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チェダゼミナールコミュの講義ノート その67

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二時間目 「国際法」

皆さんは車の免許お持ちでしょうか。

車で事故を起こした時に「業務上過失致死」という処罰があります。

この「業務上」という言葉は、仕事中とかそういった意味合いではなく、車を運転するものは事故を起こしてはいけない義務があるので、事故を起こした時点で業務上に過失があったっとされるわけです。

つまり、車の免許を持っている人は、事故は本来起こしてはならないものであるし、起こしたら刑事上、民事上、行政上だけではなく、社会的にも責任を取らなければなりません。

社会的に責任を取るというのは、現在勤めている会社を辞めなければならないということを意味しています。

これはなかなかシビアだと思いませんか!?

でも車を運転するからにはそのくらいの覚悟がないと運転してはダメだということですね。

教育公務員(教師)が解雇される理由の一番多いのがこれなんですよ。

事故を起こして、教師クビなんて酷くないですか。

その次が体罰、その次がセクハラだったかな。

私は2年前、運転代行のアルバイトをしていましたが、お客さんに多い職種が「教師」でした。

それだけ学校の先生は飲酒運転に対してナーバスになっているといえるのではないでしょうか。

☻ ☺ ☻ ☺ ☻ ☺ ☻ ☺ ☻ ☺ ☻ ☺ ☻ ☺ ☻
競馬法というものをご存知でしょうか。

競馬は本来20歳を過ぎていようと、学生であればしてはいけないものでした。

つまり勝ち馬投票券を学生は買えなかったのです。

ご存知でしたか!?

たとえ40歳のオヤジでも、通信で大学院に行っているということであれば、馬券は買えませんでした。

しかし1〜2年前から、20歳を超えていれば学生でも変えるようになったそうです。

JRAってぼろ儲け産業ですよね。

ギャンブル業界の独占企業ですもの。

ギャンブルを主催していいのは国や地方のみです。

つまり独占状態です。

パチンコ屋は、一度券に変えてからお金に換えるので、ギャンブルではないということに建て前上なっているだけです。

JRAは、各大学のゼミでトップの人が入る優良企業です。

おそらく倒産はないでしょう。

競馬場に足を運んでみたら分かりますが、無駄に人件費を使っています。

JRAは銀行と並ぶ、文系学生の最高ランク企業といえるのかもしれません。

三時間目 「哲学」

この授業はお寝んねの時間です。

7割の学生がお寝んねしてます。

私とて例外じゃありません。

単位くれるかな。

この科目が一番心配やわ(。・ˇ_ˇ・。)ムム

本来哲学の授業は面白いものなんでしょうけどね。

4時間目 「外国史」

現代版戦争ってサッカーによって行われているのではないかと思います。

世界で一番ポピュラーなスポーツってサッカーでしょう。

W杯を見ていて思います。

国の威信をかけて戦っています。

サッカーを通じて世界史もいろいろ見えてくるような気がします。

人種構成や、お国柄など。

サッカー面白いですよね。

五時間目 「経済思想史」

この講義をいつも一緒に受けているM君と、KSUの先生方の出身大学(院)について語っていました。

去年東大卒で、某、重厚長大企業の社長の息子である先生がお辞めになりました。

京都大学は確かいません。

阪大、神大は一人ずついます。

阪大の先生は福大の先生ですが。

そして大阪市立のかたが2、3人います。

そして九大の方も3,4名います。

筑波の方も2、3名いらっしゃいます。

国公立では後東北大が一人。

あとはまだ知りません。

私立大では、慶応と思われる方が一人、MARCHの一角、立教が一人。(このゼミ生が一番優秀とされる)

あとは福大が数名います。

本学卒は、学部卒はいますが、院卒ではいません。

ちなみに○日鉄の経営する、某レジャー施設ですが、あそこの経営は黒字なのでしょうか。

ちと気になります。

レジャー施設で黒字を長年出せているのはJRAとディズニーぐらいなものだと思うのですが。

6時間目 「教科指導法研究・公民」

今日は指導案の検討会をしました。

休み明けには指導案を完成させたいと思います。

7時間目 「金融論」

日本銀行には2001年3月から、あらかじめ受け入れている担保の範囲内で、金融機関の申し込みに基づいて受動的に、基準貸付利率(公定歩合)で貸し出す、補完貸付制度が導入されている。

この事実は何を意味しているのかというと、かつての銀行間の間には「護送船団方式」という言葉があったように、競争がなかったものが、これにより、自由競争原理が働くようになるということである。

銀行もこれから潰れたり、吸収合併されたりして、弱者は市場から去ることになるだろう。

特に九州においてはそのスピードが速いように思われる。


語句調べ WIKIPEDIAより

南極条約 南極地域の平和的利用を定めた条約。

南極地域(すべての氷だなを含む南緯60度以南の地域)の継続的な平和的利用のため、当時南極における調査研究に協力体制を築いていた日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦(現ロシア)等12か国が、1959年12月1日に南極条約を採択した。条約の概要は下記のとおり。

南極地域の平和的利用(軍事的利用の禁止)
科学的調査の自由と国際協力
南極地域における領土主権、請求権の凍結
核爆発、放射性廃棄物の処分の禁止
条約の遵守を確保するための監視員の設置
南極地域に関する共通の利害関係のある事項についての協議の実施
条約の原則及び目的を助長するための措置を立案する会合の開催
南極条約締結国は、現在、45か国となっている。


南極条約締約国一覧(2005年6月現在)
南極条約協議国(28ヶ国)
南極において観測基地の設営などを学術調査を継続的に実施している国
アメリカ合衆国、日本、アルゼンチン、イギリス、ロシア、インド、イタリア、ウクライナ、ウルグアイ、エクアドル、オーストラリア、オランダ、スウェーデン、スペイン、ベルギー、チリ、ドイツ、ニュージーランド、ノルウェー、フィンランド、ブラジル、フランス、ブルガリア、ペルー、ポーランド、南アフリカ共和国、中華人民共和国、大韓民国
その他の条約締約国(17ヶ国)
エストニア、オーストリア、カナダ、朝鮮民主主義人民共和国、ギリシア、キューバ、グアテマラ、コロンビア、スイス、スロバキア、チェコ、デンマーク、トルコ、パプアニューギニア、ハンガリー、ベネズエラ、ルーマニア


大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん)は、1983年9月1日に大韓航空の旅客機が、ソビエト連邦の領空を侵犯したためにソ連の戦闘機により撃墜された事件。

概要

予定航路(破線)と実際の飛行航跡(実線)の地図撃墜されたのは、大韓航空のボーイング747-230型機(HL7442)で、ニューヨーク(ジョン・F・ケネディ国際空港)からアンカレッジを経由し、ソウルに向かうKAL007便。ソ連の領空を侵犯したあと、領空から出て30秒後に、樺太の近海でソ連の スホーイ Su-15TM迎撃機からミサイル攻撃を受け墜落した。乗員・乗客合わせて269人が死亡。

なお、この事件には、ソウル経由で日本へ帰国する途上であった日本人乗客も多数搭乗していたことや、日本の自衛隊が事件の様子をレーダーなどで観測・傍受しており、その傍受内容が国連安全保障理事会で公開されたなど、日本も深く関わっている。


ソ連による情報操作
当初ソ連当局は撃墜の事実を否定していた。上記のように、日本の自衛隊が稚内で傍受していたソ連軍機の生々しい交信の一部を国連安全保障理事会で公開したことにより、初めて公式に撃墜の事実を認めた。

007便は樺太沖に墜落し、日本の船が墜落現場に駆けつけたとき既にソ連船がボイスレコーダー、フライトレコーダーなど遺品を回収していた。しかしながら、ソ連当局は『スパイ飛行説の反証となりうる可能性がある』との理由から、その後回収したことを長期間秘匿した。これはソ連崩壊後、ロシアによって公開されることになる。それまでにソ連は分析を済ませ、スパイ行為説を否定する見解を極秘報告書として出していた。つまり、ソ連は国家の面子のために真相を封印したのである。


航路逸脱の原因の解明
『なぜ007便は航路を逸脱したのか』、『なぜソ連は民間機を撃墜したか』、という大きな謎が長らく解明されずにいたが、ソ連が崩壊するとともにロシア政府が、事故発生後にソ連海軍が回収したものの、その後回収したことを長いこと隠しておいた007便のブラックボックスをICAOに提出した。ICAOはこれを高い解析技術を持つ第3国であるフランスの航空当局に提出、解析を行い、その結果をもとに調査の最終報告を提出した。


最終報告
その内容は『航路逸脱の原因は、乱気流もしくは積乱雲回避のため一時的にヘディングモード(方位角モード・方位のみを指定する自動操縦)へ切り替えたままINSモード(地理的に主要な場所に設置されている電波標識に向かって飛行する自動操縦)に戻し忘れたか、もしくはINSモードに切り替えたが作動しなかった』というものである。

