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チェダゼミナールコミュの講義ノート その68 

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一時間目 「道徳教育論」

移植の問題についてです。

西欧においてか、キリスト教圏においてかは定かではないですが、「心身二元論」というものがあります。

要するに、死んでしまったら、魂も別の場所に行ってしまうので、ただの肉の塊であるという発想です。

そして脳死の問題ですが、そもそも脳の構造はまだはっきりと解明されていないらしいです。

「意識とは何か」といったことも確かな答えが出ていないらしいです。

また代理母の問題もあります。

日本では代理母は認められていませんが、アメリカではビジネスになっています。

僕は代理母は認めてもいいと思いますけどね。

生みたくても生めない人がかわいそうでしょう。

事はそんな単純なことじゃないのですか。

代理母を日本で認めた場合、どんな弊害が考えられるでしょうか。

あと、デジタル万引きという、いわゆる海賊版の横行なども道徳問題のひとつでしょう。

ただ、海賊版は歯止めがきかないですよね。

中国では8割が海賊版だそうで、日本も2割が海賊版だそうです。(CDやゲームなど)

二時間目 「地理歴史科教育法」

教職に就いていらっしゃる方は、やはり民間に勤めている方より少々というか、かなり異質な存在だと思います。

学校現場というのは異質です。(憶測でものを言っています)

しかしまあ、教職にしても、企業人であったとしても、付加価値を生み出さなければならないという点では同じでしょうね。


あと、話がそれますが、大学生活において、無借金で卒業できるのは奇跡に近いと思いました。

学費や生活費を自分で賄うと仮定してですよ。

一割もいないのではないでしょか。

大学の講義というのは、平均すると一講義あたり4000円ぐらいはしますからね。

三時間目 「人文地理学」

今年は平成五年以来の米の不況期らしいです。

佐賀は例年の半分ぐらいしか米が取れていないそうです。

しかし、平成五年のときみたいに、やれ輸入だの、米を買いに行列ができるだのといったことはありませんよね。

なぜでしょうかね。

ところで、減反政策は昭和49年から始まったそうですが、平成20年で終了するらしいです。

つまり、政府は米農家に関わらないということです。

そもそもなぜ今まで政府が農家を保護していたのかといえば、米は日本人の主食だからです。

米というのはそもそも海外では5キロ何百円かの値段です。

日本だと2000円ぐらいはするでしょう。

僕は保護する必要はあまりないのではないかと思いますけど。

ということは僕は近代経済学者が言っていることと同じ事を言っているのでしょうか。

僕は効率を求めているのでしょうか。

僕は資本主義を是認しているのでしょうか。


ところで、世界史未履修問題ですが、これは世界史Aをこれから履修すればいいだけの話でしょ。

世界史Aは2単位ですから、50分×35週×2なので、六時間授業(一時間の授業を50分として)を約12日間すればいいだけの話です。

高校生、がんばりましょう。

元首相、森さんの言うようにレポートでいいじゃないか、なんてそんな甘ったれたこと言わないように。

五時間目 「韓国経済論」

韓国人の財界人として、「孫正義」が挙げられよう。

ソフトバンクは今、システムが混乱しているところだが、今回の件で、ソフトバンク社員の士気が上がったのか、下がったのか、それは結局、孫社長のカリスマ性に左右されるのではないかと思う。

企業での有事のときや、国の有事のときに一番肝心なのは、リーダーのカリスマ性である。

翻って、あなたの属する集団(企業、学校など)のリーダーにはカリスマ性が備わっているでしょうか。

吉川 英治(よしかわ えいじ、1892年8月11日 - 1962年9月7日)は日本の小説家である。本名は英次(ひでつぐ)。「英治」のペンネームは、元々は「英次」の名で発表した作品が掲載される際に出版社が誤って「英治」としてしまったのを本人が気に入り、以後ペンネームとするようになったと言われている。

