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チェダゼミナールコミュの?荘園と武士 〜次世代の支配者武士の登場〜 教科書P69〜75 資料集P89〜93

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〔武士の登場〕
 武士というのは言い方を変えれば軍事のプロです。武士が登場したのは10C前期ですが、ではなぜ武士が登場したのかといえば、10C前期に律令体制が崩壊したからです。律令体制では公地公民、つまり土地と人民は国家の所有物です。だから土地は所有者である国家が守っていました。しかし743年の1( 墾田永年私財法 )により公地公民の原則は崩壊していきます。そもそもなぜこのような法律が出たのかといえば、同年の741年に国分寺建立の詔、743年に2( 大仏造立の詔 )が出たからです。つまり、「国ごとに国分寺を作れ、東大寺に大仏を作れ」という国家プロジェクトを遂行するためには、何かしらの褒美が必要です。そのため「開墾したら私有地にしてもいいよ」という褒美を与えました。
アメとムチの政策
アメ 741年・743年 国分寺建立の詔 大仏造立の詔
ムチ 743年 墾田永年私財法
 話を元に戻しますが、土地の私有OKとなれば当然その土地は自分たちで守らないと、他から侵略される恐れがあります。そこでその土地を守るために戦いのプロである武士が登場するわけです。

【地方の反乱と武士の成長】教科書P72
 社会全体が無秩序になる中で、各地で成長した中小の武士団は、貴族の血筋を引くものを棟梁としてより大きな集団へと成長していきました。そんな中、10C前期に地方武士の反乱が起こります。時の年号から3( 承平・天慶の乱 )といいます。承平・天慶の乱は、平将門の乱・藤原純友の乱、2つの乱の総称です。資料集P92を参照にこの二つの乱を見ていきましょう。
 まず先に平将門の乱(935年〜940年)ですが、平将門は桓武天皇の血筋を引く桓武平氏の祖である、平高望の孫で、下総の猿島(さしま)、今の茨城県坂東市を本拠地としていました。平将門は、関東の支配者になろうと企みます。そこで、上野・下野・常陸、今の北関東一帯の国府、つまり今でいう県庁所在地みたいなものを次々と征服します。そして、自らを4( 親皇 )、つまり新しい関東の天皇と名乗るわけです。しかし平将門はいとこの5( 平貞盛 )と地元の武士で将門のライバルだった6( 藤原秀郷 )の連合軍に負けてしまいます。教科書P73に将門の首を運ぶ藤原秀郷の絵があります。
 次に藤原純友の乱(939年〜941年)ですが、彼は元々伊予(現在の愛媛県)の国司(県知事みたいなもの)でした。しかし、藤原純友は国司の中でも非常に身分の低い国司でした。そのため、都に戻っても出世の期待ができませんでした。そこで、藤原純友は、国司の仕事に見切りをつけて海賊になってしまうわけです。藤原純友は本拠地を日振島とし、大宰府を焼き払うなど猛威を振るったが、この反乱は清和天皇の血筋を引く清和源氏の祖先である7( 源経基 )によって鎮圧されました。
 ここで重要なのは、どちらの乱も中心になって平定(鎮圧)したのが平氏と源氏という、武士であるということです。これらの反乱の結果、武士という存在が治安を守るための必要な存在であると認識されるようになりました。
平将門の乱 関東 平氏が平定(平貞盛)
藤原純友の乱 瀬戸内 源氏が平定(源経基)
 このあと、10Cの後期には、安和の変(969年)が起こります。安和の変では、源経基の息子である8( 源満仲 )が源高明の行動を藤原氏に密告したおかげで、源高明は左遷され、その後藤原氏の全盛の時代となりました。ですから、源満仲は藤原氏全盛の時代を作るきっかけを作った大功労者ということになります。この功績をたたえられて、源氏は藤原氏のもとで侍(ボディーガード)として、力を持つようになります。

