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チェダゼミナールコミュの25 啓蒙とアメリカ独立

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〔指導上の留意点〕
▼単なる「文化史の一コマ」でなく, 歴史と現実を動かす巨大な力を持った思想および文明として, 啓蒙を正面から扱う。
▼ロックの社会契約論, ルソーの人民主権論, スミスの自由放任経済論については, 後論の必要上, 若干踏み込んでその内容に触れておく。
▼植民地独立戦争であるアメリカ独立戦争が, 同時に近代革命・市民革命としての性格を備えていたことから, アメリカ独立革命とも呼ばれることに注意を促す。

25 啓蒙とアメリカ独立
 *18世紀に北大西洋の両岸では,どのような時代がはじまったのだろう。

●啓蒙の世紀●
 海外から商人や宣教師が西ヨーロッパにもたらした新しい情報は,古い世界観にはおさまりきらなかった。それをどのように受けとめ,世界を理解し直せるか,人びとの知と想像力は大いに刺激された。「〔1       〕」とは,無知からの解放を意味する言葉で,17世紀末から18世紀にかけて?,ヨーロッパ人の取り組んだ合理主義の営みであり,因習を批判した思想や,総合科学が生まれた。
 啓蒙のとくに重要な成果は,ニュートンによる〔2       〕,ロックの説いた〔3       〕,ルソーの説いた〔4       〕である。フランスで出版された『〔5       〕』は啓蒙の集大成であり,先端科学からアジアの情報までふくまれている。またアダム=スミスは『〔6       〕』を著して,国家の規制に反対し自由放任の経済をとなえた。
 18世紀の西ヨーロッパには読書の習慣が広まり,人びとは国境をこえて新しい考えや情報を共有した。それは植民地にもあてはまる。ロンドン・パリなど都市には商業や娯楽のための公共施設が発達し,人びとは祭りや芝居を楽しみ,喫茶店や居酒屋で新聞・雑誌を朗読し,語らった。身分制にとらわれない近代社会は,そこまできていた。


?1680年代〜178O年代を「啓蒙の世紀」とよぶ。国境をこえて世界市民の合理主義が展開した。

〈語群〉
ア.百科全書  イ.社会契約  ウ.諸国民の富  エ.人民主権  オ.啓蒙  
カ.科学革命  

《解答》
1オ 2カ 3イ 4エ 5ア 6ウ 

●革命の時代●
 1770年代から北大西洋の両岸で大転換がはじまった。北アメリカのイギリス植民地は独立し,フランスでは政治革命がつづ,イギリスでは産業社会が成立した。こうした革命の時代を通じて,政治の中心は王朝と身分制度から〔1       〕?に移り,その経済は〔2       〕に転じ,また西欧と世界の関係も変わった。こうして世界史における「近代」がはじまるのである。


?国民国家とは,封建的特権を廃してつくられる近代国家であり,自由で平等な国民の共同体である。

〈語群〉
ア.産業資本主義  イ.国民国家  

《解答》
1イ 2ア 

●アメリカ独立革命●
 イギリスの植民地帝国のうち,もっとも豊かな北アメリカの〔1       〕?では,おもに農漁業に従事していた白人が,自治を享受しつつ,忠実なイギリス人として戦争にも協力していた。ところが,本国は七年戦争後に新しい税をつぎつぎに課したので,植民地の人びとは「〔2       〕?」を標語にこれを撤廃させ,また東インド会社による茶の独占販売に反対して,ボストン港でその船をおそった(〔3       〕)。本国政府がこれをきびしく処罰したので,〔1       〕の代表は団結して〔4       〕をひらき抗議した。
 1775年からイギリス軍と植民地民兵の衝突がはじまり,イギリスと結ぶ人びとはカナダヘのがれた。〔5       〕をになったのは愛国派とよばれた人びとで,地主・商工業者・農民・都市民衆からなっていた。彼らの利害と希望はさまざまであったが,自由・平等の要求,専制への抵抗という共通の標語のもとに一つになって,困難な戦争を戦った。1776年7月4日には〔6       〕が発表され,外国からの義勇兵も加わり,フランス・スペインが独立側に参戦し,イギリスは孤立してやぶれた。
 1783年のパリ条約で,アメリカ合衆国?の独立が承認され,やがてフィラデルフィアで採択された憲法で〔7       〕・〔8       〕・〔9       〕がうたわれた。初代大統領には〔10       〕が就任した。アメリカの建国は,啓蒙思想の影響をうけた国民が,身分制をこえて新しい共和国を戦いとった近代革命の最初であり,圧政のもとにあった各地の人びとに大きな希望をあたえた。


