのため、義昭は徐々に信長に対して不満を抱くようになる。義昭は、近江<滋賀>を拠点としていた32( 浅井氏 )と、越前<福井>を拠点としていた33( 朝倉氏 )、そして、比叡山延暦寺の勢力と共に信長に戦いを挑んだ。延暦寺は日本仏教の中心地として繁栄していた。一方で信長は同盟関係にあった徳川氏と組んでこの戦いに挑んだ。この戦いを34( 姉川の戦い )<1570年>といい、信長側の勝利で終わった。資料137?を見て欲しい。浅井長政の妻は35( 市 )といって、信長の妹である。市は戦国一の美女と言われており、信長が浅井長政に嫁がせていた。つまり、最初は信長と浅井家は同盟関係であったのに、最終的に裏切ったことになる。そして信長は妹の旦那を殺したことになる。
 翌1571年、姉川の戦いに加担した延暦寺を焼き討ちにした。山中にいた数千人の男女を僧俗の区別なく殺したといわれている。
 1572年には、戦国最強といわれた武田信玄と、織田信長の部下
徳川家康が、三方ヶ原で戦った<三方ヶ原の戦い>。これは信玄の勝利となり、家康の生涯で唯一の惨敗となった。この時家康は恐怖のあまり脱糞してしまった。この屈辱を忘れぬよう、家康は右のような絵を残している。信玄はこの戦い後、病死し、息子の36( 武田勝頼 )が後を継いだ。
1573年、信長に逆らった15代将軍足利義昭は京都を追放され鎌倉幕府は滅亡した。この室町幕府が滅んだ1573年から家康が江戸幕府を開く1603年までを37( 安土桃山時代 )という。さらにこの時代から38( 近世 )という。近世の終わりは江戸幕府滅亡の1868年である。因みに、足利義昭は追放された後、毛利家の庇護を受ける。信長に恨みを抱き続け、信長死後は京都への帰還を目論むが果せず、1588年、島津氏が秀吉に降伏した際に正式に将軍職を辞した。その後、将軍職を望む秀吉から養子にしてくれるよう頼まれたが断ったとされる。晩年には山城に1万石を与えられ、秀吉の御伽衆(話し相手)となった。
 1575年には、戦国オールスター戦が繰り広げられる。39( 長篠の戦い )である。織田VS武田の因縁の対決に、有力戦国大名がこぞって双方に味方した。この戦いには新兵器鉄砲を3万丁利用した織田側の勝利に終わった。織田軍勢は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)・徳川家康・前田利家・柴田勝家・本多忠勝など。武田軍勢には真田家や武田二十四将などがいた。
 翌1576年には琵琶湖のほとりに40( 安土城 )を築き、拠点とした。
 信長の最大の敵は石山本願寺を頂点とし、全国各地の41( 浄土真宗 )寺院や寺内町を拠点にして信長の支配に反抗した42( 一向一揆 )であった。信長は1574年に伊勢長島の一向一揆を滅ぼしたのに続いて、翌年には越前の一向一揆を平定し、1580年、ついに43( 石山本願寺 )を屈服させた。
 信長がここまで上り詰めることが出来たのは、単に軍事の天才だったからだけではない。鉄砲と呼ばれる新兵器が登場したことで、「経済を制する者は軍事を制する」「経済力と軍事力は比例する」という新たな原則が出来た。信長は安土城の城下町において44( 楽市令 )を出し、商業を活性化させた。商売で儲けた商人からガッツリ税金を取ることで財政を豊かにした。
 全国統一目前まで迫った1582(イチゴパンツ)年、部下の明智光秀に裏切られ45( 本能寺の変 )で自殺した。信長の野望は部下の柴田勝家・秀吉・家康に受け継がれる。

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