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チェダゼミナールコミュの名門高校人脈 鈴木隆祐 光文社新書 2005年

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ハビトゥス habitus(ラテン・フランス)

?習慣
?個々の階級や集団に特有の行動・知覚・判断の様式を生み出す諸要因の集合を言う。アビテュス。

P26

ハビトゥスとは、「持つ」を意味するhabereの派生語で、本来は顔色、態度、性格、習慣(英語のhabitはこの意)などを意味するラテン語であるが、ブルデューはこれを「社会的に獲得された性向の総体」、つまりは文化資本の意味で用いている。

これを、名門校に当てはめて考えてみると、名門が持つ特筆すべき「よき環境」、そこから生み出され、育まれる力、これこそがハビトゥスということになる。

P30

戦後長らく高等学校を取り巻く環境としては、旧制中学をルーツとする公立の名門校が頂点に君臨するという、いわば「安定した序列」があった。
郡部より市部の公立校が上位にあり、かつ同じ市内でも「中心部の城跡などに置かれている」藩校に祖を辿る事ができるような歴史ある学校が名門とされてきた。これらの学校は、公立・私立合わせて全国に30校あまりあり、そこに日本の高等教育の雛形がある。

P267

地方の公立高校から難関大学への進学が難しくなって久しいが、福岡の公立は実に健闘している。福岡市では、修猷館・筑紫丘・福岡が御三家と呼ばれるが、特に県立福岡高等学校と修猷館はよきライバル関係にある。

修猷館高校

箱島信一 朝日新聞社社長 九大(経)

高岩淡  東映会長 九大(経)

佐賀西高校

維新当時の政府では、佐賀出身の参議(高官)が最も多く、「学問、教育は佐賀が第一」との定評が生まれた。

大隈重信 原口一博(東大・文) 民主党 渡辺正和(筑波大・福岡ダイエーホークス)

熊本県立済々黌(せいせいこう)高等学校

クリームシチュー 上田(早大・教) 有田(立教・法)

熊本県立熊本高校

イギリスイートン校と交流を続け、ライバル済々黌よりジェントルメンなイメージ。

信原啓也(東大) JCB社長

松尾新吾(東大) 九州電力社長

細谷英二(東大) りそなホールディングス会長

P301

私学人気の背景には、少子化やフリーター、ニートの増加といった社会状況から来る親たちの不安がある。企業の場では、学歴不問、能力主義の導入が叫ばれているが、その場に参加するためには「最低限の学歴」が必要である事を、実際に社会に出ている親たちは肌で感じている。

開成高校

渡辺恒夫(東大・文) 読売新聞グループ会長

巣鴨高校

渥美清(中央大・経)

芝高校

北方謙三(中央大・法) 

久留米付設高校

江戸時代に久留米藩は大坂への物資供給拠点だったため、「久留米商人」という言葉があるほど商売に長けた人が多い。

語句調べ

旧制中学校
かつての日本で、男子に対して中等教育を行っていた学校の一つである。旧制中学(きゅうせいちゅうがく)と略されることも多い(旧制中等学校との違いに注意)。旧制とは、現在の学校教育法に基づく制度が実施される前の制度のことであり、当時は単に「中学校」と呼称した。ただし、明治時代には、尋常中学校(じんじょうちゅうがっこう)と呼称した時期もある。

旧制中学校は、日本において、明治時代から昭和時代前期にかけて学校教育法に基づく現代の中学校や高等学校に代わられるまで存在し、高等普通教育(現在の高等学校、中等教育学校の後期課程などで行われている教育に相当)を行っていた。入学資格は、尋常小学校(後に国民学校に移行)を卒業していることであり、修業年限は、元々5年であったが、後に1941年(昭和16年)に制定された中等学校令(昭和18年勅令第36号)によって4年に改められた。1948年4月に現在の高等学校制度が発足すると、旧制中学2年生以下の生徒は暫定的に後身高校の附属(新制)中学校の生徒となり、3年生は後身の高等学校へ進級し、旧制中学卒業者のうち希望者は後身高校へ編入した。

旧制中学校を経ると旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校や旧制専門学校に進学することが可能であった。また、旧制中学校2年生を修了すると師範学校への進学が可能であった。旧制中学校と類似の学校には、女子に対して中等教育を行った高等女学校、小学校卒業者に職業教育を行った実業学校がある。(ただし、高等女学校や実業学校からさらに上級学校に進学するには、旧制中学校より制限があった。)