この最終報告は撃墜事件が発生してから10年余りも経って報告されたため、マスコミの興味も薄く、一般にはあまり知られておらず、その為にジャーナリストの間においてさえ、いまだに『原因は未解明である』とされてしまうことも多い。その為か、事件当時ソ連の発表したスパイ飛行説(後述)がその後も長く根強い支持を得ていると言う奇妙な状況になっている。


事件の経過
※時刻は東京/ソウル時間。

1983年 8月31日

13:05 - KAL007便が、ジョン・F・ケネディ国際空港を出発。
20:30 - アンカレッジ国際空港に到着。
21:20 - アンカレッジ国際空港出発予定。しかし、追い風のためソウル(金浦国際空港)開港 (6:00) 前に到着することがわかり、出発を見合わせ。
21:50 - 予定より30分遅れてアンカレッジ国際空港を出発。
22:00 - 離陸。
22:02 - ウェイ・ポイント「ベセル」へ向かうため方位角245度へ機首を向ける。以降、機首は245度のまま(※方位角90・180・270・360 (=0) 度は順に東・南・西・北)。
22:27 - カイルン山電波局付近を通過し、レーダー圏外へ。(このとき、すでに予定航路 (J501) を北へ11km逸脱していたことがのちに判明。管制官からの警告はなかった)。
22:49 - アンカレッジの管制官に「ベセル」通過を報告。実際のベセルより22km北の位置であった。米軍レーダー(キングサーモン)の圏内であったが、これは管制権を持っていなかったため特に警告はしなかった。
9月1日


カムチャツカ半島00:51 - ソ連の防空レーダーが、カムチャツカ半島北東を飛行する航跡を確認。アメリカ軍機と判断。
01:30 - 007便、ソ連を領空侵犯。ソ連軍機は迎撃を試みるも接触できずに帰投。
02:28 - 007便、カムチャツカ半島を通過。ソ連のレーダーから消える。
02:36 - 007便、樺太(サハリン)に接近しソ連軍は警戒態勢に入る。
03:05 - 007便、後続便(同航路を2分遅れで飛行するKAL015便)と通信し、お互いの風向風速がまったく異なっていることに気付く。しかしコース逸脱には気付かなかった。
03:08 - ソ連軍機(スホーイ Su-15TM迎撃機)が007便を視認。暗いため機種の判別はできていない。航法灯と衝突防止灯が点灯していることを報告。
03:20 - 東京の管制官、007便に高度変更を許可(燃料節約のための高度上昇)。
03:21 - ソ連軍機、警告射撃。しかし、曳光弾は搭載されておらず、徹甲弾(光跡を伴わず、弾丸の航跡が見えない)のみ発射。007便も気付かず。
03:23 - 007便、高度上昇し3万5000フィートに到達。これに伴う速度低下で、ソ連軍機は007便の真横まで追いついてしまう。
03:23 - 攻撃命令発令。
03:25 - ミサイル発射。赤外線誘導式とレーダー誘導式の計2発。30秒後、007便の尾翼に赤外線誘導式が命中。結果、油圧系統及び電気系統を損傷(ICAOの最終報告書による推測)。機体は一時上昇した後、降下し始める。
03:26 - 007便、東京の管制官に急減圧の発生と高度1万フィートへ降下する旨交信をしたものの、雑音により途中で交信が途絶する。
03:27 - ブラックボックスの記録途絶える。その後も007便は左へ旋回しながら降下し続ける。
03:38 - ソ連及び稚内レーダーから007便の機影消える。この頃、日本のイカ釣り漁船「第五十八千鳥丸」が海馬島の北18・5海里沖で飛行機の爆音と海上での爆発を目撃した。

事件の発覚
航路をはずれた007便は自衛隊の稚内レーダー部隊により観測されていた。しかし、この時点で洋上飛行中(のはずであった)007便はATCトランスポンダから識別信号を発しておらず、自衛隊はソ連国内を飛行する所属不明の大型機として、その周りに飛行するソビエト軍戦闘機を、迎撃訓練を行う戦闘機として扱った。

これとは別に、陸幕二課調査部別室(「調別」、電波傍受を主任務とする部隊)は、ソ連の戦闘機が地上と交信している音声を傍受。「ミサイル発射」のメッセージを確認したが、この時点ではソ連領土内での領空侵犯機に対する通常の迎撃訓練が行われていると考えており、実際に民間機が攻撃されていたという事実は把握していなかった。この録音テープは、のちにアメリカがソ連に対し撃墜の事実を追及するために使用するが、公式には日本政府からアメリカへの引き渡しは行われておらず、どのような経緯で渡ったのかは不明である。

撃墜直後、稚内のレーダー部隊は所属不明機の機影が突然消えたことを捉えた。しかし、行方不明機がいないか日本や韓国(大邱)、アメリカ(エルメンドルフ)、ソ連(ウラジオストク)の各航空当局に照会したところ、前記の3国からは該当機がないとの返答を受け、ソ連からは返答そのものがなかった。
撃墜30秒後、それまで007便を通信管制していた東京の管制に雑音が混じった007便からの呼び出しが入ったが、そのまま連絡が途切れた(急減圧により緊急降下する旨の交信の内容は、その後音声分析により判明)。付近の飛行機からも007便へは無線が通じず、30分後から遭難の可能性ありとして当局に捜索を要請した。
9月1日の朝の時点で、日本政府が大韓航空機が行方不明になったことを公式発表し、各国の通信社が東京発の情報として大韓航空機の行方不明を報じたが、「サハリンに強制着陸」などの誤報も飛び交った。この様な報道に対し、ソ連は「該当する航空機は国内にいない」、「領空侵犯機は日本海へ飛び去った」と事件への関与を否定した。
アメリカは、この日の内にソ連が007便を撃墜したと発表。傍受テープも一部放送した。(日本の軍事情報であるこのテープを公開することについて、日本は相談を受けていなかった)
9月2日:ソ連のオルガコフ参謀総長が「領空侵犯機は航法灯を点灯していなかった」、「正式な手順の警告に応答しなかった」、「日本海方面へ飛び去った」と発表した。(後に、航法灯は点灯しており十分な警告は行われていなかったことをパイロット自身が証言する)
9月6日:国連安全保障理事会で傍受テープが公開された。このあと、ソ連は撃墜を認める声明を正式に発表した。
9月9日:ソ連のオガルコフ参謀総長が「大韓航空機は民間機を装ったスパイであった」との声明を発表。

機体の捜索
事件の調査のため日米ソが樺太周囲の海域を捜索したが、ソ連は領海内への立ち入りは認めず、公海上での捜索に対しても進路妨害などを行った。その後、機体の一部や遺品など一部の回収物件は日本側へ引き渡されたが「遺体は見つからなかった」、「ブラック・ボックスは回収していない」と主張。

しかし、事件直後から機体の破片や遺体の一部が次々日本の沿岸に流れ着いていたため、この様なソ連の発表内容は当時から疑問視されており、実際、ソ連崩壊後に行われたイズベチヤ紙の取材で、複数の遺体とその一部、数々の遺品が回収されていたことが明らかにされているが、その全てが証拠隠滅のために焼却処分にされていた。また、ブラック・ボックスも実際には回収されており、モスクワに対して「スパイ飛行説の反証となりうる可能性がある」との報告がなされていたため、ブラック・ボックス回収の事実は、その後ソ連が崩壊する後まで完全に封印されていた。その後、ロシア政府はブラック・ボックスの第3国(フランス)への引渡しと、残された遺品の引渡しを行った。


領空侵犯原因『諸説』
ソ連によるブラックボックスの隠匿などの情報操作により、事件についての多くの疑問点が近年まで解明されないままであったため、ソ連崩壊後にロシアによってブラックボックスの内容が公開され、その後のICAOによる調査で『航路逸脱の原因は、乱気流もしくは積乱雲回避のためにヘディングモード(方位角モード・方位のみを指定する自動操縦)のままINSモード(地理的に主要な場所に設置されている電波標識に向かって飛行する自動操縦)に切り替え忘れたか、もしくは、INSモードに切り替えたが作動しなかった』という内容の最終報告が行われた後になっても、007便が航路を逸脱し領空侵犯を行うに至った理由について様々な説がささやかれ続けている。

『航法装置の設定ミスまたは故障説』というブラックボックスの内容公開を受けてICAOが調査した最終報告の結果以外に、領空侵犯の原因としてよく言われる説には下記のようなものがある。

『アメリカ軍部の指示説』
『燃料節約説』

この説は、航法装置の設定ミスもしくは故障が領空侵犯に至った原因とするものである。安全管理の分野では、二重三重の安全システムを、いかにして人間のミスがくぐり抜けてしまうかの一例としてこの事件が紹介されることが多い。

ボーイング747は航路をコックピットで事前に入力し自動航行するシステムになっている。離着陸、天候の悪化、何らかのトラブルの場合以外は手動で操縦することは、通常はない。どのようなミスで操縦士たちが気付かずに航路を逸脱してしまいうるか、いくつかの説が議論されている。なお、007便のボイスレコーダーには機長と副操縦士があくびを繰り返すのが記録されていることから、設定ミスの原因として疲労によるヒューマンエラーを指摘する声もある。