神奈川県久良岐郡中村根岸(現在の横浜市)の生まれ。

[略歴
作家になる前は父の事業の失敗で高等小学校を中退。年齢を偽って横浜船渠(せんきょ=ドック)の職工になり、いくつもの職業を転々としていた。

1910年 - 上京。蒔絵師の弟子となる。そのころ川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の筆名で作品を発表。
1914年 - 講談社の懸賞小説に『江の島物語』一等に当選。その後、東京毎夕新聞社に入社。
1925年 - 『剣難女難』が大人気となる。
1926年 - 『鳴門秘帖』が大人気となり、時代小説作家としての地位を固める。
1937年 - 日中戦争開始。毎日新聞の特派員として現地を視察。
1938年 - ペンの部隊として従軍。大きな影響を受けた。『三国志』執筆開始。
1944年 - 青梅市に疎開、疎開地が後に記念館になる。
1945年 - 終戦とともに一時執筆活動を休止。
1947年 - 執筆再開。
1950年 - 『新・平家物語』を週刊朝日に連載。
1953年 - 菊池寛賞受賞。
1960年 - 文化勲章受章。
1962年 - 肺がんで死去。

作品リスト
『鳴門秘帖』
『宮本武蔵』
佐々木小次郎との巌流島の決闘までを描く長編。それまで講談の主人公であった宮本武蔵に書生的な求道者との解釈を加える。登場人物は幼馴染の又八や武蔵を慕うお通、沢庵、お甲・朱実母子など。宝蔵院や柳生石舟斎、本阿弥光悦などとの出会いを通しての武蔵の人間的成長を主軸に、吉岡一門や佐々木小次郎、対決に介入する柳生一門などとの対決を描く。原作として何度も映画化、TVドラマ化などされている。最近では、この作品をベースにして井上雄彦が劇画作品化した『バガボンド』が有名である。
『新書太閤記』
豊臣秀吉の生涯を描いた一代記。秀吉の幼少時から織田信長に仕え、ねねとの結婚、目覚ましい出世、本能寺の変を経て天下人になるまでの過程を描く。幼少時に奉公した商家の若主人・於福などが架空の人物として登場。徳川家康との対決が強まる時点で終了するため(実際の秀吉の生涯はそれから14年以上続く)、突如終わった印象を受ける。
『三国志』
中国の後漢末から三国時代の歴史物語を『三国志演義』に基づき、悪役扱いであった曹操を魅力的に描くなど人物描写に新たなる解釈を加えたり、戦闘シーンを簡略化させるなどして描く。全体として日本人の好みにアレンジされており、それまでの湖南文山版に代わって日本の三国志物のスタンダードともいうべき位置についたといえる。漫画家の横山光輝が原作として漫画化。
『新・平家物語』
『平家物語』だけでなく『保元物語』『平治物語』『義経記』『玉葉』など複数の古典をベースにしながら、より一貫した長いスパンで源平両氏や奥州藤原氏、公家などの盛衰を追求し描いた作品。また西行や文覚など権力闘争の外にあった同時代人および庶民などの視点も加えることで、それまで怨霊の代表格であった崇徳上皇を時代に翻弄される心優しい人物として描くなど新しい視点から「それまでにない大量殺戮の」時代を描いている。
NHKで1970年には大河ドラマ化、1955年・1956年には大映から映画化された他、さらに1993年〜1994年にはふたたびNHKが人形劇として映像化した。
『私本太平記』
明治体制では天皇に背いた大悪人とされた足利尊氏、南朝の大忠臣として美化されていた楠木正成などイデオロギー的に語られ、戦後は一種のタブーであった日本の南北朝時代を、尊氏を主役に新たな解釈を加えて描く。楠木正成も温厚な人物として描かれ、戦前の忠臣のイメージを大きく変えている。尊氏の若き日から鎌倉幕府の倒壊、建武の新政から南北朝の分立を経て湊川の戦いがクライマックスとなる。尊氏・直義兄弟の確執などを描く終章はやや急ぎ足の展開となるが、これは最期の病床で執筆した故であり、この作品が遺作となった。1991年には原作としてNHK大河ドラマ化される。
『神州天馬侠』
『新・水滸伝』
『三国志』で不動の地位を得た吉川が生涯の最期に、かつては『三国志』より良く読まれていたもう一つの中国演義小説『水滸伝』を吉川流に料理した意欲作。円熟した筆致と軽妙洒脱なテンポは吉川英治文学の完成形とも言えるが、残念ながら絶筆となり、未完で終わっている。とはいえ、原作の73回程度までは進んでおり、話としてはオチが付いた形となっており、十分楽しめる作品となっている。
『新編忠臣蔵』
『親鸞』
『上杉謙信』
『江戸三国志』
『大岡越前』
『剣難女難』
『神変麝香猫』
『檜山兄弟』
『貝殻一平』

