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チェダゼミナールコミュのイギリス産業革命 教材研究

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〔指導上の留意点〕
▼教科書の年表・図版を用いて,紡績機や蒸気機関・蒸気船・蒸気機関車などの発明の歴史を確認する。
▼イギリス産業革命がなぜ綿紡績業に始まったかを考えさせる。その際,インド綿製品の輸入防遏(ぼうあつ)という点に注意を向けさせる。
▼産業革命における木綿工業と並ぶ鉄道業の重要性を強調するとともに,人びとの生活のリズムや意識を大きく変えた,鉄道の普及の文明史的意義にも気付かせる。
▼教科書の図版を用いて,産業革命期の工場・鉱山で多くの子供・女性が雇用されたことと,その労働の過酷さを理解させる。

*産業革命によって社会はどのように変わっただろう。

●イギリス経済●
 アメリカで独立戦争が戦われ,フランスで革命が進行していたころ,イギリス経済は大きく変貌していた。
 従来からモノの生産には人力・動物・水車などが用いられていたが,18世紀のイギリスでは,〔1       〕をエネルギー源とする〔2       〕機関と動力機械の改良が進み,実用化された。〔2       〕力は馬力より強いばかりでなく,気候や場所による制約も少なかった。やがて工場での大量生産がはじまり,産業資本主義が確立した。こうした〔3       〕にともなう社会の根本的な変化を〔4       〕?という。
 産業革命のはじまったイギリスには,独自の条件がそろっていた。人口増にともなう食糧需要のため,農業改良が進んでいた。〔1       〕・〔5       〕などの地下資源も豊かであった。名誉革命の後,経済の自由化が進み,海外と結んだ企業活動は活発であった。活気ある国内市場にささえられて政府・議会は積極財政をとり,海外市場の開拓に熱心であった。フランスとのあいだの植民地獲得競争は,とくに〔6       〕以後イギリスが優位にたち,これによる海外需要の拡大は,製造業にとって決定的なバネとなった。


?イギリス産業革命は1770年代からはじまり,19世紀前半までかけて世界資本主義のシステムを形成した。

〈語群〉
ア.七年戦争  イ.産業革命  ウ.石炭  エ.生産力の革新  オ.蒸気  
カ.鉄  

《解答》
1ウ 2オ 3エ 4イ 5カ 6ア 

●世界の工場●
 科学革命につづき,さまざまの分野で技術革新がこころみられたが,とくに〔1       〕は需要が大きく,比較的小さな資本ではじめられたので,技術はすみやかに応用された。
 このころインドから輸入された綿布(キャラコ)は軽く美しいため,人気があった。しかしこれは,海外からの物産をたくさん輸入しているイギリスの貿易赤字をさらに悪化させたので,これにかわる独自の紡績・織布・染色の技術開発がうながされた。試行錯誤がつづき,1770年代から〔2       〕の紡績工場ができはじめたが,最初は水力によるもので,蒸気機関による工場は,ようやく1789年以降に広まった?。
 蒸気力は他の産業にも応用され,工作機械も開発された。しかし,もっとも象徴的だったのは,蒸気機関車と〔3       〕の普及である。〔3       〕の営業運転は,1830年にリヴァプール・マンチェスター間ではじまった。馬車とちがって天候に左右されることなく,はやく大量かつ確実に輸送し移動することのできた〔3       〕は,19世紀のあいだに世界の主要な地域に広まり,交通事情を一新した。それにともない,イギリスの土木技術・レール・車両が各地に輸出された。
 鉄道,そして機械・造船・武器の産業は,繊維産業よりも大きな資本を要するが,利益も大きかったから,19世紀イギリスの経済は大きく成長し,「〔4       〕」として利益が集積した。


?大西洋貿易の中心であったリヴァプール港の後背地マンチェスターが,この産業革命の中心として急成長した。

〈語群〉
ア.繊維産業  イ.鉄道  ウ.木綿  エ.世界の工場  

《解答》
1ア 2ウ 3イ 4エ 

●産業社会●
 産業革命は生産力の革新によってはじまったが,それにともない,社会は変貌した。社会的分業と〔1       〕が進み,労働者のあふれる工業都市が生まれた。人・モノ・情報の流通はさらに促進され,ブルジョワは〔2       〕のとなえた自由放任主義にもとづき経済の規制を撤廃し,政治改革を進めた。〔3       〕?が時代を導く思想となり,国内の地主貴族も,諸外国もあらたな対応をせまられた。また,労働条件や衛生・治安の問題も,すみやかな対策を要した。