航法装置の機械的故障
INS入力ミス
航路は、通過地点を順に慣性航法装置に打ち込むことで設定するが、経度のみ(もしくは、緯度のみ)がひとつずれて打ち込まれたのではないか、または、出発地の座標が誤って打ち込まれたのではないかなどとする説。
慣性航法装置の起動ミス
慣性航法装置は飛行前にジャイロを安定させる動作(アライメント)が必要である。この動作から実際のナビゲーションを始めるまでにスイッチの切り替えをするが、切り替え前に機体を動かしてしまったのではないかとする説。
慣性航法装置の切り替えミス
航路に乗るまで方位角モード(HDG)で飛行し、航路に乗ってからは誘導モード(NAV)にするはずが、切り替えが行われなかった、もしくは機械が切り替わらなかったとする説。実際に、切り替え忘れのため日本航空機が航路を逸脱しソ連軍のスクランブルを招いた事例がある。

説の弱点・欠点
操縦士・副操縦士・航空機関士の3名のうち2名以上の確認のもとに行われることから、航路の入力ミスは考えにくい(といわれるが、実際に同様の入力ミスは正式に報告されたものだけでも他に何件かある)。また、航法装置の切り替えミスでは離陸後早くから速度表示などが異常な値を示すはずで、早期に気づけたはず。航法装置は3台装備されて、そのうち1台が異常を起こしても多数決制で正常な装置の判断が優先されるはずである(しかし、他に起きた入力ミスの事例でも地上の管制によって注意を受けるまで気づかない例があった)。


アメリカ軍部の指示説

説の趣旨
アメリカ軍部が同盟国である韓国に対し、ソ連極東に配備された戦闘機のスクランブル状況を知るため、もしくは、近隣で偵察飛行を行なうアメリカ空軍機に対するソ連軍機の哨戒活動をかく乱するために、民間機による故意の領空侵犯を指示し、事故機がこれに従ったとする説である。

撃墜事件直後のソ連政府が『非武装の民間機を撃墜した』ということによるイメージダウンを覆い隠すために、007便のブラックボックスを回収したという事実を隠してまでこの説を強硬に主張したほか、当時、アメリカ国内でもマスコミを中心に当局の陰謀の存在が議論されたが、現在では当事国のロシア政府によってさえも否定されている。

にも拘らず、ICAOによる最終報告やロシア政府による最終報告書への事実の裏づけが行われた現在になっても、その事実を知らない一部の陰謀マニアによって、あたかも真実かのように主張されることがある。


説の根拠
機長が元韓国空軍の軍人であり、この計画に従うことに躊躇しないと言う説(大韓航空のパイロットには元空軍軍人が多い)。
実際に撃墜の日に現場近くをアメリカ軍の偵察機RC-135が偵察飛行していた。

説の欠点
単にスクランブルの様子を観測、もしくは哨戒活動を錯乱するだけのために果たしてアメリカ軍は民間人数百人の命をかけてまで領空侵犯を指示する意義があったのか?(なお、当時の航空地図には、赤字で「ソビエト領内に侵入した場合、無警告で撃墜される恐れがある」と注意書きがされていた)。公になった際にはアメリカは人道面で国際的な非難を浴び信頼を失うのは確実であったはずで、そのようなリスクに見合ったメリットがあるとは考えにくい。
仮にスパイ飛行だとしても、007便はそれを隠蔽するための偽装を行った形跡がまったく残っていない。例として、ウェイ・ポイント(航路上の通過地点)の通過時刻が予定と毎回ずれているがそれをずれたまま報告している(ふつう通過時刻がそれほどずれることはない)、同一航路の他の便より低い気温を報告している(=北方へ逸脱している)など。また、蛇行した航路については、誤差を持ったレーダー記録の各点を線でつないだ結果の見かけのものだとする意見もある。
事件後に心理学者が交信記録の音声を分析したところ、機長も副操縦士も平常の精神状態であったと分析されており、戦闘機による追尾や警告射撃を受けていたことに気づいていたという点は見受けられなかった。
他機や地上からの無線による呼びかけに対して、電波状況などの理由により応答しないことは日常茶飯事であり、また、後続機がコースの逸脱に気づいていたという証拠も無く、後続機よりもコースの離脱に気づいている可能性の高い地上からの呼びかけには撃墜直前まで応答しているため、後続機からの呼びかけを意識的に無視していたとは考えにくい。

燃料節約説

説の趣旨
この説は、機長が燃料節約のために意図的に航路を北にずらし、スクランブルを受ける危険を承知でソ連領空を侵犯したとするものである。


説の根拠
当時の大韓航空機は航空運賃が安く、燃料を節約することは機長の使命であったといわれていることが、説の根拠となっている。


説の欠点
当時の状況におけるソビエト連邦領空への侵入は危険であることを当然機長もわかっていたはずであり、そこまでの危険を冒してまで領空周辺を飛ぶ必要があったのかという疑問点が残る。
たとえ燃料の節約のために領空侵犯を行っていたとしても007便は航行灯を点けて飛行しており、それを見ればソ連の戦闘機パイロットが民間機と分かるはずである。当時のソ連でさえ、この様な大型の民間機を、国際的な非難を浴びることを承知の上で撃墜するのはつじつまが合わない。
また、撃墜に至らずにソ連領内に強制着陸させられたとしても、1978年に発生したソビエト連邦領空を侵犯した大韓航空のボーイング707型機に対するソビエト空軍機の銃撃と、それに伴うソビエト連邦領内への不時着の時と同様に乗客や機体が長期にわたり拘束を受けることや、今事件のように撃墜された場合の会社に与える損害は計り知れないものがある。

ソ連空軍機による007便に対しての認識の疑問点
この事件の最大の疑問点は、民間機と認識した上で撃墜したのかということであるが、ソ連崩壊後に行われた、撃墜した戦闘機のパイロットや地上の指揮官に対するその後のインタビューの中で、『007便が航行灯を点灯していた』ことと、『パイロットも地上も007便を民間機だと認識していなかった』ことが明らかになった。

これを裏付けるように、1976年に函館空港でのベレンコ中尉亡命事件でアメリカに亡命し、空軍顧問となっていたビクトル・イワノビチ・ベレンコ元ソ連空軍中尉は、事件当時、アメリカ国防総省の依頼で交信を解読し「領空を侵犯すれば、民間機であろうと撃墜するのがソ連のやり方だ。ソ連の迎撃機は、最初から目標を撃墜するつもりで発進している。地上の防空指令センターは、目標が民間機かどうか分からないまま、侵入機を迎撃できなかった責任を問われるのを恐れ、パイロットにミサイルの発射を指示した」と、1997年8月の北海道新聞のインタビューで証言している。

また、アメリカ軍が撃墜後のソビエト軍の地上基地同士の交信を傍受した中で、撃墜2時間後に「どうやら我々は民間機を撃墜してしまったらしい」という報告もなされていた。


その他
大韓航空は、遺族からの賠償請求には不可知論を理由に拒否したため、多くの遺族は和解に応じざるを得なかった。
このHL7442号機は1972年にコンドル航空(ルフトハンザ・ドイツ航空の子会社でチャーター便を運行している)のD-ABYH号機として製造、1979年に大韓航空に売却された機体である。
この事件を主題とした番組では、テーマソングにサラ・ブライトマンの「A QUESTION OF HONOUR」が使われる。


競馬法(けいばほう、1948年(昭和23年)7月13日法律第158号)は、日本において競馬の開催、競馬場、開催回数、入場料、勝馬投票券(いわゆる馬券)、勝馬投票法、払戻金等など競馬に関する一切を定める法律である。

ただし、詳細は関連する法律や省令などによって定めるものが多い。


競馬法で定められている事柄
日本中央競馬会又は都道府県は、この法律により、競馬を行なうことができる。(第1条)
次の各号のいずれかに該当する市町村(特別区を含む。以下同じ)でその財政上の特別の必要を考慮して総務大臣が農林水産大臣と協議して指定するもの(以下「指定市町村」という)は、その指定のあつた日から、その特別の必要がやむ時期としてその指定に付した期限が到来する日までの間に限り、この法律により、競馬を行うことができる。
著しく災害を受けた市町村
その区域内に地方競馬場が存在する市町村
(第1条第2項)
日本中央競馬会が行う競馬は、中央競馬といい、都道府県又は指定市町村が行う競馬は、地方競馬という。(第1条第4項)
日本中央競馬会、都道府県又は指定市町村以外の者は、勝馬投票券その他これに類似するものを発売して、競馬を行つてはならない。(第1条第5項[1])
中央競馬の競馬場の数は、12箇所以内において農林水産省令で定める。(第2条)
地方競馬の競馬場の数は、北海道にあつては6箇所以内、都府県にあつては2箇所以内とする。(第19条)
勝馬投票券は10円単位で発売し、10枚(100円単位)以上を1枚として発売することができる。
勝馬投票法は単勝式、複勝式、連勝単式、連勝複式、重勝式[2]。
未成年者[3]は勝馬投票券の購入および譲り受けができない。
地方競馬全国協会の設立。その他それに関すること。