映像化作品

映画

『宮本武蔵』(1961年〜1965年、全5部作。主演:中村錦之助(現・萬屋錦之介))

テレビドラマ

『太閤記』(1965年 NHK大河ドラマ 原作『新書太閤記』)
『新・平家物語』(1972年 NHK大河ドラマ 原作『新・平家物語』)
『新書太閣記』(1973年 NETテレビ 原作『新書太閣記』)
『宮本武蔵』(1984年 NHK新大型時代劇 原作『宮本武蔵』)
『太平記』(1991年 NHK大河ドラマ 原作『私本太平記』)
『武蔵 MUSASHI』(2003年 NHK大河ドラマ 原作『宮本武蔵』)

関連
時代小説・歴史小説作家一覧
吉川英治賞

馬主
1956年(昭和31年)までは競走馬の馬主としても有名であった。馬主となったのは1939年(昭和14年)で、やはり馬主であった菊池寛に勧められて馬主となったものであるが、特に戦後には数々の有力馬を所有していた事で名高い。中でもケゴンは1955年の第15回皐月賞を優勝している。他にもスプリングステークス優勝の牝馬チェリオなどがいる。

しかし、1956年(昭和31年)の第23回東京優駿(日本ダービー)で出走した愛馬エンメイが1コーナーで発生した混乱に巻き込まれて転倒する事故が起き、エンメイは脚部骨折の為に予後不良(薬殺)、鞍上の阿部正太郎騎手も騎手生命を絶たれる瀕死の重傷を負った。この事に吉川は大きなショックを受け、競馬界から離れた事もまた有名である。


デジタル万引き
2003年から、日本雑誌協会と電気通信事業者協会 (TCA) は、カメラ付き携帯電話(携帯電話)や小型デジタルカメラを使用して、書店等で書籍・雑誌の内容を写す行為をデジタル万引きと表現してこれを行わないように啓蒙している。情報に対して対価を支払わず内容のみを奪う行為を「万引き」と表し、通常の万引きに準ずるものと印象づけて阻止しようとした物である。

デジタル万引きは、通常は著作権法の問題に属し、窃盗罪の議論とはならない。著作権法上の議論については、立ち読みの問題の類型となる。

もっとも、店舗内は私有地であり、私有地内での行動に制約を課すことは、例えその行動が合法であったとしても、制約する方法が犯罪行為でなく合理性があるかぎりは店側の自由である。例として、個々の書店は自店内でのデジタル万引き(さらには立ち読みやその他迷惑行為)を任意に禁止でき、違反した利用者に立ち入り制限を課すこともまた自由である。

また、本自体も購入するまでは店舗側の所有権に属するので、店側に認められた方法以外の占有行為を排除する事も法的には可能である。すなわち、本を手に取ってデジタル万引きする行為を明示して(または確立した慣習により)禁止している店舗等においては、デジタル万引きをする目的を持って本を取った時点で店側の所有権の侵害(店側の正当な占有を排除した)と見なし、窃盗罪に問う事すら可能である。


心身問題(しんしんもんだい)とは哲学の伝統的な問題の一つで、人間の心と体の関係についての考察である。この問題はプラトン(前427〜347)のイデア論や諸宗教の「霊―肉二元論」にその起源を求めることも可能ではあるが、デカルト(1596〜1650)がファルツ王女エリザベトの疑問に答える形で書いた『情念論』(1649)にて、いわゆる心身二元論を提示したことが心身問題にとって大きなモメントとなった。

デカルトの心身二元論
デカルトは心を「私は考える」 (cogito) すなわち意識として捉え、自由意志をもつものとした。一方、身体は機械的運動を行うものとし、かつ両者はそれぞれ独立した実体であるとした。ただし、このことは心と身体に交流がないことを意味しない。『情念論』でデカルトは精神と脳の最奥部にある(とされた)松果腺や動物精気、血液などを介して精神と身体とは相互作用すると主張している。

機械論・唯物論の見地
デカルトによる生命の機械論的解釈をさらに徹底化させたラ・メトリー(1709年 - 1951年)ら機械論や唯物論の見地に立てば、感情などの心の現象も生物学・化学的な作用であるため、心と体という分離自体がナンセンスである――なぜなら、「心」は「体」の脳の機能によって発生したものである以上、心は独立した実体などではなく、脳によって作り出されたものであるから――とされる。