学制改革と旧制中学前身の高校
旧制中学校は、太平洋戦争終戦後に連合軍総司令部の占領統治下における民主化政策に従って定められた学校教育法の元で、新制の高等学校へ転換されたが、その際公立校の多くは共学化された。しかし一部(埼玉県など)では共学化は必ずしも徹底されたわけではなく、また私学においてはその大半は、男子のみ行う高等学校に転換が図られている。また、山口県などでは、新制高等学校へ転換時に、隣接する旧制中学校と統合して転換し現在までいたるところや、大阪府では、単独で転換されるも、隣接する旧制高等女学校と生徒・教員の相互交流(入れ替え)を行ったところなどがある。 1947年の学制改革後、旧制中学校の後身となった高等学校は現在も地域の中核校・伝統校として難関・進学校であるとされている場合が多い。しかし、入試改革によって伝統を否定されるような総合選抜制度や学校群制度が導入された地域の多くの伝統校は殆ど例外なく著しく衰退し、私立高校や近隣の新設校の進学実績が著しく伸びたりした場合にみられるように(例えば京都府、広島県、高知県、など)、旧制中学前身の高校が全ての実績面においても躍進しているということではない。


旧制中学校

思永斎(小倉藩藩校) ⇒ 思永館 ⇒ 文武館 ⇒ 育徳館 ⇒ 育徳学校(変則中学校) ⇒ 第三十五番中学育徳学校 ⇒ 豊津中学校(県立) ⇒ 県立豊津尋常中学校 ⇒ 福岡県立豊津中学校 ⇒ 福岡県豊津中学校 ⇒ 福岡県立豊津高等学校(改称予定:福岡県立育徳館高等学校)
久留米藩学問所 ⇒ 明善堂 ⇒ 明善小学 ⇒ 小学教師伝習学校 ⇒ 久留米師範学校 ⇒ 県立久留米中学校 ⇒ 仮設久留米尋常中学校 ⇒ 私立久留米尋常中学校 ⇒ 県立久留米尋常中学明善校 ⇒ 福岡県立中学明善校 ⇒ 福岡県中学明善校 ⇒福岡県立明善高等学校
修猷館(福岡藩藩校) ⇒ 藩学校 ⇒ (廃止) … 向陽義塾(私立) ⇒ 藤雲館(私立) ⇒ 福岡県立修猷館 ⇒ 福岡県立尋常中学修猷館 ⇒ 福岡県中学修猷館 ⇒ 福岡県立中学修猷館 ⇒ 福岡県中学修猷館 ⇒ 福岡県立高等学校修猷館 ⇒ 福岡県立修猷館高等学校
伝習館(柳河藩藩校) ⇒ (廃止) … 文武館 ⇒ (廃止) … 伝習小学校師範伝習学校 ⇒ 福岡県立柳河師範学校 ⇒ 福岡県立柳河中学校 ⇒ 公立中学伝習館(山門郡町村連合設立) ⇒ 尋常中学橘蔭学館(私立) ⇒ 尋常中学伝習館(私立) ⇒ 福岡県尋常中学伝習館 ⇒ 福岡県立中学伝習館 ⇒ 福岡県中学伝習館 ⇒ 福岡県立伝習館高等学校
福岡県東筑尋常中学 ⇒ 福岡県東筑中学校 ⇒ 福岡県立東筑中学校 ⇒ 福岡県東筑中学校 ⇒ 福岡県立東筑高等学校
嘉穂郡立嘉穂中学校 ⇒ 福岡県立嘉穂中学校 ⇒ 福岡県立嘉穂高等学校
福岡県立小倉中学校 ⇒ 福岡県小倉中学校 ⇒ 福岡県立小倉高等学校
福岡県立朝倉中学校 ⇒ 福岡県朝倉中学校 ⇒ 福岡県立朝倉高等学校
福岡県立八女中学校 ⇒ 福岡県八女中学校 ⇒ 福岡県立八女高等学校
福岡県立三池中学校 ⇒ 福岡県立三池高等学校
福岡県立福岡中学校 ⇒ 福岡県立福岡高等学校
田川郡立田川中学校 ⇒ 福岡県立田川中学校 ⇒ 福岡県立田川高等学校
福岡県立鞍手中学校 ⇒ 福岡県立鞍手高等学校
福岡県立八幡中学校 ⇒ 福岡県立八幡高等学校
福岡県立宗像中学校 ⇒ 福岡県立宗像高等学校
福岡県立浮羽中学校 ⇒ 福岡県立浮羽高等学校 ⇒ 福岡県立浮羽究真館高等学校
福岡県立門司中学校 ⇒ 福岡県立門司高等学校 ⇒ 福岡県立門司学園高等学校
福岡県立三瀦中学校 ⇒ 福岡県立三潴高等学校
福岡県立筑紫中学校 ⇒ 福岡県立筑紫高等学校 ⇒ 福岡県立筑紫丘高等学校
福岡県立戸畑中学校 ⇒ 福岡県立戸畑高等学校
福岡県立山田中学校 ⇒ 福岡県立山田高等学校 ⇒ 福岡県立嘉穂総合高等学校