?自由主義とは,国家権力の介入を排して自由競争をとなえ,野党の存在を認めて立憲政治をとなえた進歩思想である。

〈語群〉
ア.アダム=スミス  イ.自由主義  ウ.都市化  

《解答》
1ウ 2ア 3イ 


キャラコ(英語:calico)はインド産の平織りの綿布のこと。
歴史と概要
インドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であり、ヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も変わらなかった。
インド綿布はルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたが、その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気をよび、17世紀以後インドに進出したイギリス東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコとよばれた。
この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、ジョン・ケイの飛び杼にはじまる技術革新を促し、産業革命の興起を招くこととなる。しかし、このことはインドの手工業者の職を奪い、腕利きの職人が大量に失業したため、マルクスによって「職工夫の骨でインドの平原が白くなった」と形容されたほどの惨状を呈した。
日本でも生産されてる。日本で「キャラコ」と呼ぶ場合はインドとは逆に薄手で織り目が細かい糊付けした純白の布地を指し、主に足袋やステテコの材料となる。

産業革命(さんぎょうかくめい、英: Industrial Revolution)とは、18世紀から19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。市民革命とともに近代の幕開けを告げる出来事とされるが、近年では産業革命に代わり「工業化」という見方をする事が多い。
概要
イギリス産業革命は1760年代に始まるとされるが、七年戦争が終結し、アメリカ、インドにおけるイギリスのフランスに対する優位が決定づけられたのは1763年のパリ条約によってである。植民地自体は以前から存在していたので、1763年の時点でイギリスが市場・原料供給地を得た、というよりも、フランスが産業革命の先陣を切るために必要な市場・原料供給地を失ったというべきであろう。いずれにせよ、イギリスはライバルであるフランスに先んじて産業革命を開始し、フランスに限らず一体化しつつあった地球上の全ての国々に対して有利な位置を占めることとなった。言い換えるならば、七年戦争の勝利によって、イギリスは近代世界システムにおけるヘゲモニー国家の地位を決定づけたのである[1]。

毛織物工業と資本
産業革命に先行して、イギリスでは新毛織物と呼ばれる薄手の羊毛製品の製造が盛んであった。もともとイギリスでは中世末期から毛織物が盛んで、フランドル地方などに比較的厚手の半完成品を輸出していた。この種の毛織物は新毛織物に対して、旧毛織物と呼ばれる。

労働力
海外植民地
資本の蓄積にしろ、人口増加にせよ、イギリス固有というよりもヨーロッパに共通の事柄であり、現在よく言われる様に、産業革命前夜のイギリスとフランスではさしたる差は存在しなかった。むしろ手工業という点ではイギリスよりもヨーロッパ大陸諸国の方が若干発達していたともされる。
フランスで起きなかった産業革命がイギリスで起こった原因は、イギリスにあってフランスに無かったもの、つまり広大な海外植民地であった。初期の産業革命で生産された雑工業製品の多くがヨーロッパ外の地域に向けられた事からも産業革命における海外植民地の重要性を見て取る事ができる。

需要と市場保護
インド産キャラコによって綿織物に対する需要が生み出されたが、ほどなく産地を問わずキャラコの輸入は禁止された。この措置は国内綿織物産業の保護策として働き、国産綿織物の躍進へつながった。さらに生活革命により、その他の雑工業製品に対する需要は飛躍的に大きくなった。これにより工業化がもたらす商品生産能力向上を吸収・消費する国内市場が形成された。