?先住民インディアンとほとんどまじわることなく,白人移民が急増し,1700年に約25万,1800年に約550万となった。
?植民地代表の議員を本国ロンドンの議会に送ることはできなかった。
?United States of America. アメリカの州が連邦した共和国である。

〈語群〉
ア.13植民地  イ.大陸会議  ウ.ボストン茶会事件  エ.独立戦争  オ.三権分立  
カ.ワシントン  キ.独立宣言  ク.人民主権  ケ.代表なくして課税なし  コ.連邦主義  

《解答》
1ア 2ケ 3ウ 4イ 5エ 6キ 7ク(オ・コ) 8コ(オ・ク) 9オ(ク・コ) 10カ 

語句調べ

啓蒙思想(けいもうしそう)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。ヨーロッパ各国語の啓蒙にあたる単語を見て分かるように原義は「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。17世紀後半にイングランドで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった。フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。

ジョン・ロック(John Locke, 1632年8月29日 - 1704年10月28日)はイギリスの哲学者、社会契約論者、ピューリタン信仰者。父はピューリタン革命期の議会軍の騎兵隊長であった。1646年にウェストミンスター校、1652年にオックスフォード大学入学。1660年にオックスフォード大学のギリシア語講師となる。1666年からシャフツベリ伯爵の愛顧を受け、利子率論争で自由放任を主張したり、王権に対する政治・信教の自由を論じたりしたが、1683年に彼が失脚すると、ともにオランダに亡命する。1688年の名誉革命後、帰国。彼の著作の大部分は1687年から1693年の間に刊行されている。アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与えた。
政治哲学
彼は、王権神授説を否定し自然状態を「牧歌的・平和的状態」と捉え、公権力に対して個人の優位を主張した。政府が権力を行使するのは国民の信託 (trust) によるものであるとし、もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば抵抗権をもって政府を変更することができると考えた。抵抗権の考え方はのちにヴァージニア権利章典に受け継がれていく。
その他、フィルマーの家父長的政治に対する批判や、政教分離を説くなど、現実主義的な考えを展開している。
権力分立論
名誉革命期、ハリントンの提唱した権力分立制を発展させ、立法権と行政権の分離を説いた。また、対内的な行政権を執行権、対外的な行政権を連合権(外交権)と呼んだ。ロックの権力分立論は各権が平等でなく、立法権が優越していた。
これがのちにモンテスキューによる三権分立論(司法権・立法権・行政権)まで発展する。
認識論
ロックによれば、われわれの心はいわば白紙(tabula rasa)として生得の観念(innate ideas)を有していない。観念の起原はあくまでも経験であり、この起源は外的な感覚(sensation)と内的な反省(reflection)とに区分される。さらに物体の性質は外物に由来する客観的な第一性質(固性・延長性・形状等)と、主観的な第二性質(色味香等)とに区分される。経験から得られた単純観念からは複合観念(様態・実態・関係)が作られ、われわれの知識とは経験から得られた諸観念の結合と一致・不一致と背反であるとされた。
労働説
労働価値説の源泉といわれるジョン・ロックの労働説では、当人の所有物となるのは当人の労働の果実として自然界の共有物から切り離されたものであるといわれ、必要の限度を超えた財産の私有は、貯蔵を可能とするところの貨幣の価値に承認を与える社会契約にその根拠を有するとされた。
ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)
生涯
1712年、スイスのジュネーヴに時計職人の息子として生まれるが、母は9日後に死去。
7歳頃から父と共に小説や歴史の書物を読み、理性よりも感情の優位を説く思想の基礎を築いた。1725年に父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師に預けられたのちに彫金工に弟子入りをするが3年後に出奔し、放浪生活を送る。