バンカラ
弊衣破帽と称される損傷した衣服を纏う事により、「己の外見を飾ること以外の何事かに、より熱心である」ことを表現しようとする若年服飾文化、およびその源泉となっている気質。

概要
明治期に男子学生の文化として発生したもので、漢字表記では「蛮カラ」である。先行して明治時代に登場していたハイカラ(西洋風の身なりや生活様式)に対する否定的な価値判断が根底にあり、アンチテーゼとして創出されたものと考えられている。

典型的な様式としては弊衣破帽がある。これは、ボロ学生服・マント・破れた学帽・高下駄などを特徴とするスタイルで、第一高等学校を中心とした旧制高等学校の生徒が流行の発端である。粗末な衣装によって「表面の姿形に惑わされず真理を追究」という姿勢を表現したものとされている。また、ハイカラのアンチテーゼとしてのバンカラは武士道にも通じ、「単に外見の容姿のみに留まらず、同時に内面の精神的なものも含めた行動様式全般」とも理解されていた。外見に無頓着な体裁とそれを正当化するための動機が複合した文化であると言える。単に粗末・粗野な恰好をバンカラと呼ぶわけではない。


形骸化と衰退
しかしながら、主観的論理としてはとにかく、その内面性が追いつかず、単に粗野であるにすぎないといった「バンカラの形骸化」は早くから指摘されており、幾度となく弊衣破帽を排する教育方針をとる学校が現れた。これらの学校の多くは、英国式の紳士教育を以てバンカラを排することを是とした(これらの学校は苦学生の清貧と故意を見分けていた)。また戦時期には、国家統制の面からも、弊衣破帽を排する学校も出現した。

戦後、衣料品の質が向上するにおよび、最早自然形成された弊衣破帽は望むべくもなく、着古しにより自然に弊衣破帽が生成されるのを待たず人為的に衣服を傷めて着用する者や、古着を求める者が横行し、単なる服飾流行となった。そもそも戦前は衣料品の質が悪く否応なく衣服が傷んだものであり、作為的に傷めたものではなかったという歴史的事情もある。


変遷
近年は「番カラ」の誤記も散見されるように、少年漫画における不良少年、特に番長の記号(弊衣破帽は喧嘩に明け暮れる結果と誤解)に変質し、また西日本・東日本地区の一部の高校・大学の応援団の「伝統」にその名残を残すのみである。なお代わって勃興した非行少年・少女を中心とした変形学生服の文化は、むしろ校則(服装規定)への反抗を記号化したものであり、バンカラの後継文化と看做すことは困難である。


岩手県とバンカラ
バンカラ文化の健在が顕著なのが、北東北地方、とりわけ岩手県である。

バンカラを貫いている学校の多くは戦前から続く旧制中学だが、戦後新設校でバンカラを取り入れたところもある。岩手県においてバンカラは、県を代表する誇りとされており、盛岡一高に代表される多くの学校に現存している。バンカラを貫けるかどうかが、その高校および学生に対しての県内一般社会からの信用基準になっている。

バンカラには自主性・主体性・学力・体力・気力が必要な素養とされており、岩手県内においてはバンカラは模範生とほぼ同義語とされている。実際、進学・就職を問わず、バンカラ校は良好な実績を維持し続けている。その一方で、学業優秀でなかったり、課外活動において高い成果を生み出せない学校・生徒らがバンカラを真似ることは恥ずかしいこととされる。

全県的に応援歌練習・壮行式・野球応援などはバンカラな進行に準じているが、求められる水準の高いバンカラの維持は難しいとされている。大学応援団に指導を受けるなどの対策も講じられるが、それでも維持できないことは少なくない。一度バンカラの仕組みが崩れると、その学校はあらゆる面で凋落していく傾向にある。その仕組みの建て直しに苦労するが、水沢高のような生徒の自主的な取り組みでバンカラを復活させた例も存在する。

ただし、最近では応援団リーダーのなり手(立候補者)が著しい減少傾向にあり(全校で3名以下のような状況もある)、十分な応援活動が展開できないこと(各高校の年間行事、公欠の取得状況にもよる)、応援団リーダーの不足を下級生等の補助にゆだねているような傾向にあり、必ずしもバンカラな応援を展開しているとはいい難い。とりわけ野球応援については、バンカラ応援団リーダー以上に、野球部下級生による派手でただ騒がしいだけのような応援が目立つ傾向にあり、バンカラ応援が浸透しているとはいえないような状況が見受けられる。

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