注釈
↑ 2005年1月の改正によりこれまで認められてなかった民間業者への勝馬投票券発売委託は認められている。
↑ 日本では現在重勝式は発売されていない。
↑ 2004年までは満20歳以上であっても学生・生徒に該当する者が勝馬投票券の購入・譲り受けをしてはいけない規定があったが、2005年1月の改正により満20歳以上なら全員勝馬投票券を購入できるように改められた。

旧競馬法
なお、競馬法(1923年(大正12年)法律第47号)は、現行の競馬法と区別して「旧競馬法」と呼ばれている。

1906年(明治39年)に開始された競馬開催には当初法的根拠がなく、「馬券に関する内閣決議書」という農商務・陸軍・内務・司法の4大臣による合議書によって正当化されていた。そのため馬券の射幸性に対して批判的な風潮が強まると、政府は1907年、刑法(1907年(明治40年)法律第45号)を根拠として馬券禁止の通牒を競馬主催者に発した。

しかし、これは良質な軍馬生産という観点で大きな支障を発生させる事となり、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)後、軍隊の機動性向上の観点から軍馬生産を重視した陸軍は、馬産奨励のため競馬に着目した。陸軍は競馬開催に法的根拠を与えるための法案制定を強力に後押しし、1923年、ついに旧競馬法が成立。このとき馬券の発売も条件付きながら合法化された。


イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、ドイツの思想家で大学教授である。近代において最も影響力の大きな哲学者のひとりである。『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」を齎す。ドイツ観念論 哲学の祖でもある。

生涯
イマヌエル・カントは、1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で、皮革工親方の三男として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごし没した。両親はルター派の敬虔主義を奉じていたため、カントはその濃厚な影響のもとに育った。1732年、ラテン語学校であるフリードリヒ校にすすんだ。1740年には、ケーニヒスベルク大学に入学する。当初、神学を志したが、ニュートンの活躍などで発展を遂げつつあった自然学に関心が向かい、哲学教授クヌッツェンの影響のもとライプニッツやニュートンの自然学を研究した。

1746年、父の死去に伴い大学を去る。学資が続かなくなったのに加えて、最近の研究では、クヌッツェンにその独創性を認められなかったことも大学を去る動機になったと推定されている。この時大学に論文(いわゆる『活力測定考』)を提出しているが、ラテン語でなくドイツ語であったこと、また学内の文書に学位授受についての記録が残っていないことなどから、正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったと思われる。その後約9年間、主に家庭教師をして生計を立てる。

1755年、(正規に出版されたものとしては)最初の論文"Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels"『天体の一般的自然史と理論』で太陽系は星雲から生成されたと論証した。この論文は印刷中に出版社倒産により極少数のみ公刊であった。(1791年に抄録が、1797年に論文集に採録され、後にピエール=シモン・ラプラスの宇宙論とあわせカント・ラプラスの星雲説といわれる。)私講師として職業的哲学者の生活に入る。中途、ケーニヒスベルク大学詩学教授の席を打診されたが、カントはこれを固辞した。またエアランゲン、イェーナからも教授就任の要請があったが、遠隔地の大学だったせいか、それとも地元のケーニヒスベルク大学から既に非公式の招聘が来ていたせいか(後述するように翌年の1770年に教授就任)、これも断っている。

1766年『視霊者の夢』(エマヌエル・スヴェーデンボリの千里眼という超常現象について、その存在を認めるか幻覚であるか判断できないという内容)を出版。

外部リンクカント『視霊者の夢』
Reclam 版 『視霊者の夢』 目次
後年 カントはエマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。 「スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・ ぺーリツ編『カントの形而上学講義』から)。

他に幾つかの小著作を出版し哲学教師を続けていたが、1770年、カント46歳のときに転機が訪れる。ケーニヒスベルク大学から哲学教授としての招聘があり、以後カントは引退まで、この職にとどまる。就職論文として『可感界と可想界の形式と原理』(原文:ラテン語)を著す。前批判期のもっとも重要な著作のひとつで、後の『純粋理性批判』につながる重要な構想が述べられている。

大学教授としてのカントは、哲学のみならず地理学、自然学、人間学などさまざまな講義を担当した。話題は多様であっても、穏やかなカントの学者生活の日々は『純粋理性批判』の出版で劇的に変化した。彼は一気にドイツ哲学界の喧騒にみちた論争の渦中に入り込んだ。『純粋理性批判』はその難解さと斬新な思想の故に、同時代の読者に正しく理解されず、さまざまな議論が起こったのである。とくにバークリーの観念論と同一視して批判する者が多く、カントは小著『プロレゴーメナ』を出版して自身の哲学的立場を明らかにし、また『純粋理性批判』の前半部、超越論的演繹論を改稿した第2版(今日ではB版と呼ぶ)を出版して、誤解を解こうと努めた。

カントの当初の構想では『純粋理性批判』は単独でその批判の全貌を示すものになるはずであった。しかし構想の大きさと時間の制約により、理論哲学の部分のみを最初に出版した。残る実践哲学および「美と趣味の批判」は、後に『実践理性批判』および『判断力批判』として出版されることになった。これらを「三批判書」と呼ぶ。 カントは哲学的論争の渦中にいたが、その学者人生は順調であった。晩年にはケーニヒスベルク大学総長を務めた。しかしプロイセン王立ベルリン・アカデミーには、カントは招聘されなかった。

カントの構想では批判は形而上学のための基礎付けであり、それ以降の関心は形而上学へ向かった。またカントの哲学には道徳への関心が濃く、すでに批判のうちに表明されていた道徳と宗教および神概念への関心は宗教哲学を主題とするいくつかの著作へと向かった。

カントは三批判で表明された既成宗教への哲学的考察をすすめ『単なる理性の限界内における宗教』を著したが、これは当時保守化の傾向を強めていたプロイセンの宗教政策にあわず、発売を禁止された。カントは自説の正しさを疑わず、また学者同士の論争に政府が介入することには反対であったが、一般人が自由な言論によって逸脱に走る危険性を考慮して、この発禁処分を受け入れた。


 ケーニヒスベルクの奥津城1804年2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて老人性痴呆症が進行、膨大なメモや草稿を残したものの著作としてまとめられることは遂になかった。最後の言葉は「これでよい」(Es ist gut.) だったと伝えられる。偉大な倫理学者が生涯の終わりに残した名言として美化されがちだが、末期の水がわりに水で薄めたワインを口にした直後の発言であり、実際には自らの人生に対する総括というよりも「もう(十分飲んだから)結構」とか「(ワインが)うまいねえ」といった程度の意味ではなかったかと言われている。当時のドイツの哲学者は、論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した2月28日になって(真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ばミイラ化しており、埋葬を急がなくて済んだためという)大学葬が行われ、市の墓地に葬られた。その奥津城は現在もカリーニングラードに所在する。


概説

ロシアのカリーニングラードにあるカント像一般にカントの思想はその三つの批判の書にちなんで批判哲学と呼ばれる。しかしカント自身はみずからの批判書を哲学と呼ばれるのを好まなかった。カントによれば批判は哲学のための準備・予備学であり、批判の上に真の形而上学としての哲学が築かれるべきなのである。ドイツ観念論はカントのこの要求に応えようとした試みであるが、カントはこれをあまり好意的には評価しなかった。またドイツ観念論の側でもカントを高く評価しながら、物自体と経験を分離したことについてカントを不徹底とも評価し、いわばカントを克服しようとしたのである。

カントの思想は以下の三つの時期に区分される。

前批判期 『純粋理性批判』刊行前、初期の自然哲学論考から就職論文『可感界と知性界について』まで
批判期  1768年 - 1790年。『純粋理性批判』以降の三批判書を含む諸著作。これ以降、後批判期を含めて批判哲学と呼ぶ
後批判期 1790年 - 1804年。第三批判『判断力批判』以後に刊行された著作および遺稿

前批判期
初期のカントの関心は自然哲学にむかった。とくにニュートンの自然哲学に彼は関心をもち、『引力斥力論』などニュートンの力学や天文学を受容した上でそれを乗り越えようとする論文を書いた。自然哲学においてはことに星雲による太陽系成立についてに関心を示した。また若干の地質に関する論文を書いた。

一方でカントはイギリス経験論を受容し、ことにヒュームの懐疑主義に強い衝撃を受けた。カントは自ら「独断論のまどろみ」と呼んだライプニッツ=ヴォルフ学派の形而上学の影響を脱し、それを経験に基づかない「形而上学者の夢」とみなすようになる(『視霊者の夢』)。自然科学と幾何学の研究に支えられた経験の重視と、そのような経験が知性の営みとして可能になる構造そのものの探求がなされていく。