1731年にジュネーブを離れ、ヴァラン男爵夫人に庇護されながら、さまざまな教育を受け、その愛人となった。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。

夫人と別れたのち、1740年から1741年にかけてリヨンのマブリ家(哲学者マブリ師、コンディヤック師の実兄の家)に滞在、マブリ家の家庭教師を務める。この職を辞した後、1742年に音楽の新しい記譜法を発表し、それを元手にパリに出てディドロらと親しくなる。これがきっかけで後の一時期、『百科全書』に原稿を執筆している。1745年、下宿の女中テレーズを愛人とし、10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に捨てた。しかし1750年にディジョンのアカデミーへの懸賞論文「学問及び芸術の進歩は道徳の純化と腐敗のいずれに貢献したか」において執筆した『学問芸術論』が入選してこの不遇状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。ベストセラーとなった書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』(1761年)、『社会契約論』(1762年)などはこの時期に書かれている。ただしこの間、ヴォルテール、ダランベール、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となった。
1762年はじめに教育論『エミール』が刊行されると、そのなかの「サヴォア人司祭の信仰告白」のもつ自然宗教的な内容がパリ大学神学部から断罪され、『エミール』は禁書に指定され、ルソー自身に対しても逮捕状が出たためスイスに亡命した。亡命中は、スイス、イギリスなどを転々としたが、彼を保護したイギリスの哲学者ヒュームと不仲になり、1770年、偽名でパリに戻った。パリでは、亡命中から執筆していた『告白』を書き上げ、続いて『孤独な散歩者の夢想』を書き出したが、この作品は未完のままパリ郊外で亡くなった。

フランスにおいては早くからボダンなどにより君主に「主権」(政治についての決定権)が存するとの思想が表明されていた。この君主主権の観念はフランスなどを中心に当時の絶対王制を支える強力な根拠となっていたが、ルソーはこの観念を転用し、人民にこそ主権が存すると言う「人民主権」の観念を打ち立てた。一定以上の財産を有するなどの特別の資格を持つ「国民」ではなく、その国の国籍を有するもの全てを意味する「人民」にこそ主権があると宣言したことは、その後の普通選挙制の確立や民主主義の進展に大きく貢献した。
一方、ルソーらのフランス啓蒙思想に触発されて始まったフランス革命において、自由や法の支配は全く無視され、「反革命派」と名指しされた者への言われなき迫害、虐殺、裁判なしでの処刑などといった恐怖政治が行われた。ロベスピエールやナポレオンといった指導者達は、人民を代表する者、憲法制定権力を有する者として独裁政治を行った。「人権宣言」で名高いフランス革命時代は、実態は暗黒時代であった[要出典]。

私生活においては、極度のマゾヒズム、知的障害者に性的虐待を行い妊娠させ次々に捨てるなど、性倒錯が顕著でもあり、自身の著書『告白』などでそれら様々な行動について具体的に触れている。少年時代には強姦未遂で逮捕されたこともあった。

アメリカ合衆国の独立
この期間の中心となるできごとは、1775年から1783年のアメリカ独立戦争であり、さらにその中でも1776年のアメリカ独立宣言と1781年のヨークタウンにおけるアメリカ軍の勝利が特筆に値する。