スピノザの心身論

カントの心身論――自由と必然性の二律背反より
カントは『純粋理性批判』の「純粋理性の二律背反」において、意志の自由と必然性のアンチノミーをあげている。これは直接、心身問題を扱ったものではないが、心身論のもう一つの側面である自由と必然性の問題に焦点を当てていることから、広い意味での「心身論」に含める場合もある。


現代哲学における心身論

心身問題に対する様々な見解。
心身問題から心脳問題へ
主に英米系の哲学においては心身問題は心と体の問題ではなく、心と脳の関係で論じられている。心脳問題として捉える立場には、機械論的唯物論に近い心脳同一説(あるいは精神物理的一元論。D.M.アームストロングなど)から精神の非物質性を擁護する創発主義的唯物論(M.ブンケ)まで、多くの理論や考察がある。
これらは認知科学、脳科学などの成果を基礎としたものであり、心の発生・作用における中枢神経系の機能を哲学に組み込んだものとして評価される一方、脳に帰すことのできない身体独自の機能を切り捨てた議論であるという批判も多い。


代理母出産(だいりははしゅっさん、だいりぼしゅっさん)とは、「ある女性が別の女性に子供を引き渡す目的で妊娠・出産すること」 (Warnock Commitee 1984-1991) 。その出産を行う女性を代理母という。代理出産と略されることもある。また、妊娠するという部分を強調して代理懐胎と表す場合もある。

代理母出産については、厚生労働省の審議会(厚生科学審議会生殖補助医療部会)が2003年にとりまとめた『精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療制度の整備に関する報告書』において、女性蔑視や妊娠・出産に対するリスクの問題(下記の問題点を参照)等を理由として禁止することが提言されている。また、日本産科婦人科学会の自主規制(参考1、参考2)により、国内での代理母出産は原則として実施されていない。ただし、代理母出産をそのものを規制する法制度は未整備である。

代理母出産には以下のケースがあり、従来は卵子提供者が誰かによって呼び分けられていたが、「借り腹」にネガティブな印象があることから、現在は全て「代理母」と呼ばれている。

Gestational Surrogacy … 代理母とは遺伝的につながりの無い受精卵を子宮に入れ、出産する。借り腹。ホストマザー。
夫婦の受精卵を代理母の子宮に入れ、出産する。
第三者から提供された卵子と夫の精子を体外受精し、その受精卵を代理母の子宮に入れ、出産する。
第三者から提供された精子と妻の卵子を体外受精し、その受精卵を代理母の子宮に入れ、出産する。
第三者から提供された精子と卵子を体外受精し、その受精卵を代理母の子宮に入れ、出産する。
Traditional Surrogacy … 夫の精子を使用して代理母が人工授精を行い、出産する。代理母。サロゲートマザー。

代理母出産への各種の批判
女性蔑視を助長するのではないかという意見- 代理母出産を「女性を子供を産む機関として扱っている」として批判する意見もある。「妊娠中の生活について、細かく規定されていることが多い」。というのがその論拠であるが、代理母ではない妊娠中の女性の生活と比較しての実証的な議論ではない。
母性本能を軽視しているという意見 - 代理母が子の引き渡しを拒否する事件が起きている(ベビーM事件)。つまり代理母の母性本能を軽視しているというのがこの批判である。ただし全ての代理母が生まれた子供の引き渡しを拒否するわけではない。
妊娠・出産に対するリスクを軽視しているという意見 - 出産時に母体に障碍が発生した場合について、代理母側に不利な条件での契約がなされていることもある。ただし全ての代理母が不利な契約を結ばされているわけではない。
障害者差別を助長するという意見 - 妊娠時の羊水染色体検査が義務づけられており、障碍がみつかった場合は強制的に中絶させられることが多い(注意:これは代理母出産に限られたことではない)。また、障害児が生まれた場合、依頼者が受け取りを拒否する事件も起きている。
人種差別を助長するという意見 - 米国においては、代理母として同一人種・同一民族・同一国籍の女性を求める傾向があるため、(依頼人に多い)白人に需要があつまり、黒人女性が代理母をつとめる場合よりも白人女性が代理母をつとめる場合の方が契約金が高額である。代理母出産を批判するグループは、この現象が黒人差別を助長すると主張している。
民法上の扱い - 現在の日本の最高裁判例においては、「母子関係は分娩の事実により発生する(最高裁判所 昭和35(オ)1189 親子関係存在確認請求)」と定められており、遺伝子上は他者の子であっても代理母の子として扱われる。このため、代理母と子との間で相続上の問題が発生することが懸念されている。遺伝子上の親を実親として認めさせようという動きもあるが、生まれた子が依頼者・被依頼者双方と遺伝子上のつながりを持たないケース(上記1-4)があり、単純に遺伝子的なつながりのみで親子関係を確定することはできない。