またカントはルソーの著作を読み、その肯定的な人間観に影響を受けた。これは彼の道徳哲学や人間論に特に影響を与えた。

こうして知性にとって対象が与えられるふたつの領域とそこでの人間理性の働きを扱う『可感界と知性界について』が書かれる。この時点で後年の『純粋理性批判』の基本的な構想はすでに現れていたが、それが一冊の本にまとまるまでには長い年月を要することになる。


批判哲学
従来人間外部の事象、物体について分析を加えるものであった哲学を、人間それ自身の探求のために再定義した「コペルニクス的転回」は有名。彼は人間のもつ純粋理性、実践理性、判断力とくに反省的判断力の性質とその限界を考察し、『純粋理性批判』以下の三冊の批判書にまとめた。

カントによれば、人間の認識能力には、感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリに備わっており、前者の感性には、純粋直観である空間と時間、後者の悟性には、因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。意識は、その二種の形式に従ってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である。他方、この形式に適合しない理性理念は原理的に人間には認識できない概念とされる。神あるいは超越者がその代表例であり、これをカントは物自体(Ding an sich)と呼ぶ。(『純粋理性批判』)

超越者がア・プリオリな認識能力にとってたんに思惟の対象であることを指摘したカントは、理性が超越者とかかわる別の方法、すなわち実践理性による超越者の要請(Anspruch)を『実践理性批判』において考察する。この書はカント道徳論の基礎であり、物自体はここで「あなたの意志の格律(die Maxime deines Willens)がつねに同時に普遍的立法として妥当するように行為せよ(Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.)」という定言命法として定式化される。すなわち理論理性に対して物自体である神は、実践理性にとっては人間理性の自由であり、その根拠として神・不死などの観念が要請されるのである。

最後にカントは狭義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判断力について考察を加え、その一種である反省的判断力を「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けて考察を加えた。これが『判断力批判』である。この書は、その後展開される実践論、美学などの基礎として評価されている。またハンナ・アレント以降、『判断力批判』を政治哲学として読む読み方が提示され、現代哲学においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。

批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗教・倫理学への関心を増した。とくにフランス革命にカントは重大な衝撃を受け、関心をもってその推移を見守っていた。後期著作の道徳論や人間論にはその知見が投影されている。


カントの両親は、彼をエマヌエルと名づけたが、長じてカントはヘブライ語を知り、その知識からイマヌエルとみずから改名した(「イマヌエル」とはヘブライ語で、「神共にあり」の意味である)。カントの容貌については、弟子の証言によると、青く小さな、しかし輝く瞳をもった小柄な(身長157センチ程度)人物であった。身体は骨格、筋力ともにやや貧弱。正装する時には服が身体から滑り落ちるのを防ぐため、いわゆる「留め具」が欠かせなかったという。身体の割に頭は若干大きめだった。なお、虚弱という割には最晩年まで命にかかわるような病気とは無縁で、顔色もすこぶるよかったらしい。


青少年教育批判
カントは、規則で生徒たちを縛り上げる厳格な教育方針で知られたフリードリヒ学校に入学し、その教育方針を身をもって経験した。しかし、後に彼は、この学校の教育方針について批判を記した。啓蒙の哲学者カントの面目躍如と言える。


独身主義者カント
カントは生涯独身を通した。彼が哲学の道に入る契機となったニュートンも独身であったが、ニュートンの場合は、仕事が忙し過ぎて恋愛の暇がなかったと言われる。カントの場合は、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされる。真相は不明で、カントも忙し過ぎたのかも知れない。


教育者カント
カントはケーニヒスベルク大学の哲学教授となったが、その授業の様子を、当時の弟子のひとりであるヘルダーが伝えている。ヘルダーによれば、カントの講義は生彩に富み魅力あるものであった。カントはいきいきと語る熱心な教師であった。カントが旺盛な知的好奇心を持ち、その話題が豊かであったことからも、教師としてのカントの姿が彷彿とされる。


規則正しい人カント
カントは規則正しい生活習慣で知られた。早朝に起床し、少し研究した後、午前中は講義など大学の公務を行った。帰宅して、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て時計の狂いを直したと言われる。これは、カントの性格の一部でもあったようで、素行の悪さの故に従僕ランペを解雇したあと、新しい従僕になじめず、メモに「ランペは忘れ去られるべきである」と書き付けた。
ある日いつもの時間にカント先生が散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントはルソーの「エミール」を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのであった。カントはルソーに関し、「私の目を開けてくれたのはルソーである。」と述べている。
・・・と、こういう逸話が伝わっているものの、どこまで信頼できるかについては意見が分かれている。一説によれば、生涯にわたって基本的に規則正しかったのは確かだが、偏執狂的に規則正しくなったのはかなり高齢になってからのことだという。つまり人間誰でもそうだが、年を取って生活が単調になった結果だというのである。実際、若い頃にはたまに夜中まで友達と飲み歩くようなこともしていたらしい。


趣味人カントの食卓
規則正しい散歩の後、カントは夕方からは、友人を集めて会食した。カントの論敵の一人ゲオルク・ハーマンは同時に親しい友人でもあり、しばしばこの食事会の客となった。カントはウィットに富む談話を好み、世界の最新情報にも通じ、その話題の広さには会食者も感嘆した。しかし、客が哲学の話題に触れると露骨に嫌な顔をしたと言われる。『判断力批判』の著者の姿が如実に現れている。逸話の多い哲学者であった。


アプリオリとは、ラテン語のa prioriに由来する哲学上のカテゴリ。

認識論において用いられる難解な言葉であり、アプリオリはアポステリオリの対語である。「先験的」「先天的」などと訳される場合があるが、どちらの訳もこの語の意味にあっていないと言われ、多くの場合「アプリオリ」とカタカナで書かれる。

アプリオリの具体的な意は、「私はこのことをアプリオリに知っている」は「私はこのことを知っているが、経験を通じて知ったのではない」と言うような具合である。アプリオリの意は非常に複雑でありわかりにくいと言われる。

アプリオリな知識とは、「経験を通じて知られてもかまわないが、いかなる経験によっても反証されない」である。


マニュファクチュア (Manufacture) とは、産業形態の一つ。工場制手工業とも。

数次に亘る製造工程を一人が行うのではなく、それぞれの工程を分業し、多くの人員を集めてより効率的に生産を行う方式のこと。分業であるために作業効率が向上し、生産能力が飛躍的に上がるが、技術水準は前近代的なものにとどまるため、技術的な発展は余り見られない。問屋制家内工業の次段階とされる。

マニュファクチュアが日本において何時頃始まったかということについては、議論があるが、幕末期には既に存在していたとされる。


東インド会社(ひがしインドがいしゃ)は、アジア地域との貿易の独占権を与えられた特許会社。重商主義帝国下、特に貿易差額主義に基づく経済活動に極めて大きな役割を果たした。なお、ここで言う「インド」とはヨーロッパ、地中海沿岸地方以外の地域をさす。同様の特許会社に新世界との交易を行った西インド会社がある。各国ごとに設立され、以下のようなものがある。オランダ東インド会社は世界初の株式会社としても有名である。

イギリス東インド会社
オランダ東インド会社
スウェーデン東インド会社
デンマーク東インド会社
フランス東インド会社


ジェントリ(郷紳:gentry)はイギリスにおける下級地主層の総称。男爵の下に位置し、貴族には含まれない。しかし、貴族とジェントリの間には称号以外の特権的な差異は無く、両者とも中世における封建領主であった事から一つの「地主貴族層」として扱われる。治安判事など地方行政職を無給で引き受け、安価な行政機構の形成を支えるとともに、中央官職にも人材を供給した。所領規模に応じて、バロネット、ナイト、エスクワイア、ジェントルマンに分類される。

地主貴族層の形成
ジェントリは中世における最下層の領主身分の総称であった。イングランドの貴族の多くはウィリアム1世によるノルマン・コンクエストの際にイングランド各地に封じられたノルマン人を起源に持つが、かれらの下に位置するジェントリはそれ以前からの、在地の有力者・領主たちであった。14世紀から15世紀にかけてジェントリは有力貴族の家臣となる事が多かったが、薔薇戦争を境に貴族の勢力が減ずるとその庇護下を離れる事となる。ジェントリはその後、黒死病や百年戦争を始めとする戦乱など、封建制社会の動揺を経て、16世紀には領主から地主への転化を始めていたが、その後も単なる地代取得者とは見做されず、貴族とともにジェントルマン階級として一定の尊敬を集め、社会への影響力を保持し続けた。

19世紀までのイギリスにおいて爵位を持つ貴族の家門は他の大陸諸国と比べ極めて少なく、またジェントリと貴族の間には称号以外の特権において大きな差は存在しなかった。その為、両者は「地主貴族層」として一つの伝統的エリート層を形成し、スクワイアラーキーと呼ばれる地主支配体制を構築していた。