フランスはアメリカの愛国者達に金と武器を供給し、イギリスに対する同盟を結成し、陸軍と海軍を派遣してヨークタウンの戦いで戦争自体を終わらせる、というふうにアメリカの独立革命の鍵となる役割を演じた。しかし、アメリカ人は啓蒙思想哲学者の考え方の影響を強く受け、絶対君主制に反対していたので、フランス王政をアメリカ政府のモデルにはしなかった。
植民地からは自分達の選んだ代表がイギリスの議会に出て発言する権利が無かったので、押しつけられた税法などの法律は無効だと考えた。ボストンで抗議行動を起こすと、イギリスは軍隊を送って封じようとし、アメリカは民兵を結集して1775年に戦いが始まった。アメリカ人の中にも王党派が15ないし20%はいたと考えられるが、戦争を通じて愛国者革命勢力が領土の80ないし90%を支配し続けた。イギリス軍は幾つかの港湾都市を奪うだけに留まった。1776年、13植民地の代表が会して全会一致でアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ合衆国を設立した。1778年にはアメリカとフランスの同盟が成立し、陸軍も海軍も同等な兵力となった。1778年のサラトガと1781年のヨークタウンで2つのイギリス軍大部隊が降伏し、1783年のパリ条約で和平がなった。アメリカ合衆国は北はイギリス領カナダと、南はスペイン領フロリダと接し、西はミシシッピー川を境界とする広大な国となった。
アメリカ独立の原因
代表なくして課税なし
アメリカ植民地の者達にとって税金が高いことが問題ではなかった(事実税率は低く、イギリス本国の市民が払っていた税金と比べれば特に低かった)。植民地の代表がイギリスの議会で発言する権利がないまま、新税についても植民地に何の前もっての相談も無かったことが問題だった。「代表なくして課税なし」という言葉が多くのアメリカ人社会で囁かれるようになった。ロンドンは、アメリカ人が「事実上」代表を送っているとの論法であったが、大半のアメリカ人はロンドンにいる男は現地で必要とされていることや置かれている状況について何も知らないので、アメリカを代表しているのではないと、ロンドンの考え方を拒絶した[3]。

自由主義と共和主義
ジョン・ロックの自由主義的考え方は独立革命の政治的根拠に大きな影響を及ぼした。例えば、ロックの「社会契約論」は、国の指導者がイギリス人の歴史有る権利を踏みにじった場合には、人々は指導者を打倒する自然の権利があるとしていた。歴史家によっては、アメリカにおけるジャン=ジャック・ルソーの影響を見出す者もいる[6]。州や国家の憲法を書くときに、アメリカ人はモンテスキューのイギリスの憲法に関する理想的にバランスされているという分析を用いた。

独立革命を推進した力は「共和主義」と呼ばれる政治理論をアメリカ人が持っていたことであり、1775年の植民地で圧倒的な力を持った。イギリスの「土地に根差した党派」は政治腐敗を恐れることを強調してイギリス政府を批判していたが、アメリカの政治家にも影響を与えた。植民地人は奢侈で世襲される貴族階級の「政府」に慣れていたが、これを徐々に非難するようになった。政治腐敗が考えられる最大の悪であり、市民の美徳は個人的な欲望よりも公的な義務を前面に押し出すために要求された。男は国のために戦う公的な義務があった。女性には「共和制の母」であることが理想となり、アビゲイル・アダムズやマーシー・オーティス・ウォーレンによって実行された。共和制の女性の最初の義務は子供達に共和制の価値観を教えることであり、贅沢や見栄を避けることであった。アメリカ合衆国建国の父と呼ばれるサミュエル・アダムズ、パトリック・ヘンリー、トマス・ペイン、ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソンおよびジョン・アダムズは共和主義の強い主唱者であった]。
愛国者、王党派および中立

愛国者=革命勢力
革命勢力は当時「愛国者(パトリオット)」とか、「ホィッグ」、「会議派」、あるいは「アメリカ人」と呼ばれた。

王党派と中立
王党派の数については実際に計数する方法はないが、歴史家は植民地人の15%ないし25%は国王に忠実なままであったと見ている。当時の呼び方は「ロイヤリスト」、「トーリー」、あるいは「国王の人」であった。典型的な王党派は年長であり、進んで国王への忠誠を捨てようとはせず、多くはイングランド国教会との結びつきが強かった。ボストンのトマス・ハッチンソンのようにイギリス帝国との結びつきの強い事業を行う成功した商人が多かった。

1776年1月10日、トマス・ペインは「コモン・センス」という題の政治冊子を発行し、イギリスとの問題を解決する唯一の手段は共和制であり、イギリスからの独立であると訴えた。

戦争の後
アメリカ合衆国住人の5%すなわち王党派にとって、敗北は追放が伴うものであった。おそらくは10万人、最大でも25万人の王党派が新しくできた共和国を離れ、ケベック(イースタン・タウンシップに集中した)、プリンスエドワードアイランド、ノバスコシアなどの北アメリカに残されたイギリス植民地に移住した。アッパー・カナダ(現在のオンタリオ州)やニューブランズウィックの新しい植民地が移住者のために創られた。
カナダは独立戦争で負けたイギリスロイヤリストが移り住んだ国。

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