【源氏の進出】 〜関東・東北の戦乱で名声を高めた源氏〜
 11C前期、藤原道長・頼通親子の全盛期、東国で力をつけたのが源氏です。1028年に平忠常の乱が上総(現在の千葉県中部)で起こりました。この反乱の平定に向かうのが源満仲の息子9( 源頼信 )です。彼は平忠常の乱を平定して源氏の東国進出のきっかけをつくりました。
 11C後期になると源氏の勢いは加速していきます。1051年から始まった10( 前九年合戦 )では、陸奥(東北地方の東半分)の俘囚(朝廷に反発する勢力)であった安倍頼時を倒します。安倍頼時を倒したのは、先ほど出てきた源頼信の子11( 源頼義 )とその子12( 源義家 )です。この時、出羽(東北地方の西半分)で勢力を持っていた清原氏が安倍頼時を倒すのに協力します。この結果、清原氏が東北地方で力を持つようになります。
 次に、1083年に始まった13( 後三年合戦 )ですが、これは先ほど出てきた清原氏の内紛が発端となっています。この清原氏の内紛に勝利したのが清原氏の一族である14( 藤原清衡 )です。藤原清衡は、陸奥守であった源義家の力を借りて勝利します。その結果、藤原清衡は、東北の実権を握るようになり、15( 奥州藤原氏 )を開きます。
奥州藤原氏の拠点は陸奥の16( 平泉 )です。藤原清衡に始まり、藤原基衡・藤原秀
衡の3代100年にわたって、栄華を極めました。その栄華は、藤原清衡が建てた17( 中尊寺金色堂 )という黄金のお堂からもうかがうことができます。このお堂には、清衡・基衡・秀衡のミイラが納められています。

【国司の地方支配】教科書P69〜
 743年の墾田永年私財法以来、律令体制(公地公民)は崩れ始め、財政難に陥った政府は、国司に一定額の税の納入を請け負わせ、そのかわりに一国内の統治をゆだねるように方針転換した。また律令の税制は人にかかる18( 人頭税 )だったが、以後土地に税を課すことで税収アップを試みた。人から税金を取る場合、戸籍登録を偽造されたり、逃げられたりした終わりだが、土地は逃げようがない。これまでは中央政府の監視のもとで、いろいろな制約のあった国司の権限が大幅に増大したことになる。国司の中の最上席の者を19( 受領 )といい、受領は収入が多かったため希望者が殺到した。国司という仕事は一定額の税金を政府に納めさえすれば、残りのお金は自分のものとなる。そこで国司職が利権化され、私財を寄進して官職(国司など)を得る20( 成功 )や、成功(じょうこう)による同一官職への再任である21( 重任 )(ちょうにん)が行なわれるようになった。要は任命権者に賄賂を贈って、出世したり、また偉い地位に就こうとすることが流行ったというわけである。また受領以外の国司は、実務から排除されるようになり、赴任せずに、国司としての収入のみを受け取る22( 遙任 )(ようにん)もさかんになった。
 受領は、有力農民である23( 田堵 )に、一定の期間に限って徴税対象の土地である24( 名 )の耕作を請け負わせ、税金を納めさせた。11C後半には受領も任国に常駐しなくなり、25( 目代 )を通じて、国内の有力者から選ばれる在庁官人を指揮して政治を行うようになった。
 要は朝廷・政府(皇族や上級貴族が支配するところ)の税収が不足し始めて、自分達の生活がヤバくなった。だったら、中・下級貴族に地方支配の権限である国司・受領(今でいう県知事)に就任させ、彼らにもある程度美味しい思いをさせてあげる。その代わり一定の税金は納めさせる。国司・受領に就任した中・下級貴族は、今の地位を失いたくないので上司に賄賂を贈って、地位を保ち続ける。そして、地元の有力者(田堵)をつかまえて、彼らにもある程度の権力を与えて美味しい思いをさせる。その代わり一定額の税金はきっちり納めさせるという構図が出来上がったのだ。

【荘園の発達】 資料集P90〜91 教科書P71
 荘園とは、もともと貴族や寺社などが開墾の現地に設けた別宅や倉庫等の建物と、その周りの墾田とをあわせたものをいう。8〜9Cに生まれた初期荘園は26( 墾田地系荘園 )ともいい、租(人頭税ではなく地税)だけは国に納めなければならなかったため、律令支配体制から完全に脱却したものではなかった。
一方、10C後半になると、27( 寄進地系荘園 )が成立する。国に払う税金(租)よりも、荘園に上納したほうが安いので、自分の農地を中央の貴族や寺社の荘園に寄進して、税負担を逃れようとしたのだ。寄進を受けた荘園の領主は28( 領家 )と呼ばれ、この荘園がさらに上級の貴族や有力な皇族にかさねて寄進されたとき、上級の領主は29( 本家 )と呼ばれた。
こうした情勢に直面し、収入源を絶たれるようになった国司は荘園を整理しようとして、荘園領主との対立を一層深めるようになった。

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