社会的流動性
イギリスにおいてジェントルマンたちが社会的尊敬を集めていた事は既に述べたが、これは彼らが収奪する存在では無く、社会に奉仕する存在として振るまい、周囲にその正当性を印象付けていた為である。それは率先して戦場に赴く事であったり、治安判事などの官職を無給で務める事であったり、慈善事業を行う事であった。これらの行いはノブレス・オブリージュ(仏:noblesse oblige―高貴なる者の義務)と言われ、新興の中流階級とは異なり自己の利益を顧みない(実際には無給の官職はレンテ生活者以外の政治参加の道を閉ざしていたにも関わらず)存在であるとの印象を周囲に与える事に成功していた。16世紀に中間層、ミドリング・ソートと呼ばれる人々(やがて中流階級を形成する)の勃興が始まると、商業的に成功した彼らは名誉と尊敬を求める様になる。彼らに地主への仲間入りの機会を提供したのはヘンリー8世による宗教改革である。宗教改革によって修道院は解散され、その領地は王領地へと編入されたが、その土地は後に行政機構改革の財源とする為に売却される事となった。この旧修道院領を買い取り所領とする事で、成功した中間層の人々は念願のジェントリとなる事ができたのである。この様に「ビジネス」で成功した人間が成功の仕上げとして、土地を買い取り地主になるという道筋はその後定着し、立身出世の手段が交易から植民地経営に変わっても続けられる事となる。この事は社会に流動性を持たせるとともに、成功した人間を既存体制への挑戦者ではなく、ジェントリという体制側に取り込む事によって地主支配体制により一層の安定をもたらした。


企業家としてのジェントリ
ジェントリは地主として土地経営を本分としていたが、これは必ずしも経済活動に消極的であった事を意味しない。産業革命に必要な資本を蓄積したと言われる毛織物産業の推進役となったのも彼らジェントリたちである。16、17世紀頃のイギリスでは毛織物産業の中心は輸出用半完成品(「旧毛織物」)から「新毛織物」と言われる薄手の完成品に移り変わっており、また南部ネーデルランド諸州から新教徒が多数、亡命してきた事(ネーデルランド独立の際に南部諸州がスペイン領へ残存した為)を受けて、輸入に頼っていた奢侈品などの国産も開始されようとしていた。これらの「実験企業」の活動はジェントリたちの指導によって進められた。17世紀末から18世紀初頭にかけて、小規模な地主が没落し、大地主がより興隆するというジェントリの二極分化が起こったが、本来の農業経営に加え、これらの「資本家的」な経営に適応できたか否かによって、明暗が分かれたとする見方がある。これには中央で有利な官職を得られたかどうかなど他の観点からの反論もあり、未だ結論は出ていない。いずれにせよ、この頃よりジェントリは「資本主義的」経営への適応を見せており、このジェントリ層の企業家的傾向はイギリスにおいて産業革命が発生した要因の一つとなっている。


ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare、沙翁、洗礼日1564年4月26日 - 1616年4月23日)は、イギリス(イングランド)の劇作家、詩人。ストラットフォード・アポン・エイヴォンの生れ。エリザベス朝の代表的な作家で、最も優れた英文学の作家とも言われている。その卓越した人間観察眼と内面の心理描写は、後の哲学や、19〜20世紀の心理学・精神分析学を先取りした物ともなっている。

1585年前後にロンドンに出たといわれ、1592年には新進の劇作家として活躍。四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など、傑作を残した。物語詩『ヴィーナスとアドーニス』『十四行詩』なども重要な作品。


生涯
シェイクスピアの生涯についてはほとんど記録が残っておらず、同時代の人物の残した資料などから推測するしかない。1564年にイングランドのストラットフォード・アポン・エイヴォンに生れた。誕生日は4月23日とされているが、これは命日と同じである。しかし実際には4月26日に洗礼を受けたと伝えられるのみで、誕生日は後の創作であると考えられている。


ストラットフォード・アポン・エイヴォンにあるシェイクスピアの生家
父親のジョンは商人で、町長にも選ばれたこともあり、非常に裕福な家庭環境であった。グレマー・スクールで学んだが、家庭が没落してきたため中退したという説もあり、この後結婚までまったく記録が残っていないため不明。

1582年、18歳で、8歳年上のアン・ハサウェーと結婚。このときすでに長女スザナを身籠っていて、1585年には双子の、長男ハムネット(シェイクスピアの友人、ハムネット・セドラー夫妻が名付けたらしい)と、次女ジュディスが生れた。この前後にロンドンに出たようで、この理由にはいくつかの伝説が残っているが、定かではない。次第に脚本を書くようになり、1592年にシェイクスピア作だと思われる『ヘンリー六世』の上演記録が残っており、同じ年に、ロバート・グリーンが『なけなしの知恵』において、新進の劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われるところがある。1594年には劇団の中心人物となっていたと考えられ、グローブ座の株仲間にもなった。

『ヘンリー六世』三部作(1590-92年)に始まり、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、役者としても活動していた。一方、1593年に出版された『ヴィーナスとアドーニス』、翌年出版の『ルークリース凌辱』、そして『十四行詩』の物語詩は、詩人として重要な3作品である。

1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』といった喜劇を発表。作品は円熟味を増し、独特のものとなっていく。

1599年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、この1600年前後から、次第に作品から軽やかさといったものが影をひそめ、四大悲劇といわれる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』を書いた。また、「問題劇」と言われる『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などもある。

『アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などののち、1610年前後は浪漫劇を多く書くようになり、『シンベリン』『冬物語』を経て、『テンペスト』を執筆。これを最後にロンドンを去り、1612年ころストラトフォードに隠退。1616年4月23日に没し、ホーリー・トリニティ教会に葬られた。死因は、友人と酒を飲みに飲み、熱を発したためとも言われている。


作品一覧
執筆年は、ドーバー・ウィルソンの推定による。


ヘンリー六世第一部・第二部・第三部(Henry VI、1590-92年)
リチャード三世(Richard III、1592-93年)
ジョン王(King John、1594年)
リチャード二世(Richard II、1595-96年)
エドワード三世(Edward III、1596年)
ヘンリー四世第一部・第二部(Henry IV、1597年)
ヘンリー五世(Henry V、1598-99年)
ヘンリー八世(Henry VIII、1602年)

悲劇
タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus、1593年)
ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595年)
ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1599年)
ハムレット(Hamlet、1600-01年)
トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida、1601-02年)
マクベス(Macbeth、1601-06年)
オセロー(Othello、1602年)
リア王(King Lear、1604-06年)
アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra、1606-07年)
コリオレイナス(Coriolanus、1607-08年)
アテネのタイモン(Timon of Athens、1607-08年)

喜劇
間違いの喜劇(Comedy of Errors、1592-93年)
じゃじゃ馬ならし(Taming of the Shrew、1592-94年)
ヴェローナの二紳士(The Two Gentlemen of Verona、1594-95年)
恋の骨折り損( Love's Labour's Lost、1594-95年)
夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream 、1592-98年)
ヴェニスの商人(The Merchant of Venice 、1596-97年)
空騒ぎ(Much Ado About Nothing、1598-99年)
お気に召すまま(As You Like It、1593-1600年)
ウィンザーの陽気な女房たち(The Merry Wives of Windsor、1600-01年)
十二夜(Twelfth Night, or What You Will、1602-06年)
終わりよければ全てよし(All's Well That Ends Well、1602-03年)
尺には尺を(Measure for Measure、1604-06年)
ペリクリーズ(Pericles, Prince of Tyre、1608-09年)
シンベリン(Cymbeline、1609-10年)
冬物語(The Winter's Tale、1610-11年)
テンペスト(The Tempest 、1611-12年)


ヴィーナスとアドーニス(Venus and Adonis)
ルークリース凌辱(Lucrece)

評価
英語で書かれた文学の中では最も美しいもののひとつとして、とりわけ英語圏では今日でも高い尊敬を集めている。シェイクスピア戯曲は、今もなお世界各地で数え切れないほど上演され続けている。世界的また、様々な国の様々な映画監督によって度々映画化されている。

「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」「ブルータス、お前もか」("Et tu, Brute!" とラテン語で書かれた)など名台詞として人口に広く膾炙しているものもある。


シェイクスピア別人説
シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然だなどとして、別人(例:フランシス・ベーコン)が使った筆名ではないか、と主張する人や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた筆名ではないかと主張する者もいる。もっとも英文学者でまともに別人説を取上げる人はほとんどいないようである。全戯曲を翻訳したシェイクスピア研究家の小田島雄志は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と一蹴している。

2005年10月、イギリスでシェイクスピアの遠縁にあたる英国外交官ヘンリー・ネヴィル(1562年 - 1615年)が、真の作者であると主張する論文が発表された。それによれば、彼の著作物にはシェイクスピア作品特有のいいまわしと類似性がみられるだけでなく、フランス大使を歴任し、欧州各国の事情に通じた経歴の持ち主であり、本国で反逆罪で収監されたこともあり、自らの名で作品を発表することによる政治上の問題を避けるため、親戚であるシェイクスピアの名を借りたと考えられるという。