織機・紡績機の改良
水力紡績機を開発したリチャード・アークライト1733年ジョン・ケイが、織機の一部分である杼を改良した飛び杼を発明して織機が高速化された。これにより綿布生産の速度が向上したために、旧来の糸車を使った紡績では綿糸生産能力が需要に追いつかなくなった。そのため、1764年ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明した。これは、従来の手挽車が1本ずつ糸を取る代わりに、8本(のちに16本に改良)の糸を同時につむぐことのできる多軸紡績機であった。
1769年リチャード・アークライトの水力紡績機を開発した。これは綿をローラーで引き延ばしてから撚りをかける機械で、ジェニー紡績機のように小形のものではなく、人間の力では動かない大形の機械であったので、水力を利用したものである。個人の住宅では使用できないため工場を設け、機械を据え付けて数百人の労働者を働かせて多量の綿糸を造り出すことに成功した。これにより、大量生産が可能になり、立地に制約がなくなったうえに紡糸作業に熟練した労働者が必要としなくなったため、失業を恐れる労働者や同業者などから妨害を受けた。この発明は、本格的な工場制機械工業のはじまりとなった。
そしてこれらの特徴を併せ持ったサミュエル・クロンプトンのミュール紡績機が1779年に誕生し、綿糸供給が改良される。すなわち、ジェニー紡績機の糸は細いが切れやすく、水力紡績機の糸は丈夫だが太かったため、細くて丈夫な糸をつくろうとしてうまれたのがミュール紡績機であった。ミュールとはラバのことで、要するにウマとロバの長所を採ったという意味である。
これらを受けてアメリカのエドモンド・カートライトが蒸気機関を動力とした力織機を1785年に発明し、さらに生産速度は上がった。

製鉄技術の改良
ワットの改良蒸気機関繊維業とならんでイギリス産業革命の推進役となったのが製鉄業である。イギリスでは既に16世紀頃から鉄製品に対する需要が高まっていたが、当時は製鉄には木炭を用いていたため、急速に成長する鉄需要に対応するうちに木材が深刻に不足し、17世紀にはロシアやスウェーデンから鉄を輸入する事態となっていた。
しかし18世紀に入り、コークス製鉄法がエイブラハム・ダービーによって開発されたことで状況は一変する。コークスは石炭から作られ、イギリスには石炭が豊富に存在したからである。その後更に改良が加えられ、19世紀始めには良質の鋼鉄も作られるようになった。
この様な鉄の需要は、はじめのうちは生活革命によって使用されるようになった軽工業製品によって牽引されたが、やがて産業革命が進むにつれて、工業機械や鉄道のためにさらなる鉄が必要となっていった。イギリスで作られた工業機械は、海外へ輸出され、ドイツなどの工業化を進めることとなった。

動力源の開発
石炭の採掘が盛んになると、炭坑に溜まる地下水の処理が問題となった。こうした中、1712年にニューコメンによって蒸気機関を用いた排水ポンプが実用化された。
1785年、ワットが蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換させることに成功、この蒸気機関の改良によって、様々な機械に蒸気機関が応用されるようになった。それまで工場は水力を利用するために川沿いに建設するほかなかったが、ワットが蒸気機関を改良したことによって、川を離れ都市近郊に工場を建設することが可能となった。これにより新興商工業都市は更なる成長を遂げるが、一方で過密による住環境の悪化を招くこととなる。

移動手段の発達
1807年のフルトンによって蒸気船が発明された。また1804年のトレビシックにより蒸気機関車が発明され、その後蒸気機関車はスチーブンソンによって改良された。
河川や既存の運河を利用できる蒸気船はともかく、蒸気機関車を利用するためには線路を敷設する必要があったため、その効果が現れるまで時間がかかったが1830年代後半になると鉄道網の整備が進み始め、1850年までには6000マイルの鉄道が開通した[3]。これらの移動手段の発達は「交通革命」と呼ばれる。

経済構造
産業革命により極度に発展した資本主義は、金融資本と産業資本の融合した独占資本を生み出した。独占資本は政治にも深く関与し、活動範囲としての「市場」の拡大を政府とともに進めようと考えるようになる。当初の工業諸国は国内市場が貧弱で、貿易に依存せざるを得なかった事情もあり、植民地は単なる原料供給地としてではなく、市場と余剰資本の投下先として見られるようになり、重要性が再認識される。こうして帝国主義が生まれ、世界分割をめぐる二度の世界大戦を引き起こす原因となった。

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