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チェダゼミナールコミュの卒業論文 第三章

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? 我が国の学校教育

1 日本学生支援機構から見る日本の教育システム
私が一つ気になったのは財団法人日本学生支援機構(元日本育英会)の存在である。この日本学生支援機構の存在意義は、学ぶ意欲はあるが経済的に就学が困難な学生・生徒に対して給付・貸与行為を行う事によって、支援する事である。日本学生支援機構はきちんと機能しているのかという事である。奨学金には貸与型・給付型があり、また特待生(スカラシップ)というのがある。
そもそも日本人にはお金を借りる事に抵抗があり、借りたくても借りれないのが実情ではなかろうか。
また貸与されたとしても、それを返せない(もしくは返さない)者が多いと聞く。また、スカラーの話だが、例えばこのような例がある。
 実家から通えなくも無い距離(60km)の公立大学と、関西の有名私立と、地元の偏差値低めの私立大学に受かった。そして地元の偏差値低めの大学は特待生扱いで、学費が免除されるという条件付であった。彼は結局地元の私立大学に入学した。親から言われたのか、自分で決めた事なのかは定かではない。
一方、フィンランドでは小学校から大学まで、すべて教育費は無料で、このことがすべての子供に均等な教育を受ける機会を保障している。また、9年間の義務教育期間は、給食も無料、教科書も支給される。そして中学卒業後は高校へ進学するか、職業学校に進学するか進路が分かれる。高校卒業後は進学検定試験を受験しなければならず、その成績と入試の成績で、大学または職業大学校へ進学する事ができるというシステムである。
 私が言いたいのは、フィンランドの教育制度が万能で日本が駄目であると言いたいのではない。
ただ、フィンランドで成功しているからといってそれをそのまま日本には適用できない。小国だからこそ可能であった政策ということも有りうるからだ。しかしながら、大学までの教育費が無料と言う事は、親の経済力に左右される事なく、やる気さえあればいくらでも教育が受けられるという点では望ましい事ではある。

2 前近代社会における学校教育システム
(1) 階層上層手段としての学校
前近代社会においては、教養(知識の習得自体を目的とした文化)と学校教育システムは、分離していた。教養は上流階級の趣味の一種であり、学校教育システムは「貧しいものの階層上昇の手段」として存在していた。そもそも、前近代社会は、階層が固定化されていた。親の職業を子どもが継ぐ(女性は、父親と似た職業の男性と結婚する)ことが原則であった。職業に必要な知識は、仕事を手伝いながら、親や親方や先輩など、周りの大人から伝達された。上流階級であれば、乳母や家庭教師から家内教育をうけた。それゆえ、多くの人にとっては、学校教育は無縁のものであった。
その中で、学校制度は、親からの伝達とは別のルートとして存在した。子にとっては階層上層、つまり、親以上の職業につけるチャンスをもたらす手段として、社会にとっては、社会的に必要な専門知識の担い手の養成機関としてあった。

(2) 知的遊戯としての学校
近代以前の学校とは、古代ギリシアなどに見られるように、暇と財産をもてあました特権階級にのみ許された、知的遊戯をする場所というように位置づけられていた。わが国における学校、または学力というものは、長い間生活とはかけ離れた有閑階級や支配階級のアクセサリー的な学問の力であったり、あるいは大衆にとっては支配者に都合がよい受動的で、記憶本位の知識・技能であった。学力の中に問題解決能力、思考力、創造性、関心、価値観などが含められるようになったのはつい最近のことである。
つまり、元来学校というものは社会的地位、身分、経済力、宗派、性別など、様々な条件によって選別された人間のみが通える場所であった。
古代バビロニアの「書記」の心得として、「文字を習えば辛い肉体労働をしなくてよくなるぞ、一生懸命頑張れ」と書かれた粘土板が発掘されているそうである。彼らは、肉体労働の辛さを免れるために勉強したのであって、人格の完成や知識の習得を目的としたのではない。