代理母出産批判への反論
多くの批判は「このような事例もある」という、個々の事例の問題を持ち出して、代理母出産の全てがそういった問題を引きおこすかのような議論を行っているのではないかという批判がある。
「差別を助長する可能性があること」と「差別が恒常的に発生していること」は別の問題であるが、代理母出産を批判するグループは、精密な社会調査を踏まえた実証的な研究を行わないまま可能性の問題を事実の問題にすり換えてしまうことがある。
人類史を振り返ってみれば家族のあり方は極めて多様なものであることを考えると、代理母出産を批判する際にしばしば持ち出される「家族関係を複雑化する」という主張は説得力を欠く。
「複雑化した家族関係を背負って生まれる子供が哀れだ」という批判もあるが、こうした批判もまた「複雑化した家族関係を背負って生まれる子供は哀れだ」と決めつけており、差別を逆に助長するのではないかという意見もある。


Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)(注:Opportunityと使われることもある)の頭文字をとって、「時と場所、場合にあった方法」という意。この概念の発案者は「VAN」ブランドの創始者石津謙介である。


孫 正義(そん まさよし、손정의、1957年8月11日 - )日本の実業家。

ソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンク株式会社代表取締役社長、ソフトバンクテレコム株式会社代表取締役社長、ソフトバンクモバイル株式会社代表執行役社長兼CEO、福岡ソフトバンクホークスのオーナーなどを務める。アジアングルーヴ株式会社代表取締役社長の孫泰蔵は実弟。

かつては、ベンチャー企業の先駆けとして、パソナの南部靖之、エイチ・アイ・エスの澤田秀雄とともにベンチャー三銃士と称された。

創業したソフトバンク株式会社の株式の3割以上を保有する大株主で、日本有数の資産家。フォーブスの調査した「日本の富豪トップ40人」2006年では、資産70億ドルで日本1位。

略歴
1957年 佐賀県鳥栖市に在日朝鮮人として誕生。4人兄弟の次男で通称名は安本正義。
1973年 久留米大学附設高等学校に入学。
1974年 久留米大学附設高等学校を中退し、米国セラモンテ高等学校(サンフランシスコ)に編入。
1975年 米国ホーリーネームズ大学に入学。
1977年 カリフォルニア大学バークレー校経済学部に編入。
1979年 自動翻訳機の売込みで得た資金を元手に、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。 
1980年 カリフォルニア大学バークレー校を卒業。学位は、経済学士(カリフォルニア大学)。日本へ帰国後、福岡市にコンピュータ卸売事業の「ユニソン・ワールド」を設立。
1981年 福岡県大野城市に「日本ソフトバンク」を設立。
1983年 慢性肝炎で入院。社長職を退き会長となる。
1986年 社長職に復帰。
1991年 孫正義の名で日本人に帰化。
1994年 ソフトバンク株式会社の株式を店頭公開。
1996年 米ヤフーとソフトバンクの合弁でヤフー株式会社を設立。
1996年 オーストラリアのメディア王ルパート・マードックのニューズ・コーポレーションと折半出資の合弁会社を設立し、テレビ朝日の株式の21%を取得。後に朝日新聞の反発に遭って撤退。
2001年 ヤフー株式会社と共同でADSL接続サービスのYahoo!BBの提供を開始。以降、それまでのPCソフト卸、PC出版から通信に本業の軸足を移す。
2004年 日本テレコム株式会社(現ソフトバンクテレコム株式会社)を買収し、同社代表取締役会長に就任(2006年10月に同社代表取締役社長に就任。)。
2006年 ボーダフォン株式会社(現ソフトバンクモバイル株式会社)を買収し、同社代表執行役社長兼CEOに就任。