その他
日本の千葉県南房総市に、シェイクスピアの生家が忠実に再現されている公園がある(シェイクスピア・カントリー・パーク)
ロンドン橋の近くに、グローブ座が再建されている。[1]
2005年4月21日、イギリス国立肖像画美術館は、多くの本の表紙を飾るシェークスピアの肖像画「フラワー・シェークスピア」の描かれた時期が生存中の作ではなく、その死後約200年後の1814年〜1840年頃であると確認したと発表した。1814年頃以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。

ヴァロワ朝(ヴァロワちょう, La maison de Valois)は、中世フランスの王朝である(1328年−1589年)。

1328年にカペー朝が断絶したため、カペー家の支流ヴァロワ家からフィリップが即位しヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1589年までの間に13代の王を輩出した。

歴史

成立と百年戦争
カペー朝第10代国王・フィリップ3世の子、シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、フィリップ3世の孫に当たるフィリップ6世が諸侯の推挙により即位してヴァロワ朝が成立した。

ところが、当時のイングランド王・エドワード3世もフランス王家の血を引いている人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が勃発した。

名将・エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子・ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子・シャルル5世(賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒が原因で44歳の若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂には王国存続の危機にまで立たされた。

そのような中でシャルル7世の時代に現れた少女・ジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年、遂に百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じた。


イタリア侵略
フランスを事実上統一したヴァロワ朝はイタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。しかし、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペイン王位を兼任したオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、敗北し、国力は衰えた。

その後、ヴァロワ朝内部では権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王・アンリ3世が宗教紛争の最中で一聖職者によって暗殺されたことにより、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。

なお、1498年以降は、正式には、ヴァロワ・オルレアン朝、あるいは、フランソワ1世の治世以降をヴァロワ・オルレアン・アングレーム朝とも言うが、正確には、ヴァロワ家一族であるため、省略される事が多い。


支系
1498年、フィリップ4世に始まるヴァロワ本家はシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代のシャルル5世の子孫が創始したオルレアン家から、オルレアン公シャルルの息子ルイがルイ12世として即位した。これをヴァロワ・オルレアン家という。
1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、やはりシャルル5世から出たアングレーム伯シャルルの息子フランソワを養子とした。これがヴァロワ・アングレーム家である。フランソワ1世からアンリ3世まで5代続いたが、同性愛好みのアンリ3世には子がなかったため断絶した。

歴代国王
フィリップ6世(1328年 - 1350年)
ジャン2世(1350年 - 1364年)
シャルル5世(賢明王、1364年 - 1380年)
シャルル6世(親愛王、狂気王1380年 - 1422年)
シャルル7世(勝利王1422年 - 1461年)
ルイ11世(1461年 - 1483年)
シャルル8世(1483年 - 1498年)
ルイ12世(1498年 - 1515年)
フランソワ1世(1515年 - 1547年)
アンリ2世(1547年 - 1559年)
フランソワ2世(1559年 - 1560年)
シャルル9世(1560年 - 1574年)
アンリ3世(1574年 - 1589年)

ユグノー(Huguenot)は16世紀から17世紀における近世フランスにおけるジャン・カルヴァン派、改革長老教会派の事。ドイツ語では、Eidgenosse(アイトゲノッセ、盟友の意味)と言う。当時のプロテスタントは、カトリックなどから蔑視されており、同様な蔑称にネーデルラントのゴイセン、イングランドのピューリタンなどがある。ユグノーも元々蔑称であった。

フランス国内におけるユグノーの増大は、ユグノー戦争を引き起こした。

1598年にアンリ4世によって発布されたナントの勅令により信仰の自由を認められたが、1685年ルイ14世によってナントの勅令が廃止されたため、ユグノーの多くはドイツをはじめとする国外に移住した。


リシュリュー
生涯
リシュリューは西部フランスの小貴族でアンリ4世に仕えた父フランソワと母シュザンヌ・ド・ポルトの間に生まれた。1609年に家業の司教職をついでリュソン司教になった。1614年の全国三部会に聖職者代表として出席。そのときの活躍が、国王ルイ13世の母であり摂政であったマリー・ド・メディシス(メディチ家出身)に認められ、彼女の推挙により政界入り。ルイ13世とマリーとの政争に巻き込まれ一時失脚するが、1622年政治家としての才腕を国王に見込まれて枢機卿となり、2年後の1624年主席国務大臣(事実上の宰相)に任じられた。当時、ドイツを舞台に起こっていた三十年戦争をめぐる外交姿勢(リシュリューは介入に積極的)などをめぐって王太后マリーと対立したが、1631年にマリーがロレーヌ公のもとへと逃れていった。

中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、行政組織の整備、三部会の停止などを通じて後年の絶対王政の基礎を築いた。また、国内のプロテスタントを抑圧し1628年にはフランスにおける新教勢力の重要な拠点であったラ・ロシェルを攻略した。

対外的には、勢力均衡の観点から同じカトリック勢力であるオーストリア=ハプスブルク家、スペイン=ハプスブルク家に対抗する姿勢をとった。そのため、国内ではラ・ロシェルを攻略したように反国王の立場をとるプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、三十年戦争に際してプロテスタント側(反ハプスブルク家)で参戦した。

一方で、文化政策にも力をそそぎ1635年には「フランス語の純化」を目標にアカデミー・フランセーズを創設した。

これらの諸政策は一部の王族や封建的な大貴族の強い反発を招き、幾度となくリシュリューを排除しようとする陰謀が企てられたが、その度に発覚して関係者が処刑された。しかし、これらの動きはリシュリューの死の直前まで続いた。

1642年12月4日に居館のパレ・カルディナル(現パレ・ロワイヤル)で没し、後にたてられたパリのソルボンヌ教会に葬られている。


小説等に見るリシュリュー像と実際のリシュリュー
小説や映画等のデュマ原作『三銃士』に見るリシュリュー像は、狡猾で抜け目がなく、隙あらばルイ13世やその王妃アンヌ・ドートリッシュを政治的に貶めようと企む悪役としてのイメージが強い。

しかし、実際のリシュリューはブルボン朝の発展と繁栄のために大きく尽力し、近代フランスの礎を築いた大政治家であった。冷徹なマキャヴェリストであった反面、まれにみる無私の人でもあり為政者としての広い度量をかねそなえてもいた。

彼の信念は「王権の拡大」と「盛大への意思」、すなわちフランスはあらゆる他国を押さえて強大にならねばならないとの確信であり、この彼の信条に従わない者に対しては全てこれを「国家の敵」とみなして徹底的に撲滅をはかった。

リシュリューが死ぬとき告解僧が「汝は汝の敵を愛しますか」と問うと彼は「私には国家の敵より他に敵はなかった」と答えたという。彼の人生がしのばれるエピソードである。この様に彼は、フィクションとは異なり、フランスの国益と絶対主義化を望んでいたのである。


神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、独:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation, 962年 - 1806年)は、中世に現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた政体。帝国というよりは実質的に大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のオーストリア帝国(当事はオーストリア大公領およびハプスブルク家支配地域)やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していった。ドイツ帝国とも呼ばれ、1806年帝国解散の詔勅はこの名で行われた。


名称
古代ローマ帝国の継承を称し、11世紀頃は「Römisches Reich(ローマ帝国)」、12世紀頃には神聖帝国、13世紀以降「Heiliges Römisches Reich(神聖ローマ帝国)」と称された。16世紀には「Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation(ドイツ人の神聖ローマ帝国)」と称すようになった(ラテン語名はSacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae。ドイツ語で「Reich」は「帝国」を意味し、ラテン語の「imperium」に対応する概念である)。「神聖」の形容詞は1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状にあらわれる。 もともとは古代のローマ帝国やカール大帝のフランク王国の後継帝国を意味していた。そのため、この政体の君主は正式に言うと初期にはフランク王、後にはローマ王であり、この肩書きを得た者がローマで戴冠し、ローマ皇帝に就任したのである。


ドイツ王国(当初は東フランク王国の政体を踏襲し、正式にはフランク王国、ないしローマ王国と呼ばれていた。後年ドイツ人の国家という概念が生まれた)
イタリア王国
ブルグント王国
の3つの王国があった。これはカロリング朝フランク王の正式王号が「フランク人、ランゴバルト人、ローマ人の保護者」であった伝統を引き継いでいる。神聖ローマ皇帝はそれぞれ別の場所で戴冠式を行い、その上でローマ教皇により「ローマ皇帝」に戴冠されて、「帝国」全体に君臨をした。ただしこの「帝国」がその名の通りの実質を持っていたのはホーエンシュタウフェン朝までであった。

神聖ローマ皇帝は、皇帝として戴冠する前はローマ王と呼ばれ、また後継者にも名乗らせることがあった。ローマ教皇に皇帝として推戴されなかった場合、ドイツ王と呼ばれた。

1512年の帝国962年オットー1世(大帝)がローマ教皇ヨハネス12世により、古代ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まる。もっとも神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いたカール大帝であるという思想・理念もある。

もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、ザクセン人の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ選挙王制だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上歴代皇帝は、「ローマ帝国」という名目の為にイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ中央集権化が遅れた。

1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれもしない大空位時代となり、帝国としての実体をまったく成さない状態となった。14世紀のカール4世 (在位;1347年 - 1378年)による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられ、帝国は事実上分裂した。後にはオーストリア大公家ハプスブルク家が帝位を事実上世襲するようになり、この間にドイツ語圏以外の帝国領はほとんど失われ(ボヘミアは例外)、16世紀には、国号も「ドイツ人の神聖ローマ帝国」という、もはや「ローマ帝国」としての意味をまるで成していないものとなり、ローマ教皇による戴冠も行われなくなった。


1600年のヨーロッパ17世紀に起きた内戦(宗教戦争、事実上国家間戦争)、三十年戦争により国内は荒廃し、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)によって封建領主の独立主権が認められ、帝国は300の領主国家に分裂した。(このためウェストファリア条約は帝国の死亡証明書とも呼ばれる。)そして神聖ローマ帝国は全く名目だけの存在となり、フランスの思想家ヴォルテールによって「神聖ではないし、ローマ的でもない。それどころか帝国ですらない」と皮肉られる有様であった。

19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、ナポレオンがフランスの属国的なライン同盟を結成し、帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。


ドイツ帝国(ドイツ統一国家)
1871年にドイツが国民国家のドイツ帝国として統一されたのち、神聖ローマ帝国はドイツに成立した最初の帝国として知られるようになった。後にナチスが政権を握ると、彼らは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ”第三帝国”と呼び習わした。

カロリング朝系図ルートヴィヒ2世 (843年 - 876年)
カールマン (876年 - 880年)
カール3世 (肥満王) (876年 - 887年)
アルヌルフ (887年 - 899年)
ルートヴィヒ4世(幼童王) (899年 - 911年)
コンラート1世 (911年 - 918年)
ザクセン朝
ハインリヒ1世 (捕鳥王) (919年 - 936年)
オットー1世(936年 - 962年)

神聖ローマ皇帝・ドイツ王

三王朝の系図
ザクセン朝
オットー1世 (962年 - 973年)
オットー2世 (973年 - 983年)
オットー3世 (983年 - 1002年) 994年親政開始。
ハインリヒ2世 (1014年 - 1024年)

ザリエル朝
コンラート2世 (1024年 - 1039年)
ハインリヒ3世 (1039年 - 1056年)
ハインリヒ4世 (1056年 - 1106年)
ルドルフ(シュヴァーベン公) (1077年 - 1080年) - 対立王
ヘルマン(ザルム伯) (1081年 - 1088年) - 対立王
コンラート(下ロートリンゲン公) (1087年 - 1098年) - 共治王
ハインリヒ5世 (1106年 - 1125年)

ズップリンゲンブルク家
ロタール3世(1125年-1137年)

ホーエンシュタウフェン朝
コンラート3世 (1138年 - 1152年)
フリードリヒ1世 (1152年、1155年 - 1190年)
ハインリヒ6世 (1190年 - 1197年)
フィリップ (1198年 - 1208年)

ヴェルフェン家
オットー4世 (1198年 - 1215年)

ホーエンシュタウフェン朝
フリードリヒ2世 (1215年 - 1250年)
ハインリヒ7世 (1220年 - 1234年) - 共治王
ハインリヒ・ラスペ(テューリンゲン方伯) (1220年 - 1235年) - 対立王
コンラート4世 (1250年 - 1254年)

大空位時代
ウィレム(ホラント伯) (1247年 - 1256年) - 対立王
リチャード(コーンウォール伯) (1257年 - 1272年) - 対立王
アルフォンソ10世(カスティーリャ王) (1257年 - 1284年) - 対立王

ハプスブルク家
ルドルフ1世 (1273年 - 1291年)

ナッサウ家
アドルフ (1292年 - 1298年)

ハプスブルク家
アルブレヒト1世 (1298年 - 1308年)

ルクセンブルク家
ハインリヒ7世 (1308年 - 1313年)

ヴィッテルスバッハ家
ルートヴィヒ4世 (1314年 - 1347年)
フリードリヒ3世(ハプスブルク家) (1314年 - 1330年) - 対立王

ルクセンブルク家
カール4世 (1347年 - 1378年)
ギュンター(シュヴァルツブルク公) (1347年 - 1349年) - 対立王
ヴェンツェル (1378年 - 1400年)

ヴィッテルスバッハ家(プファルツ系)
ループレヒト (1400年 - 1410年)

ルクセンブルク家
ジギスムント (1410年 - 1437年)
ヨープスト (1410年 - 1411年) - 対立王

ハプスブルク家
アルブレヒト2世 (1438年 - 1439年) - 戴冠前に死去。
フリードリヒ3世 (1439年 - 1493年) - 1452年に戴冠。
マクシミリアン1世 (1493年 - 1519年)
カール5世 (1519年 - 1556年) - 1530年に戴冠。

ハプスブルク家(オーストリア系)
フェルディナント1世 (1556年 - 1564年)
マクシミリアン2世 (1564年 - 1576年)
ルドルフ2世 (1576年 - 1612年)
マティアス (1612年 - 1619年)
フェルディナント2世 (1619年 - 1637年)
フェルディナント3世 (1637年 - 1657年)
フェルディナント4世 (1653年 - 1654年) - ローマ王(帝位継承前に死去)
レオポルト1世 (1658年 - 1705年)
ヨーゼフ1世 (1705年 - 1711年)
カール6世 (1711年 - 1740年)

ヴィッテルスバッハ家(バイエルン系)
カール7世 (1742年 - 1745年) - ケルン大司教によって戴冠。皇帝と認められる。

ハプスブルク=ロートリンゲン家
フランツ1世 (1745年 - 1765年)
マリア・テレジア - ハプスブルク家当主(1740年 - 1780年)であったため「女帝」と称されるが、ドイツ王、皇帝に戴冠したわけではない。神聖ローマ帝国においてはフランツ1世の皇后。
ヨーゼフ2世 (1765年 - 1790年)
レオポルト2世 (1790年 - 1792年)
フランツ2世 (1792年 - 1806年) ⇒ オーストリア皇帝フランツ1世


廣松 渉(ひろまつ わたる、男性、1933年8月11日 - 1994年5月22日)は、日本の哲学者、東京大学名誉教授。
福岡県柳川市蒲池出身。出生地は山口県厚狭郡山陽町(現在の山陽小野田市)
東京大学文学部哲学科卒。同大学院博士課程修了。筆名は門松暁鐘など。

略歴
1946年、日本青年共産同盟に加盟。 1949年4月、高校進学と同時に日本共産党に入党し、1950年の50年分裂では国際派に所属し、 1951年に国際派の「全国統一会議」が解散した後は、党に戻らず全日本学生自治会総連合(全学連)などで活動。高校中退、大検で東大に入学。 1955年7月の日共第六回全国協議会(六全協)を受け復党するも、翌1956年に出版した共著書が問題とされ離党した。
1958年12月に共産党と敵対する共産主義者同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。 ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊しつつあった1990年にはフォーラム90sの発足にも関わった。

名古屋大学の助教授を辞めた後、しばらく浪人の身となり、1982年4月から1994年3月まで東京大学の教授を務めた。 1994年5月22日肺癌にて死去。

思想
マルクス/エンゲルスの思想における物象化論を中心に、マッハ、フッサール、ハイデッガー等と対質しながら、特異な擬古文調・擬漢文調の文体を用いて、主観-客観の二項対立図式を止揚すべく独自の哲学を展開した。
物理学出身でもあるためか、その思想展開は強固に論理的であり、良く言えば「理詰め」であり、感覚的側面は希薄である。
マルクス主義思想の世界において、疎外論を批判し物象化論を重視するマルクス/エンゲルス解釈は有力説となリ、またエンゲルスの再評価についても寄与したが、他方で党派の枠を越えて広く思想的影響を及ぼした哲学者でもある。「日本には哲学史家や哲学輸入業者は多いが真の哲学者は少ない」云々といわれるとき、「真の哲学者」として念頭におかれるのはこの廣松や、廣松を東大に招いた大森荘蔵であることが多い。しかし反面では運動の現場からは講壇思想(学者思想)の域を出ていないとする批判も根強く存在する。最晩年はマルクス護教派を自任。
理論だけではなく思想史にも関心が強く、マルクスの思想形成に関連した青年ヘーゲル派や初期社会主義の思想史、日本の昭和前期の思想史についての著作もある。

主な著作
『マルクス主義の地平』(勁草書房、1969年)
『唯物史観の原像』(三一書房、1971年)
『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房、1972年)
『事的世界観への前哨』(勁草書房、1975年)
『マルクス主義の理路』(勁草書房、1980年)
『存在と意味』第1巻(岩波書店、1982年)
『存在と意味』第2巻(岩波書店、1993年)

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