3 パイプラインとしての学校教育制度の成功
(1)リスクヘッジ機能をもつ学校
近代社会は、職業の自由選択を原則とする社会である。親の職業を継ぐ必要はなく、個人は自由に職業を選ぶ事ができる。しかし、この自由は、個人にとっても、社会にとってもリスクがある。なぜなら個人にとっては、自分が好きで選んだ職業につけるという保証は無いからである。一方、社会にとっては、必要な仕事に見合う人が集まるとは限らない。個人と企業等が自由競争を行って、時間がたてば自動的に調整されると言うのは、理論的には正しくても現実にはうまくいかない。個人にとって時間は有限である。調整しているうちに年齢を重ね、ある職業に就きたいと希望しても、なかなかつけなくて、40歳、50歳になって駄目と分かって「やり直せ」と言われても困るだろうし、「なれなくて残念でした。人生終わりですね」といわれたら怒り出してしまうかもしれない。社会にとっても、職業の調整に時間がかかれば、社会全体の経済的損失となる。その経済的損失のリスクを軽減するために学校が存在しているのである。
経済の高度成長期は、家族と職業をつなぐものとして「学校教育制度」がうまく機能した時期でもあった。戦後、産業構造が転換し、自営業社会から、サラリーマン中心の社会に移行するに連れ、子どもは親の職業を継ぐ必要は無くなった。そこで、職業選択の自由が生じると共に、望みの職業に就けないリスク、そもそも職業に就けないリスクが発生する。
「学校制度」は、そのリスクを軽減するものとして発生したものである。全ての人が望みの職業につけるわけではない。そこで、どの程度の学校を出れば、どの程度の職業に就けるかを見通すための「目安」として、学校制度は存在している。日本では、どんなに医者になりたくても、大学の医学部に入学しなければ、医者になる事は不可能である。弁護士や裁判官になるための試験はオープンとはいえ、一流大学の法学部に入れるぐらいの実力がなければ、なかなかなれるものではない。特定の職業に就くためには、特定の学校に入学する事が、必要とは言わないまでも、最も近い道ではある。それゆえ、人気の高い職に就くには、受験競争を勝ち抜いて、特定の学校に入学しなければならない。

(2)受験競争の効用
受験競争による選別、そして選別によって就ける職業が違ってくることが「悪者」のように語られる事が多い。特に、教育界やマスコミ界では、受験競争を諸悪の根源として目の敵にしてきた。何か少年事件が起こるたびに、受験が悪いと騒ぎ立てる風潮もあった。しかし、客観的に眺めてみれば、受験競争は、青少年を職業にリスク無く振り分けるための極めて優れた制度である。優れた制度だからこそ、悪評や度重なる教育改悪にもかかわらず、現在でも続いているのだ。ある職業に就きたければ、その職業に就くための学校に入る必要があるということは、ある職業に就きたくても、その職に就く事が見込める学校に「合格」できなければ、諦めざるを得ないということである。学校システムの効用は、実はここにあるのだ。青少年は、学校システム、そして、受験の中で、過大な希望を「あきらめ」させられ、結果的に自分の能力に見合った職業に就くように振り分けられる。

(3)緩やかな、そして目に見えにくい「諦め」システム
戦後日本の教育システムの特徴は、緩やかな選抜にある。中学から大学まで、受験を間に挟むことによって、諦めが徐々にもたらされるのである。ヨーロッパ諸国に典型的に見られるように、12歳前後で、進学コース、就職コースと明確な区分が引かれるのではなく、また、アメリカのように大学卒業後も職をめぐっての競争が続くわけでもない。約10年かけて、ゆるやかに、自分の希望と現実を調整し、自分の能力に見合った(とされる)職に、パイプラインによって「流し込まれる」のである。今から考えれば、希望と諦めのバランスの取れた、社会心理的に極めて優れたシステムであった。つまり日本の教育システムの特徴は、ヨーロッパとアメリカの丁度中間に位置する。ヨーロッパのように早い年齢からパイプラインに流し込まれるわけではないが、アメリカのように、大学を出てからもずっと競争というわけでもない。緩やかな選抜というというのはそういう意味合いである。

(4)安全なパイプラインと危険なパイプライン
漏れのないパイプラインが限られたものになりつつある。ある職業に就きたければ、例えば、大学の先生になりたければ、なれないリスクがあることを覚悟の上で、大学院博士課程に進学しなければならない。上場企業のホワイトカラーに就きたければ、なれないリスクがあることを覚悟の上で、文科系大学に入学しなければならない。希望の職に就けないリスクがあると認識したところで、ともかくパイプラインに入らなければ、そもそもの職業には就けないのである。パイプラインから自分で降りてしまえば、希望の職業に就く見通しは無い。つまり、この学校に入りさえすれば、ある職業に就けるという確実性はなくなったが、学校に入らなければ、確実性どころか、可能性さえないという状況である。青少年は、教育課程において、パイプラインに入り、リスクをとることを強要されるのである。
パイプラインの中でも、より安全なパイプラインと危険なパイプラインが存在する。医学部コースは、今でもかなり安全なパイプラインとなっている。大学工学部や看護学校も安全度は高い。一方、文科系大学院や偏差値下位の高校は、かなり漏れが多く、図書館司書、カウンセラーなどは、明らかに供給過剰で、学卒者がそのまま常勤の職に就けるほうが珍しいパイプラインである。