逸話
家系
孫家は自称中国の武家(将軍家)であり、22代前に韓国に亡命してきたと本人が語っている。(『文藝春秋』1999年11月号)
人生の目標
19歳の時に、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ。」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという。
大学検定
カリフォルニア州での大学検定試験の際に、「この問題は日本語ならば必ず解ける。」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出た。試験官は、自分の上司にあたる人間に相談。さらにその上司は、自分の上司に相談。そうこうしているうちに、最後は州知事にまで孫は電話で交渉して、「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」をのませたという逸話が残っている。さらに、州知事とは「厳密な終了時間」を決めず、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という結論であったとして、無期限の時間延長と孫は解釈して、テストを受けて合格したという。
インベーダーゲーム
日本ではやっていた「インベーダーゲーム」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大もうけした。
帰化申請
帰化申請をするとき、「孫(そん)」は日本の名字には不相応だと言われたことに対して、自分の妻の名字をまず「孫」にして日本人名の前例にして、改めて「孫」の名字で帰化申請したという。

ソフトバンクの創業
自分で考案した「音声機能付き他言語翻訳機」を当時シャープ専務の佐々木正に約1億円で売り込み、その資金を元に米国で事業を起こし、1981年には「日本ソフトバンク」を設立。電話の際に自動的に安い回線を選ぶ「スーパーLCR」(発売当時の商品名は「NCC BOX」)も彼の発明。1994年7月にソフトバンク株式会社の株式を店頭公開した。

外省人(がいしょうじん)とは、自らの所属する省の人以外の人のことを指す中国語における用法である。あるいは、ある省(自分の出身の省でなくてもかまわない)にいる時、その省出身でない人を指す呼称である。どちらの意味で用いる時でも、普通は外国人は含まない。

ただし台湾では、特別な意味で用いられることが多い。以下、台湾の外省人について詳しく述べる。


中華民国台湾省における外省人
台湾において外省人とは、1945年の日本敗戦で日本による統治終了後、おもに中国大陸(福建省の金門県、馬祖島を含む)から台湾に移住してきた人(大部分は漢民族)とその子孫を指す。本省人と区別する意味で用いられる。中国国民党政府の官僚や軍人の割合が比較的高い。彼らは主に北京語を話す。

移住後、外省人が公職を独占した事や、二・二八事件を初めとする中国国民党の本省人弾圧により、本省人との対立は今も根強い。しかし、外省人の家系ながら生まれも育ちも台湾という世代が増えてきた近年では、外省人の本土化も進んでいる。

なお、蒋介石時代に、政府要人や公職を外省人でほぼ独占したことから、外省人についてエリートや特権層が中心であるとの誤解があるが、敗残兵やその家族が台湾に逃げたという背景から低所得層の外省人も少なくない。

日本でも比較的よく知られている台湾外省人の例としては、テレサ・テン(歌手)、馬英九(台北市長)、侯孝賢(映画監督)などを挙げることができる。

台湾独立派の中には、この言葉を台湾が中国の一省であることを前提とした表現であることを忌避し、中国系台湾人(外省人を独立台湾の国民と認める立場から)や中国人、外国人(外省人を独立台湾の国民と認めない立場から)などと呼ぶべきだと主張する人もいる。


本省人(ほんしょうじん)とは、中国・台湾で、自分の所属する省の人のことを指す用語である(日本でいえば、同じ都道府県の出身者のようなもの)。 あるいは、ある省(自分の出身の省でなくてもかまわない)にいる時、その省出身の人を指す呼称である。

だが台湾では、特別な意味で用いられることが多い。以下、台湾の本省人について詳しく述べる。

中華民国台湾省における本省人
台湾での本省人の定義は、1945年(昭和20年)に日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に敗戦し、中華民国へ台湾が帰属(光復)する以前から台湾に住んでいた漢民族と、その子孫の事。日常語としては多くの人たちが福建省の言葉であるミン南語や客家語を話す。なお本省とは台湾省を指す。

多くの本省人は明代の頃から日本統治時代にかけて台湾へ渡来し定住したと言われている。福建系と客家系があり、台湾原住民(高砂族)との混血も進んでいる。だが、本省人の大半は漢民族化した原住民であり、移民は数パーセントに過ぎないとの意見もあり、近年では、林建良らが、台湾人は漢民族ではないとし、台湾民族という概念も出てきた。

台湾独立派の中には、この言葉が台湾が中国の一省であることを前提した表現であることを忌避し、台湾人とか在来系台湾人などの語を使用するべきだと主張する人もいる

光復後に台湾へ移住してきた中華民国公民はもともと本省以外に籍を持っていたため外省人と呼ぶ。

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