3 日本の学校教育と労働市場
日本の若年労働市場の特徴は、「学校経由の就職」に際して、若者自身が身に着けている職業的な知識や技能が、仕事に就くときの基準として大きな意味をもってこなかったという事である。「学校経由の就職」において若者と仕事を結びつける主な基準は、学歴や学校歴、基礎学力、あるいは「やる気」や「人物」など、抽象的・一般的で漠然としたものだった。具体的な個々の仕事の内容と、若者の職業上の能力とをマッチングさせるべきであるという考え方は、日本ではとても弱かった。

4 解決策
(1) 自発的なレイオフ制度
閉じた会社人間の弊害を和らげるには、会社を一時的に離れる機会を積極的に与えるしかない。ボランティアなどの社会活動でも、大学などでのリカレント教育でもいい。その中で新たな専門知識を得た後、専門職に転身してもいいし、会社に戻ってもよい。会社は雇用を保証するが、その間の費用は個人負担となるだろう。経済的にはラクではないが、現在でもそういう仕組みがあれば会社を一時はなれたいと思っている人はかなりいるのではないか。社会全体から見ても、人的資源のより適切な配分になるはずである。

(2) フリーターをもっと活用せよ
「学校経由の就職」というルートだけが特権的な有利さを味わえるような状況を変革する。企業の正社員採用における新規学卒者の特権性を弱め、フリーターなどの非典型雇用や無業と正社員との間の移動障害を低めるよう、企業の採用方法に対して政策的に働きかけることが必要である。
そもそも企業と個人のミスマッチを減らすという意味で、「フリーター」から正社員を登用することは企業にとって合理性がある。つまり、バイト上がりの人物のほうが、仕事ができるかどうか、会社に必要な人物かどうか判断しやすいということである。

(3) 学校教育において勤労観を植付ける
すべての若者が厳しい労働市場環境を生き延びていくための支えとなる、「職業的意義」の高い学校教育を作り上げていくことが必要である。就職してもすぐ辞めていくような事態にならぬよう、職業訓練的な授業を行う。そのためにも現在の教育公務員達にも積極的に社会人経験を積んでもらうか、もしくは社会人経験者を積極的に雇用する事が望ましい。

5 まとめ
(1) 浪人は2浪まで!?
昨今、「学歴なんて関係ない」などと言われているが、学歴と就職はやはり密接に関連しあうのである。そして学歴を得るチャンスはほぼ一生に一度しかない。わが国の大学は入学時の年齢制限をしているわけではないが、一流企業に入るチャンスが新卒に限られ、しかも採用時には2浪までしか認めないというおきてがあるからである。中年になって苦労して一流大学に入学しなおすということができても、たいていの場合その努力が就職面で報われることはないのである。

(2) 学歴社会のメリット・デメリット
学歴社会は、あらゆる人間に平等に機会が開かれているという意味で望ましい社会であるが、スタート時点では平等であるとは言えない。なぜならより良い教育を受けるためには親の経済力が必要だからである。つまり学歴は本人の実力だけでなく、親の経済力に依存するのである。

(3) 勉強とはなにか!?
 勉強とは目標と現在の差を埋めるものであり、意欲も興味も両方必要である。時間がかかってもよいから、確実に効果が上がる方法を見出すことが肝要である。格差社会が進行する日本ではあるが、努力すれば夢と現実の差を埋められる社会にまだいる。階級格差が厳しい社会や発展途上国ではそうは行かないだろう。今の日本は成り上がる最後のチャンスなのかもしれない。

(4) 新卒採用のメリット
新卒採用のメリットは、その人物を採用する企業カラーに染められる、要するに、従順にノルマをこなす能力をOJTにより、培わせる事ができるという事にあると思う。つまり、銀行に入行すると言う事は、正しい金融知識を培わせるというより、従順にノルマをこなすだけの事を意味する。しかしこの新卒採用のメリットは高度期には適切であったかもしれないが、時代の流れが早くなり、何が起こるかわからない時代においては適切ではない。今後はもっと人的資本を流動的にすべきである。

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